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純粋理性批判の翻訳 ちょっと出しその1

 純粋理性批判の翻訳の進捗が芳しくないので、最初の方をちょっと出し。

免責事項(言い訳)

 私は哲学科の出身でも、ドイツ語の教育を受けたこともありません(工学部卒です。院は途中でドロップアウト)。完全な素人の独学です。なので、誤解や誤訳が多々あると思われますが、お付き合いいただければ幸いです。なお、推敲はまだしていないのでご容赦ください。


Ⅰ.純粋認識と経験の違い

 (001)私達の全ての認識が経験から始まることは疑いようがない。認識能力は対象が働きかけてくる。部分的には結合させたり分離させる感覚が、結果的に私達の知力という生の素材から加工して体験にする。これが経験だろうか。つまり、時間で言えば経験よりも前に持つ知識は存在せず、経験から全てが始まるのだ。

 (002)しかし私達の認識の全てが経験から得るとは限らない。私達の経験的認識(明らかな原因)さえも、認識を通って受け取った化合物である。長い間の訓練によって注意深く分離させないと、この化合物は分離できない。

 (003)故に、この分野は研究が必要な謎がある。経験的認識から独立した認識は先天的な認識であり、経験的認識は後天的認識である。

 (004)しかし先天的という表現は明確ではない。経験の泉から派生される多くの認知は、こう揶揄される。大抵の規則は経験自身ではなく一般論が導き出すのだ、と。例えばある人が、家の礎を蝕もうと言うとする。彼はその実行結果を予想できるはずである。家が壊れるという経験を待たずして実際の状況を予想できるのだ。先天的に彼はこの結果を知ることはできなかった。物質には重さがある。支えがなければ物は落ちる。こういった事実を経験を通じて事前に知っていなければ予想をできなかったのだ。

 (005)従って我々が先天的な認識を論ずる時は、その人の体験に関わらない、独立した認識だと定義する。これに対比されるのが経験的認識、つまり後天的認識である。先天的認識の中でも経験的なモノが混ざっていない認識を純粋認識と呼ぶ。例えば、あらゆる変化は原因を持つという命題は先天的な命題であるが、純粋ではない。なぜなら、変化とは経験を通じて手に入る概念だからである。


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