感謝するのではなく、感謝できる状態へ

よく「何事も感謝すること、認めることが大切」と聞きます。
発信している人も多いかと思います。

しかし私はかつてこれを履き違え、無理に感謝しようとして
本来なら無理なものは無理!と、ブレーキをかけれていたものまで取り入れようとして、
自分の気持ちには蓋をしてしまったことがありました。

以下は私の失敗談、学習日記です。

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筆者は辞めた職場にいた頃、病む前までは

「きっと頑張ればなんとかできる、これは成長の良い機会だ。
この状況に感謝できない自分にはまだまだキャパが足りない、もっとこうすればきっと大丈夫」

…と、無理に前向きに捉えようとして、結果として自分を追い詰めてしまったのです。
まるでミイラ取りがミイラになるような状況でした。


そして我慢を続けた結果、感謝すべきところが何なのか分からなくなることで、人へ感謝することが負担になり、
人からのありがとうも受け取れなくなってしまうという本末転倒な事態になりました。


更に、元気で向上心がある人に向けて
このような言葉を発信している人も多いので

「感謝しましょう」「嫌なことは成長の機会です」「駄目な自分を認めてあげましょう」

かつてなら前向きに取り入れられていた言葉を、負担に思う日が来るとは…と思いました。

弱っていた私は、
うわ〜、、これができなくなっちゃったよ。
今の自分は、駄目な自分なのかな…?
というように、かつてできていたことができなくなってしまった状況に落ち込みました。

元気じゃない状態での前向きな言葉は、傷口に刺激物を塗るようでした。


そんな所に、とある発信者さんの
「感謝とは溢れるもの」という言葉が目に入り、それにハッとしました。


思えば元気だった頃の私は
嫌な人の意図や事情を、無理に深く考察しなければ、
それが相手の性格であったり相手なりの善意であることが分かったとしても、
やはり嫌に思うのであれば「そこはありがたい。でも、無理なもんは無理!」、どうしても合わない人に対しては「あれは別属性の人だからね。考えても仕方ない(笑)」などと、無理に受容しようとはしていませんでした。
だからこそ、程々に付き合うことができていたなあ…と。

そして嫌な物事、人に対しては、その時は感謝できなくても、時間が経ってから感謝できるようになっていたことに気が付きました。


自分の感覚を大事にできていたからこそ、
じゃあ自分にはこれが足りてないから、次はこれをやってみようかな?
と思えていたことにも気が付きました。

(現在、実家にいて療養中の筆者ですが、きっと私の場合は「無理なものは無理!少なくとも今の自分には無理。だって心が狭いからさ〜」
と思える段階になれば、回復してるんだろうな、と思います笑)


感謝できる状態にあるからこそ、穴(ここでは欠点)を見つけて受容でき、
その穴を埋めていこうという前向きな循環に繋がるのか…
元気な状態であるからこそ、良いと思えたことに対して素直に感謝できるのか。
と、痛感しました。

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感謝するのではなく、感謝したいと思える。

それは無理してすることではなく、義務でもなく
明るい気持ちになれて初めて気付くものであり、
そこでありがたみを感じることができる。
→その気持ちが溢れることで、ようやく自分ではない誰かに伝えることができる。


これが感謝の本質なのではないかな?
(ただし物事を円滑に進めるための礼儀、挨拶としての感謝は、あくまで外部交流のための手段なので、ここも無理に混同しない方がやりやすくなるかな?)
と、思うのでした。


その状態でいられるために、
焦らず、少しずつ気持ちを楽にしていきたいものです。

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