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余白のある心が豊かさなんだとテノールな妻に教えられた話


「ん〜!空気がおいしい〜!良い天気~♪」

ベランダに洗濯物を干そうと窓を開けた妻は言った。

妻の声につられ、ぼくも外を覗いてみる。そこには透き通った青色の空が広がっていた。

そりゃあ妻もテノール歌手みたいな声で、ひとりごちてしまうわな。そんな景色が、我が家のベランダから大気圏の彼方に向け、永遠とつづいていた。

妻は昔から、感じたことをそのまま口にする性格だ。

良い風が吹けば「気持ちいい風~!」と笑う。雨が降れば「この雨うざいわ〜」と機嫌を損ねる。真っ赤な夕日を見れば、「キレイやなぁ」とたそがれる。

それって、とても良いことだよなと、ふと思った。

目まぐるしく流れる日々。その体感度合いは、何事も高速でまわる今の時代、より強く感じさせられる気がする。そんななか、目にしたモノ、感じたことにいちいち立ち止まり、ゆっくりと味わうように今を刻む。

それって、とても良いことだよなと。


こころに、あるいは物理的に余裕がないとき、ぼくたちは大抵の場合、そんなことを感じることもなく日々を終えていく。

自分のタスクをこなすことに精いっぱいで、極端に狭くなった視野でしかモノを見れなくなってしまう。

素晴らしい景色が目のまえに広がっていようが、いい風が吹き抜けようが、そんなことに気づくことすらできなくなってしまう。

それは、とても乏しいことなのかしれないなぁと、洗濯物をルンルンと干す妻を見ながらぼくは思った。

であるなら、豊かとは何なのだろう。

そもそも豊かとは、〇〇が豊かとか、豊かな〇〇というコトバだから、豊かとは何だ?という問いかけ自体、幅が広すぎてうまく捉えることができそうにないが、それでも何かを答えなきゃならないのだとしたら、ぼくは何て言うのだろう。

大金持ちになること。知識が豊富なこと。時間にゆとりがあること。どれも正解な気がする。しかし、どれもが何かたりない。そんな気もする。

いろいろな意見があたまのなかで喧嘩をはじめた。が、一向に答えはでなかった。そのことに疲れたぼくは、ひとまず考えることを辞めた。そして、ベランダで洗濯物を干す妻を見るともなく、また眺めた。

そのとき、ふと閃いた。

妻のように、何気ない些細なことにでも気づくことができる。そして、そのことに何かを感じとることができる。そんな、妻のようなひとが、豊かだと言えるのではないか。

こころに余裕がないぼくたちのたどる日々は先ほど書いた通りだ。であるなら、その逆がまるまる豊かさというのではないだろうか。

物事の良し悪しに関わらず、何事にも何かを感じられるだけの余裕をもったこころ。それが、豊かの正体ではないかと、ぼくはそんな気がしたのだった。



感じたこと、見たことに何かを思えるのは、簡単なようで、実はそうではない。追われるように仕事をこなす、勤勉な国民性があるぼくたち日本人にとっては特にかもしれない。

しかし、難しいからといって諦めるには、あまりにも惜しいモノでもある。何を感じることもない生活。何を思うこともない日々。そんな無味無臭の人生に、ぼくたちは何の用もないのだから。


こころがいっぱいいっぱいのとき、ぼくたちは素晴らしいものに素晴らしいと思うことができない。それどころか、世界をうまく眺めることすらできない。

しかし、それは言い換えると、こころに何かを入れられる余白さえつくっておけば、ひとは誰もが豊かになれる、ということでもある。

それが豊かに対しての正解なのかは分からない。だけれど、少なくとも豊かに近い何かには繋がっている、そんな気がした午後の休日。

ベランダには、テノールな妻が干した洗濯物が、陽気な光に照らされ、ひらひらと楽しそうに踊っていた。

我に缶ビールを。