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住吉神社 ~内陸・河内長野で祀られている海の神の由来とは~

 河内長野や南河内にないものは海です。内陸なので津波とかはあまり気にせずに住めるのが良いですね。ところで海の神とされる住吉神。大阪市住吉区の住吉大社を代表として、全国で祀られているこの神社がなぜか海の無い、河内長野にありました。

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 場所は河内長野の北側にある小山田という地域。ここはもともと南側の天野地域あたりを含めて、かつては南河内郡天野村でした。1940年に長野町と千代田村の3つが合併して長野町に取り込まれています。

 神社への入り口は2か所あるようで今回は南側。小山田丘陵にある赤嶺市民広場側から神社の境内に向かいました。

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 福祉施設が立ち並ぶあたりから進んでいく長い境内の途中。高天原神社とありました。

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 右側の緑がうっそうとしているようなところを横目に見ながら歩いていくと、ようやく境内に到着します。

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住吉神社の説明がありました。

主祭神は住吉三神
・表筒男命:うわつつのおのみこと
・中筒男命:なかつつのおのみこと
・底筒男命:そこつつのおのみこと
と息長足姫命:おきながたらしひめのみこと(神功皇后:じんぐうこうごう)、それと武内宿禰(たけのうちのすくね)
が主祭神です。

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境内社(神社境内にある小さな祠)の諏訪社がありました。

 住吉三神は神話では、イザナギノミコトが黄泉の国に入ったイザナミノミコトを引き戻そうとして失敗。そのあと黄泉の国を洗い清める禊をおこなったときに誕生したとかで、水面で表筒男命、水中で中筒男命、水の底近くで底筒男命が誕生したそうです。

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 境内におみくじがありました。

 また一緒に祀られている神功皇后は、14代の仲哀天皇の時代の皇后。最初に天皇が住吉三神から神託を受けました。ところがこれに天皇は疑問に思います。すると祟り殺されてしまいました。次に皇后に対して同様の神託をうけたので、そのまま言われる通り朝鮮半島に出兵して勝利したとあります。

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 本殿のすぐ横にあった「御大典記念遺玉垣」御大典とは天皇の即位礼と大嘗祭の二つの重要行事の意味があるそうです。
(いつのものかは確認できませんでした)

 ちなみに皇后といっしょに祀られている武内宿禰は、仲哀をふくめた5代の天皇に仕えたという伝説の人物。皇后とは天皇亡き後の反乱を鎮圧するのに活躍しました。
 彼の子孫には、蘇我氏など後に活躍する有力な豪族たちの名前が多数登場します。

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 本殿は囲まれているので中に入れません。柵の外から撮影してみました。この本殿は神功皇后が建立したという伝承があります。現在の建物は1813年のもの。このときに流造(ながれづくり)という神社建築様式を採用した僧です。

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 ここに馬の像が奉納されていますが、馬とこの神社とは深いかかわりがあります。毎年10月の体育の日(スポーツの日)に馬駆神事が行われます。これは朝鮮半島に出兵してそれに勝利した神功皇后の祝賀目的。裸馬の競争をしたことからこの神事が始まりました。
 当日は200メートルの馬場を駆け抜けます。

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 こちらが拝殿です。実は石灯篭があとふたつずつ左右にありました。
 ちなみに『住吉大社神代記』という住吉大社の秘蔵書では、かつての住吉大社の社領がこの辺りにも及んでいるほど広かったそうです。
 神饌田(しんせんでん)という神にささげられる田のある場所として「小山田」の名前があり、さらに小山田の南西にある「天野」と「高向 (現在花の文化園があるあたり)」という周辺地名が出ていることから、この小山田に住吉大社由来のものがあったことが伺えます。

 だから海から離れている場所なのに、海の神である住吉神を祀っているのがうなづけました。

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 本殿をもう一度撮影しました。

 一説には、この小山田丘陵から大阪湾が一望出来て、和歌山や瀬戸内から入ってくる船を監視できたという説もあります。
 また昔、明治・大正のころは「清崎神社」その前は「豊浦神社」という名前だったような記述もありました。そのさい住吉神社の名前になったのは戦後ともいわれています。(ただ後ろにある由緒での記載とは食い違っている)

 調べると色々な情報が出てくるので面白いですね。

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 これは本殿の左側にありました。拡大すると「足立」の字が奉納したようですが、それ以上の情報がなく良くわかりません。


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 手水舎の手水鉢がありました。今回は正面の入り口ではない方向(裏口?)から入ってきたので、本殿や拝殿よりも後から見つかりました。

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 これは土蔵ですが、その横には神社らしからぬものを見つけました。

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 こちら、鐘楼です。鐘楼は神社ではなく寺院にありそうなものですが、明治以前の神仏が混合していたころの名残でしょうか。

 そして実際に五社大明神である、薬師、阿弥陀、大日、観音、地蔵を祀っていた記録があります。これらの大明神は、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩ですから仏教も祀られていた。鐘楼はやはりその名残というのがわかります。

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 こちらが神社の正面入り口だったようです。丘の下から階段を上って神社に到達したのでしょう。
 このままこの階段を降りようと思いましたが、方向が大きく異なるところに出るようだったので、降りるのは断念しました。

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 代わりに正面入り口の鳥居を撮影。その奥に拝殿が見えることからここが正面入り口と言うのがわかります。

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神社の由緒が描かれています。ちょっと読みにくいのでわかる範囲で文字お越しをしてみました。

由緒
当神社は小山田の東南尾上山の丘陵に鎮座し、神功皇后三韓討伐のとき、深く三神に祈願ありて凱旋の後、天下を巡行せられし時、和泉の国逆瀬川の上に騰跎船と云うところに御着き遊ばされ、それより河内の国に行幸せらし時、弓を射てこの矢の落ちたる処を着御の地を御定めになり、その時その國境いに、名主興三五郎と云う者御迎へに出て御光尊申し上げ当神社の南方高天原に御着き遊ばされ給ヘリ
それより摂政五十二年此の地に斎宮を建立せられ給う三月壬朔皇后吉日を選びて斎宮に入り、自ら神主となりて御祭祀され●う最し多くの歴史をもつ尊い宮なり
文化中酉●十二月吉祥日に本殿を建て替す南来住吉大明神と称へ来たりしも、明治の初め今の名称に改めらる。明治五年五月郷社に列す
明治四十年一月二十八日大阪府告第十六号を以て同三十九年四月勅命令第九十六号により神饌幣帛供進社に指定さる


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 また正面入り口から下に降りたところにある小山田の集落の中に小山田元宮というのがあるようです。このときはそこまで足を運べませんでしたが、機会あればそちらも見ておきたいですね。


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 こちらは絵馬殿と言われるもの。
 それにしてもなかなか見ごたえのある丘の上の住吉神社。十月の神事のときにはぜひ行きたいところです。

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 住宅地の造成も増えていますが、神社の神域のためか、まだこういう昔ながらの原生林のようなものが残っているところがありました。

小山田住吉神社

住吉神社
大阪府河内長野市小山田町453
0721-52-5345
9:00~17:00
交通アクセス:南海高野線千代田駅下車。南海バス緑ヶ丘線「緑ヶ丘北町行き(20系統)」に乗車してバス停「神社前」または「福祉センターあかみね」下車。

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