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批評:卒業制作に見る「今日」 - 八戸工業大学感性デザイン学部

はじめに

新型コロナウィルスの感染拡大の初期、アーティストの多くがフリーランスであるため、人と人との接触の低減のために作品発表を取り止めること、つまりは仕事をする機会を喪失してしまうことに対し、その社会的かつ経済的な支援をめぐってさまざまな議論が起きた。この議論は、卒業制作等を発露する機会を失いかねない学生にとっても喫緊の問題である。
美術・デザイン系の大学では、卒業制作がその後の将来の活躍に影響を及ぼすことも少なくはないため、作品等を見ることのできる機会が減少するのは、5年〜10年程度の中期的な視点で、この1年の出来事はクリエイティブな業界や人材育成においては何らかの爪痕を残すのではないかと思われる。

しかしここに、批評することの意義が生まれる。

直接見ることが限られるのであれば、それを言葉に換えておかなければならない。
批評することは評価軸を策定することのみではなく、言葉ではないものを言葉に置き換え、情報として残していくことで、その作品があったという事実を社会に残すことになる。


<八戸工業大学 感性デザイン学部 卒業制作より一部作品を抜粋>

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視覚体験を通じた認識に関する研究
『展延する脆性的な日常』

髙橋祐賢

【概要】
本研究は、日常の光景、すなわち『光と影』による視覚体験を、映像インスタレーションを通じて再解釈し、私たちの日常に対する認識を揺さぶる作品を制作するものである。
新型コロナウィルスの感染拡大といった社会状況により、1 年前の日常と現在の日常は大きく変化してしまった。しかし、改めて日常について問いなおすと、私たちが固定観念的に捉えがちな平凡な日常も、実際にはささやかな変化が連続しているのであり、このような観念をいかに取り去ることができるかが、これからの時代の New Normal(新しい生活様式)に必要なことと考える。
これを踏まえ、連続的に変化し続ける日常をテーマに、視覚体験を伴う装置(インスタレーション)を制作し、鑑賞者が認識の脆さや可塑性、展延性について発見することをコンセプトとする。

via 八戸工業大学感性デザイン学部卒業制作・論文 2020-2021

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この作品は、スマートフォンによるライブストリーミングとPCのアプリケーションを介した簡易なプロジェクションマッピングを組み合わせた映像インスタレーションであり、作品に介在する鑑賞者の影を撮影しネット配信、それをプロジェクション、さらにそれを撮影...というループの中で、ネットを介するがゆえに生じる「ラグ」を利用し、たったひとつの時間のズレが多重にスクリーンに反映され続ける。
内と外を区分けるスクリーンが、今日の「日常」のメタファーであり、自己/他者、意識/無意識の境界で、同じことの繰り返しのようでいて少しずつ異なっていく「連続して変化し続ける日常」を表し、その認識について問題提起している。

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この1年、新型コロナウィルスの問題に対するアート的なアプローチは、インターネット状での発表の試みやディスカッションの場を生むなどして活発化していたように思うが、多くが、それ以前の発表の場をインターネットで代替しようとする試みや、この社会的な状況の「大変さ」を対話によって共有を行うにとどまっていた。
もしくは「マスク」のような、この社会事象を象徴するモチーフを作品の形象として扱うなど、アートが持つ一種の短絡的思考が浮き彫りにされる。
いかに重々しい社会事象や今日的な社会事象をモチーフとしていたとしても、形象としてのみ扱うだけの軽薄な態度はアートの質としての価値を持たない。
このことは東日本大震災に対する表現とも似ていて、津波や原発といった象徴的なモチーフの形象を扱う作品に懐疑的な眼差しを向けてしまうことに対し、被災地やその事象に関わる人々への抽象的なアプローチを重ねた作品の方が真に社会性を持った表現であると評価できることと同様である。
アートは時として、その含有する意味の広さから、社会事象をただ形象的にモチーフとする作品までもアートとして包括してしまうが、政治紛争、テロリズムの台頭や災害、そして今日の新型コロナウィルスの問題といった国際的な課題になればなるほど、それらを短絡的に、もしくは一視点的に扱う作品により、アートそのものが低い次元へと貶められてしまい、憂慮すべきことである。

この作品の背景として、作者の髙橋は2020年3月にタイへの渡航を予定していたが、新型コロナウィルスの感染拡大により断念せざるを得なかったことがあると言う。ただ旅行を断念した、というのであればよくある話だが、しかしこれまたよくある想像として、大学生の青年が新しい自分を見つけるため卒業前に海外へ行こうとお金を貯めてきたことを考えれば、惨憺たる無念な想いがあったことは想像に難くない。
が、この作品が前述のような今日の社会状況を短絡的に表す作品や活動と違うのは、テーマ、モチーフ、コンセプトといった思考区分において、段階的に、自己の個人的な体験に距離を置き、今日の社会状況の形象ではなく仕組みを俯瞰しようとする姿勢に至っている点である。
実際に、この作品の構想開始当初のインスタレーションの試作展示では、作者にとって感傷的なモチーフ(旅行のために買った靴やガイドブック)の影を投影するというものであったが、以後、このテーマを継続した個展の開催を経ることで、そのような個人的な想いや体験でさえも、新型コロナウィルスによる「よくあること」として距離を置くことになった。それを「日常」という普遍性にまで還元してしまうのはいささか強引、ないしは時期尚早とも思えるが、「日常」の変化の中へと今日の社会事象をも取り込もうと思考的な試みを行うことは、新型コロナウィルスを(意識的であるにせよ無意識であるにせよ)あたかも目新しいモチーフとみなして扱う事例とは正反対の知性的な態度と言える。

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この作品では、介在する鑑賞者の影が永久的に投影され続けるが、「ラグ」が生じることで、その影は連続的な時間の重なりへと視覚化され、いつしか像は影の重なりの暗がりへ、または投影される光の明るみの中へと消えていく(が、それでも概念的には連続して重なり続けていく)。
この見えていた像が徐々に薄くなり見た目には消失していく過程に、日常に対する記憶の可塑性といった普遍性も表れ、メインの展示室の内・外の境界となるスクリーン、またその雛形として空間を構成するライトボックス状の小作品のガラス面が、日常の光景のメタファーであることに気付く。
また、室内から外を望む「窓」としてかつて絵画が機能したように、インスタレーションでありながら、スクリーンやガラス面といった平面に表れては消える現象を用いる点で、映像的であり絵画的(または写真的)な作品でもあると言え、多様なメディアの特徴や美術史的背景にまたがるインターメディアな作品である。

社会の変化に対して殊更に声を上げてしまうのは、その変化への対応が難しい状況にあるがゆえの保守的な反応と言えなくもない。しかし、この作品から感じられるのは、どのような社会の変化に対しても柔軟に対応していくしなやかさであり、また、スマートフォンやPCなど多くのガジェットに囲まれ、それらを器用に連動させる今日の若者の等身大の姿そのものとも言える。
このような社会事象への態度と、大げさなメディアを用いずに、身の回りの機器のみでインターネットをも自在に介して視覚体験を空間デザインまたはインスタレーションへと構成できることが、新しい世代の可能性と価値観を十分に体現した秀作であると評価したい。



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Masking tape Art.
- 絵画表現としてのマスキングテープ -

吉田朋加

【概要】
本研究では、マスキングテープの特性である特有の粘着性・薄さと強度・多様な模様に着目し、マスキングテープを使った人物絵画の制作を行った。マスキングテープの元からある模様を用いることで、色・形以外に模様の特徴からも作品自体に多様な意味を持たせることができると考えた。
本来マスキングテープは塗装箇所以外を汚さない目的で使用される保護用の粘着テープであったが、近年では様々な色や模様が施されたマスキングテープが発売されており、よく目にする機会も多いのではないだろうか。
マスキングテープアートはその色や柄を活かして千切る・切るなどして張り付け制作する。また従来のマスキングテープの特徴である弱い粘着力を利用することで、剥がすことや重ねて新しく異なる色味を出すことが容易である。
ゼロからではなく、既存の柄・模様を使用し、既存物そのものを絵に取り入れることによって新たな想像要素を生み出していく。
via 八戸工業大学感性デザイン学部卒業制作・論文 2020-2021

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本学部(八戸工業大学感性デザイン学部)は、従来のデザイン系学部に比べて研究領域の幅が広い。それは「感性デザイン」という領域の不確かさゆえであるが、しかし、その不確かなものを明瞭に区分けし細分化しようとしてきた学問体系が行き詰まり始めている中で、不条理な感性そのものを不都合さも含めていかにデザインし得るか、という本学部の在り方に、吉田の作品は実にうまく適合している例と言える。

この作品は、作者である吉田の説明通り、マスキングテープを絵の具の代わりに用いた、というシンプルなものである。なぜマスキングテープなのか...と聞くのは、学生の年齢を考えれば野暮なもので、ごく単純に可愛らしい柄の文具に心ときめくことは女子学生(には限らないが)の日常生活においてありふれたことである。
しかし「マスキングテープアート」なる表現ジャンルが明確にあるわけではなく、この日用品的なデザインアイテムを絵画というある種のハイアートの権化の制作に使用するという試みは、作者本人の意図せぬところで反絵画的なアプローチであり、また、デザインという狭い領域を表現性により拡張しようという横断的な試みにもなっている。この点が「感性デザイン」的なのである。

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モチーフとなったのは作者の父親の肖像であり、作者曰く「鉄工所を営む父は初対面の人には大抵怖がられる」という。しかし、近くに寄って見れば、柔らかい肌の色調は動物のイラストのマスキングテープの断片の集積、ヒゲや髪の毛には星や月の意匠のテープが用いられている。
作者の吉田自身もこの二面性には意識的であったようで、見た目としての父親の肖像と、その内面(優しくてお茶目なところがあるらしい...)のギャップから、使用するマスキングテープを色調以外に図柄でも選別したと言う。

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市販品や日用品を美術作品に用いることはもはや珍しいことではないが、美術史を考えれば、この行為には一定の意味を見出すことができる。特に、絵画のような「非複製芸術」に図柄自体が複製で量産されるマスキングテープを用いることは、反絵画的な姿勢でもある。
また、前述の通り、遠くのイメージと近くで見た際の図柄とのギャップで意味が異なることに加え、遠くから見れば肖像であるが、一定以上の距離に近づくと、その肖像のイメージは解体され、テープの集積にも変わる。このことは、絵画、特に油彩による表現が、近くで見れば絵の具という物質であり、遠くから見れば風景や肖像などのイメージにすり替わるイリュージョンを見せるのと同様で、この作品は反絵画的な方向性を持ちつつ、鑑賞する距離により物質とイメージを往還する絵画特有の現象を持つ、王道的な絵画作品としても成立している。
なお、従来の貼り絵的な作品は、あくまでも物質として千切られた紙片などを用いるモザイク絵画的な技法であり、そこに新たに図柄が加わっているという点で、従来の表現手法を更新し、作者の「新たな想像(創造)要素を生み出」すという試みは成功している。

反絵画的なアプローチ、デザインとアートの融合といった事例は多々あるが、それらの多くは、それまでの王道的な絵画やデザインとアートの明瞭な区分を前提として成立するものである。
この作品の優れた点は、そのような背景など意に介さずとも視覚化できてしまう今日的な軽やかさを体現しているとともに、それでいて伝統的な写実絵画としての描画技術と王道的な絵具の表現手法の巧みさを兼ね備える作者の技量の高さが発揮されていることにある。
卒業制作の審査対象としては、数点の小作品の制作を経たこの作品1点の提出であったが、この表現手法を用い、願わくば、より社会的な偶像や光景をモチーフとするような、今後の制作に大きな期待を持ちたい。



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身体性をテーマにした絵画作品の制作 複雑なリアリズム

三戸晴輝

【概要】
現代の私たちはSNSやYouTubeなど、インターネットインフラ、デジタル機器やそれを用いたコミュニケーションに囲まれている。直接誰かとやりとりしたり、触れ合ったりする必要なく生活することができる。
一方で、何かに直接手で触れたり、対面して会話したり、顔を合わせて協働することは、単なる情報のやり取り以上にたくさんのものを含んでいるのではないだろうか。
via 八戸工業大学感性デザイン学部卒業制作・論文 2020-2021

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概要が説明不足である感は否めないが、そもそも言語で説明が可能である内容ならば、わざわざ制作において表現などする必要がないのであり、この作品において重要なテーマは非言語的なコミュニケーションの在り方で、それを可能とするメディアである身体を絵画へと転換していった試みと読み取れるだろう。

この作品は、立体的かつ空間的なインスタレーションとして絵画を展示したもので、作品背後にも空間があり、大小、平面から立体まで20点以上の個別の作品により構成され、これらはすべて作者の三戸が4年次の1年間で制作したものだと言う。
初期は身体そのものや人体の部位(口や歯など)をモチーフとした作品を制作し、その後、行為(action painting)を取り入れ身体性という抽象的な解釈へと移行し、最終的には作品そのものが抽象表現として昇華するに至っている。
また、人体の一部を象った立体作品には、男性器をモチーフとしたものや内臓的な特徴を呈した抽象的な彫刻もあり、目まぐるしく変遷した一連の制作経過のダイナミズムをそのままに展示することで、それらの背後で思考(または志向)してきた「身体性」への一貫した興味を垣間見ることができる。

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1点、群体からは離れて構成された絵画(油彩を中心としたミクストメディア)について特に注視したい。
この作品は、油絵の具の中に不織布や綿布、ビニールなどが貼り付けられ、またそれが剥がされている(ビニールにおいては溶かされている)ところにさらに油絵の具が重なっているなど、荒々しい筆致とともに、多様な素材の持つ質感の差異が共存し、作者の言葉にならない多種多様な思考を、実に饒舌に語っている。筆致と皮膚や粘膜的な質感から、作品の隅々まで主たるテーマである「身体性」への実感を、作者特有のリアリティで追っていった秀作であると言える。

しかし、三戸のこれら作品の志向性は、2000年以降の日本の絵画に顕著な、極めて内向的な性質を持っていることは否めない。これは、ともすれば社会性の欠如といった問題点としてしばしば指摘される。
しかし、なぜこの「身体性」に関心を抱いたのだろうか。この問題意識自体は目新しいものではないものの、今日の社会的な状況が関与していることは作者の示した作品概要からも明白であり、加えて、より深淵に、自己の不在感や他者への渇望、怒りや嘆き、そして愛のような形なき感情とその行き場の無さといった、自己と社会とのコミュニケーションの不全も起因していると考えられる。そのうえで、三戸の作品においては、内向的な自己を脱しようと、その自己を他者へと晒し傷つきながらも生きていく、近代日本の画家にも似た純粋さや内向性に対する力強い肯定感も読み取ることができる。
よって、病理的な内向性を持つ近年の絵画の志向性とは一線を画した作品であると評価することができる。

身体性への探求は、おそらく、その先に自己の肉体という個体の持つ、物理的かつ絶対的な孤独へとたどり着く。しかしそのことにより、自己を受け入れる他者を求め、絵画が自己の代弁者たる存在となり、その絵画には他者を受け入れるための愛が宿るようになる。三戸の作品群は、その展示の手法も相まって、不安定な感情や破壊的衝動を漂わせるが、その奥深くに、戦後の絵画から現代絵画を内省的に取り込みながら、今日を生きる若者の瑞々しい他者への愛が溢れている。
この作品を到達点とすることなく、以後の制作での更なる飛躍を期待したい。



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もうひとつの現実の立証
ー 都市伝説「きさらぎ駅」の事例から

貮又正弥

本研究は、インターネット上にある都市伝説「きさらぎ駅」について調査・考察し、噂話が現実味を帯び仮想空間上で実体化する過程から、今日の情報のあり方について検討するものである。
インターネットの発展の中で誕生した「きさらぎ駅」という都市伝説は、実在しない架空の駅である。しかし、多くの人がその情報を共有することによって、あたかも現実にあるかのように実体化し広まっている。このことを通じて、現代社会は実際の物理的な空間だけでなく、インターネットももうひとつの現実として存在していることになるのだろう。
これを踏まえて、「きさらぎ駅」をモチーフとした観光案内やWebサイトを構築し、鑑賞する人々に情報との接し方について改めて検討してもらいたい。
via 八戸工業大学感性デザイン学部卒業制作・論文 2020-2021

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この作品は、構想そのものは1年以上前から建てられていたもので、しかし現在において意図とは異なる意味が付与されてしまっている。
作品のモチーフとなったのは「きさらぎ駅」という都市伝説のひとつである。

「きさらぎ駅」という駅がある。いや、正確に言えば「ない」。日本国内の鉄道駅には、そのような名前の駅はないのだが、「その駅で降りた」という話がある。2004年に匿名掲示板「2ちゃんねる」(現在は「5ちゃんねる」)のオカルト板「身のまわりで変なことが起こったら実況するスレ」に寄せられた都市伝説だ。
(中略)
ハンドルネーム「はすみ」さん(以下敬称略)が、深夜23時23分に「いつも通勤に使っている電車が、20分くらい駅に停まりません。いつもは5分か長くても7~8分で停車するのですが停まりません。乗客は私のほかに5人いますが皆寝ています」という投稿をしたことが発端である。
2ちゃんねるのスレッド参加者が「はすみ」に質問したことで、「新浜松駅からの電車で、静岡県内の私鉄(条件を満たすのは遠州鉄道だけだ)。乗り間違えたかも」「運転席には目隠しがあり、車掌も運転手も見えない」「普段トンネルなどないのに、トンネルを出てから速度が落ちた」「乗ったのは23時40分発の電車」と、状況が明らかになって行く。
そして「はすみ」は、聞いたこともない無人駅「きさらぎ駅」に停車し、その駅で電車を降りたと報告する。
via 東洋経済ONLINE「ネットで騒然、恐怖「きさらぎ駅」はどこにある?」

都市伝説の定義はさまざまあるが、インターネットの一般化により都市伝説はにわかに増えだしたと言われ、本当にあるかどうか分からない対象を、人が人へと情報を伝播させていく過程で、実態のないものを仮想的に存在させてしまうことである。これは、中世から近代にかけての妖怪譚や幽霊譚、そして昭和の怪談と構造的には同様であるが、インターネットという匿名の群衆を介することで、以前よりもはるかに早い速度で情報が伝達され、このことで都市伝説が仮想的に顕在化しやすくなっている。
この都市伝説の発生の過程は、例えるなら口コミやリークといった、人が人へと声と言葉で情報を伝える形なき伝達手段と同様であり、しかしそれがネット上で文字情報という形を得る。オラリティとリテラシーの双方を共在させることで、仮想空間の中に、固有の情報群として実体化するのである。

作者の貮又は、これに倣って「きさらぎ駅」のwebサイトを構築し、あたかもその駅、ないしはその鉄道会社の社員が情報を更新しているように見せようと試みたのである。
この試みの当初の目的は、一昔前であればステルスマーケットと呼ばれる悪手を改善し、口コミとwebメディアの連動による多角的な広告戦略としての手法の確立という意欲的なものであった。しかしwebの実装には至らずプロトタイプで止まってしまったことにより、メディアリテラシーを訴えるに止まってしまったのは少々残念であった。
しかしながら、この作品には、情報の危険性に対する警鐘とは別に、この作品自体も一種の不確かな情報への可笑しみと、その不確かさを増長させる危険性を孕む。
昨今のフェイクニュースの影響が浮き彫りにするように、悪意の有無を問わず、不確かな情報を見極めることは今日においての課題となっている。
都市伝説は、おそらく当初は多少なりともネット上でのリテラシーのある人々が、同程度のリテラシーを持つ相手に向け「冗談であることくらい分かるだろう」と、ほんの遊びとして始めたつもりが、次第に群衆を取り込んで仮想空間で実体化(もうひとつの現実として存在が承認)されてしまったのではないか。
インターネットの空間はそもそもは現実とは異なる場であり、現実で傷ついた人々が解放されて然るべき場所であっただろう。しかしこの仮想空間の肥大化が、結果として現実をも取り込み現実の人々を傷つけ、そのことで現実における法やルールが適用され、仮想空間の人々は遊び場も逃げ場も居場所も奪われていく。
この作品そのものは十分に完了したと褒められるものではなく、また都市伝説やフェイクへ批判的というよりは、むしろそれ自体を偽悪的に可笑しもうとする姿勢の作品であったが、作者の意図を超え、今日の情報の在り方、そして、管理主義と大衆による迎合の前に、遊び場も逃げ場も居場所も奪われてしまうかもしれない、これからの世代の寂しさが透けて見えるようであった。


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文:皆川俊平
写真:髙橋祐賢


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