見出し画像

【short suspense】 BGMピアニスト beat1

 照明がトーンダウンする時間になり、ディナーの皿が行き交いはじめた。フロアには四角い木目のテーブルが並んでいる。椅子は各二脚、隣り合った側面に置かれていた。相手と斜めに腰掛けるスタイルだ。天井は、高い。籐でできた風変わりなランプが、形はばらばら、長短さまざまにぶら下がっている。だだっ広いフロアのどこ一つとっても、同じ雰囲気の席はない。
 入り口のちょうど対角線上に、ヤマハのアップライトピアノがある。私は、その鍵盤に両手を置いている。フロアを見渡しながら、その日の音の反響具合を確かめるのだ。一段高くなった正方形のスペースの上。ピアノはいまにもはみ出そうで、ここはとてもステージには見えない。この中途半端な四角は、もとは何のために作られたのだろうか。誰かが立って歌うため? 
 白鍵を軽く叩くと、少し重い気がした。背もたれのある椅子に浅く腰掛け、右足をペダルに添える。和音を押さえると、何とも哀しげなコード音がフロアを包んだ。食事にとりかかったお客たちが、こちらを振り向く。私は真直ぐ前を向いたまま、ペダルから足を離した。料理の香りに、腹が鳴った。でも早く弾きたい。まかないは、後だ。
 弱音ペダルを踏み直し、小さく小さく、音をパラリと確かめた。だんだん、人々の談笑する声が大きくなり、ピアノの音はかき消されそうになる。このくらいが丁度よい。丁度よいのだ。

 何でも好きな曲を弾いていい、というのはとてつもない魅力だった。毎晩、セットリストを決めずにここへ座る。いったん鍵盤の上に手を置くと、先ほどまでの空腹も、お客の視線の居心地悪さもすっかり吹き飛び、気づくと二時間はあっという間に過ぎ去るのだった。
 たまに、それをシャットアウトされることもある(ストップの合図に、ピアノの上に置かれた陶器のベルが鳴るようになっている)。目を開けると、バースデーソングをリクエストされているわけだ。フロアの向こう側に、サプライズを仕掛けたお客の期待のこもった目。こちらと目が合う。そういうときは、すぐに目をそらす。そして、スティービー・ワンダーのハッピーバースデーを、過度な装飾音でアレンジして弾くことにしている。

 本日はたいへん混雑していて、気がつくと、いつもは空席のままになりがちな、「ピアノのすぐ横」の席にもやって来る人影があった。少し緊張気味でジャケットの片方の襟が折れている青年と、ニット帽を深く被り、しきりに洟をすすっている、高校生にも見える少女が、座った。ともあれ、私は今日、どうしても、ベートーベンの「月光」を弾きたかった。外は下弦の月で、月明かりなどない。でも、家を出て、大通りへ曲がったときに風が吹いてきて、あぁ、月光が弾きたいなぁ、と珍しく清々しく思ったのだ。しかし、このカップルの真横で弾くのは、少々はばかられる。なぜなら、ちらりと見ると、二人とも、とても神妙な面持ちをしていたからだ。これから素敵なディナーだというのに、だ。別れ話でもするのだろうか。記念に最後に、あのお店で食事でもしようよ、ということなのだろうか。
 私は両手、十本の指を、きれいに卵型にまるめて鍵盤に置いた。息を吸って、弾き始める体勢に入る。が、弱音ペダルで押しとどめてしまった。だめだ。はしゃいでいるお客たちを尻目に、悲しみに満ちた曲を弾くことは、幾度となくやってきた。オーナーに、もっと選曲を考慮しろ、といくら言われても、つい。しかし、悲しげな人たちの横で神妙に目を閉じてハ短調の月光を弾くなんて。・・・・・・笑ってしまう。

「ピアノだ。わたしタランテラだけは弾けるんだ」
 しゃくりあげながら、少女の鼻声がそう言った。青年は少女の顔を覗き込んだ。
「なに? タランチュラ?」

〈 つづく 〉

#小説 #散文 #短編 #BGM #ピアノ #月光 #タランテラ #連載

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?