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おそらく分岐点

朝井リョウ『正欲』を読んだ。
この小説は、私にとってとてもとてもタイムリーな内容だった。

この物語は、"多様性"について深く考えさせられる内容だ。性的マイノリティや、異なる人種の人を偏見なく受け入れていきましょう、というような多様性を謳う文面は、2017年ごろから広まってきたように思う。
多様性というワードで想像されがちな構図は、"世間体"や"ノーマル"+"そことはちょっと違う人たち" で、その、"そことはちょっと違う人たち"を受け入れるということだが、そもそもこの構図は正しいのかということを考えさせられる。そして、『正欲』を読んでますます思うのは、そもそも完全に普通、ノーマルな人間というのは存在するのかということである。そもそも、ノーマル、普通、とはなんなのかということである。

私は今までの人生で、なんの特徴もない、なんの印象も受けない、なんの個性もない人間というものには出会ったことがない。だから、裏を返せば、自分と全く同じ人間に出会ったことはない。
もちろん、感覚が近い人や音楽の嗜好が近い友人に出会ったことはある。でも、自分と全く同じ人間というのはいないだろう。
でも、それって当たり前じゃないだろうか。
世の中に全く同じ人間なんて、存在しないのだから。だから、人と価値観が違うこと、異なる人生を歩むこと、ずっと一緒、、
そんなことあり得ないはずだ。
多様性を受け入れていこうよ、じゃなく、
この世界は多様であることが当たり前である。

中国語で、人間と書いて、社会と読むと聞いた。
人間は社会である。人と人の間が、社会。
だから、色々な人がいて、色々な価値観があり、いろいろな趣味嗜好を持ち、様々な人生の歩み方があることは、当たり前のことなのである。

それなのに、なぜ人は疎外感を感じるのだろうか。

この疑問に、『正欲』がいかに自分にとってタイムリーであったかの理由がある。

まもなく、私は大学を卒業する。同級生たちはみな様々な進路を歩み始める。
自立して自分の夢を歩み始めている人、若くして婚活を考えている人、留学を考えている人、家業を継ぐことを考えている人、、、
夢だけじゃない。恋愛に対する価値観、人間関係に対する価値観、コミュニケーションの取り方諸々、、20歳を超えると、ある程度自分のなりの生き方というものが定まってくる。
人は変化する。成長して、好きなもので盛り上がっていた間柄も、気づけば相手は異なるフェーズに行っていて、話が通じなくなっていたり、、。以前は、楽しい、という感情だけで人と話していたけど、
社会人になる手前ということで、お互い成長したり、色々定まったりして、みんなと違うことを感じる機会が増えて、もしかしたら人生で初めての岐路なのかもしれない。大学入学時以上に、岐路に立っている。
だから、色々な人と話していると、近しい間柄だったとしても、いかに自分とは異なる人間かということを身に染みて感じるのである。

みんなと異なることは十分承知である。社会とは人間である。人と異なることは、当たり前である。それに私はみんなの価値観や生き方に影響を受けるタイプでもない。それなのに、こういう風な異なる生き方や人の変化に触れた時、
「自分の生き方や人生の進捗状況は大丈夫なのか」
と一瞬不安になってしまった。
なぜ、こんな感情になるのだろうか。

皆いつも、何かを確かめるように尋ねては、自分は正しいと、すなわち多数派だと確信させてくれる誰かと笑い合っていた。

みんな、不安だったのだ。不安だから、苺のパンに、興奮するかどうかを確認してきたのだ。

朝井リョウ『正欲』P421.426

特に生き方となると、正解というものはない。そもそも、正解というのは人によって異なるものだ。就活期は就職偏差値とやらや評判に酷く踊らされている人もいたが、どの企業が輝いて見えるか、はその個人によって異なるはずだ。昔はモテる人、なんてものも存在するが、結局はどんな人が素敵に見えるか、は、人によって異なるはずだ。どんな生き方、どんな嗜好が正しいかなんていうのは存在しないはずである。
でも、そういう正解がないもの、という不確定なものに対峙した時、とても不安になる。そういう、目に見える指標や数値化出来ない不確実で曖昧なものに、人は不安を覚える。
だから、みんな確認したい。
自分の進捗状況、人生の方向性、恋愛の仕方、、
正解がないものほど、確かめたい。
自分がマジョリティであるのかを。
自分が遅れてないのかを。
だから、確認しあって共感したい。

だから、そんな話をしてくる。そして話を振ってくる。確認したいから。
こちらからすれば興味の無い顔も知らない知り合いの恋バナ、親の話、諸々、、

けれど必ずその場にいるはずだ、自分は違う生き方なのになと思っている人が。だって、異なる生き方をする人がいることが当たり前の世の中だから。色々な人がいることが当たり前の世の中だから。社会とは異なる人間によって作られたものだから。

多様性なんて当たり前なのに、自分は異なっていないと、無理にマジョリティを作り上げようとするから、疎外感を感じる人が出てくるのだ。
異なることは普通だ。
違うことは当たり前だ。
だから、そんな人と違うみんな、自分を、当たり前だと思い、
押し付ける、でもなく嫌う、でもなく、無理に好きになる、でも無く、

あぁ、こんな人もいるんだなぁ、自分は違うけど。

そんな風に流せたらいいのかもしれない。

おそらく今は分岐点だ。今からならどんな未来にもできる。だからこそ、その分かれる路を目にすることが多い。学生時代に比べてきっと、これからそんなことがたくさん増えていくのだろう。

そんな時、この人生一発目の岐路に感じたこと、忘れないで覚えておきたい。






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