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【連載小説】「みつばち奇想曲(カプリース)」第二話

 今から一年半前。中学二年の秋、美憂は母の「みのり」と駅近くのショッピングモールを訪れていた。
「美憂、あんた、本当に公立高校の受験一本でいくの? せめて、私立も併願で受けたら?」
 ショッピングモールの地下一階にあるファストフード店で食事をしていると、ハンバーガーにかぶりついていた母が突然、中学卒業後の進路の話をし始めた。
「いいよ。安全圏の公立受けるから、滑り止めなんて必要ないよ」
「でもさぁ、最近の公立高校ってどうなの? スカート、あんなに短くしちゃって。それに、ルーズソックスっていうの? あれもなんていうか、だらしないじゃない。公立行って、あんたが不良にならないか心配だわ」
 母はそう言うとハンバーガーから口を離し、爪先でピクルスをするりと抜き出した。それを当たり前のように美憂のハンバーガーの包装紙の上に乗せる。
「ママ、あれはお洒落だって。みんな、ちゃんと学校は行ってるし、別に不良ってわけじゃないよ」
「そう? でも、ママ、心配だわ。せめて、私立だったら、『そういうところ』もちゃんとしてくれると思うんだけど」
「……ママは、パパに見栄を張りたいだけでしょう?」
 母の言葉にそう返そうとして、美憂は氷の入ったコーラと一緒に言葉を飲み込んだ。
 母は娘を私立の高校に行かせて、フランス人の恋人を作って日本を離れた父に「女ひとりでも子どもを立派に育てていけること」を見せつけたいのだ。こうやって、日曜日に一緒に出掛け、買い物をして、落ち着かない場所で食事をしながら大事な話をするのも、いつもの流れだった。
「ママ、安心して。公立なら同じ中学から受験する子も結構いるし、家から近いから学校が終わってから夕飯も作れるよ」
 美憂がそう言って笑顔を向けると、みのりは娘の頭をぽんぽんと軽く撫でて、丁寧に描いた細い眉を下げた。
「あんたは勉強できるし器量よしだから、できることなら名門のクレール女学院なんて行かせたかったけど……、お母さんの仕事の心配してくれてるのよね。もっと稼ぎがあれば、私立でも何でも好きな学校受けさせてあげられるのに、ごめんね」
「ママのせいじゃないよ。お嬢様なんて柄じゃないし、私が公立に行きたいってだけ。別にわざわざ私立に行って、やりたいこともないの」
 母の手を握ってそう言うと、母はどこかほっとしたように肩から力を抜いて、温くなったホットコーヒーの残りを一口で飲み干した。
 美憂は、母の心のバランスを今日も保てたことに安堵する。父と離婚して以降の母は、失敗や自分自身を否定される言葉に敏感になり、きちんと向き合って話し合うということを避けるようになった。みのりの中では、「私立の有名女子高校に行かせたい良い母親」であることが必須で、それを阻むのは自分自身であってはならない。あくまでも、「娘の意思で私立に行かないことが選択される」ことが必要だった。
 もろい細糸で編まれた母の自尊心を傷つけないよう、できる限り自然な流れで母のシナリオ通りの結末に導かなくてはならない。それが自分の思いとは違っていても、母のことは嫌いになれなかったし、泣かせることはしたくなかった。
 昼食を終えた後、早足で午後の買い物へと向かう母を追って上りエスカレーターに乗り込むと、反対側の下りエスカレーターで笑い合う母娘とすれ違う。その姿をちらりと見て、「何がそんなに楽しいんだろう」と口からぽつりと言葉が漏れたが、この年に流行し始めた賑やかなダンスミュージックがすぐにそれを掻き消した。
 若者のエネルギーを一堂に会したような底抜けに明るい音楽も、美憂にとってはしつこく耳にまとわりつく煩わしいものでしかない。音楽も、世の中も、自分の人生も、混沌としていて眩暈がする。美憂の顔から血の気が引いていることに気づかない母は、新しいスーツを求めて、ひとり明るいフロアへと出掛けて行った。
「あなた、大丈夫? これを飲んで」
 母が買い物を終えるのを待っている間、同じ階の外れにある化粧室前のベンチに腰掛けていると、突然声を掛けられた。冷えたミネラルウォーターのペットボトルを目の前に差し出され、思わず手を伸ばしそうになる。さっきから、休日の人混みと大音量で流れる騒がしいリズムが、いつまでも溶け切らない胃の中のジャンクフードをかき混ぜて吐き気がしていた。しかし、欲しいものであっても簡単には受け取れない。「人から物を貰い、借りを作るな」というのが母の口癖なのだ。
「……大丈夫です。少し休めば良くなるから」
 断ればすぐに去るだろうと、顔も見ずにそっけなく答えたが、声を掛けてきた人物は隣に座ると黙って美憂の手にペットボトルを握らせた。
「だから、いらないって言ってるじゃない……!」
 押し付けられたことに苛立ち、ペットボトルを相手に突き返す。なんて図々しい人なんだと思わず顔を上げると、目の前にいたのは、怒りも消えてしまいそうなほど美しい顔をした同じ年頃の少女だった。
「遠慮なんてしなくていいのよ」
 彼女の柔らかい手が美憂の右手に添えられると、彼女の白い肌が発光したように思えた。照明の眩しいメインフロアとは異なり、このフロアの隅では両端が黒く染まった二本の古い蛍光灯が薄暗い廊下を照らしているだけだ。その中でも白く浮かび上がる彼女の細腕は、夏休みのうちに日焼けした美憂の肌とは対照的で、とても神秘的な光を帯びている。それは、まるで蝋燭ろうそくで照らしたような温かい光だ。


(つづく)

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