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左肘から先のないジジイと、黒マッチョなジジイの生き様に教わったこと



ぼくの家の近所に、とある公園がある。

公園の中央には、タコの形をした滑り台が「我、覇者ナリ」と言わんばかりに踏ん反り返っている。故にその公園はタコ公園と呼ばれ、ぼくが子どもの頃から今に至るまで、町の人々からずっと親しまれている。

そこにいつも、天気がいい日はほぼ毎日居るといっても過言ではない、ひとりのジジイがいた。はじめてそのジジイを見たのは、娘が2〜3歳のとき。だからもう7年ほどまえのことになる。

黒のキャップに黒のマッチョタンク、マラソンランナーのような短いズボンというのがジジイの基本コーディネート。

体格はジジイのくせに筋肉質で、恰幅がいいというよりはガタイが良く、AV男優のように黒く焼けた肌が、より一層、そのジジイが並のジジイではないことを怪しげに演出していた。

ジジイはひとりでタコ公園にやってくる。孫を連れてやってくるとかではなく、いつも己の黒マッチョひとつで、ジジイはタコ公園にやってくる。

だからといって、ジジイ自身が遊具で遊ぶわけでもない。いつ来てもジジイはただ、公園の隅のベンチでずっと公園を眺めている。もちろん誰に頼まれたわけでもないし、お金が稼げるわけでもない。でも、それがジジイの毎日の仕事だった。

そしてそれは凄く怪訝なこととして、ぼくの目に映っていた。



※※※



先日、通天閣という本を読んだ。西加奈子さんが2006年に出版された本だ。

大阪を舞台に書かれた本作は、絵に描いたような主人公とか、小説っぽい煌びやかで華のある人物は基本的に登場しない。それどころか、世間的に言えば完全にダメな奴や社会的弱者が主なスターティングメンバーだ。

最終的にはそのみんなが歯を食いしばって努力して這い上がって、大きな成功をつかみ取るというハッピーエンドな結末が用意されている、というわけでもない。

本書の根底にはいつだって絶望がある。だけど、その中に微かな幸せも確実に存在している。その幸せは絶望と比べると、全く持って割りに合わないほど小さい。でも、それが素敵なことのように思えたし、そんな世界観にぼくは率直に惹かれた。

そんな通天閣には強烈な人物が沢山登場する。(例えば、スパンコールのドレスを着たオカマ、完全に客をぼったくるクラブのオーナー、イカした台車を取り合うおっさんなど)

その中でもぼくが特に惹かれたのは、見るからに汚く、そして左肘から先がない一人のジジイだった。

ジジイは通天閣付近にあるタクシー乗り場前のガードレールで一日中立っている。そこで何をしているのかというと、一番前のタクシーが出発して、二番目に並んでいるタクシーの運転手がそれに気付いていないとき、「前、空いてまっせ。」と教えてあげる、ということをしている。左肘から先のないジジイは、ただそれだけのために、ずっとそこに立っているのだ。

もはや混沌という概念側からも首をかしげられそうなカオスを、ジジイは誰に頼まれたわけでもなく毎日こなす。お金を貰えるわけでもない。それでもジジイは何があろうと、タクシー乗り場の一番前の駐車空間を迅速に埋める作業に、一日の大半をぶち込んでいるのだ。

さすがのイカれ具合いにぼくは爆笑した。同時に大阪出身であるぼくは(今も大阪だけど)、あの辺りやったらそんなおっさんおりそうやなぁと、身に覚えはないけれど身に覚えがあるような感触を覚えた。

しかし、ふとこうも思った。「ジジイのような何があろうとやりたいことなんて、今の自分にはあるのだろうか?」と。

ジジイは何があろうと、それこそ人の生死に関わる事態が隣で起きていようと、自分の仕事を全うする。確実に普通ではない。というより、二億パーセント変態だ。

でもジジイのように、それほど大切にしているものがあるひとって、今の世の中、自分も含めそう多くはない気がしたのだ。

ジジイにとって通天閣のタクシー乗り場は自分の居場所であり、誰が得するのかいまいち分からない交通整理も、ジジイにとっては何よりも大切なこと。つまり、ジジイにとってのアイデンティティなのだ。

やりたいこともない、好きなこともない、そんな鬱々とした感情をマスクの下の自分の、さらに深いところで隠し持つひとがたくさんいる今、このジジイの生き方には、何かしら教わることがあるように思う。

だってジジイは、他でもない自分の人生を、これでもかというほど、左肘から先のないその体で、全力で生きているのだから。



※※※



ぼくの家の近所に、とある公園がある。

そこにはいつも、マッチョタンクからAV男優のような黒い肌をチラつかせた、ガタイのいいジジイがいる。

そのジジイは何をするわけでもなく、ただ公園をぼーっと眺めている。

正直、それが気持ち悪かった。でも通天閣のジジイを知った今、あのジジイも、それが自分にとってのアイデンティティなのかもしれない。そう考えると、ぼくのような宙ぶらりん人間よりよっぽど今を生きていて、それは同時に、とてもカッコいいことのように思えたのだった。



ちなみに黒マッチョジジイはタコ公園だけじゃなく、近くの違う公園にも出現する。公園から公園をハシゴするジジイ。全くもって理解できないが、飲み屋を渡り歩くより、よっぽど健康的なのは確かである。

左肘から先のないジジイと、黒マッチョなジジイ。

ぼくにはまだこの二人に勝る「生きる上でこれだけは譲れない」というものがない。いや、家族がそれに当たるのだろうか。

今晩酒でも飲みながら、少し考えてみよう。




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