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遥かかなたのバニラ・ティー(3)

 僕らが高校二年生になって、合唱部は代替わりした。
 すると驚くべきことに、われらが向丘合唱部は全国合唱コンクールの地区予選を突破した。高校二年の二学期終盤のことだ。
 あの少人数の弱小合唱部が、多少は戦えるようになっていた。それは、叶多のおかげだった。
「A地区予選を突破したのは……」
 小さなホールはいったん静まり返って、司会者の沈黙を反芻した。僕は席の端っこに座って、沈黙が破られるのを待っていた。
 となりの叶多も前のめりになって、僕の右手を固く握りしめていた。たぶん、叶多は無意識に握っていた。その握りしめている手は温かくて、期待と決意に満ちていた。
「向丘高校、おめでとうございます!」
 わっと僕と叶多と、他の部員は立ち上がって、互いの喜びをたしかめ合った。いまさらわからないことだけれど、叶多がいなければ、結果に対してあれほどの思い入れは持てなかったと思う。
 叶多は僕のことを抱きしめた。特に僕は疑問をもたなかった。ただ叶多にも腕を回して、喜びを共有した。

 今振り返れば、通り魔から僕を守ったのも、合唱部ではりきっていたのも、僕の気を引きたいというところが叶多にはあったのかもしれない。

 会場から出ても、後輩・同級生はみんな興奮していた。
「お疲れ様でしたー!」
「お疲れー!」
 しぜん、打ち上げをしようという話になった。部員のほとんどが駅とは反対方向のカラオケ屋に向かおうとしていた。ところが、叶多(と僕)は駅に向かおうとしていた。僕は叶多に腕を引っ張られて、連れられる形になっていた。
「俺らは先に帰っちゃうから、バイバイ!」
「先輩は打ち上げに行かないんですか?」
 え、なんで、と僕が抗議をしようとすると、叶多は声を低くして他の部員に聞こえないように、
「大事な話があるから、《シオン》に行こう」
 と耳打ちしてきた。
 僕は不審がった。けれども、叶多は真剣なまなざしをしていたから、何も言わなかった。相当大事な話なんだろう、と。
 
「で、大事な話って何?」
 ケーキのてっぺんのいちごを食べてから、僕は切り出した。
「それは……」
 《シオン》に着いて席に座っても、叶多は「注文してから」と延ばし、店員が注文をとってからも、叶多は「ケーキが来てから」とさらに先延ばしした。
 僕は打ち上げに行きたかったわけではない。むしろ、《シオン》でお茶をしている方が、落ち着けてよかった。だから、叶多に怒っているわけではなかった。ただ、その「大事な話」が気になっていた。
「それは……?」
 叶多は顔をあげて、
「普通ってなんだと思う?」と聞いてきた。
「何、いきなり」
「普通って何かな?」
「さ、さあ」
「普通じゃないってどう思う?」
「どう思うって……」
「あれ」
 叶多は僕のうしろのほうを顎で示した。
 そっと振り向いてみると、大学生くらいの二人の男性が座っておしゃべりをしている。
「あの人たちがどうかした?」僕は叶多に向き直って聞いた。
「あの二人が友達同士じゃなくて」といったんためてから、「恋人同士だったらどうする?」
「どうもしないけど」と僕は答えた。
「いやじゃない?」
「あの二人は友達同士でしょ」
「たとえば、恋人同士だったらの話」
「いいと思うよ」
 叶多は疑り深い視線を僕に向けていた。
「そうしたらさ」
 しばしの間。
 僕はひとりでたじろぐ叶多を見つめていた。
「俺、守のことが好きです」
 僕はじっと叶多を見つづけた。自分のなかで、状況を整理しているところだった。
 すると叶多は立ち上がった。「ごめん」
 叶多は飲みかけのコップの横に代金を投げ置いて、そのまま《シオン》を出て行ってしまった。それは一瞬の出来事だった。
 一体いきなり、叶多はどうしたのか。
 明らかに友達としての『好き』では、あれほどあわてるわけもない。だから、叶多の言葉の意味は一応、理解していた。
 でも、僕はどうするべきなのか、ついていくべきなのか、何か言葉をかけてあげるべきなのか。逡巡しているうちに叶多はすっかりいなくなってしまった。
 テーブルの上には、いちごだけ食べられた僕のケーキと、まだ湯気を上げるバニラ・ティー。叶多のケーキとバニラ・ティーもあった。
 いつから叶多はバニラ・ティーを頼むようになったのだっけ。残された僕は、ひとりでそう考えていた。
 その翌日から、叶多は合唱部の練習に来なくなった。
「水森先輩」
 合唱部の後輩部員が二人、部活が終わった後に、僕に詰め寄ってきた。
「どうして最近、叶多先輩は来ないんですか?」「何か事情を知りませんか?」「せっかく地区予選を突破したのに」
「僕は知らないけれど……どうして?」と嘘をついた。
「水森先輩と叶多先輩は仲が良かったので、何か知ってるかと思ってました、すみません」
 そう言ってその二人は帰って行った。僕は叶多の心配をしていた後輩に感謝した。というのも、後輩のおかげで叶多に話しかけてもいい、表向きの理由ができたから。
 その後も、叶多は練習に来なかった。普段の叶多ならすれ違えば笑って手を振ってくれるし、寄ってきて何か話すこともあった。でも、告白してきてからは、下駄箱や廊下で僕と目が合っても、すぐに目をそらしていた。
 告白から四日経ったところで、下駄箱で下ばきに履き替えている叶多を見つけた。
「叶多」
 僕の声に驚いて、叶多の華奢な体はさらに心細くなった。もうすっかり下ばきに履き替えた叶多は、つま先を地面にとんとんとしながら僕に向かって、
「何?」
 と冷たく言ってきた。目は怒っているようにも見えたし、怒っている自分自身に怒っているようにも見えた。それを見て、僕は悲しくなってしまった。
「話そう」
 そう持ちかけてみた。
 叶多は玄関のほうを眺めた。わずかにうなずいて、先に行ってるから、と小さくつぶやいて早足でいなくなってしまった。僕からは、叶多の顔は見えなかった。うつむいていたのはわかった。
 暗い叶多を見るのは嫌だった。叶多が暗くなっている原因が自分だということも嫌だった。

 もちろん、叶多は《シオン》にいた。
 僕は席に着いた。よ、と手であいさつする。叶多の目はすこし腫れていた。
「何?」と叶多は目を隠すようにうつむく。
「注文してからにしよう」と僕は提案した。
 店員さんを呼んで、僕と叶多はショートケーキとバニラ・ティーを注文した。僕はなるべくいつものように振る舞おうとした。
 でも、「いつものように」は意外と難しいものだった。普通とは何か、ということと同じくらい難しいと思った。ふだんは全く意識していないのに、そちらに意識を向けた途端、その「意味」は、散乱してしまう。それに、僕のいつものような振る舞いは、あまりにも無愛想に見えると思った(一応、自分にすこし無愛想なところがあるのは自覚していた)。
「叶多が来ないから、合唱部のみんなが心配してる」
 叶多は肩を落として、うつむいたままうなずく。
「はやく来て、みんなを安心させな」
 叶多はなじるように、僕に目を向ける。
「こちらショートケーキとバニラ・ティーになります」
 僕と叶多が気まずくなりそうなタイミングで店員が来てくれたので、僕は胸をなでおろした。
「それで」
 と店員がいなくなってから、叶多はフォークを持って聞く。
「守はどう思ってるの?」
「合唱部に来るべきだと思う」と額面通り答えてみた。
 叶多は苦笑してケーキの切れ端をひとつ口に入れる。
「とぼけないでよ」
 叶多の目は悲痛だった。たぶん、何日も僕のせいで悩み続けていたのだと思う。今度は僕がうつむいて、ごめん、とうなずいた。
「それで、守はどう思ってるの?」、俺のことをどう思ってるの?
「俺は――よくわからない」
 叶多は僕とケーキを交互に見ながら、ケーキを口に運ぶ。
「叶多のことは好きだ」と言ってみた。
 叶多は手を止めずに、ケーキを食べる。
「でも、叶多の『好き』と俺の『好き』とが一緒かはわからない」
「じゃあ、試しにつきあってみて」と叶多は自嘲的に言う。
「……別にいいけど」
「ホントに?」
 僕は顔を上げてうなずいた。
 すると、叶多の表情は一気に明るくなった。
「ありがとう、守」
 そう言って、叶多は両手を握ってきた。
 僕はうなずいた。嬉しかった。

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