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【連載小説】「春夏秋冬 こまどり通信」第四話(全十話)

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 私は思わず素麺をつまもうとした箸をひっこめて、麗さんの顔を見る。
 二つの目から次々と零れる液体が、ぱたぱたと音を立てて着地する。そのうち小さな池を作ってしまいそうな勢いだった。

「どうしたの⁉ 何か美味しくなかった?」
 おろおろと手を泳がせていると、麗さんは何度も顔を横に振る。
「違うの。食べたら勝手に涙が出てきて……。だって、先生、私に何も聞かないから」
「わあ、ごめんね! そうだよね、嫌いな食べ物くらい聞いておけばよかったよね」

「違う、そうじゃないの。ご飯はすごく美味しいの。先生、私がどこの大学に行ってるかとか、どこの高校出身かって聞かないでしょ? それなのに、こんなに丁寧に食事をご馳走してくれて、何だか気持ちがいっぱいになっちゃって……」

「……何かあった?」

「何だろう……。別に、友達とうまくいってないとか、大学や学校のことを言うのが恥ずかしいわけじゃないの。でも、私、なんか真面目に見えるらしくて、初めて会う人に『どこの大学行ってるの』、『どこの高校出てるの』って聞かれることがほとんどで。通ってる学校の名前を答えると、返ってくるのはいつも『すごいねー』っていう言葉なの。それがいつからか嬉しくなくなってた」

「『すごいね』という言葉が、嬉しくないのかな」

「だって、私、本当は全然すごくなんかない。周りの子達の流行に置いていかれないように、服とかコスメとか追いかけるように買って、そうするとすぐにお金がなくなっちゃうからバイト増やして、食費も切り詰めて……。馬鹿みたいだけど、どうしてもやめられない。本当は色んなことに必死だけど、それもバレたくなくて、『めんどくさい』とか『どうでもいい』って言いながら、外ではいつも余裕ぶって。一年の時からそんな風にしてたら、二年になって講義にもついていけないし……。こんなこと誰にも言えなくて、どうしたらいいか分からなくなって……」

「うん」

「でも、本当は『どうでもいい』なんて思ってないの。来年は就活も始まるのに、自信を持てることなんて何にもなくて、すごく焦ってる。それなのに……、私に興味がある人は、何か答えると『すごいねー』って。親も地元の友達も、親戚もみんな、私が有名大学行ってるってだけで『すごいねー』って。私、授業にさえついていけてないのに。本当は空っぽなのに、誰もそれに気づかない。みんなから見える『入れもの』はすごいのに、私は全くだめで……。でも、私がだめだってことが誰かに知られるのも怖くて……。私、支離滅裂だよね。何言ってるんだろ……」

 麗さんは手の甲で涙をぬぐってから、「はあ」と長い息を吐いた。

「何だかみんなが『すごいねー』って見ている自分と、自分で感じている自分自身にギャップがあるような感じなのかしら。求められているものに追いつけていないような、そんな気持ちがあるのかな」

 空になったグラスに麦茶を注ぐと、コポコポと軽快な音を立てる。あまりにも心情とかけ離れた小人の踊りみたいなリズムに、麗さんもほんの少しだけ、心の渦の中から抜け出せたような顔をした。

「何だろ……、そんな感じなのかな。すごく子どもじみてて、馬鹿みたい」
「そうかな。私には、麗さんが誰かの期待に応えたいと、一生懸命頑張っているように見える。ただ、大切にするものの順番が分からなくなって、戸惑っているんじゃないかな」

「順番?」
「そう、麗さんが大切にしたいものは何か、ということ。麗さんは、どうして今日、忙しい中でもここに来てくれたの?」

「どうしてって……、ここの広告を見たら、昔、絵を描くことが好きだったのを思い出して。来年は就活だから、最後の夏休みくらいは好きなことをしようと思って」
「通うお金はないけど、体験だけは無料だったから……」と、麗さんはぼそっと付け加えた。

「広告から行きたいと思って来てくれたのね。ここを見つけてくれて、私は嬉しい。ありがとう。今日は久しぶりに絵を描いてみて、どうだった?」
「……楽しかった、かな。中学の時、美術部に入ってた頃を思い出した」

「なるほど! だから、説明しても飲み込みが早かったのね。そうしたら、今日の林檎は簡単すぎたかしら」
「ううん、絵を描いたのは久しぶりだし……、ちょっと驚いたかな。林檎の赤さを出すのに色鉛筆を何色も使ったり、濃さを変えることで表情が変わったり、林檎の質量っていうか、重さみたいなものも影が大事なんだな、って。林檎って言っても、単純に赤色に塗ればいいものじゃないんだなって思った」
 麗さんは両手を使って、くうに林檎の形を描く。

「……そっか、もしかしたら『林檎』なのかも」
「え?」
「『林檎は赤いものだ』というのが、麗さんの言う『入れもの』と似ているんじゃないかなと思ったの。誰もが『林檎は赤い』と思い込んでいるけれど、林檎は赤いとは限らないし、一番イメージされる赤色だってみんな塗る色も重ね方も違うから、決して同じ色にはならないの」
「どういうこと? よく分からない」

「外から見た『入れもの』は、あくまでも『赤』という漠然とした色やイメージ、ということ。もちろん、『すごい』と言う人の中には、麗さんの頑張ってきた姿を見てそう言っている人もいると思うから、一括ひとくくりにはできないのだけど、もし麗さんの『入れもの』だけを見ている人がいたら、それは麗さん自身を、麗さんの積み重ねてきた色の工程を知らないということなんじゃないかな。輪郭ってね、影があるから見えてくるの。周りの人は、林檎という『入れもの』が何となく『赤そうだ』ということは知っていても、麗さんが今までどうやって影を築いてきたのか、本当はどんな色をしているのか、その中に一体どんな身が詰まっていて、どんな味がするのか、それをまだ知らないの」

 私は椅子から立ち上がると、向いに座る麗さんの元へ行き、思いきり抱きしめた。
「ちょ、ちょっとやめてよ、恥ずかしい!」
 麗さんは嫌がる素振りを見せたけれど、押しのけようとはしてこない。
 こんなこと、以前の私は、きっとできなかった。けれど、ちーちゃんならこうするに違いなかった。

「大切なものは、麗さんの中にちゃんとある」
 そう呟くと、麗さんの動きがぴたりと止まる。
「こうやって抱きしめたら、麗さんがあったかいことも、優しいことも、一生懸命なことも、ぜーんぶ詰まってるって分かるんだから。誰かから見た『入れもの』が何であろうと、その通りに描く必要も、周りの思う色に染まる必要もないの。ゆっくり、自分で一つずつ、選んで染めていけばいいの」
「……先生。やっぱり、よく分かんないよ」
 そう言いながら、麗さんは私の腕を握りしめた。

 先代ならば、もっとうまい言葉で、麗さんを励ますことができたかもしれない。けれど、今の私には、これが精いっぱい。言葉が足りない分は願いを込めて、身体の内から伝えることしかできなかった。

 私達は、一人ひとり複雑な、違う色や形を持っている。こうやって触れて、抱きしめたら、私たちはいつも立体で、見えない何かがたくさん宝物のように詰まっている。

──大丈夫。あなたは、空っぽなんかじゃない。
 お互いの見えない歴史を確かめるように、私達は雨音を聞きながら抱擁した。


「ところで、麗さんが勉強でつまづいているのは、どんなところなの?」
 二人で素麺を三分の二ほど平らげて、食後に赤羽さんからいただいた「夏みかんゼリー」を食べていた。

「えっと、私、法学部で、一番問題なのは会社法なんだけど、そもそも民法の『代理権』とか『無権代理』っていうのが分かってないと取引の効力がどうなるとか、そういうのが理解できないことがあって……」
「民法……、むけんだいり……?」
「絶対何のことか分かってないでしょ。まあ、私もなんだけど……」
 麗さんは、明るい橙色のゼリーをのせたスプーンを、口に運ぶ途中で皿に着地させた。

「それじゃあ、こうしてみない? もし、一人でいて色々と考えてしまうようだったら、夏休みの間、麗さんの時間がある時はここで勉強したらいい。ここなら私しかいないから、化粧する必要もないし、休みたければゴロゴロできるでしょう? それでね、その代わりに麗さんが勉強したことを、私に教えてほしいの。お礼に一食、ご飯もつけるわ」

「私が、この家で……? 教室に通えるわけじゃないのに、いいの?」
「実は、私もこの古い家を相続して、管理していかなきゃならない立場だから、法律のことを少し教えてもらえると助かるの。どうかな」

「……先生、ありがと」

 麗さんは、暫くするとまた涙を流した。
 お腹が空いていたことも、胸に溜めたままでいた感情も、誰にも話すことができずにどれだけ苦しかっただろう、と思いを巡らせる。
 うまく言葉にできなくても、涙を流せば少しだけ心が軽くなるかもしれない。

「あんたがそうだったからねぇ」
 振り返ると、コンロの側に立っている、若かりし姿のちーちゃんが言った。

 ちーちゃん。
 私も、少しはあなたに近づけているかな。

 この家に引き取られたばかりの頃、いつも泣いてばかりいた幼い私に、あなたは色鉛筆を握らせた。
「泣きたい時は、泣いたらいいのよぉ」
 そう言って、私の手に温かい手を重ねて、林檎の描き方を教えた。

「ここに描いた林檎には、ちどりだけの色、丸さ、重さ、美味しさがあって、紙の中にも外にも無限の世界が広がっているの。泣けば泣くほど、ちどりの描きたくなる世界が、ちゃんと見えてくるのよ」
 当時の私は、ちーちゃんの言うことの意味はよく分からなかったけれど、この時の穏やかな声を不思議と覚えている。

 泣きながら何日も何日も、同じ林檎の絵を描いていくうちに、林檎ののったテーブルの向こうに思い浮かんでいたお母さんの姿は、「半分こして食べよっか」と言うちーちゃんの姿へと変わっていく。

 しつこいくらいに私の側にいてくれたちーちゃんは、おせっかいな叔母さんで、気の強いお姉さんで、懐の深いおじさんで、頼りになるお兄さんで、時々優しいお母さんになった。

 色鉛筆でたくさん絵を描き、たくさん泣いて。
 私はその先に、新しい恋を追いかけて消えてしまった母ではなく、「今、側あるもの」を見つけることができたのだった。


「ちーちゃん、素麺は無限にいけるね」
 今晩の食事は、昼に余った素麺で済ませることにした。「タンパク質もちゃんと摂りなさいよぉ」と、叱られそうだけれど。

 食事もそこそこに、夏みかんゼリーを祖母とちーちゃんの写真の前に置くと、「こまどり通信」の日記帳を手に取る。
 先日見つけた、メモが書かれたページを開いた。

【「こまどり教室」は、ここへ来てくださった方が、羽を休める場所であってほしい。
 ここで色鉛筆を握っている間は、ありのままでいてほしい。】

「ちーちゃん。私もここを、そんな場所にしていきたいと思っているよ」

 窓の外で、チリンチリンと風鈴が鳴る。
 湿気をふくんだ生暖かい夜風は、まだまだ夏は続くと告げている。



(つづく)


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