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湊の歴史

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#たたら炉

隠れ製鉄の村、湊町!

隠れ製鉄の村、湊町!

【湊町の製鉄の歴史】
みなとネットワーク(教育環境部会)では、
湊町の製鉄の歴史について様々な調査を行ってきましたが、
今回もまた新しい発見がありました。

湊町の、人が入らないような山の奥に
大昔に行っていたと思われる数々の炭焼き窯跡地と、
たたら炉の跡地(大量の鉄滓が見つかる)が見つかりました。

「一体なぜ、こんな場所で炭焼きが行われていたのか...??」

そんな謎を解いていこうと、
今回

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製鉄の歴史調査をしたら、 また鉄滓を見つけました!

製鉄の歴史調査をしたら、 また鉄滓を見つけました!

4月24日に、教育環境部会で、湊町の製鉄の歴史を探るべく

砂鉄を運んだと思われる道を探検に行ってきました!

主に、崎川地区~中田地区を調査してきましたが、

この周辺の山からは、やはり鉄滓がゴロゴロと出てきました!

また、裏白河街道周辺でも、以前鉄滓が見つかったとのことで、

今回も調査へ行ったところ、川の中からまた鉄滓を見つけることができました!

「いつ頃作れらたものなのか」というのは、

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湊の製鉄と「向羽黒山城」の関わり

湊の製鉄と「向羽黒山城」の関わり

向羽黒山城(むかいはぐろやましろ)は、

福島県大沼郡会津美里町にあった日本の城で、

戦国時代会津を治めた蘆名盛氏が8年もの歳月をかけて築城した

天然の要害です。国の史跡に指定されています。

猪苗代の製鉄の歴史を見ていくと、

湊の製鉄と向羽黒山城が深い関りがあったのだろうという推測がありました。

向羽黒山城とは、黒川城(鶴ヶ城)と同時期に造られた山城で、
蘆名盛氏の隠居城と言われています

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鉄を運んだ道を尋ねて。

鉄を運んだ道を尋ねて。

湊町では、平安時代から大規模な製鉄が行われてきたことが分かっていますが、当時湊町で作られた鉄のかたまりである「玉鋼(たまはがね)」を

どのようなルートで会津若松まで運んで行ったのか・・・

堰場と田代の中間あたりにあるところから入り、東山ダムに向かって延びる山道で、(「裏白河街道」と私たちは呼んでおりますが)

そこから会津若松へと降りていく道路があります。

その裏白河街道を通り、湊から鶴ヶ城

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2度目の「たたら炉 実証実験」

2度目の「たたら炉 実証実験」

湊町のあちらこちらで鉄滓(てっさい)が見つかっていることから

猪苗代湖の豊富な砂鉄を利用し、平安時代から

湊町で大規模な鉄生産が行われていたことが分かっています。

そこで、

古来の鉄づくりの製法で作りだされた玉鋼(たまはがね)を再現させるべく

2020年11月に、2日間に渡る

2度目のたたら炉実証実験を行いました!

そして、2年目にして

1.3kgの玉鋼を作ることに成功しました!

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