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社長夫人もいろいろ。

夫の会社が10期目に入った。面白い人たちが次々に集まり、国内外の拠点は4箇所となり、取り組む案件の規模も徐々に大きくなっている。

ベンチャーの9割は創立から10年以内に倒産するという話もあるし(諸説あるのでホントかどうか怪しいけど)、素直に大したもんだなぁと思う。そして同時に、高い志で一緒に走り続けてくれる仲間たちに心から感謝している。ありがたや。なむなむ。

私はというと、夫の会社に入って2年半、“社長夫人”ってどんなキャラ設定でいけば良いのかわからず迷走しつづけ、現時点では「ども、社長夫人でーっす」的な軽さで(そんなこと言ったことないが)、ペラペラと言いたいことを言い、基本リモート・時々オフィスに現れるせわしない人、というポジションに収まっている気がする。

かつて私の中の社長夫人は、夫を黙ってさりげなく支え、気が利いて、上品で、自宅でサロンとか経営しちゃうイメージだった。

しかし実際は、気に入らなければいつでもバトるし、気が利かない自分に凹むし、下品な企画案に爆笑するし、自宅では子供を追いかけ大飯を食らうだけである。

思ってたのと違う。イメージはまぼろしだった。

まぁそんなドラマに出てきそうな社長夫人なんて大企業の話だろうとも思うけど。・・・いや、たとえ会社が大きくなっても私はああはなれまい。オホホホって笑えないしね。しょうがない。これはこれで良いのだ。

2020年、受容の年

とはいえ、これで良いのだなんて思えるようになったのは、実は今年になってから。

思えば去年の今ごろは、私の存在意義は?どこまで経営に口を出す?内助の功ってムカつく言葉だな!家事の分担不公平じゃない?などなど、引っかかるポイントを解決する突破口を見つけられずちょっとイライラしていた。

一方で周囲には、めったに飲み会に行かない夫/定時退社で夕方の忙しい時間帯を力合わせて乗り越える夫婦/ほどよい距離に実家がある家族/たまのワンオペを万全の協力体制で臨むワーママなど、“現代の普通”になりつつある人たちが増えていて。

そういうのを、羨むのとはちょっと違う複雑な気持ちで眺めつつも、まぁ夫もめちゃくちゃ忙しいけど家のことも頑張っているのは感じる(←ここ、夫5年越しの成長)ので、なるべく文句は言うまいと過ごしてきたわけだ。

そんな中ふと、なんのきっかけもなく、

「そういえば夫は“社長”だった」と思いだした。そしてこう考えた。

飲み会=ビジネスチャンス。ここで1000万の仕事につながるかもしれない。仮に私がキレて飲み会なんて行かずに子守を手伝えと言ったら、その子守に1000万の価値はあるだろうか?

残業=会社を前進させる時間。新たな企画がまとまって500万の利益が生まれるかもしれない。その利益は社員の給料やオフィス家賃に変わる。仮に私がキレて夕飯作れと言ったら、その夕飯で社員に給料を払えるのだろうか?

つまり、パートナーが社長だった場合、あらゆる“普通”は通用しないのかもしれないと、(超いまさら)気づいたのだ。

そして、私のやっているあれこれはその1000万を生むシステムの一環として機能していると考えると、あら不思議、自分の存在にも意味はあるし、周りもそれほど気にならない。

結果、本当の意味で「我が家は今のところこれで良いのかも」と現状を認めることができ、2020年はいわば“受容”の年となったように思う。そして受容したことで余計な邪念が減り、目の前の仕事を純粋に楽しめるようになった。

念のために触れておくと、これは性別役割分業に甘んじようという話ではない。妻が社長ならこの逆のことが必要になるし、現に(引き合いに出すにはビッグすぎる気もするが)アメリカの次期副大統領ハリス氏の夫は法律家の職を辞して妻の協力をするようだ。そのくらい会社を経営するということは異常事態なのだと思うし、社長なんて変人しかやらないと言われるけど、本当にその通りだと思う(笑)。私は死んでもやらん。

大晦日についまたダラダラと持論を書いてしまった。2020年はパニック映画の中を生きているような、現実感のない一年だった。でも、どうにもならない不安の中でこそ、今の自分を認め受け入れないと前に進めないんじゃないかなぁ。受容なき理想はきっと、足元がグラつく、ないものねだり。

「これで良いのだ」

まさか一年の最後に思い出すものがバカボンのパパになるとは。彼は偉大だ。ちなみに定職についていないらしい。

2021年はさらに大きな変化の年になりそうです。今年一年、皆さま本当にお世話になりました。感謝をこめて。良いお年を!

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