おじちゃんの生きた証と、夢で教えてくれたこと
こんばんわ。今日は私の数年前に亡くなった「おじちゃん」が
亡くなる前に私に教えてくれたことを、なんだかnoteに書き綴ってみたくなった夜。
決して楽しい話ではないけれど、忘れたくない大切な思い出や記憶です。
なんで今更、こんなこと書くのかな?と自分でも思いながらも、
私は多分、自分の気持ちを整理しながら、「おじちゃん」が生きた証と、夢の中で教えてくれた私にとっての真実を、しっかり言葉にして残しておきたいのかもしれません。
そして、私の中で確かにおじちゃんは存在して、私たちの大切な家族の一員だったと誇りに思いたいのかもしれません。
今日のこの投稿は、何も血の繋がってない赤の他人だったおじちゃんと、家族になった私とその家族の思い出を綴った短い物語です。
私とおじちゃんとの出会い
私が小学生の頃、父と母は離婚して、しばらくして私と妹は母から「おじちゃん」を紹介された。
その頃、父の会社の負債の対応で、母は、裁判などで大変な時期でした。そんな母の相談にのってくれていたのがおじちゃんだったそう。
母から紹介されたおじちゃんの事を、最初は信用していませんでした。
「お母さんはこの男に騙されているんじゃないか…。何か弱みを握られていたり、何か下心があるんだろうか。」と当時10歳くらいだった私は、子供ながらにとても心配して警戒心を持っておじちゃんに接していました。
しかし、おじちゃんと何度かみんなで食事をしたり、喫茶店でお茶をしているうちに、徐々におじちゃんの人柄などが分かってきて警戒心がなくなってきました。
今の私が当時を振り返ると、おじちゃんは二人の幼い子供を持ちながら父の作った負債を抱えた30前半のシングルマザーの母を助けたいと思っていたのだと思いました。また、おじちゃんも一人で孤独を感じていたんだと。
おじちゃんは40代の頃、奥さんは膵臓癌となり先立たれたのです。
そのあと、おじちゃん自身も大腸癌を患い、大手術をしたそう。命までは助かったものの、人工肛門となってしまったのと手術の後遺症で、歩けるものの片足が少し不自由になり障害者認定を受けていたのです。
食べ物も消化が良いものしか食べることができなくて、私たちがラーメンを食べていると「美味しそうだね〜。俺も昔はよく食べていたから、羨ましいな〜。」と笑いながら、大好きなラーメンが食べられないと残念そうにしていました。
年齢はもう還暦を過ぎていて、私は「おじちゃんではなくすでにおじいちゃんじゃない?」と心の中では思っていたのだけど、私にとっておじいちゃんは別にいるし、やっぱり「おじちゃん」がしっくりくるなと、出会った頃からずっと私たち家族は「おじちゃん」と呼んでいました。
母と同じくオシャレが好きで、服や帽子はいつもこだわったものを身につけていました。
また読書や映画が大好きなおじちゃん、私が漫画が好きだと知ったとき、
「みなちゃん、手塚治虫のブラックジャックって読んだことある?おじさんちにあるから読むなら貸してあげるよ。」と。
私が初めて夢中になって読んだ手塚治虫の漫画は、おじちゃんが貸してくれブラックジャックだった。
おじちゃんが家族になっていった日々
おじちゃんには一人息子がいて、おじちゃんは息子さんと一緒に暮らしていた。息子さんのご結婚が決まって、おじちゃんの息子さんは一人になってしまう父の事が心配で同居を提案していたが、おじちゃんは新婚夫婦のところに世話になるのは気が引けると感じていて、一人で暮らそうと考えていたらしい。
家に一人ぼっちになってしまうおじちゃんに、母は一緒に暮らさないかと声をかけたそうだ。
母から「おじちゃん、一人ぼっちで寂しそうだから、うちで一緒に暮らしてもいい?」と相談されて、最初はびっくりしたけれど、そこからおじちゃんと私たちの共同生活が始まった。
おじちゃんは、幼かった妹や私のことをとても可愛がってくれました。
定年を迎えていたおじちゃんは、片足が不自由ながらも、率先して洗濯や料理、掃除などの家事を手伝ってくれて、お父さんというよりも、私たち姉妹にもう一人お母さんができたような感じでした。
そして、いつの間にかおじちゃんは私たちの大事な家族の一員になっていきました。私とおじちゃんとの共同生活は、私が実家を出るまでの約15,6年間。今思うと、たったの15年ほどだったんだなと思えてくるけれど、私の幼い頃から大人になるまでをずっと側で見守ってくれていた大切な家族の一人となっていました。
初めてできた彼氏と上手く行かなかったことや、就職活動をしても自分が望んだ仕事の採用がなかなかもらえなかった時、母には言えなかった愚痴や弱音もおじちゃんには素直に話す事ができました。
おじちゃんとは血が繋がっていない他人だからこそ、家族には話しにくいことも話せたのかもしれません。また、おじちゃんはいつも穏やかに静かに話を聞いてくれて、今思うと傾聴力に長けていたなと思うのです。
隣でずっと静かに私の話を聞いてくれて、
「そんなに焦ることないよ、みなちゃんなら、きっと大丈夫だから。」と言ってくれました。きっと、お母さんやお父さんでもない、友達でもない。家族のような他人であるこのおじちゃんという存在が、思春期や反抗期の私の心の支えとなってくれていました。
そして、私が20歳を過ぎた頃、母が乳癌の診断を受けました。
一刻も早く、入院と手術をすることになり、まだまだ子供の私はどうしていいか分からなかったし、癌の宣告を受けた母もショックを受けていました。そんな時も、おじちゃんが色々助けてくれたのです。自分も癌を患った経験から、母を励ましながら、私たちの面倒も見てくれました。
母の癌の摘出手術は無事に成功して、その後の放射線治療も完了し、5年、10年たって再発もなく無事に元気でいてくれているのは、あの時、おじちゃんがいてくれたおかげだと私は今でもおじちゃんに感謝しています。
おじちゃんが寝たきりになってしまった日々
私が結婚して家を出た数年後、ある日おじちゃんが倒れたと連絡が入りました。
実家に戻ってみたら、そこには変わり果てたおじちゃんの姿がありました。
大腸癌の手術の後遺症で足が不自由だったおじちゃんは、倒れてから完全に寝たきりになってしまいました。
そして、胃瘻となって食べ物を口から摂取できず、会話もできない状態になっていました。
私は久しぶりに見たおじちゃんの、ずいぶん変わり果てた姿にショックで言葉が出ず、涙を堪えるのに必死でした。
一緒に暮らしていた母と妹も最初はショックを受けたそうですが、いつまでも悲しんでばかりはいられないと、前向きにおじちゃんの介護を頑張っていました。
母は毎朝、コーヒーが大好きだったおじちゃんと一緒にコーヒーを飲みながらおじちゃんに話しかけていました。
母はラジオや音楽をかけたり、テレビを一緒に観たり、寝たきりになったおじちゃんと自宅で介護しながら一緒に生活していました。
私は母に介護は大変かと聞くと、
「介護はもちろん大変だけど、私はやっぱり家で最後までみてあげたいの。今までずっと助けてもらったし、おじちゃんは大切な家族だからね。」と笑顔で明るく話している母は本当にすごいなと思いました。
そんな母から、
「でもね、おじちゃん自身が一番大変だと思うの。頑張って生きててくれているんだと思う。たまに夜、涙を流しているの。だって、話したくても、話せないものね。それを見ると、すごくかわいそうな気持ちになっちゃうんだけど、それでもお母さんはおじちゃんに一日でも長く生きていて欲しいって思っているのよ。」
母は続けて、こんな風にも語っていた
「おじちゃんは話せないから、お母さんと瞬きで合図してってお願いして、コミュニケーションをとってるのよ。一回が「はい」で二回が「いいえ」っていうようにね。あ、おじちゃん、話せないけど、笑顔は作れるのよ。」
と笑顔で嬉しそうに話を終わらせた母は、やっぱりすごいなと思ってしまった。
私は解決策の見えない状況に、やるせない気持ちと、ただ悲しく思うだけだった。
私が心の中で疑問に思ってたことは、今のおじちゃんは幸せなんだろうか、ということでした。
そして、無意味とわかっていても、自分に置き換えて考えてしまうのです。
「もし私がおじちゃんと同じ状態になってしまったら、生きていたいと思えるだろうか。そこに自分が生きている意味が見出せるのだろうか」と。
もしかしたら、私や母がおじちゃんを無理に生かしてしまっているのではないか、おじちゃんは楽になりたいのに、生きているのかどうか分からないようなこの辛い状態をどう感じているんだろう。
だけど、そんなこと、毎日一生懸命に介護を頑張っている母に、ましてや一番辛い状況のおじちゃんに直接聞くなんて到底できやしなかった。
そんな思いから、私はおじちゃんの姿を見るのがとても辛かった。
だから、実家にも年に数回しか帰らなかったのだ。今思うと、自分が見たくないから見ない振りをしている、なんて酷い娘だったんだろうと思うのです。
おじちゃんが夢の中で教えてくれたこと
そして、ある晩、寝ていた時に、おじちゃんが私の夢に出てきたのです。
それは明晰夢というようなもので、私も「これは夢だ」としっかり認識できている状態でした。
そこで、せめて夢の中では正直に打ち明けて聞いてみようと、私は思い切って、これまでずっと言えなかったおじちゃんに対する想いや疑問をおじちゃんに打ち明けることにしたのです。
夢の中のおじちゃんも、目をつぶって寝ているように見えました。
だけど、なんだか私とおじちゃんの脳は繋がっているように感じられる不思議な感覚でした。
そして、私はおじちゃんに語りかけてみることにしました。
「おじちゃん、聞こえてますか?実はね、私はずっとおじちゃんに言えなかった事があるの。でも聴いてくれる?
私、おじちゃんが寝たきりになって、会話もできなくなって、おじちゃんは生きてて幸せなんだろうかってずっと思ってたの。
もしかしたら、私たちがおじちゃんを無理に生きさせているんじゃないかって、ずっと思ってたの。本当はおじちゃんはもう疲れちゃってるんじゃないかって。おじちゃんは今幸せですか?」
そう語りかけたら、とても不思議だけれど、言葉にはならないおじちゃんの考えや気持ちが一瞬で伝わってきて、私はずっと分からなかったおじちゃんの気持ちがなんだか分かったというか、理解できた気がたのです。
寝たきりだったおじちゃんが唯一できることは生き続けることだった
これはあくまでも夢の中で私がインスピレーションをもらっただけかもしれないのだけれど、今まで自分だけの狭い視野で考えていたところから、もっと大きな視点で見れた瞬間に、きっとおじちゃんはこう思っていたのかもしれないという感覚が降ってきた気がしました。
おじちゃんはもう自分のために生きていたのではなく、一日でも長生きして欲しいと願う母のために、生き続けてくれていたのだと。
毎日、ただ生きていること。それがおじちゃんが今できる母へしてあげられる唯一のことだったのです。
自分では動くことも、話すことも、食べ物を食べることもできなくなってしまったけれど、おじちゃんはただそこに存在しているだけで、母の希望や心の支えになってくれていたのです。ただそれだけをまっとうするために、おじちゃんは生きていたんだろうと。
おじちゃんは自分の置かれた状況がどんなに辛くても、自分が生きていることで、母が喜んでくれる。それをただ叶えてあげたくて、母と一緒にいる、ただそれだけを生きがいに毎日を生き続けてきたんだと。
私には、それがおじちゃんの生きた真実のように感じられたのです。
そのような事が、時間にするとほんの一瞬、多分、数秒もかからないうちに私の脳に流れ込んできて、これまでずっと分からなかった事が、一瞬で解けたように感じられて、同時に自分の浅はかさと、おじちゃんに対する申し訳なさの気持ちでいっぱいになって、
「おじちゃん、ごめんなさい。私、ひどいこと考えてたね。おじちゃんはお母さんのためにずっと頑張って生きててくれてたんだね。自分の意志でずっと生きていたんだね。本当にごめんなさい。」と夢の中で泣きながら謝ったら、夢の中で、おじちゃんは「もういいんだよ。そんなに謝ることないよ。」と言って笑ってくれているような気がしました。
私はその後、夢から覚めて、実際に涙をたくさん流してる状態で、なんだかとても嫌な予感がして、ちょうど良い時間帯を見計らって実家の母に恐る恐る電話をかけてみました。
すると電話に出た母は「こっちは大丈夫だから、心配しないで。」と言っていた。
しかし、翌日、妹からの電話をとると
「お姉ちゃん、おじちゃんが昨日病院で亡くなっちゃったんだよ。」と泣きながら連絡してきた。
後から母から詳しい状況を聞くと、私がおじちゃんの夢を見ていたちょうどその明け方ごろ、おじちゃんは感染症から高熱が出て、救急車で病院に緊急搬送されたそう。
母は私には心配させまいと黙っていたそうだが、そのあとおじちゃんの容態は良くならず、そのまま最後息を引き取るのを見届けることとなった。
母は最後、「今まで本当にありがとうね。」と伝えたら、最後瞬きを一回して、最後の息を吐いて静かに眠るような最後を迎えたのだと教えてくれた。
病院に駆けつけた息子さんは、「父を看取ってくれて、本当にありがとうございました。父はあなたとあなたのお子さんと一緒に暮らせて、本当に幸せだったと思います。」と言ってくれました。
私は、最後の最後に、おじちゃんは元気な時に私の愚痴や悩みを聞いてくれた時みたいに、お別れする前に私のために話を聞きにやってきてくれたのだと思ったのです。私がずっとおじちゃんのせいで後悔しないようにと。
本当に、最後の最後まで、優しいおじちゃんらしいなと私は思ったのです。
おじちゃんの生き様から、人はただそこに存在しているだけで、生きてるだけですごいことで、人はそこにいるだけでもう十分なんだということを教わった気がしました。
そして、私に血の繋がりではない家族の絆があることを、おじちゃんが教えてくれました。
今日は、こんな私とおじちゃんとの思い出話をまとめてみました。
最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。