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つくばセンタービルと水戸芸術館、ふたつの磯崎新の建築からまちづくりを考える

つくばの中心はどこ? という問いは、物理上の話にとどまらず哲学的な問いのように聞こえます。そもそも、中心の名を持つ『つくばセンタービル』に建築家の磯崎新氏はあえて中心を造らなかった。それは磯崎氏から住民に託され、今も重く残るまちづくりの課題なのではないか。

そんな内容のエッセイを10月17日の東京新聞茨城版に書きました。あの文字数ではきちんと書ききれていない感があり、以下、原稿におさまらなかったつぶやきを補足としてまとめておきます。

まずは、磯崎新『廃墟のつくばセンター』のドローイングを思い出しつつ

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つくばセンター広場で印象的なのは長沢秀俊『樹』のある風景。Twitterのプロフィールヘッダにもしている好きな風景。私は専門家でもない単なる建築好きの物書きですが、つくばの空は私のつぶやきをふんわり受け止めるほど広いはず、という願望もこめて。

長沢秀俊『樹』はギリシア神話アポロンとダフネの物語をモチーフにしたものです。アポロンの欲望から逃れようと父なる河の神に願い、月桂樹に身を変じたダフネ。『廃墟のつくばセンター』のドローイングとどこか呼応するよう。欲望にさらされても思い通りにいかない、自然へと還っていくものの姿です。

「つくばセンタービル」は筑波研究学園都市建設の初期、1983年竣工の複合施設です。「日本」「国家の要請」で建設する都市。〝東京の過密緩和、高水準の研究・教育の拠点形成を目的とした国家プロジェクト〟(茨城県ホームページより)。その中心となる建築物が「つくばセンタービル」でした。

まっさらなフィールドに建てられたつくばセンタービル

設計者の磯崎新氏がその国家プロジェクトという大きな要求(問い)にどう答えたかの回答がそのまま「つくばセンタービル」として残っています。引用・参照・細かい部分はハイコンテクストすぎるのでその道の専門家にお任せして、センター広場に視線を向けてみます。

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〝黒花崗岩に稲田ピンコロとカンピドリオと同一の素材で色彩だけ反転させる予定だった(でも予算の関係で代用品で整えた)〟

センター広場の中心は水の流れるくぼみです。 塔も彫像もなにも置かない。<日本的>なるものを<様式>として建築で提示しない。次第にここが一番の肝に見えてきます。

設計時点での磯崎氏の回答、

〝中心が空洞である〟

ことこそが奇しくも日本的に見えてしまうという面白さ。そしてつくばセンタービルが廃墟になるまでの長い道のりでは、当然設計者の手を離れてからの時間の方が長い。都市、国家、まちづくりで磯崎氏が悩んだ問いはブーメランで私たちに返ってきます。

生成過程の建築物。都市とはどうあるべきか。その問いは大きすぎて、ぽーんと投げだされたままでもありました。ある意味、知的な謎かけをされたままなのがつくばの、つくばセンタービルの持つ業(ごう)でなくて何でしょうか?

対照的な水戸芸術館と水戸のまち

つくばと対照的に、同じ磯崎新氏が設計した「水戸芸術館」はフラットな広場、高い塔を持つ明快な建築です。ブランクーシの「無限柱」の形態を持つ塔。同じユニットを積み重ねた形。 いくら地震で大きくゆらゆら揺れようが、水戸のまちの中心にふさわしい明快なアイコンであることは確かです。

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水戸のまちは東西に商店街の軸を持ち、南北に京成百貨店、来年完成する伊東豊雄設計の水戸市新市民会館、水戸芸術館の軸ができあがる。明快でウォーカブルな(歩きたくなる)まちへと変容しそう。広場があって市場や劇場がある、いわゆる古典的な都市の形だけど、開放的な空間で住民でなくても集いやすい。

水戸市新市民会館、通りすがりに写真を撮りました。来年竣工予定との事ですが既にワクワクします。 京成側からのアプローチや遊歩道はどうなるのかな。芸術館側のビジュアルも美しいな。昼は芸術館のタワーが反射して映り、夜は暖色系のひかりに照らされ、やぐら広場とそこに集う人々が見えてくる。

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対して、いち生活者としてつくば駅に立ちその動線を考えてみると、センター広場が見えづらく、ビルには今現在は中心としての訴求力は薄いような…… いや、クラフトビールやパン祭り、コロナ落ち着いてからの各種イベントはめっちゃ楽しみ&楽しむ予定でいますけれども!!!!(錯乱)

つくばセンタービルを現代を生きるいち生活者として見ると

肝のつくばセンター広場があの形であればいい、ビル内なんかは今の私たちに必要な機能で整えてくれればと私なんかは思っちゃいますがどうなんでしょう。所有者の意向もあるのかな。生成過程ならではの難しさがありそうですね。このあたりは不勉強で考え、まとまってません。

今の私たちに必要な機能、というのもまた難しい。コミュニケーションがほぼ完成された大人より、若者、生徒学生、ママパパの集う場所が足りない気もして。託児なり勉強なり交流なり。大人はウェブ上で、あるいはメタバース的なアレでよくないですか。あ、たまに集まってビール飲みましょう(錯乱)

まちって何だろう。都市って何だろう。結局磯崎先生が悩んだ当初の問いに戻ってしまう。商業的・ビジネス的な求心力がなければ人は集えないのでしょうか。違う、これからのスマートシティ・スーパーシティはこうだよ!!!! みたいな超かっこいい解がこれからのつくばで見たいような気がするんですよね。

都市・国家・まちづくりで磯崎氏が悩んだ問いが、ブーメランで私たちに

それは必ずしも物理的に集うことじゃないかも、行政が中心になって中央集権的に全てを行うことじゃないのかも、という予感もありつつ…… でも肉体を持つ人間としてやはり快適な場所に行きたい、人と触れ合いたいという欲求もある。今現在は、つくばは分散型のかたちっぽくなっていて、それは今までの人々の選択の結果の今であり、否定すべきものでもない…… 

あれ、磯崎先生が『シン・ゴジラ』の牧博士のように「私は好きにした、君らも好きにしろ」と言っているような気が……空耳ですね。うん。空耳にはちがいないんですけれども。

〝論争的であり得たときに、その作品ははじめて問題の提出者としての資格を得たともいえる。決着は誰かがいつかつけてくれるだろう〟 

そう、つくばの中心はどこ、なんて言っているうちは、まだ私たちは磯崎新先生の手のひらの上で踊っているのです。

(その種類の話が好きな人はこのあたりでハイデッガー方面にでも話を展開しそうですが、詳しくない私は言うだけ言ってフェードアウト…)

以上、長々としたつぶやきにおつきあいいただきありがとうございました! 引用符で記載のない部分は磯崎新編著『建築のパフォーマンス』(PARCO出局,1986)からの引用、その他文責は湊ナオでした。すっきりした! 原稿の文字数だとどうしても言葉足らずになっちゃって…短く伝えるスキルの無さでもありますね……

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