【小説】相合傘(3)

 それ以上何も言えないまま、僕は開け放たれた扉から中に入った。いかにも別荘という感じの、広い空間が広がっていた。木の温もりが感じられる室内、天井には白いファンが取り付けられ、きちんと整えられた、いかにも高級そうな赤いラグの上の、ライトブラウンのソファーとテーブル。テーブルの上には、数センチほどの高さの小さく透明な花瓶に、黄色や赤の花が一輪、二輪。
 用意された白いスリッパを履くと、先に上がっていた彼女は、カウンター付きの台所に向かっていた。にゃあ、とその方向から鳴き声がして、長い毛の、オレンジと白の毛を持つ猫が出てきた。
「飼い猫ですか」
「ええ、ノルウェイジャンの『みい』です。動物アレルギー等はございませんか」
「大丈夫です。実家でも三毛猫を飼っていましたので」
「そうでしたか。水戸さん、お飲み物をお出ししたいのですが、コーヒーと緑茶と紅茶と麦茶、どれになさいますか」
 緊張で喉が渇いていた。その四種類の飲み物の中では、普段はコーヒーを一番好んで飲むが、身体が苦味や酸味よりも、さっぱりとしたものを求めていた。猫は僕に興味を持ったのか、近付いてきてその金色の目で見上げてくる。
「麦茶で。冷たいのがいいのですが」
「かしこまりました。あの奥に洗面所がありますので、手をお洗いになってから、そこのソファーでお座りになってください」
 言われた通り、手を洗って、ソファーに腰を下ろす。猫は気まぐれだ、手を洗いに行くときには僕に付いてきたが、リビング・ダイニングに戻ると、僕から離れていった。別荘だから、大きなテレビやホームシアターもあるのだろうかと思ったが、意外にもそれらの類いは見当たらなかった。ソファーの背後の開け放たれた窓から、夏の木漏れ日が室内に注ぐ。
「あ、水戸さん、もうこんな時間ですが、空腹ではありませんか」
 言われてみれば、朝六時にコンビニのおにぎりを二つ食べて以来、お茶は時折飲んでいたが、固形物は何も口にしていなかった。昼食を食べてから電話する、という手もあったか、と、今更ながら思う。
 そこで僕は一つ、思いついた。僕はこの家に、家政夫の募集で来たのだ、その中に調理の仕事も含まれている。まだ雇われてはいないが、ここは一つ、腕をアピールするチャンスではないのか。
「まあ、そうですね……何なら、何かお作りしましょうか」
 案の定、彼女は目を丸くした。いきなりそんな提案をされるとは、思ってもいなかったであろう。
「よろしいのですか」
「テストのつもりで見ていただければと。えっと、食材は……」
「あるもの何でも、お好きに使ってください。私、料理が苦手なもので、大したものはないのですが」
 そう言うのなら、してもよい、ととってよいだろう。台所に向かうと、麦茶の入った透明なグラスを、彼女は適当に置いた。どんな食材がどこに入っているのかを教えてもらい、目に入ったものの中から作れそうなものを脳内で検索する。
「パスタでも」
「お願いします」
「そうだ、何人前作れば」
「二人でいいです。私、一人暮らしなので」
 僕の勘は当たった。彼女はここに一人でいる。しかも、その言い方から、ここは彼女にとっては「別荘」ではなく、一年中住んでいる「自宅」のようだ。
「え、こんな大きい家に、お一人なんですか」
「ええ。特に掃除が大変なので、誰か雇おうと思ったのです」
「……失礼ながら、他のご家族は」
「祖父母や両親は既に他界しました。三つ上に姉が一人いるのですが、結婚して今は大阪にいます。他の親戚とは疎遠です。今は私と愛猫の他には、ここには誰もいません」
 彼女は、ソファーの上、彼女の隣に座った猫を撫でながら言った。姉がいて、その彼女は既に結婚している。ということは、今ここにいる愛香は、見た目によらず、本当はいい年なのだろう。
「そうでしたか……ですが、そんなところに男性を雇っても大丈夫なのですか」
 麦茶を一口、二口飲んでから、流しの下から玉ねぎを出し、丸ごと一玉、皮をむいで食べやすい大きさに切りながら聞いてみる。
「男性の方が都合がいいのです。特に力仕事がある訳ではありませんが……後で事情はお話しします。でも、貴方がしているような心配は無用です。これでも合気道の有段者ですので」
 なるほど、それなら男性との万が一があっても大丈夫ということか。冷蔵庫の中にしなびかけた水菜があったので、それも一口大に切る。
「入り口の紙には書いていませんでしたが、猫の世話は」
「みいは私によく懐いていますので、私がします。庭の手入れもしなくて結構ですよ。もし何か気付いたことがあれば、私にお知らせしてくれたので構いません」
 鍋を調理器具置き場から出し、お湯を沸かす。その間に、フライパンを五徳に載せ、小さいボトル入りのオリーブオイルを回し入れ、玉ねぎを炒める。それに火が通れば、賞味期限が近付いていたツナ缶をフライパンに投入し、沸騰したお湯に塩を少々、七分茹でのパスタを二束解く。
「そういえば、お仕事は何かなされているのですか」
 それも気になることの一つであった。見た目が若く、学生のような印象を受けたので、どんな仕事をしているのか、想像ができなかったからだ。
 すると、あれを見てください、と、彼女は猫を撫でるのをやめ、壁に掛かっていた一枚の絵を指さした。それは、この建物を描いたもののようだった。タッチからして水彩画のようだが、素人のそれのような感じはしない。これは、もしや。
「あなたが描かれたのですか」
「ええ。画家をやっているんです。上の階にアトリエがございます」
「……すごいですね」
「いえいえ、好きの延長線上です。子供の頃から絵を描くことが好きで、それが今もずっと続いているだけです」
 僕は少し、うらやましいと思った。子供の頃から、何か夢中になれることがあって、それを職業にまでしてしまえる人など、そう多くはない。僕だってそうだ。
「でも、素敵だと思いますよ」
「ありがとうございます」
 再び麦茶を口にし、時間が経ったところでパスタを水切りする。それを炒めた玉ねぎとツナを入れたままのフライパンに投入し、水菜も入れてしまってから、最後にパスタのゆで汁で溶いたコンソメスープをかけて、火を止めればできあがり。適当な器に盛って、彼女の前に出すと、ぱあっと彼女が表情を輝かせた。
「すごいです……私にはなかなかできません」
「まあ、どうぞ」
 僕一人なら、食器はフォークだけか、それすらも面倒な時は、箸でパスタを食べてしまうものだが、相手は上品なお嬢様にして芸術家だ、フォークとスプーンの両方を二人分出した。思っていた通り、彼女は右手にフォーク、左手にスプーンを持って食べ始めた。僕はその一口目を観察する。
 フォークで麺を持ち上げ、スプーンの上でそれに巻き付けて、水菜を一切れ載せて、一口。彼女にはじっくりと味わっているが、僕にとっては緊張の数秒間。
 そして、その後、彼女は満面の笑みと共に、僕の人生を決定的に変える一言を放つのであった。
「……水戸さん、ぜひうちに来てください! 採用です!」

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