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先日こちらの河南町にある馬場地蔵を紹介したときのこと。

「太子町の泥掛地蔵と並び有名なお地蔵さんで」いう口コミを見つけました。このときから泥掛地蔵にも行こうと思っていましたが、太子町にあるので、中々行く機会がありません。

しかし、先日泥掛地蔵のすぐ近くにある次の場所に行く機会がありました。

ということで、泥掛地蔵にも行ってきました。

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土とかけ地蔵は太子町の西側、太子交差点より一本東側にあります。

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こちらが泥掛地蔵、大きな提灯が特徴的です。また一辺5、6m四方の大きさがある地蔵堂で、南河内地域でもひときわ大きいとか。

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この地蔵堂がいつからできたのか不明だそうですが、推古天皇の時代に創建されたという伝承があるほど古いもののらしいです。

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名前の由来ですが、地蔵堂の裏側(南側)にある池の泥を地蔵像に塗り付けて祈願すると願いが叶えられるからそのようにつけられたとか。その池とは後ろに見えるフェンスに囲まれた小さなものだそうです。

ただし第二次大戦後には泥を塗らずに祈願するようになったとかで、名前だけは泥掛地蔵堂として残されています。

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また太子町には泥掛地蔵に伝わる民話が残っています。それを引用しましょう。

むかし、喜志村に幼いこどもと母親が住んでいました。母親は、こどものほほにできた大きな腫物を治してもらおうと、蓮池のお地蔵様に毎日お参りしていました。百日目の満願の日、急に眠気におそわれた母親は、地蔵堂の前で眠りこんでしまいました。その夢の中にお地蔵様が現れ、「こども想いの母親よ、そなたの願いをかなえてやるかわりに、裏の蓮池の泥を私に塗ってくれぬか?」と告げました。眠りから覚めた母親は、お地蔵様に言われた通り、蓮池の泥をお地蔵様に塗り、帰宅しました。するとどうでしょう、こどもの腫物はすっかり治っていたそうです。

ここで出てくる喜志村とは富田林市の一部になっているところで、この地蔵堂のある所からはすぐ近くです。

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地蔵は北向きを向いているそうで、それは珍しいとのこと。また正面だと距離がありますが、じつは横からは地蔵のすぐ間近まで行けるそうで、かつて泥を地蔵にかけていたころの名残になっています。

また地蔵はその形から室町末期の建立との情報があります。

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こちらには「大峯山三拾三度」の碑が立っていました。

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すぐ横に自転車がありますが、管理をしている人でしょうか?

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ということで泥掛地蔵を見てきました。西の口町内会と書いているので、この町内会の人が管理をしているものと思われます。アクセスは近鉄喜志駅からバスにのり太子四つ辻バス停から東に歩けばあります。

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