【連載小説】「みつばち奇想曲(カプリース)」第十一話
隣の「保健室」は、「職員室」よりも一回り小さな部屋で、ベッドが二台置かれていたようだ。手前にあっただろうベッドは、元「職員室」で宿直のために使用されたのだろう。ベッドがあった場所の床には日焼けをしていない部分が長方形の跡を残し、天井にはカーテンレールだけが張り付いていた。その奥にもベッドが置かれていたと推測されるが、その場所をぐるりと囲むように長いカーテンが端まで引かれていて、中の様子は確認できない。
壁に取り付けられた窓付きのキャビネットの中には、微量の液体が入った分厚いガラス瓶がいくつか残されている。部屋中に消毒液の臭いが染みついていた。
「こちらの部屋も掃除がされているのだろうか」と、角に置かれた机の上に恐る恐る人差し指を滑らせてみる。すると、しっかりと指の跡が塵の上に道を作り、ほっと安堵した。
暫くの間、キャビネットの中や机の引き出しを隅々まで覗いてみたが、怪しいものは見当たらない。残るは、カーテンで囲われたこの場所だけとなった。
しかし、中々カーテンを開ける覚悟が決まらない。長い時間、誰かが入った形跡のない少し埃っぽい暗い部屋。もしかしたら、「ここには決して見られてはならないものが隠されているのかもかもしれない」と、勝手な妄想を繰り広げてしまう。
「ここには蘭の死体がベッドに横たわっているかもしれない」。
そんな悪い予感が頭の中を巡る。
「……ううん、大丈夫。部屋に漂うのは死臭ではなく、アルコール臭だけ。死体なんかない」
白雪は頭を左右に振ると、そう言い聞かせて、カーテンを一気に開けた。
「ああ……」
そこにあったのは、白い真綿の布団が折りたたんで乗せられた、ただの普通のベッドだった。蘭の死体どころか、虫の死骸さえ落ちていない。
「こ、怖かったぁ」
目の前の柔らかな純白に安心して、白雪は思わず膝から崩れ落ちてしまう。
制服の裾が汚れることも忘れて、床に思い切り尻と膝をつけて座り込んでいると、ふとベッド下の一層暗い闇の中で何かがぼんやりと光っている気がした。懐中電灯をしっかりと握り、その場所を照らしてみると、そこには道具箱ほどの大きさの赤い箱が横たわっている。
その瞬間、心臓が「どくん」と跳ねた。鼓動が耳元で大きく鳴り出し、その音に合わせて身体も震え始める。箱は奥の方にあるが、腕を目いっぱい伸ばせば手が届きそうだ。白雪は、思い切ってベッド下へ身体を潜り込ませた。
指先が箱に届くまでの時間は、まるでスローモーションのようだった。頭の中に、中等部の二年間が走馬灯のように流れていく。
それは、切れ長の目をしたクララの能面のような顔であったり、三つ編みにした白雪の髪を掴み、ハサミで切り落とした奈那と愛果の笑い声であったり、それを見て見ぬふりするクラスメイトたちの顔であったり。その時の恐怖や絶望は、今でも忘れることはない。
しかし、最も色濃く、何度も脳内に再生されるのは、クララやクラスメイトらの顔や声ではなかった。
幼い頃から、社会から切り離されたこの学院で暮らす女たちは、とても哀れだ。上質な衣服を着て、健康を考慮した美味しい食事をし、何不自由なく暮らしているとしても、この学院から外に出られるその日まで、彼女たちの本能が満たされる瞬間は決して訪れない。
恋も知らず、人を疑いながら生きている彼女たちは、クララのような女王蜂のために働くことでしか自分自身の意味を見いだせない哀れな働き蜂だ。女王蜂がオスを求めたとしても、ここではその姿さえ見つけられず、欲求を満たせない女王蜂の機嫌が悪ければ働き蜂も落ち着けない。女王蜂も働き蜂たちも、蟻のようなか弱い生き物に渇きをぶつけることでしか、今日を生きていけないのだ。彼女たちからどんな酷い扱いを受けたとしても、そんな生き方しかできないことには心から同情した。
最も許せないのは、中等部二年生から三年生の二年間、担任教師であった安見響子。あの女だ。安見は二年もの間、自分のクラスで何が起きているのかを知ろうともせず、鏡に映る自分の姿だけを見つめていた。
綺麗に磨かれた教室の窓ガラスと、廊下に置かれた大きな姿鏡の前で、一旦足を止めるのが安見の癖で、髪に乱れはないか、スリムな身体に贅肉がついていないかを、毎日隅々までチェックする。
それが、三十代半ばの女が、夜になるとオスを求めて外の世界へ出掛けていくための行動であることを、いつからか感じ取るようになった。安見は授業を終えると、むせるような濃密な香水の香りをクラスに残して去っていく。自由な女は、巣箱に閉じ込められたみつ蜂たちを、そして、蜂にさえなれない惨めな蟻を、心の中であざ笑いながら無関心を貫いていたのだ──。
今、白雪は赤い箱を膝の上に抱えている。手にした箱は空の菓子箱のように軽く、形は蓋付きの道具箱のようで、蓋の表面に書かれた掠れた筆文字から「意見箱」と読み取ることができた。
「やっと見つけた……。願いはたったひとつ、決めているの」
高揚する気持ちを抑えながら、制服のスカートの右ポケットから白い洋封筒を取り出す。
「もし、この手紙を意見箱に入れてしまったら、願いを叶えてもらうのと引き換えに、私も大出さんのように消えてしまうのかしら……」
そんなことが脳裏をよぎったが、たとえ自分が煙のように姿を消してしまっても、きっと誰も気に掛けないであろう、と白雪は思う。
たった一人の肉親である父親も、クララのために外出機会を使い始めてからは一度も会っていない。毎月実家から届く手紙も、きっと誰かが代わりに書いているのだろう。ワープロの文字からは、温度も息づかいも何も感じなかった。父の再婚相手に男の子の赤ん坊が生まれたらしい。オスライオンは、自分の子孫を残すために元々他の群れにいたメスライオンの子を殺す習性があるから、それに似た何かが父にもあるのかもしれない。
わずかな心残りは「友達」と言ってくれた、まだ知り合って間もないふたりのクラスメイトのことだ。美憂と友梨は、悲しんでくれるだろうか。それとも、デルヴォーの絵画にいる女のように虚ろな目をした生徒のひとりとして、すぐに忘れてしまうだろうか。
「……え?」
ゆっくりと意見箱の蓋を外して中を覗くと、白雪は思わぬものを目にした。
「教師の安見響子をこの学院から消してください」と書いた便箋の入った封筒が、手からこぼれ落ちる。
その日を境に、彼女は姿を消した。
(つづく)
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