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【連載小説】「春夏秋冬 こまどり通信」第五話(全十話)

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Ⅲ.秋


「一度辞めたつもりだったけれど、どうしても仕上げたい絵があるのです」

 江永静江さんから、「また教室に通いたい」とお手紙をいただいたのは、九月末のこと。
 江永さんは、先代が「こまどり教室」を開いた時から十年来通っていた生徒さんであり、そして、祖母の女学校時代からの友人でもあった。

 私は「こまどり通信」の手帳を開き、名簿の「え」の欄から江永さんの電話番号を探し出すと、固定電話から電話をかけた。

 呼出音が鳴る間、どきどきと心臓の音が受話器から聞こえてくる。
 三月に「こまどり教室」の再開をお知らせした時には、「ごめんなさいね。今は通うことができないの」と断られていたので、お手紙をいただいたことが何かの間違いではないかしら、と少し心配だった。

 六回目の呼出音がしたところで、「はい」と声がした。
「もしもし、江永さんのお宅でしょうか。私、『こまどり色鉛筆絵画教室』講師の阿久津ちどりと申します」
 そこまで言うと、受話器の向こうでふわりと空気が揺れる。
「ちどり先生ね。わざわざご連絡いただいて、ありがとう。電話番号で分かったわ」
 以前と変わらない、上品な優しい声で江永さんが言った。

「江永さん、お久しぶりです。こちらこそ、ご丁寧にお手紙をいただいて、ありがとうございました。……それで、仕上げたい絵があるということなのですが」
「そうなの。描きかけになっている絵を、できれば来月中には仕上げたくて。来週からでも始めたいのだけど、木曜日の午前中はどうかしら」

「それは構いませんが……。でも、本当に私でよいのでしょうか。私が一人で『こまどり教室』を再開して、まだ半年ほど。先代のように教えられるかどうか……」
「ちどり先生は、私が千鶴先生よりあなたが劣っていると思ったから、教室を辞めたと思っているのね。違うのよ、そんな理由ではないの」

「……違うんですか?」
「ええ。あなたが千鶴先生の側で、一生懸命学んでいる姿を見てきたもの。そんなこと、思ったりしないわ。先生さえよかったら、ぜひお願いしたいの」
 江永さんは理由を言わなかった。けれど、「楽しみだわ」と小さく笑って、再び「こまどり教室」に来てくださることになった。


 十月の最初の木曜日。玄関ポーチで待っていると、江永さんは約束の午前十時ぴったりにやって来た。

「ちどりちゃん」
 江永さんは、優しく手を振りながら、庭の石畳を歩いてくる。
 小柄な身体に芥子からし色のコートをまとい、きれいな銀色のショートカットの髪にベージュのベレー帽をのせて。隣の目代さん宅から覗く薄橙色の金木犀きんもくせいを背景にすると、まるで秋の妖精のよう。

「江永さん、こんにちは。お待ちしていました」
「わがまま言って、ごめんなさいね。ちどり先生、今日からよろしくお願いします」

 どちらからともなく手を差し出すと、ぎゅうっと握手する。
 ちーちゃんがいなくなってしまったこと。祖母が大切にしていた芙蓉ふようの花が今年も蕾をつけていること。この洋館が変わらない姿を保っていること。
 私達は柔らかい手のひらをくっつけて、暫く思いを伝えあった。

 早速、いつもの応接間へ向かうと、江永さんの「どうしても仕上げたい絵」というのを見せてもらう。

「これが元なのですけれど」
 まず江永さんが鞄から取り出したのは、富士山の写真だった。湖の先で左右対称に近いなだらかな稜線を描きながら、真正面に鎮座するおおらかな姿。残雪は半分ほどで、季節は春頃だろうか。

 次に、写真をカラーコピー機で拡大して作った見本画と、B四用紙よりひと回り小さなF四サイズの水彩用紙を机の上に広げて見せてくれた。見本画と滑らかな表面の水彩用紙の上には、画面を十六分割する細い線(ガイドライン)が鉛筆で張られていて、すでに下絵の段階まで終えられている。

 富士山を描くなら、もうひと回り大きなF六サイズの用紙に変更してもよいかもしれない。
 凹凸のない、きめの細かい水彩用紙を使うなら、いつもの色鉛筆ではなくて、もっと芯の柔らかい外国製の色鉛筆を用意してもよいかもしれない。

 そんなことを思ったけれど、「できれば来月中には仕上げたくて」と電話で聞いたこと思い出し、言うのを止めた。江永さんには、何か急ぐ理由があるのかもしれない。

【「こまどり教室」は、ここへ来てくださった方が、羽を休める場所であってほしい。
 ここで色鉛筆を握っている間は、ありのままでいてほしい。】

「こまどり通信」に書かれていた、先代の言葉を思い返す。江永さんが話したいと思えるその時まで、私は待つことにした。


「こうやって、ここで絵を描くのも久しぶりね」
 富士山の下絵に水色の色鉛筆を滑らせながら、江永さんは呟いた。

「千鶴先生が体調を崩されてこの教室をお休みされてから、もう一年が経つなんて信じられないわ。タキちゃんが亡くなる前は、この応接間でよく一緒にお茶を飲んでいたし、まだ子どもだった千鶴先生やあなたのお母さんが、ここで遊んでいる姿をよく眺めていたの。もう何十年も前のことなのに、ここへ来ると小さな出来事も鮮明に思い出せるわ」

「そうですか……」
 私の中には、ちーちゃんとの思い出はたくさんあるけれど、幼い頃にいなくなった母、それに、祖母との思い出もほとんどなかった。江永さんは時々、私の知らない世界を見て、目を細めている。

「ちどりちゃんは、タキちゃんのことがあまり好きじゃなかったかしら」
「いえ、嫌いと言うわけでは……。ただ、祖母はあまり笑わない人だったから、少し怖かっただけで」

「ふふ、そうね。タキちゃんはやり手だったし、気丈な人で、めったに人に弱みなんて見せなかった。婿むこ養子に入ったご主人がいたけれど、曲がったことが許せない人だから、一度の浮気で家から追い出してしまって。あの時代にそんなことができたのは、きっとタキちゃんくらいよ。でもね、あなたがこの家に来てくれたことは、嬉しかったはずなの。何と言っても、初孫だもの」

 ここで「山のふもとはどの色を重ねればいいかしら」と、江永さんは私に聞いた。
 写真をよく見ると、富士の頂きを中心に残雪はあるものの、麓や湖を囲む森には新緑が見え始めている。

 私はエメラルドグリーン、ダークオリーブなどの緑色と、それから土色といった茶系の色鉛筆を選んで、「このあたりの色を重ねながら、山肌の凹凸感を出してみるのはどうでしょう」と、自分のスケッチブックに描いて提案する。
 江永さんは「いいわね。やってみるわ」と言って、再び手を動かし始めた。

「タキちゃんは、あなたのお母さん……美砂子ちゃんを勘当してしまったことを、本当は後悔していたと思うの。ちどりちゃんのことも、本当はもっと可愛がってあげたかったはずなのに、あなたに美砂子ちゃんの面影を見ていたのね」

「江永さん、私は祖母には感謝しているんです。学校にも行かせてもらいましたし、何より、私がやりたいと言ったことに反対することはなかったから。それに、『こまどり教室』を始める前、先代がタクシー運転手をしていたのを覚えていますか? そのことで私がクラスメイトにからかわれて落ち込んでいた時、『ちどりの学校行事に出たり、できるだけ一緒にいたいと選んだ仕事だ。千鶴は、誇りを持ってやっている』と祖母は言ってくれたんです。私、それが嬉しかったんですよ」

「そう。ちどりちゃんは、強いのね」
 少し冷えた声とともに、尖った色鉛筆の先が、ぴたりと止まった。

「そんな風に思えて、うらやましいわ。私は時々、残された側は後悔や辛い思いばかりを背負っていかなければならないんじゃないか、と思ってしまう。……生きている限り、簡単に忘れることなんてできないのだから」 

「……江永さん?」
 思わず顔を覗き込む。

「ああ、ごめんなさい。早く仕上げたいと言いながら、おしゃべりしすぎてしまったわね」
 いつもの穏やかな笑顔を思い出したように浮かべると、江永さんはそれから黙って、ひらすら色を塗っていった。




(つづく)


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