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新企画800――「東京物忘れ大学展」レビュー2(みた-くにたろう)

校閲をメインとしたレビュープロジェクト「800」は、レビューの書き手と校閲者のしっかりとした二人三脚で、レビューの執筆をしていきます。
一組目は、みたさんとくにたろうさんのコンビです。みたさんは、東京造形大学絵画専攻の2年生で、最近はグリーンバーグの「エフェクト」という概念や東浩紀の「触視的平面」などに関心があるようです。くにたろうさんは、東京大学文学部の4年生で、宗教学を専攻されている方です。文章を読み校閲する訓練として、この企画に参加していただきました。
今回は、一回目の校閲を経たレビューの第二稿と、それに対する校閲を掲載します。このあと、どのように完成していくのか、ぜひお楽しみください。(文・みなみしま)

レビュー第二稿
「東京物忘れ大学」東京造形大学(5/15~5/25)
レビュータイトル:受苦としての物忘れ:「東京大学」のアグリゲイター
氏名:みた 

「東京物忘れ大学(鏡文字)」がみえます、「造形ファンク(鏡文字)」と「許せない(鏡文字)」これはなまえですか?落ちた音がしました、よめません、モップ、単3電池、ノイズ・ミュージックが0.25倍速に聞こえてきました、[音楽]、ハエ、木馬、『とびだせ どうぶつの木木 イ』よく見えません、集まって床に座るキャラクターのラクガキ、『灼眼のシャナ』、頭上にくちを開けたサカナのぬいぐるみ2体、字幕、サーチライトに当たるキャンバス、9つのうち6つの蛍光灯が抜かれています、宇宙人、「ご自由によみま」...。「物忘れ」含め、此れ等のファウンド・オブジェクト(拾得物)は、展示と大学の狭間にアグリゲイト(集積)される事で東京物忘れ大学の抱える思想=言語的な受苦ーー言語化不可能な、或いは言語自体が抱えた、言語に収まり得ない苦しみーーを、「沈黙」の有り様に因って様々に生成=表象して居るのでは勿いだろうか、斯様な言語的な受苦は先の見得ない時間を賭す=抱え続ける、能動的な覚悟=思想の産物で在り、此のアグリゲイトが持つ、芸術の範疇すら越境する無条件性は、悟性の動作不良を齎(もたら)し、物を選ぶ、設置の仕方を選ぶ際の基準が、東京物忘れ大学と云う生に与えられた、論理空間の最大条件=感性としての、家族的類似と云う一つのエフェクト(効果)に依って居る事を露にして居ます。
 門にはいくつかのぬのなどがお洗濯物のようにかけられています。あおいTシャツにはくろい油性ペンで、十文字の切腹マークがあり、角型ハンガーには衣類にまじって造花の花弁のほうが洗濯バサミにはさまれて垂れさがっていて。中野一花のクッションやウータンのぬいぐるみキーホダー、iPhoneの箱。ゲリラ的に建設された門の粗雑さは、足の浮いた支柱を『美味しんぼ』で固定するほどであり、暗がりに放出する空気感は、めちゃこわいひとの庭にはいってしまった幼少の記憶を浮上させる、そのまえにぺらい紙が7まいと1まい、短すぎるラケットは重ねられ、落下した木のわくから突きだしている、空港関係のひとにみえる、ふしんしゃもいます、多数性をスマホのフラッシュで鑑賞する。

解説
 校閲の際に与えられた問いのうちいくつかは文章中で答えられたと思うのですが、いくつかの問いに関しては文章中に組み込むことが必要か不明に思えたのでここに付記します。
 「多数性をフラッシュで鑑賞する」という言葉にはいくつかの意味があります。暗い展示室内で、スマホによるフラッシュ撮影が行われる、その際に他の鑑賞者の存在が光として把捉されることを表していますし、もう一つは展示の見え方として、フラッシュで撮影された写真と実際の展示の間にある違和を含めて鑑賞できることを表しています。詩的な意図としてはフラッシュという瞬間的な衝撃に伴って、文末で「です・ます」調から「である」調にシフトし、文章の終わりと同時に転換点であるということです。文章の終わりが意図的に.意図されていないということが、逆説的に終わりを強調することで文章を閉じたものにし、校閲という外部と文章の内部の差異を明確にしたかった...。
 類似する展示としては、『ART SINCE 1900』の「アグリゲイター」の項を開いていただく方が早いと思うのですが、それらとこの展示の大きな違いは芸術とか社会的意義とかを意図していないところだと思います。作家たちは絵を描いたり音楽を作っていないと生きていけない一種の病を抱えた存在であり、つまりは芸術とか思想みたいな制度に隠蔽された側で、、彼らは社会的な意図をもって批判する側というより、社会(生きてたらそうなっちゃうもの、大文字の他者)側の人たちなので、それをどのように制度のうちに包括するかというような問いとして批判、検討するのは(が)鑑賞者側の仕事なのだと思います。
 「物忘れ」という言葉に意味があるとしたら、それは鑑賞者と制作者の分割線が、たまたまそのようにあったということくらいだと思います。
 つまり美術批評というよりは、東京物忘れ大学という事象、事件、事案としての展示評という感じだと思うんですよね。展評であるが美術批評ではないというか。こんなかんじでどうでしょうか。

校閲② くにたろう
校閲メモでお話ししていたこととも一部被りますが、この文章全体における、態度のようなものについて書かせてください。
 
「詩」的なものと批評の狭間を攻めるというのが、みたさんのプレイスタイルとのことでした。美術批評というよりは展示評だと、解説でも自己言及されていましたね。
 
ここで一つ疑問なのは、展示評って何なのかということです。「東京物忘れ大学という事象、事件、事案としての展示評」って、展示作品を言語表現に置き換えただけなのではないでしょうか。批評としてそれを認めてしまっていいのかなと思ってしまい、いまだに引っ掛かっています。
 
「詩」的な作品として読んだ場合、緻密に構成されたこの文章の魅力は相当なものだと、これは本気で思います。ただ、それって800という批評の場に出すべきものなんでしょうか?この文章は、作品そのものに近すぎるように見えます。
 
例えば、メモで使っている文体で批評を書いてみても面白いんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか。
 
とりあえず全体についての指摘は以上です。おそらく言いたいことが出てくると思うので、その場合はメモのときみたいにして返信してください。もちろん、テキスト自体を書き直していただいても大丈夫です。よろしくお願いします!


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