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連載小説『五月雨の彼女』(11)

「知らない! 母さんの話なんて持ち出すからよ。泣かせるのも、侮辱するのも、マウントするのも、私の役得なのに!」
 未知華は、マスカラが落ちてしまうことなど気にせず、ごしごしと目をこすって涙を拭った。
 
「本当にそんなことがしたくて、不倫なんて繰り返しているの?」
 私から視線を逸らそうとする未知華の目を、私は追って逃がさない。
 
「変な質問ばっかりしないで! あんたが聞きたかったのは、倫史さんとのことでしょう!? 私がどう思おうと、放っておいて! あんたには、関係ない!」
 私の視線を振り払うように、腕を伸ばして勢いよくくうを切った未知華の美しい爪先が、彼女に食い付くように前のめりでいた私の右頬をかすめた。
 前髪から落ちた水滴が右頬に滑り落ちると、ひりひりと痛痒つうようを感じる。しかし、私の思考はそんな頬の痛みではなく、目の前で動揺する未知華のことで埋め尽くされていた。
 
 ひとつ気になっていることがある。あの時の手紙には、「わたしは、自分で選びたくても何も選べないのに、人のせいにもできないのにズルい!」と書かれていた。
「子どもの未知華にはどうすることもできず、未知華は母親が離婚を選択したことが誤りだと思い込み恨んでのでは」と思ったのだが、彼女は母親のことをかたくなに守ろうとしている。
 果たして、あの頃の未知華が「選びたかったもの」とは何なのか……。
 
 その時、これまでの未知華の言動や子どもの頃の記憶が、映像となって一気に頭の中を駆け巡っていった。

 
「あんた、三十年経っても昔と変わらないわね。地味で、聞き分けがいい振りして作り笑いしてる。男はね、そういう女といると疲れるのよ。だから、私みたいな女に走るの。馬鹿ね」
 
「あの人、営業部では『鬼部長』なんて呼ばれてるけど、ある日、娘さんへのクリスマスプレゼントに悩んでたらしくて、『最近の若い女の子は、何が好きか知ってるかな』とか、困った顔してこっそり聞いてきた。『私、もうアラフォーですよ』って言ったのに、あの人、『娘と好みが似てるから、どうしても』って。……」
 
「私はあの人といられたなら、ただ触れあって愛し合いたいだけ。それだけよ」
 
「そうね。愛しているわ。あの人が私を愛するのと同じくらいには」
 
「パパにデパートで可愛いワンピースを買ってもらったんだ。かわいいでしょ」
「うちは夏休みは家族で海外旅行に行ったの。フランス、素敵だったわ」
「パパにね、中々手に入らないロボットの子犬を買ってもらったの。かわいいの」
「るりかちゃんもだよ。みんなと一緒。ミチカちゃんは?」
「ミチカちゃんのパパは、何をしてくれたの?」
 
「山岸さんの奥さん、……何が悪かったのかしら。旦那さんは、バブル景気が終わって株で大損したらしいけど、家族も自分の会社も何もかも放り出して逃げるなんて本当にひどい話よね。それも、離婚届だけ置いて若い愛人と姿を消したとか」
「あ! それ、私見たことあるのよ! 二年くらい前からかしら。時々、真夜中に旦那さんが真っ赤なスポーツカーから降りて帰ってくるの。運転席を見たら、二十代くらいの髪の長い茶髪の女だったわ。ほら、あれ、よくディスコにいたみたいな派手な女」
 
『ちゃんもへ。 何でも持ってるのに、何でも選べるのに、人のマネばっかしてズルい! マネばっかして、人のせいにするのズルい! わたしは、自分で選びたくても何も選べないのに、人のせいにもできないのにズルい! わたしより幸せなんだから、わたしが『ちゃんも』って言ったくらいでかげで泣かないでよ! 自分で何も選んでないのに、幸せそうな顔して、大キライ! 大大大キライ! わたしは絶対にあやまらない!』
 
 
 
 そうか……。やっと分かった。
 未知華は、未知華が選びたかったのは、きっと「父親」だったのだ。
 未知華は父親が大好きで、本当は父親と一緒にいたかったのだ。
 
 大好きな父親が選んだ「愛人」に、未知華はなりたかった。
 だからこうして、今も不倫と言う方法で愛を得ようとしている。
 真実の愛を得る方法は、これしかないのだと思っている。
 
 未知華は、私の頬の傷口からツーと垂れた血の雫を呆然ぼうぜんと見つめ、初めて後悔を顔ににじませた。
 彼女は、私を精神的に傷付けるつもりはあっても、物理的に傷付けるつもりはなかったのだ。
 
「未知華ちゃん。倫史のりふみさんじゃ、あなたのお父様の代わりにはなれないわ」
 私は、やっとハンカチを取り出して頬に添える。未知華に掛けられた水を拭うことよりも、傷の痛みを和らげることよりも、その赤く流れる液体を未知華の目の前から取り去ってやりたかった。
 
「……そんなこと、あんたに言われなくても分かってる」
 未知華は、私の皮膚を掠めた指先を右手で握りしめながら、そうつぶやく。
 
 未知華は、私とは対極にいるような全く違う生き方、考え方をしている人だ。
 未知華がしたことを、私は理解したいとも、許したいとも思わない。
 けれど、今、彼女の痛みがほんの少しだけ分かった気がする。
 私たちは境遇が違っても、父親の愛情が欲しかった。心のどこかで愛を渇望かつぼうしていた。
 私はわずかな愛にすがるように自分を押し殺し、彼女は届かなかった大きな手を探して長い時間を彷徨さまよい続けた。
 
 まだ小学生だったあの頃、まだ彼女のすぐ近くにいたあの頃。
 もっと彼女と話せばよかった。彼女の悲しみに、もっと早く気付いてあげられればよかった。
 そうすれば、きっと私たちは同じ痛みを分かち合えたのだ。
 
(つづく)

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