連載小説『泡沫の初恋』 二.千草(ろ)
目を覚ましたのは、その翌日の夜のことだった。
尾花家は、突然駆け落ちした花嫁を必死で捜索するも未だ見つからず、父さまも母さまも親族も、皆が青い顔をしている。
「千草、身体は大丈夫かい」
寝所で休んでいると、母さまが温かい粥を持ってきてくれた。
「母さま、ご心配おかけしました。大事ありません」
そう答えると、母さまは心底安堵したように溜息をついた。
「千草、よくお聞きなさい。牡丹がいなくなった今、尾花の娘はあなた一人です」
「はい」
「尾花家は、私たちの祖先が命を救われた伊沢様に対し、ご恩を返し続けねばならないことは分かっていますね」
「はい」
「尾花の長女は、伊沢家に嫁ぎ、伊沢に尽くさねばなりません。明日からは、あなたが牡丹です。あなたに姉妹はいない」
「……はい。母さま、私は分かっています。牡丹は、伊沢様へ嫁入りいたします」
私がそう言うと、母さまは厳しい顔つきを崩し、涙を流して私を抱きしめてくれた。
「ありがとう、千草」
母さまが私の本当の名を呼んだのは、それが最後であった。
尾花家は、まだ日本が律令国であった時代、宮廷の典薬寮で呪禁の職に当たった一族と伝わっている。呪禁師は、呪術により怨念などを払うことによって病気治癒等を行う者であったが、当の昔にその役割は陰陽師に代わり、一族も衰退していった。伊沢家に命を救われたのは、その頃であるとも、もっと後に病に倒れた主人を「秘伝の薬」で救われたとも言われている。尾花は、なんとも曖昧なその言い伝えを信じ、代々女系である一族の長女を伊沢に差し出して、長年にわたり恩返しをし続けているのだ。
牡丹姉さまにとっては、生まれた時から決められた運命である。
子供のころから、それを嫌だという素振りを見せなかったし、嫁入りしたとしても義母や義祖母も元は尾花家の者であるから安心だと、いつか旦那様に会える日が楽しみだとも話していた。
しかしながら、牡丹姉さまは突然、婚礼の直前に逃げ出した。あの時、振袖を着ていたのは、結婚への反発だったのか。それとも、一緒にいた男を、そんなにも好いていたのだろうか。
恋とは、大切なものを全て捨ててでも、手に入れたいものなのだろうか。
私は、まだ恋をしたことがなく、牡丹姉さまの気持ちがよく分からない。「好き」というのは、「一緒にいたい」という気持ちのことか。それとも、「また会いたい」と思う気持ちのことか。
「また会いたい……」
そう口にして、ふと椿のことを思い出す。
同じ年頃か、いくらか年上か。切れ長の目は涼しく、春の光のような眼差しをしていた。
とうとう約束の場所で会うことは叶わなかったが、私にとって「また会いたい」と思う唯一の男子であった。
子猫が、誰かから手当てを受け、私の傍らで丸くなって眠っている。
明日からは、私がこの子の主人だ。
この子を大切に育てようと、子猫に「椿」と名前をつけた。
(つづく)
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