下赤坂城跡 本丸と石碑まで南北に歩いて見学
今日はこちらの記事です。鎌倉時代末期から南北朝時代に南河内で活躍した楠木正成が考案したとされる楠公飯を作ったという内容。
この楠公飯は城にこもる際に食べられたと考えられるので、上の記事では富田林と河内長野にある城跡を紹介して終わりましたが、それとは別に千早赤阪村にも下赤坂城跡があるのでそちらを紹介しましょう。
北側からののぼり道。
空き家ですが、もう朽ちるのが時間の問題のような状態。
木々で覆われたトンネルの先は、夏場らしく暑かったです。
すぐ左側には車の通る道も並行していますが、その間には結構な段差になっており、途中でその道路に行けなくなっています。
やがて小高い丘のようになっていて、城跡のようです。しかしここは個人の人が所有している田畑になっていて上がれません。
説明書きがありました。引用してみましょう。
赤坂城軍事(アカサカノシロイクサノコト) 楠木兵法(クスノキヘイホウ) 其之壱(ソノイチ)
甲取の急な坂に竹の皮を流して寄手(敵)が転ぶところを鋒(キッサキ)を雙(ナラベ)て打(ウツ)て出(イデ)、手崎(テサキ)をまわして散々に矢で射って撃(ウ)ち退(シリゾ)ける。
太鼓をころがしその中に蜂の巣を入れ、寄手敵が壊すと蜂が飛び出して遮二無二襲いかかっるという奇策により戦意を失わせる。
城(シロ)の屛(ヘイ)は、もとより二重にて、外の屛(ヘイ)をば切て落とすように釣縄で取付たる仕掛けにて敵が屛に手を懸、同時に切て谷に転がり落ちてさわぐところ、すかさず大木・大石を抛懸々々(ナゲカケナゲカケ)打(ウチ)ける。
看板のすぐのところに下赤坂城本丸跡の石碑がありました。
近くには行けないので下から撮影するのみ。
当時のものかどうかわかりませんが、石垣のようなものが見えます。
城跡から下を見ます。ここは結構急なので、下から攻める敵を上から石などを落として倒すというのはなるほどと思いました。
東側には大和葛城山や金剛山が見えます。
こちらはもうひとつの石碑、赤坂城跡とあります。文献によって下赤坂城や赤坂城という表記に分かれています。この城跡の近くにある城の名前も上赤坂城あるいは楠木城と2種類の呼び方があるので、少しややこしいですね。
ここにはあずまやがあり休憩所になっています。
こちらの説明版も引用しましょう。
国史跡 赤阪城跡(下赤坂城跡)
標高185.7m、比高61.4m。金剛山地から延びる丘陵の自然地形を利用して築城された中世山城です。
この城は鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成(1294?~1336)によって築城されたといわれています。
元弘元年(1331)、鎌倉幕府討幕計画が発覚し後醍醐天皇が笠置山へ逃れました。正成はこれにあわせてこの地で挙兵し、
護良親王も当地に身を寄せたと伝えられています。幕府軍が攻め寄せてきた合戦の様子は『太平記』に記述されています。
しかし、にわか造りのため落城、正成は金剛山へと後退しました。
その後、元弘2年(1332)に正成は再起し、この城を奪還しました。ふたたびこの城は落城しますが、千早城での籠城の間に鎌倉幕府は滅亡しました。
城としての遺構は明確になっていませんが、千早赤阪村役場の上付近が主郭(本丸)であったといわれています。
昭和9年3月に国史跡に指定されました。
千早赤阪村教育委員会
道はもうしばらく南に歩いていく必要があり、ようやく駐車場のある所まで来れました。
今回はおおよそ下の地図ので赤い線を引いたように上から下に向かって歩きました。
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