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連載小説『泡沫の初恋』 一.椿(ろ)

 屋敷へ到着すると、父さまの帰りを待ちわびていた番頭がやって来て、日本橋での商いについて何やら話し始めた。僕はその隙に、薬草園へと潜り込む算段をつける。

 薬草園は、伊沢の屋敷の真中みなかにある。周りを家屋の壁に囲まれ、外からはその存在を知ることはできない秘密の場所だ。この薬草園は、一族のみがその存在を知り、先祖代々受け継がれる薬草のみを伊沢家の女が育て、収穫している。夕刻になると、女たちは各々の主の帰りを迎えるため屋敷に戻り、この薬草園はもぬけの殻になる。

 僕は、こっそりと母さまの箪笥たんすから鍵を手に入れ、誰もいないはずの薬草園へと向かった。

 伊沢屋の最高級傷薬「鳳凰ほうおう軟膏」は、どんな傷もたちまち良くなると評判の薬だが、とても高級で、薬を手に入れられる者は一握りである。表向き、日本橋の薬種問屋で仕入れた薬草から調合していることにはなっているが、実の所、この薬草園の植物が欠かせない。薬草園の植物は、伊沢家にとっては命よりも大事なもので、勝手に持ち出すことは禁忌きんきとされている。

 しかし、今日だけは、何としてもあの女子、千草のために傷薬を持ち出さなければ。「鳳凰軟膏」は厳重に保管され、あれを蔵から持ち出すことは難しいが、傷によく効く薬草を一けいだけ持ち出すことができれば、それをすり潰して子猫の傷に当てられる。きっと、傷から感染症を起こすこともなく、みるみるうちに良くなるはずだ。

 僕は、薬草園に人気ひとけがないことを確認してから、こっそりと鍵を開けて中に忍び込んだ。
 数多の薬草の中から、目当てのものを目指すと、一茎だけはさみで刈り取り、すばやく出口へ向かう。
「ここから出たら、人に会わぬよう庭を抜けて、すぐに母さまの箪笥に鍵を戻して……」
 この後のことを考えながら、扉を開けた時──。

 その瞬間、目に飛び込んできたのは、すさまじい形相で僕を見降ろす蘇芳すおう兄であった。

「蘇芳兄さま、これは……」
 これほど真っ赤な顔面と血走ったまなこをした恐ろしい兄さまを見たことがあらず、一気に血の気が失せ、薬草を持つ手が小刻こきざみに震え出す。

「最近、『鳳凰軟膏』の在庫が合わないゆえ、店の誰かが盗みを働いていると目を光らせていたが、まさかお前だったのか。まさか、家族に盗人がいるなんて、俺は信じたくなかった。『鳳凰軟膏』も、ここの薬草も、伊沢の宝だ。それを持ち出すことがどういうことか、わかっているのか、お前は」
 赤く燃え盛る兄さまの憤怒ふんぬの形相に反して、その声はこごえるほど冷たい。

「蘇芳兄さま、今回だけです! 今回だけは、どうか許してください! 店の軟膏は僕の仕業しわざではありません! 犯人は、他の者です!」
 僕はすぐさま土下座をし、ひどく冷や汗をかきながら、兄さまの足元にすがり付く。

 しかし、兄さまは肩をわなわなと震わせながら、顔を仁王像のようにゆがませるたままだ。

「伊沢の人間が平然とうそぶくとは、何たること! 恥を知れ!」
 兄さまが声を荒げて、その一言を発した瞬間。
兄さまがさやから抜き出した刀が、頭上で鋭い閃光せんこうを放った──。

(つづく)

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