見出し画像

吹奏楽コンクールを”愉しむ”

今年もコンクールの時期が近付いてきた。私が書いたnoteを見返していると、去年のこの時期に書いたnoteとコンクール終わりに書いたnoteが出てきた。

コンクールを目指す姿勢は、基本去年から変わらない。しかし、去年書いた記事にいくらか追加したいことが出てきたので、今年も懲りずにコンクールへの決意を語ろうと思う。

コンクールを「楽しむ」ことについて

まず、なぜ「楽しむ」ことと「高みを目指す」ことが二律背反になるのかについて考える。

受験でもスポーツでもそうだが、練習(勉強)はつらく苦しいものであり、それに耐えてこそ勝利をつかみ取ることができると言われる。日本人の勤勉さに由来するものかもしれない。これは吹奏楽でも例外ではなく、苦しい練習に耐えて、最後にコンクールで結果を残す、いい演奏をする、などという一連の流れは、よくメディアで取り上げられがちである。笑ってコラえての「吹奏楽の旅」や、吹奏楽作家「オザワ部長」の書籍などがその最たるものである。

それとは正反対に、コンクールで「楽しむ」と言うと、結果にこだわらずに気楽に演奏する、クオリティにはこだわらず”それなりに”仕上げて満足、というやり方が一般的には思い浮かべられる。その根底にはやはり、「努力はつらく苦しいものである」という前提が潜んでいる。

本気で、”愉しむ”

しかし、そもそもその前提自体正しいのだろうか?努力することは、本当につらく苦しいものなのだろうか?

私は物理学を専攻しているので、大学に来てからというもの、物理学のプロを毎日のように見ている。彼らは、確実に今まで努力を重ねて物理学を極めてきた人たちだが、彼らを見ていても、どうしても「辛く苦しい努力」を積み重ねてきたようには思えない。むしろ、物理学が本当に好きで、心から”愉しんで”いるように思えてならない。そしてかく言う私を物理学の世界に導いたものも、「楽しい、もっと知りたい」などといった気持ちだった。

これは物理学だけに限らない。音楽を極める面白さも確実にある。

逆に、それほど音楽を突き詰めずに”それなりに”やって満足するやり方は、物理学専攻の学科で、ブルーバックス程度のレベルで数式を使わずに「ゆるっとふわっと」物理を学ぶのと何ら変わりないと思う。そんなことをしても、ちっとも楽しめた気はしない。

批判を恐れずに言えば、クオリティにはこだわらず”それなりに”仕上げて満足、とは書いてみたものの、実際のところ、なぜその程度で満足できるのか、私には理解出そうな気がしない。

「コンクールを楽しむ」とは、それほどストイックにやらずに「ゆるっとふわっと」「それなりに仕上げて満足」だけではない。ストイックに音楽と向きあう面白さもあると確信している。そして、コンクールはそのような”愉しさ”を見出すのに絶好の機会ではないかとさえ思う。

演奏会とコンクール

演奏会とコンクールの違いとは何だろうか?

最も大きな違いは曲数である。演奏会では数曲を仕上げなければならないのに対し、コンクールでは多くて二曲である。それに伴い、必然的に曲への向き合い方も、前者は「広く浅く」後者は「狭く深く」となる。

広く浅く、様々な楽曲に触れられる演奏会では、自分やバンドの音楽性を磨いたり、レパートリーを増やしたりできる。各ジャンルにはそれぞれの不文律が存在し、実際にやってみないとわからないことは山ほどある。

対して、たった2曲を深掘りできるコンクールでは、それらをとことん突き詰めることでしか得られない知識や技術を得られる。それは「極める」と言ってもよい。

何を”極める”のか?

コンクールは、長期間かけて少ない曲を極め、その過程を愉しむイベントである、というのは今まで散々述べてきた。では、具体的には何を極めるのか?

コンクールに向けて練習する間、練習するのはコンクール曲のみである。しかし、「コンクール曲だけが上手いバンド」にはなりたくないと、かなり前から思っている。練習するのはコンクール曲だけだが、せっかく長期間向き合うなら、コンクール曲を通して、「ほかの曲も上手いバンド」になりたい。

そうなると、やはり奏者一人一人が演奏者として成長することが必要ではないかと思う。コンクール曲を練習する過程で、自分の音と向き合い、本質的に楽器の技術を向上させる。また、自らの中に音楽を持ち、どんな音を出したいか考える練習をする。そのような向き合い方をしてこそ、他の曲も上手いプレイヤーに近づけるのではないかと思う。

また、個々が上手くなってもバンドの実力が上がるとは限らない。バンドの音楽をより良いものにするには、プレイヤー同士の音楽が調和しなければならない。その感覚は、合奏の中でのみ養われるものである。どんどん新しい曲を仕上げなければならない演奏会シーズンは、どうしても楽譜を追うのに精いっぱいになりがちである。しかし、長期間2曲と向き合うコンクールでは、楽譜を自分のものにし、周囲に意識を向ける余裕も生まれるはずである。

去年のコンクール時期は、手指のコントロールの技術について様々な知見を得て、実践できたのが一番の収穫だと感じた。今でもこの考えは健在だし、私個人は、今年もそれを目指している。加えて今年は、ずっと課題だった打楽器と管楽器の調和についても考えていきたい。

トラブルを”愉しむ”

本当に本気で極めることは愉しいことばかりなのだろうか? 自分の思うようにいかないとき、スランプに陥るときだってある。しかし、「上手くいかない=愉しくない」と結びつけるのも早計だと思う。

何かトラブルが起こった時に、「思い悩む」のは、あまり良い対処法ではない。

何らかの問題に対処するとき、自分と問題の距離はある程度とっておくべきである。必要以上に感情移入してしまうと、冷静な判断ができなくなったり、自己否定に陥ったりして、好ましくない。

当たり前のことだが、思い悩んでいるうちは、何も事態は進展しない。問題を解決するには、思い悩むのではなく、自らの頭で考え、対処しなければならない。そうであれば、必要以上に落ち込んで思考停止に陥ってしまうのは、できれば避けたい。

ではどうすればよいか? 例えるならば、テストの問題を解くのと同じように、身の回りの諸問題に向き合うのである。「どうやったら x の値求まるかな」「この指示語の内容は何だろう?」と同じように、「どうやったらスランプ脱却できるかな」「どうやったら音のタテ(出だしのタイミング)揃うかな」と考える。そうすれば、うまくいかない状況でも、冷静に考え、対処することができるのではないだろうか。

さらに、ずっと思案を巡らせると、だんだんフローの状態に入り、心地よく感じられてくる。いつもいつもフローに入れるわけではないが、少なくとも、トラブルに遭って気分が下がることはないと思う。

楽器演奏は、突き詰めると自己否定に陥りがちである。しかし、そこであえて自分と問題を切り離すことで、トラブルに対処するプロセスすらもある程度は愉しめるのではないだろうか。

音楽をする

以前こんなツイートを見た

なるほど、コンクール弾き、か。

吹奏楽には”コンクール吹き”はあるのだろうか?

もしコンクールで評価される演奏と一般に評価される演奏の間に明らかな差があり、何かしらのテクニックが必要なのだとしたら、もはやそんなコンクールに出る価値などないと思う。

中学高校と吹奏楽をやってきて、いろいろな経験ができたし、楽しいこともあった。ただ、本当に心の底から音楽ができていたかというと、素直に首を縦に振れそうにはない。

大学の楽団に入って指揮者をやるようになってから、バンド全体の音をよく聴くようになったし、指揮を振っていても楽器を演奏していても、音楽について以前よりももっと考えるようになった。

きっと私は音楽がしたかったのだと思う。競争でもなく、苦行に耐えることでもなく、とにかく純粋に音楽と向き合い、それ自体を愉しむ。ずっとそれを求めていたのかもしれない。大学で吹奏楽をやって、ようやくそれに気づかされたと感じる。

ならば、コンクールであろうと演奏会であろうと、その姿勢を最後まで貫徹したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?