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暗い部屋 ー写真を撮ることについての覚書ー

iphoneの新型がなにやら発表されたらしい。私は未だに8という型を使っており、事あるごとに他人に「まだホームボタンあるの使ってるの?」と言われる。人のiphoneくらい、ほうっておいてほしいとつくづく思う。

しかし、ここのところ続けざまに他人に「まだそれ使ってるの」と言われてしまうので、ニューモデルはどんなかな。と情報収集してみると、とりあえずカメラ機能がすげぇことになっている。ということくらいしか分からなかった。所詮スマホに興味がないのだ、私は。さぞかし、人々はスマホに高機能なカメラを所望していることなのだろう。

かくいう私も、iphone3Gが発売された当初はこれ見よがしに買った。実のところ見た目がとにかくかっこよくてファンだったblackberryと迷っていたが、当時の私がiphoneに魅了されてしまった理由として、「カメラのアプリがすごい良い。」だったのだ。

憧れのblackberry↓

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当時は、フィルムカメラのLo-Fi風加工が流行っており(多分。)それがどうやらiphone一つでできるらしいと知ってしまった高校生の私であったのだ。つまるところ、iphoneはカメラとしての使用目的で購入したのだ。

Lo-Fiってこんなの↓

スクリーンショット 2021-09-22 2.26.49

https://www.lomography.jp/magazine/338042-stunning-lo-fi-photography-with-the-diana-instant-square

そんな私も大学に入学し、フィルムカメラの方が圧倒的に楽しいことを知り、ひっきりなしに連絡やらアプリの通知やらでうるさいスマホにほとほと疲れきり、iphoneのカメラを起動させる機会はおろか、手元で操作する時間も激減した。(スマホは目が疲れる。)

私のスマホ離れに反比例し、人々は手元のカメラに依存していった。そして、そのカメラで映された記録の世界に飲み込まれていった。

今日世間の話題の中核といえばもっぱらyoutubeや、instagram、tiktokなどといったソーシャルメディアである。これらは言うまでもなく直感的に視覚へアプローチし、それを他人と共有するメディアだ。

人々は、それぞれの時間を過ごす中で、手元のスマホによって瞬間瞬間を記録し、レコーディングし、今現在自分がいる時間、空間を記憶しようと懸命に努めている。そして、私が口すっぱくそれらを「記録」や「記憶」と言うのには、それらの写真の多くは、視覚的に美しいと感じることのできるような写真ではないからだ。

そんな世界の中で。

写真を撮ること、それはすなわち今現在自分がいる時間を、なにかしらの物的証拠として残そうとすることだ。これは非常に刹那的な行為である。言うまでもないが。

飲食店などに行けば、並べられる食事を口にする前に必ず写真へ収めようとする光景はもはや珍しいものではない。彼らは、あと数分後には跡形もなく自分の胃の中に消えてしまう美しく盛られた料理の記録をしているのだ。

この姿は、「万物はいずれ必ず消滅していくものである」という、変わりようのない事実としての「美しい料理」があり、この万物の定義への抵抗に「写真を撮る」という行為が存在しているように思える。つまり、花様年華への抵抗、儚き事実への抵抗と言えよう。

なにもこの人々の撮影欲は、食事だけでない。恋人との思い出写真は必ず2人揃って写真に臨むし、友人らで出かけているであろう集団は必ずやそのスマートフォンの画面内に現場にいる人物全員を写そうとする。

そもそも写真館という場所では、家族の生誕や何かの節目など、ライフサイクルの通過点で家族揃って写真を取ろうとする習慣があったが、それは私に言わせてみると「いずれなくなってしまうであろう家族という人々」あるいはその彼らの「時間」への追悼を行なっているのである。家族絶対主義な人にはディスられるだろうが、家族はいずれ滅びるものである。兄弟が結婚したら?誰かが亡くなって遺産相続うんぬんでまごまごしたら?離婚したら?不慮の事故か病気で悲しい死をとげたら?何かやってはいけないことを犯してしまったら?親密に繋がっているからこそ、家族というものはいとも簡単に解体するし、それは大抵の場合、うわべの友達同士の絶交のような軽快なステップではいかない。

その家族というものを「写真に残したい」と欲すのは、「家族という関係性は実はいとも簡単に壊れてしまう」という事実を、本当はみんなどこかで分かっているのだ。いとも簡単に壊れてしまうから、そうしないために、あるいは、そんな事実を否定するかのように、まるで契約書にサインをするかのごとく、その姿を証明として写真を撮るのだ。それは、家族だけではなく、本当は恋人にも、友人同士にも言えることであって、実のところ、自分という存在すら、いつか存在しなくなってしまうのである。(少なくとも、その写真を撮った場所には、あと数分も過ぎればあなたはそこにもういないだろう)

つまり、人々が過ごした時間の写真を撮ろう(あるいは記録)とする理由は、「万物はいずれ消滅する」という事実に対して①そうしないため/その事実を受け入れた上で大切にし合うことの誓いとしての記録写真か、②そんなことあるわけないという否認的抵抗による記録撮影。以上のどちらかであるように思われる。


長くなってしまった。これはまだ前置きにすぎないのである。

ある日、もう長いこと連れ添っている愛人くんが、暗い部屋で私の姿をフィルムカメラで撮った。正直言って御法度ではあった。愛人である。誰にも知られたくなければ、知られてはならない時間の話であるのだ。知られてはいけない時間を、彼はフィルムカメラで記録してしまったということになる。しかも、フィルムだ。

彼も、私との関係が「いずれ消滅する」という心からそのシャッターを切ったのだろうか?だとしたら、①②どちらであろう?

どちらにせよ、写真を撮ってしまった以上、私と彼はもう終わりに向かっているようだった。この長い、知られてはならない時間たちの終わり。

彼がシャッターを切るとき、夏が終わる気がしたのはそのせいだったのかもしれない。

かくいう私は、彼の寝顔を幾度となくスマホのカメラに収めている。それは、これがもしかしたら最後かな?というように毎度、記録しているのだ。もういつ会えなくなるのかわからないからだ。

一緒だった。家族写真を撮るのも、恋人とツーショットを撮るのも、友達と料理との写真を撮るのも、ラブホテルでぐっすり眠る愛人くんたちを写真に収めるのも、みんな「いずれバラバラになってしまうから」そうするのだ。そうするしか、ない。

私たちが、写真を撮ることに依存するのは、この世界が終わることを知っているからなのである。



ところで、彼はもう随分前に、彼の家で私をビデオテープに写していたことも同時に思い出す。多分ほとんど裸の様な格好でいる私を彼はビデオに一瞬だけ収めていたが、あのテープは一体どうなったのであろう。どうにか、彼の恋人の目につかないところに保管してあるのだろうか、あるいはもうとっくに別の記録を上書きしてくれたのだろうか。真偽のほどはわからないし、私がそれらを見ることも、知ることも、もうないだろうと思う。


いずれ消滅する私たちの、夏の終わりであった。



(ちなみにタイトルはロランバルトの名著を丸パクリしてますが本稿及び筆者は何の関連もありません。あしからず。)


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