見出し画像

なあ。大切なのは、月が何色なのかじゃなく、何色に見えたのかじゃないか?


「私たちは家族なんだから」

一見、優しいコトバに見える。辛いときに一言、そう声をかけられると、凍える寒さのなかで飲むホットコーヒーのように、胸の奥がじんわりと暖かくなりそうなものだ。だけど、様々な状況を想像してみると、そうでもないことが分かってくる。

働きもしない父親にお金をせびられたとき。個のわがままでしかない意見を血の繋がりを武器に押し通されたとき。自分が原因でもない親族の責任をなすり付けられたとき。

そんなときに「家族なんだから」と言われたらどうだろう。ふざけんなよとなるのが一般的ではないだろうか。思わず「ちょ、待てよ」とキムタクのようになってしまうひともいるのではないか。

でも、だからと言って強く言い返すこともできない。だって、家族なんだから。と、感じてしまうのも同時に一般的な気がする。

そんなひとに今日は一言いいたい。

それ、洗脳だよと。


家族だからと言って、何もかもを分け与えなければいけない絶対のルールなんてない。にも関わらず、家族との繋がりに苦しむ。

それは、家族とは、どんなときも助け合うのが普通で、良い家族とはそういうものなんだと、まるで安っぽいホームドラマの家族のように、自分もあらなければいけないと、何となくの世間の風潮に洗脳されているからだ。

「家族なんだから」は、決して暖かいコトバではない。ひとを苦しみの磔台へ縛りつける、呪いのコトバでもあるのだ。ヴォルデモートの再来と言っても過言ではない。アバダ・ケダブラなのだ。

だから、もしそんなコトバを投げかけられたときは、守護霊を呼び出し相手を蹴散らすか、ふーんと鼻くそでもほじりながら二度寝でもすることをオススメする。



…という文章を読んだ今、あなたは何を思っただろうか。共感してくれたひともいるかもしれない。でも、お前は家族をなんだと思っているんだ。そんなもの、状況次第で事態はひっくり返るじゃないかと、怒りがこみ上げたひともいるのではないか。

いつもは前者のような、共感を求めて何かを書くことが多いぼくだけど、今回は後者のようなひとたちが増えるように書いてみた。何故そんなことをしたのか。

今日は、実は家族がどうのこうのじゃなく、文章を読むという、「インプット」について少し話してみたかったからだ。

何かをインプットするとき、その情報が正しいのか正しくないのかは、あまり重要ではない。

先日、インプットとはそんなことも多いのではないかとふと思った。そもそも、殆どのことはゼロかヒャクで割り切れるようなものじゃない。また、そこには大きな個人差があって自然。そう強く感じたのだ。

では、インプットするうえで大切なのは何なのか。情報のなかに、「気づき」があるのか否か。というのが、最終的にぼくが導き出した回答だ。

先で述べた「家族なんだから」は呪い理論。それに賛同するも反対するも個人の自由。重要なのはそこじゃない。その文章のなかに、読み手にとっての新たな気づきが存在したのか。そこが重要なのだ。

そうか。そんな考え方もあるのか。ということはこんな考え方や、あんな考え方もできるということか。あれ、そしたらひょっとすると…と、新しい思考に結びつくキッカケの有無が重要なのだ。

どんなに小さな発見でもいい。それがあったのであれば、そのインプットは自分の人生に活かせる。あるいは、自分を深めるために一役かう。インプットで大切なのは、そんな視点じゃないだろうか。という話をしたくて、今回はわざわざヘンテコな理論をもちだした次第です。



序盤の物言いにイラッとしたひともいるかもしれない。それは素直に謝ります。ごめんね。

ハリーポッターを見たことのないひとには、全く伝わらない例え話も配慮がたらなかったよね。でも、それは謝りません(あんなに偉大な作品を見ていないあなたにも責任があるとぼくは考える!)。

インプットの本質はそこじゃない。その可能性の有無を伝えたかったから、どうしてもキツイ言い回しになってしまったとこもあるけれど、その辺りはどうか、あなた様の寛容なこころで、どうかやさしく受け止めてください。



大切なのは、月が何色なのかじゃなく、何色に見えたのか。

あなたもそう思わないか?

もし少しでも思ったのなら、今日はぼくの勝ちにしていい?

逆に今のあなたに何も残っていないなら、ぼくの大敗…ということにはしないけどね。

へへへッ。



我に缶ビールを。