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心も身体も丸ごとひとつ:身体は嘘をつかない

身体を置いてけぼりに心に取り組もうとしてた頃


ヨガのインストラクターになってポーズを練習する時間が増えた。
同時に腰を痛めたりすることが増えた。
何がいけないのかわからなくて、ヨガは最終的には心のためのものなんだからとポーズはそこそこにヨガ哲学の勉強に向かうようになっていった。
ヨガ哲学としてもアヒムサー(非暴力)なんだから自分に痛いことはしない、だからできる範囲でやればいい、無理なポーズにはチャレンジもしない、そうやって自分の都合のいいように解釈していつの間にか自分を小さな枠の中に閉じ込めた。

それでも腰を痛める時はやってきたし、哲学を学んで取り組んでるはずの心の方も少しずつは変わっていった気がしていたけど、今思えば根本的に自分の奥底の部分を見る勇気がなく、見ないふりをしたままでいた。

その証拠に、一番身近な人との関係性(親とパートナー)において相変わらず同じことを繰り返してた。
それって哲学も結局は頭で理解しようとしてるだけで全然自分の腹の底にドスンと落ちてきてないってことだったんだと今になって思う。
頭で自分に都合よく解釈した哲学は、周りへのジャッジも多くしてたし、統合へ向かうはずのヨガが分離に向かってしまっていた。

身体を通して自分ととことん向き合う


これってどうなんだろうって思い始めた頃、運良く身体のことをこれまでよりもっと真剣に向き合うような環境に身を置くタイミングがやってきた。
身体とじっくり向き合うと
・自分がどれだけ感じることを雑に扱ってきたのか
・これまでの癖で身体のあちこちを固めて不自由にしてきたのか
・自分の見たくないことを見て見ぬ振りしてきたのか
などいろいろ目の当たりにして、同時に
・感じてあげたら身体は賢くよりよくなろうとすること
・自分の身体ってどこまでも可能性があること
・今の自分をそのままを見て、気づいていくことで選択が広がって自由になっていけること
・自分の身体への信頼感は、自分自身への信頼感となっていったこと
といった身体の壮大さを知る経験=体感が自分の器を広げていってくれた。

頭でっかちになっていた時より、ずっとリラックス上手になって、以前の無駄な力み分の余ったエネルギーが溢れて、自分は小さな枠から出てチャレンジしていけるんだって思えた。
人は健全な状態であれば、ごく自然にチャレンジしていきたいと思えるものなんだと実感した。チャレンジは時に失敗したり、怪我したりすることもあるけれど、それもまた次へ繋がると思えるのも自分の身体への信頼感が増したから。

そうして、以前は身体的に絶対無理だと思っていたアシュタンガヨガにも取り組むようになっていった。
そこから、またプラクティスを通して沢山の気づきがあり、さらにまた次なる一歩へと進んでいくんだけれど、長くなるのでそれはまた今度。

身体は嘘をつかない。私たちはこの身体を使って生きている。


そんなプロセスを経て、ヨガのアーサナってそのプラクティスを通して心のことに取り組んでいくものなんだと心底実感できるようになった。
昔の私は、頭ではそう分かっていてもアーサナへの取り組みが心と身体を繋いでいなかった。それはどちらも自分の頭で自分に都合よく取り組んでいたから。結果、身体を痛めていたし、呼吸も浅かったし、脱力もなかなかできてなかった。もちろん、その経験も全て含めていまに至っているからそこにかけた時間も含めて全部が私に必要だったこと。

脳は嘘をつく。あたかももっともらしいことを言ってくるけれど、結局身体は嘘はつかない。だから、体験こそが大切。
頭でっかちにどんなに考えても、行動を起こし経験するのはこの身体を使ってこそ。

身体を知ることは人を知ること、その奥深さや面白さも一生かけても飽きないだろうなぁと思える。
なんだかんだ言って、やっぱり人間が好き。


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