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真っ白な手帳

オフィス。コーヒーブレイク。

マリコ部長(以下マ)「あー、疲れた」
みつき(以下み)「休み明け初日なのに?」
マ「三連休を利用して、コロナ禍以来初めて実家に帰ったのよ。車でひとっ走りしてきた」
み「お疲れでした」
ま「兄貴と老後について、いろいろ相談してきたの」

みつきの後輩で、マリコ部長の部下、エイコが何やら歌いながらやってきた。
エイコ(以下エ)「♪ 十五、十六、十七日とぉ〜私の連休ヒマだったぁ〜♪」(注)
み「ご機嫌ね」
エ「ご機嫌? どこがですか。この連休中、ヒマでヒマで、やることなくて若い身空を持て余してたんです」
み「マリコ部長、田舎に帰ってクタクタなんですってよ」
エ「あ、そういえば朝、職場の共有デスクに『上州銘菓 旅がらす』ってお菓子が置いてありましたけど、それですか」
マ「そうよ。兄がこの4月で65歳になって定年再雇用終了、年金生活に突入したっていうので、わたしもそろそろ定年が射程に入ってきたことだし、いろいろ教えてもらおうと思って久しぶりに行ってきたのよ」
み「どうでした?」
マ「やることはそんなにないよ、だって。健康保険と妻の年金の切り替え、失業保険申請で、何回か役所に行ったそうだけど。役所に出向くのは億劫ではない。カネはないけど暇ならいくらでもある、あと残っているのはマイナンバーカードの返上だけだって、なぜか胸張ってた」
エ「新しい仕事は?」
マ「しないって。子どもも独立してるし、夫婦二人なら年金だけでなんとかやっていけるって妻に言われたって。
これからは『足るを知る生活』だ。新しい服はもう一生要らない。もう欲しいものも思いつかない。ときどき本を買って、映画を観るぐらいだ、ですって。
老後貯蓄2000万円なんて、平民を死ぬまで働かせるための政府の恫喝なんだそうよ」
み「仕事しないってことは、どうやって時間つぶしてるのかしら?」

マリコ部長によると、お兄さんのリタイア後の日常はこんな風でした。
お兄さん「妻から『まさか一日中、家に引きこもるつもりじゃないでしょうね』って牽制されたので、必ず外には出るようにしている。でも、人出の多い土日祭日は出歩かない。
朝五時過ぎには目が覚めるので、まずジョギングに出かける。
日中は、近くの図書館や本屋・ブックオフで過ごす。ときどき食材の買い出し、庭の草むしり、妻と映画館にも行くよ。録画した映画、ネトフリのドラマを観る。昼寝も習慣になっちゃった。
夜は、新聞に毎日掲載されている数独を解いてから、眠くなるまでベッドで読書。たいてい午後十時前後には寝落ちする。
あっという間に一日が終わっちゃう。
仕事の予定が書き込んでない真っ白な手帳を眺めると清々(すがすが)しい気持ちになる。
強欲貪欲業突張りで欲深欲得我利我利亡者なハゲタカ資本主義経済の発展・成長・拡大に奉仕させられる苦役から解放されてせいせいした。
電車に乗らない・人混みを歩かないで済む生活、風の吹くまま気の向くままの生活って、ストレスフリーでワンダフル! 」
マリコ「そういえば退職前に、近くの公園でキャッチボール屋を始める、って言っていたけど、やってるの?」
お兄さん「あー、あれは挫折した。公園に出かけて、勇気を振るって「10分100円」て書いた段ボールて掲げてたんだが、不審の目を向けられるだけで誰も寄ってこない。やってきたのは公園の管理者のオヤジだけ。『ここは商売禁止です』。
マリコ「ぷぷ」
お兄さん「ま、人生そんなもんだ。それはそうと、『老後の人生再設計』だの『こんな症状は重病のサイン』だの『死ぬまでセッ⚫️ス』だのだの、週刊誌が書きたてる老人向け特集はなんだ! なんで定年後まで、あれこれ生き方を指図されにゃならん、健康なんてなるようにしかならん、アッチ方面だってもう赤い玉がポトリと落ちて朝勃ちもほとんどない身には大きなお世話だ!」

マ「なんて、最後は興奮してどーでもいいことまでしゃべってんのよ、まったく。
なんでも、これまで時間とカネを搾取されてきたんだから、余生はぐうたらを貫いてグリードでブルシットな資本屋、傲慢で酷薄な国家に貢献しない生き方を貫徹する。寝そべって暮らしてやる、って息巻いていたわ。
本当は『朝起きて夜寝るまでは昼寝して時々起きて居眠りをする』ネコみたいな生活が理想なんだが、妻の目もあるから、現状で満足せねばな、だってさ。どこまで怠け者なんだろ。
ちなみに家事は分担してるそうよ。そこだけは偉い、って褒めておいた」
み「お兄さんってユニークですね。でも、お兄さんみたいな生活志向、若者の間で増えているみたいですよ。いま、大学生の間では『だめライフ』ってのが流行っていて、全国の大学に愛好会ができてるんですって。
ノルマだ、残業だ、過労死するまで低賃金で働けっていう新自由主義社会にうんざりしてるんだと思いますよ」
マ「へえ、そうなんだ」
エ「でも、本当に年金だけで暮らしていけるのかしら」
マ「義姉がしっかり者だからね。銀行に勤めていたっていうし、お金の管理は完璧でしょ。まあ、似た者夫婦というか、二人してシンプルライフ・イズ・マイウェイなんてピーター・フォンダみたいなこと言ってたわよ。
それに、いよいよ食い詰めたら、日本には『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』(憲法)を保証するセーフティーネット、生活保護制度がある、厚労省も申請は権利です、と言っている。さすが世界に冠たる大日本様様だ! なんてガハガハ笑っていた」

エ「まさに毎日が日曜日。うらやましいなあ。好きなように過ごせる、好きなことしかしない。ヒマっていいですね!」
み「あら、あなた、さっきヒマ、持て余してるって言ってなかった?」
エ「え、はい……。でもお兄さんの話を聞いて、考えを改めました。ぐうたら最高、寝そべり上等じゃないですか。じゃ、早速、休憩室でお昼寝してきますね」
マ「こら。これからクライアントと打ち合わせでしょ、そろそろ出ないと間に合わないんじゃないの?」
エ「あー、そうだった。じゃあ、打ち合わせの後は直帰しますんで、よろぴく〜」
エイコったら、ピューとその場から消えちゃったんです。

み「あ、行っちゃった」
マ「やれやれ。困ったもんだ。あ、整っちゃいました。エイコの逃げ足とかけて武田信玄ととく」
み「その心は」
マ「疾(はや)きこと風の如し」
み「まさに! そのとーり」

(注)2023年7月の三連休
※参考:
藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」(1970)
小説「生殖記」(朝井リョウ、東京新聞夕刊連載=2022年8月〜2023年7月、全252回)

みつきが疼き、エイコが悶え、マリコ部長が乱れる「みつきの微笑みがえし」はこちらから。R18です。読んでね。

https://note.com/minamihanashima/m/ma94ecd063805

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