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地獄へ行かないために

これは、誰かに教えたいというよりも、自分の頭を整理したくて書いている。
だから初心者向けではなく、聖書を知ってる人向けの記事かもしれない。
私は一部プロテスタント教会の教えで、どうしても解せないものがあるのです。


それは「永遠の火の地獄はない」という教えについてです。
なぜ、それを教えるのか、意味がわからないからです。
例えば↓こんな風に。

https://youtu.be/tiDE9cdsSaU?si=mlNm0moLvbQgg3sV


まず最初に聖書に「地獄」についてどう書いてあるかを
まとめたいと思います。

🔸地獄行きの対象者(一例)


また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

マタイによる福音書 5:22

へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。

マタイによる福音書 23:33

このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた

ヨハネの黙示録 20:15

しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。

ヨハネの黙示録 21:8

聖書には「地獄」が存在していることが明記されています。
神様の目から見て悪い奴は、
最終的に火の池に投げ込まれる運命が待ち受けています。

🔸地獄はどういう場所か

地獄では、うじがつきず、火も消えることがない

マルコによる福音書 9:46

もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。
両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい

マルコによる福音書 9:45

地獄では、うじがつきず、火は消えないし、
罪を犯す片足を切り落とした方がマシという場所。
それほどまでに行ってはいけない場所だということ。

🔸地獄ではどうなるのか

舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。

ヤコブの手紙 3:6

また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

マタイによる福音書 10:28

当たり前ですが地獄では、火で焼かれます。
からだも魂も地獄で滅ぼす権威は神様にあります。

🔸どのくらい地獄で過ごすのか

「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。
ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。

ダニエル12章2節

それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。

マタイによる福音書25:41

そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、
永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。

テサロニケ人への第二の手紙 1:9

そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。

ヨハネの黙示録20章10


「永遠」という時は、3次元に縛られている人間には理解し難いものがあります。
死後、「時間感覚」があるのかもわかりません。
神の時は1日は1000年のようで、1000年は1日のようなもの。
火が消えるのは1000年後って話かもしれない訳で、
そうだとしたら人間にとって「永遠」の時のように感じることだろう。

🔸「死」も「黄泉」も地獄で焼却処分

しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。

Ⅰコリント15:20~

それから、黄泉火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。

ヨハネの黙示録 20:14

これが一番謎に包まれている部分ですが、
最終的には「死」も「黄泉」も火の池に投げ込まれるとあります。
「第一の死」の後、全員再起動されて朽ちない体に変えられ(1コリント15:12)、
「第二の死」は、「死」と共に地獄で滅ぼされる。
そもそも「死」が滅ぼされるのだから、死ねるのかもわかりません。

🔸安心してください。まだ間に合います。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネによる福音書3章16節

この文章を読んでいるということは、あなたは今、生きているということ。
神様は全員もれなく「永遠の命」へ誘っています。
私たちが地獄に行かない為に、
イエスキリストが十字架で罪の犠牲となってくれた。

これが「愛」だし、良い知らせである「福音」と呼ばれるもの。

「地獄では永遠に苦むのではなく、存在が消えることが永遠に続く」
との難解な文脈で解釈することで安心を求めるのではなく
「事前に地獄へ行かないようにしてくれた」という事実
広報する責任がクリスチャンにはあるのだと思わされます。
だからこそ、以下のようなメッセージには、強烈に違和感が残る訳です。

地獄で火は消えると主張する人たち

その1

SOSTV 「ー地獄が怖くて神様を信じますか?」より

その2
『エレンGホワイト 各時代の大争闘』より抜粋
もし仮に、神が絶え間ない責め苦を見て喜びとし、地獄の炎の中に閉じ込められている者たちの苦しみの叫びや悲鳴やのろいの声を楽しみとされるとしたところで、それはいったい神にとってなんの益になるであろうか。このような恐ろしい叫びが、無限の愛の神の耳に音楽となるであろうか。悪人が永遠の責め苦を受けることは、神が罪を、宇宙の平和と秩序を乱す悪として憎悪されることを示すものであると、主張されている。ああ、これはなんという冒瀆であろう。罪に対する神の憎悪が、それを永続させる理由であるかのように言われている。これらの神学者の教えによるならば、憐れみを受ける望みもなく永遠の責め苦にあうことは、その哀れな苦悩者たちを狂気に陥れ、そして彼らが怒り狂ってのろいと冒瀆の言葉を吐く時、彼らは自分たちの罪の量を永遠に増し加えているのである。しかし、このようにして永遠にわたって罪を増し加えていっても、神の栄光は決して高揚されるものではない。
引用おわり



神は「愛」だから永遠に地獄で苦しめることはしない、
というロジックはアリなのか。
「あの先生は優しいから、罰を軽くしてくれるはず」
とか言ってる学生みたいな感じで、
罰を受ける側の人間の態度としていかがなものでしょう。
どうもピンとこないものです。
愛の神様をそこまで怒らせているという事実を心に留める必要があるのではないか
蛇が私たちにしたことは、とんでもないことだった。
そして、その蛇の意見にいまだに同調してる人間たち・・・。

めでたく天国へ行けた自分がこう思うのだろうか。
「あーあの時あの人に伝えなかったから地獄へ行っちゃった。苦しそうだ。
でも、存在が消えるなら私の心は落ち着くからまあいっか」

それとも地獄へ行っちゃった自分がこう思うのだろうか。
「神は愛だから地獄で存在を消してくれるはずだ」

私は、地獄で「意識は消えて無くなる」と聞くと、
内視鏡検査のときに麻酔で眠らされ、
地獄のような検査を無意識で行うことができたことを思い出します。
そんな軽い地獄だと「福音」のもつ重さが変わってきてしまうのではないか。
中には、地獄で存在消去されるなら、それで構わないって思う人間は確実にいるだろうし、なんなら私がそう思うタイプの人間。
だからこそ、こういったメッセージには敏感になってしまう。

そもそも「愛」とは一体何なのか。
聖書が言う定義は以下のとおり。

愛は忍耐強い愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

コリント信徒への手紙 一 13章4節~7節

神様は「愛」だからこそ、長い間我々の不信仰さをめっちゃ我慢してくれてた。
それで、あの手この手を使って、生きてる間にいろいろな事柄から神様の存在を知らせたり、絶対に行ってはいけない地獄へ行かないよう警告し、命まで捨ててくれた。

地獄は悪魔のために用意されたもので、
悪魔と同じことしてたら公平に火の池に行くことになる。
警告を無視して、飛んで火に入る夏の虫ごとく、
自ら火に飛び込んでいるのは、むしろ人間の方。

だから「福音」というのは、
永遠に苦しみを感じる(かもしれない)「地獄」へ行かずに済むだけではなく、
イエスキリストが処された身代わりの刑罰に便乗させてもらえて、
再び神様と一緒に暮らせる権利を与えられたことだと私は理解している。

リアル知り合いにはこの「福音」を伝え、全員天国へ連れて行きたいと強く思っている。(けど、これがまだなかなか難くて悩みどころな訳です・・・・😢。)

まだ生きているうちに。

ひとつ言えるのは、まだ私たちに時間が残されていることだ。
サタンでさえ、まだ未経験の地獄。
誰も理解できてない「地獄」をどうこう言うよりも
天国にふさわしく自分を変えてもらうよう神様に祈り求めた方が確実で近道だ。

この3次元の時間を与えられている私たちができることは、
絶対に行ってはいけない地獄へ行かないように、
この「福音」を広報することしかない。

今回例に出した聖書解釈については、霊魂消滅説と呼ばれるものだ。
聖書解釈の違いはある程度仕方がないことかもしれないし
これを主張する人たちの他のメッセージを聞いて
同意できることもあるけれども、
「地獄」の認識は、救いの根本に関わる問題だと思うから
記事にさせていただいた。

別にあいつが間違えていて、私が正しいという主張がしたい訳ではない。
こういう教えを気に入り、イエス様を信頼するようになるということもあるかもしれない。これがどういう結果をもたらすのかは人間にはわからないことだ。
私は、この教えを聞くとどうしても地獄へ落ちる側の意見に聞こえてしまうから違和感を感じているのかもしれない。
とにかく、これを読んだ人全員一緒に天国へ行けますように。

そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。

ヘブル人への手紙9章27節


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