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【連載小説】「春夏秋冬 こまどり通信」第三話(全十話)

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Ⅱ.夏

 八月になると、カナリーヤシの樹が庭の主役になる。
 十五メートルほどある樹のてっぺんから、鳥の尾のような長くてふさふさした葉を八方に伸ばして、じりじりと照らしつける太陽も気にせぬ顔で風に揺れている。それを見ていると、ひと時の間、南国へバカンスに出かけたような気持ちになった。

 窓を開けてぼんやりしていると、蝉の声に混じって、「ハワイだ!」と叫ぶ子ども達の声がした。
 洋館を囲む煉瓦塀の向こうでは、カナリーヤシを見つけた子ども達が「ハワイに行ってみたい」と盛り上がっていたけれど、話題はすぐさま来週のお盆期間をどう過ごすか、という内容に変わっていく。「お盆」と言っても、子ども達にとっては家族旅行やお祭りと、行事が満載の楽しみな数日間。その声はきらきらと弾んでいた。

「こまどり教室」は、お盆の時期も休まず開くつもりでいる。幸い春に教室を再開すると、以前の生徒さんが何人か戻って来てくれた。新しい生徒さんも数人加わって、今は週に三日は仕事で忙しくしていられた。

 先代がいた頃は、バスを乗り継いでやって来る上品な年配の奥様や、「若い頃登ったエベレストの山を描きたい」というおじいさまが午前中にいらして、午後になると凛ちゃんや近所に住む子どもたち、それに、「中学の内申点を上げるために、絵が上手になりたい」と、ときわ堂の一人娘のすずちゃんも来てくれていた。

 けれど、ちーちゃんがいなくなって、生徒さんの三分の二は、ぱたりと辞めてしまった。それは、新しい講師が二十六歳の経験の浅い女であることが理由かもしれないし、先代の死からたった三か月で教室を再開させた私が、色々と鈍感なせいかもしれない。

 もうすぐ時計は、午前九時半を指す。十時には、はじめましての生徒さんが「こまどり教室」の体験レッスンにやって来る。
 私は肩につきそうな黒髪をヘアゴムできっちりまとめて、Tシャツから生成きなり色のゆったりした綿のブラウスに着替える。色付きのリップクリームを唇にのせると、いつもよりほんの少しだけ「優しくて懐の深い、年上のお姉さん」という感じの私が鏡にうつっている。


 約束の十時ちょうどにやって来たのは、白石麗さんという大学二年生の女の子だった。
 胸の辺りまで長さのある、こげ茶色の髪を毛先だけ巻いて、ガラスの薄膜が張られたような、つやつやとした唇はまるでさくらんぼのよう。私より十センチほど背の高いスレンダーな身体に、薄水色のワンピースがよく似合っている。

「何ですか? 早く始めてください」
「あ、すみません。早速始めますね」
 麗さんの凛とした横顔に見惚れて、つい手が止まってしまっていた。折り畳み椅子を持ってきた私が隣に座ると、麗さんはじろりとにらむ。

 挨拶もほどほどに、机の上に準備しておいた「ナチュラルワトソン」という水彩用紙のスケッチブックと、缶ケースに入った三十六色入りの色鉛筆セットを開いて見せる。その脇には、Fの鉛筆を数本と練り消しを用意しておいた。

「色鉛筆画は初めてということなので、今日は林檎を描いていきましょう」
「林檎ですか……。何か、普通ですね」
「普通と思えるかもしれないけれど、意外と奥深いんですよ?」

 今日のために選んでおいた、とっておきの林檎を一つ、ハンカチで磨いて麗さんの前に置く。ぴかぴかと輝く真っ赤な林檎は、後ろから窓の光を受けて、手前に影を落とした。

「さあ、まずは鉛筆で下書きしてみましょう。用紙のこの辺りに描くといいと思います」
 私は、用紙の中央辺りに鉛筆で薄く丸を書く。
 すると、麗さんは「分かりました」と言って、その場所にすぐさま林檎の輪郭をうつした。上部の窪みとヘタの部分も、当たりをつけてササッと描き込む。

「それで、ここからどうすればいいんですか?」
「まずは、赤色と朱色を全体にのせていきましょう」
「赤と朱色、ですね」

 麗さんの手には迷いがない。色鉛筆の並んだケースの中からすぐさま目当ての色を選び取ると、色鉛筆を立てながら林檎全体に色をのせていく。構図や色の感性がするどい。

「何だか、紙がでこぼこしてて、ムラになっちゃう。うまく塗れてないかも」
「大丈夫、とてもきれいに塗れていますよ。この紙は『ナチュラルワトソン』と言って、クリームがかった色と、この凹凸おうとつ感が特徴なんです。絵に温かみや立体感が生まれますよ。ムラが気になる時は、手首の力を抜いて、色鉛筆を横方向だけでなく、縦方向にも動かして。そうすると、用紙の凹凸にもむらなく色をのせることができます」

 私は赤色の色鉛筆を持つと、手首を小幅に振って、自分用のスケッチブックの上で手本を見せる。麗さんはじっと私の手元に目を据えていた。

「そっか、こんな感じでいいのかな……?」
 時々首を傾げながら、麗さんは手首を動かす方向を工夫して、赤色と朱色の色鉛筆を繰り返し重ねていく。やがて、林檎は均一な赤に染まった。

「いいですね。美味しそうな林檎の赤さが出てきました。そうしたら、次は影を意識して描いていきましょう」
「影?」
「はい。立体感や重量感を表現するのに大切なのが、『影』なんです。例えば、林檎の手前側、特に下の方は影が強くなって実の赤色が濃く見えますね。その箇所には、これまで使った二色に加えて、赤紫色を混ぜて塗ってみます。林檎の端の方を、少しだけ塗らせてくださいね」

 麗さんのスケッチブックを一度預かると、私は赤と朱色と赤紫色の色鉛筆を左手に取り、それぞれの色を右手に持ち替えながら、麗さんの描いた林檎に色を重ねていく。影の濃い部分は筆圧を高めて、紙の凸凹を均すように塗り込んで。すると、三色の赤色が絶妙に混ざり合い、つやつやとした深い影が生まれる。

「ほら、自然な立体感が出てくるでしょう?」
「本当だ。光がどの方向から当たってるのか、よく分かる。じゃあ、机の方は? 机にうつる林檎の影はどうやって描くんですか?」
「机にうつる影は、例えば、机の全体をこの明るい茶色で塗って、林檎の接地面と林檎の影の部分は、もう一段濃いこげ茶色で濃淡をつけて……」

「そうしたら、光が反射しているところは? つやっとした上の丸みはどうするの?」
「それは、後から練り消しで色を軽く抜くの。でも、光を効果的に見せるためにも、もう少し地の色を濃く塗ってからの方がいいと思うわ」
「へー、知らなかった! 色鉛筆って塗り絵のイメージが強かったけど、こんな風に表現できるんだ!」

 本人が気づいているかどうかは分からないけれど、麗さんは前のめりになって、きらきらと目を輝かせていた。次々に生まれる「なぜ?」、「どうやって?」の言葉たちは、まるで外行きのコートを脱ぎ捨て、草原を走り出した子どものよう。
 優等生のような印象の麗さんの中に、丸くて瑞々しい、太陽に照らされた夏みかんみたいな彼女がいた。

 
 ぽつぽつと屋根を叩いていた雨が、今はざあざあと滝のような水音を立てている。台風の影響を受けた豪雨は、ちょうど麗さんのレッスン終了時刻と重なってしまった。

「あらら、本格的に降って来ちゃいましたね」
「雨なんて聞いてない~! 傘持ってきてないよぉ」
 唇を尖らせて玄関で立ちすくむ麗さんに、私はこう声をかけた。

「もし良かったら、雨が止むまでの間、家でお昼を食べていきませんか?」
「……いいの?」
「ぜひ。素麺そうめんでもよかったら」
 麗さんはお腹を鳴らすと、「お願いします」と小さな声で答えた。

 二人で手を洗い、台所で鍋にたっぷりの湯を沸かす。素麺は多めに七~八束茹でることにした。
 湯の中に素麺を投入し、少しすると湯がぐつぐつとたぎってくる。そこにコップ半分くらいの量の「びっくり水」を差し入れると、湯面が一度落ち着いた。再び湯が沸騰したところで火を止め、鍋の蓋をして十秒から二十秒ほど待つ。

「先生の家の茹で方、変わってるね」
「ふふ、先代直伝の茹で方なの」

 私は鍋をそのまま流しに傾けて、茹でた素麺をすぐさまザルの上にあげる。その後は、流水で麺をもみ洗いしてぬめりをとっていくのだけれど、その役目は麗さんが買って出てくれた。麗さんは、「あつい、あつい」と言いながら、麺を手早く冷たい水に晒して粗熱をとっていく。

 素麺にコシが出てきたところで、一つまみずつ麺を掬い、くるりと丸めてガラス製の平皿の上にのせていく。そうすると、後で麺同士が多少くっついても、食べるだけの量を箸で取りやすくなるのだ。

 一番熱い工程を担当してくれた麗さんには、「好きな具材を選んでいいよ」と冷蔵庫を案内した。
 つい昨日、カワやんが「河瀬商店」に発注していた食品を届けてくれたところ。冷蔵庫の中は新鮮な野菜や卵、ぴかぴかの瓶に入ったアンチョビやピクルスなどで満たされている。今年の春まで、ここに賞味期限切れの乾物とインスタント食品だけが寂しく横たわっていたのだと知ったら、麗さんは「信じられない」と驚くかもしれない。

 麗さんは冷蔵庫から温泉卵を選び、浅漬けにしていたきゅうりの漬物も食べたいと言ってくれた。
 私は平皿に盛った素麺と、二人分の切子ガラスの蕎麦猪口そばちょこ、箸を台所の四人掛けテーブルの上に用意する。それから、きゅうりの浅漬け、塩ゆでして刻んだオクラ、細切りにした大葉、すりおろし生姜、納豆、キムチなどを小鉢に盛って、素麺の隣に並べていった。

「「いただきます」」
 向かい合って席に座り、手を合わせて挨拶をする。
 グラスに冷えた麦茶を注ぐと、火の側で乾ききった喉を潤すように、二人で一気に中身を飲み込んだ。

 麗さんは早速、薄めた麺つゆを入れた蕎麦猪口に、温泉卵と細切りにした大葉を加える。丸めた素麺の玉を一つ投入すると、とろりと崩した卵に絡めて口に運んだ。

 それまでおしゃべりを続けていた彼女も、その時ばかりは無口になってしまう。口の中に広がる「つるり、ひんやり、とろん」とした感覚を、目を閉じて味わっているようだった。

 美味しそうに食べている様子を眺めていると、ちーちゃんが作ってくれたご飯を食べている昔の私に重なる。暑い中での共同作業は、私と麗さんの心の距離を、友達と思えるくらいに縮めていた。

 その時、ぽつりと水滴がテーブルの上に落ちた。


(つづく)


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