『aloneークリスマスに咲く花ー』 Ⅴ.クリスマスの花(1)
Ⅴ. クリスマスの花
オルダーマンが帰った後、エリカはいつもの様に「バー・シャンブル」へ行き、予め用意されたセットリストの通りに、クリスマスソングをピアノで弾いた。
その日、オルダーマンが店にやって来ることはなく、「春の散歩道」のない冬のメロディーだけの一日は、干からびた枝のごとく寒々しいものだとエリカは感じる。
「ローズは私の娘です」
オルダーマンは、あの時、そう言った。
エリカは、「母が本当に彼の娘であれば、彼は私の祖父なのだろうか」と考えてはみたが、この店の客としてしか関わりのない老紳士に急に親しみや愛着を持つことは難しく、おとぎ話のように「夢見ていたおじいさまに会えたわ!」と喜びを感じることもできなかった。
エリカの知る愛は、あの故郷で両親と過ごした記憶の中にある。暖かい腕に包まれ、護られ、慈しまれていた時間。時にこっぴどく叱られたとしても、最後にはキスとハグが待っていた。
アランとの時間もそうだ。彼の中には熱い情熱があり、エリカを離さなかった。アランに抱きしめられると、父に抱きしめられているようで、遠い記憶の中の幸せな日々を再び手に入れられたような気がした。アランが突然、姿を消すまでは……。
「エリカ、明日は休みでいいから、ゆっくりクリスマスを過ごせよ。変わりのバイオリニストに入ってもらうから」
仕事終わりの早朝、オーナーのザイエンから突然こう告げられたエリカは仰天した。
「え……? クリスマスに休みって、バイオリニストって、どういうこと? 私をクビにしたいっていうこと? そんな急に困るわ!」
エリカがザイエンに言い寄ると、ザイエンはエリカを軽く手で払いのけてから、首を横に振る。
「違う、違う。早とちりするな。オルダーマン様だよ。彼が、お前のクリスマスの一日を買ったんだ。明日、正確には今日だけども、お前と予定があるから、店には出すなとさ。本人から聞いてるんだろ?」
その時、エリカは、血液が頭に一気に昇っていくのが分かった。アランが姿を消してから、氷のように冷え切っていた指先にまで、血が奔流さながら巡っていく。
「私は、あの老紳士に買われたのだ!」
エリカは激しい怒りを覚えると、今日のチップの取り分をザイエンの手から掻っ攫い、店の表扉から外に飛び出した。
クリスマスイブの夜、こんな日でもいつもの様に、サイズの合わないドレスを着た女が何人か店にやって来て、分厚い良質な生地のスーツを着た男と店を去っていった。女たちがエリカを一瞥する眼を、昨夜もエリカは見つめ返し、そして、心に留め置いた。
しかし、それができたのは、彼女たちを可哀そうだと、自分は彼女たちとは違うと、心のどこかで思っていたからだと、エリカはチップの金を握りしめながら気付く。
オルダーマンは、彼女たちを連れて行った男たちとは、人柄も目的も違う。しかし、エリカのクリスマス一日分の代価として、エリカが稼ぐのにひと月以上かかる金を易々と支払うことは、エリカの心とは関係なくエリカ自身の自由を拘束することを意味し、エリカはまるで圧伏されるような恐怖さえ感じた。
このような意味では、オルダーマンは客の男たちと変わらず、エリカ自身も店にやって来る女たちと変わらないと、エリカは屈辱に似た感情を覚える。なぜ、あのよく知らぬ老紳士を、勝手に悪い人間ではないと思い込み、親切な言葉まで掛けてしまったのか。エリカは、悔やんで止まなかった。
「今日、オルダーマンが訪ねてきたら、追い返してやろう」
夜が明ける頃、エリカはそう決心する。
真っ直ぐ続く石畳の道の先に現れた橙色の朝焼けは、夜の闇を燃やすように、めらめらと照り輝いていた。
クリスマスの一日が始まる。
(つづく)
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