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古泉 迦十『火蛾』の書評・レビュー

第17回メフィスト賞受賞作にして、長らく絶版となっていたもの。ノベルス版の発刊から23年、中古本が高価格で取引されている事情を鑑みて、そしておそらく著者の新作アナウンスも目的としての初文庫化、らしい。

新聞で紹介されているのを見かけて購入を決めた。読み終わってみて、「人によって合う・合わないがはっきり分かれそうだな」が正直な印象。それでも本好きならトライして損は無い。話の構成はシンプルだが、逃れ難い誘惑がある。


<あらすじ>

12世紀の中東。聖者の伝記を書こうとしている詩人ファリードは、とある教派の聖者の後継者がいると聞きつけ、≪山≫の上の穹盧(テント)を訪ねた。アリーと名乗るその人物は、同じく「アリー」という名の若い行者が経験した奇妙な物語を話し始める。
アリーの祖父はゾロアスター教を信仰しており、それに反発した父はイスラーム・シーア派に改宗する。父のもとで英才教育を受けて育ったアリーだったが、成長するにつれてシーア宗の教えに疑問を感じるようになる。やがて彼は家を飛び出し、厳しい鍛錬によって神の領域への到達を目指すスーフィズム(イスラーム神秘主義)の行者となった。

修行を始めて5年が経ち、アリーは師から聖地メッカへの巡礼を命じられる。過酷な旅を数ヶ月続けてメッカまで残り7里の場所に着いた時、アリーの前にラクダを連れた貧しい身なりの男が現れた。その男との出会いに導かれて、アリーは≪山≫へと連れて行かれ、導師ハラカーニーの教えを乞うことになる。
≪山≫には導師ハラカーニーと3人の弟子(カーシム・ホセイン・シャムウーン)が住んでいた。テントの中でひたすら神の名を唱えるアリー。夜になり、蝋燭をともしたテントの外にハラカーニーの影が立つ。長い問答の末、導師から「カーシムをたずねよ」と言われるアリーだが、翌朝カーシムの元へ行ってみると、彼はすでに殺されていて……。


<書評>

ミステリーに分類されているようだが、読み終えてみれば全くミステリーではない。これはイスラームの数ある教派でも異端中の異端といえるウワイス派の教義を、物語という形で視覚化したものであり、ウワイス派の聖者の系譜(代替わりの方法)を示唆するものだ。

文庫版の30ページ目にして、もう物語の方向性は見えている。行者の修行には7段階あって、第5段階は≪心との戦い(ムジャーハダ)≫。我欲や欺瞞が、虫けらや獣、ときには人の形をとって現れるという。聖地メッカを目の前にして、ふいに現れた男はアリーを足止めした。これは神へと至る道か、それとも悪魔のささやきか?
殺人事件は朝に起こるが、物語が動くのは夜である。茶褐色の粗末な蝋燭が燃えて、白い煙がテントの中に充満し、独特な香りが広がる。全てはウワイス派の教義に従うものであり、物語がそこから逸脱することはない。それなのに文体に隙がなく、読者を飽きさせない。アリーやファリードを酩酊させる蝋燭の香りは、読者までも夢見心地の状態へと連れて行こうとする。

アリーは果たして≪ムジャーハダ≫を突破することができたのだろうか。スーフィズムの視点で言えば、おそらく「彼は階段から足を踏み外して転落した」と見なされるのだと思う。なぜならアッラー=太陽だから。≪山≫に来たアリーは、太陽に照らされた灼熱の大地に“死”しか見ていない。彼は一般的な行者の到達点からはすべり落ちたのかもしれないが、その代わりにウワイス派の高みへとたどり着いた。
イスラームは偶像崇拝を禁止する。教派の教えは、師から弟子へと言葉によって受け継がれる。ところがウワイス派は、言葉=象徴=偶像だという。師のことは尊敬するが、師が話す言葉は厭わなければならない。その結果、すでに故人である聖者を師と呼び、誰からも直接の教えを受けないウワイス派のあり方が決定される。

蝋燭の炎の先に光ある世界が広がっていると信じて、蛾は火に向かって飛び込んでいく。何度も何度も繰り返しているうちに、やがて蛾は灼き尽くされる。それは無知ゆえの不幸か、あるいは無我の境地に至った最上の喜びなのか。
アリーはファリードのために語ることで、彼を後継者に指名して、自らは第6段階≪神への絶対信頼(タワツクル)≫に向かおうとした。その試みは失敗する。恐ろしく魅力的な高みへと上る手段を、ファリードはその手から落としてしまった。
もしかすると、まだ代替わりには早すぎる時期だったのかもしれない。いつかまた、≪山≫のふもとに適性のある男が訪ねてきたならば、アリーはその男を誘い込み、再び同じ物語を聞かせるのだろうか……。

あまりに魅惑的な体験をしたファリードは、その後どうなったのだろう。詩人である彼に対して、言葉=偶像(捨て去るべきもの)という価値観は強烈だったと考えられる。その衝撃は、しばらくのあいだ彼に筆を折らせるかもしれない。しかし、きっと彼はまた書くのだと思う。書くことがファリードにとっての「俗世に生きる」行為であり、聖地へと至る彼自身の道であるのだから。

アリーとファリード、どちらの道が正しいのかはわからない。ただ、この本を手にした読者もほんの一瞬、炎に包まれて燃え尽きる蛾の恍惚と、その高みに手が届かないことへの喪失を感じさせられる。そこには宗教というものが持つ深さと恐ろしさ、そして美しさがある。

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