見出し画像

遥かかなたのバニラ・ティー(5)

 高校二年生の三学期が始まって、すこし経ってからのこと。
「もう噂は流れてるの?」
 叶多がそう切り出してきたのは、驚きではなかった。
「少なくとも俺は後輩に、噂は本当なのかとは聞かれた」
 僕はそうメールを打ち返した。
 僕と叶多は、以前のようには相席に座っていない。
 僕は店内の一人用の席に座っていた。
 叶多は外の席にひとりで座っていた。
 僕の席は窓に向かう形で設置されてあったので、叶多のことは見えた。僕と叶多は、メールで密かに会話をしていた。叶多はときどきこちらを見る。

*      *      *

 北海道から帰ってくると間もなく冬休みは明け、高校二年生の三学期は始まった。
 もちろん三学期に入ってからも僕と叶多はお茶をした。すっかり《シオン》の店員も僕らと顔見知りになってしまった。
 そしていつだったかは忘れたが、叶多は店を出てから僕の頬にキスをしてきたのだ。
 《シオン》の外は寒かった。もうスズメも、代替わりする時季だ。合唱部の愚痴のようなとりとめのない話をしたあと、紅茶も飲み終わると僕らは並んで店先に出た。
「冬はやっぱり寒いね」と叶多はふるえていた。
「うん」 
 震えている叶多を抱きしめてあげたかったけれど、照れくさかった。だから、大丈夫か、と一応、心配している視線は送っていた。
 すると、叶多は少し背伸びをして、「この前のお返し」と言って、僕の頬にわずかに口づけをした。あざとい奴め、とその時は楽観的に思っていた。
 でも、それが間違いだった。
 冬だから暗くて誰も見えないだろう、そう思って、叶多はキスをしてくれたのかもしれない。でも、きっと誰かが見ていたのだ。誰かが。
 いつのまにか噂は学年で広がっていた。しかも、傍から見れば、叶多がいきなり僕にキスをしていたように見えていたはずだ。
 田中叶多が一方的に水森守にキスをした。水森守は被害者だ。
 そういう形で噂は流布していた。
 水森が田中にキスされたらしい。え、マジで。ホモってやっぱり人を襲うんだな。俺には寄ってこないで欲しいわー。
 そんなひそひそ話だって聞こえていた。そもそもお前を狙うやつなんていないだろ、と反論したいときもあった。でも、そう反論すればなおさら怪しまれてしまう。
 叶多を擁護したかったけれど、できたものでもなかった。自分の不誠実さを呪った。でも、叶多は、「仕方ないよ」、と許してくれた。

*      *      *

「守も……マジか」
「どうする? これからは違うところで会う?」
「負けたくない。だって、《シオン》は俺たちの場所じゃん。追い出されるみたいじゃん」
 だから、意地でも《シオン》で会っていた。でも、帰るタイミングはずらし、なるべく一緒に歩いているところは見られないようにしていた。
「そのうち、噂も消えるよ。それに、俺たちは何も悪くない。普通だろ」、そう送った。
「うん」なんだか、叶多の答えはそっけなかった。
「叶多、大丈夫?」
「うん」
「何か言いたいことがあるのか?」
「うん」
 僕は外の叶多に目を向けてみる。叶多は肩を落として、小さな身体をさらに小さくしている。
「別れ話、とか?」、冗談で送ってみた。自分でも出来の悪い冗談だとわかっていた。
「まさか(笑)。でも俺、怖くなっちゃった」
「大丈夫?」
「俺、やっぱり間違ってるんじゃないかって」
「何が間違ってる?」
「男の人を好きになる、っていうこと」
「ああ……そういうこと」
「すごく前にした音程の話、覚えてる?」
「うん」
「あれって俺にも言えるよね」
「どうして?」
「だってさ、俺は別に、男を好きになりたくて生まれてきたわけじゃないのに、こう生まれてきたんだもん。これって最悪の音痴だよ、治せもしないし」
「叶多、落ち着け」
 叶多の目には、きっと涙が浮かんでいたと思う。たとえ僕が今見えているのが叶多の後ろ姿だけだとしても、それはわかった。僕もひどく悲しくなった。
「昨日、すごく悲しくなっちゃった。母親とテレビを見ていたんだ。バラエティの。九時くらいにやってたよ。守は見てた?」
「見てないよ」
「そっか……。それで、芸人さんの飲み会に密着していたんだ。飲み会は結婚したい、っていう話で盛り上がってた。で、ひとりの芸人さんが言ってた。『俺も好きな人をつくりたい』って。『もういっそ、男の人でもええんちゃうかな』って。」
「それが悲しかった?」
「芸人さんの言ったことは別に悲しくなかったんだ。『男の人でもええんちゃうかな』って言ったときに、スタジオで笑いが起きたことも別に悲しくなかったんだ」
「うん」、そう送るしか、僕にはできなかった。
「でもね、一緒に見てた母親がテレビに向かって、笑いながらこう言ったんだ。『なにそれ、大丈夫―?』って。笑いながらだよ? 俺はそのときに、ものすごく悲しくなっちゃった。守からすればどうってことないかもしれないけど、俺はあのときに、本当に悲しかった。俺、おかしいんだな、って」
「俺も悲しくなるよ。叶多は何もおかしくない」
「うん……。わかってる。いや、わかってたはずなのに、実はわかってなかったのかもしれない」
「俺らは何かしらの、自然の摂理に反しているのかもしれない。でも、だからって俺らは否定されたことにはならない。もし否定されたと思うなら、俺らにもそれを否定しかえす権利がある。母親も、結局は他人だ。だから、今は一緒に耐えよう」
「……そうだよね。ごめんね、取り乱しちゃって。俺が自分のことを好きじゃなかったら、守を否定することになるもんね。きっと大丈夫だよね。ありがとう。じゃあ、今日は俺が先に帰るね」
「ああ、また明日」
 叶多はこちらを向いて、わずかに手を振ってきてくれた。僕もガラス越しに手を振った。
 でも、手を振る自分に自信がもてなかった。
 あらゆるものが自分の感覚から遠ざかっていくような気がした。
 まるで双眼鏡を逆から覗いてしまったように、ガラスの向こう側のものは僕から逃げていく。
 それらがすべて、僕の五感の範囲から限りなくすれすれの端っこまで離れて散って行ってしまうようだった。
 店の前の会社員の往来が、叶多の食べ残したケーキが、テーブルの足元に集まっているスズメが、カップの中に入っているバニラ・ティーが、ことごとく遥か遠くに飛んで行くのを、僕はぼんやりと見ていることしかできなかった。
 叶多のバニラ・ティーはそれでも、窓の向こうにはあるはずなのだ。

ブログ運営費などに使います。ぜひサポートをよろしくお願いします!