東京都美術館「エゴン•シーレ展」
正直に言うと、エゴン•シーレをそこまで大好きなわけではない。そこまで、というのは、例えばルドン展だったら「絶対行く!次の平日休みはいつだ!」とスケジュールを確認すると思うし、曜変天目茶碗なんてわざわざ京都まで行ってしまった。そこまでするほどには好きじゃない、といったところ。
ただ、これまで見てきた展覧会にエゴン•シーレの絵があると、どうしてもそこで足が止まってしまうことも事実なのだ。あ、これ知ってる、というだけではなく、目が離せなくなってしまう。
彼の絵はいつも何かがおかしい。肌の色もおかしいし、身体のフォルムもおかしい。他の画家でもそういうことは別に珍しくないだろうが、彼の場合は技法や表現としてそうしているというより「そもそも本人がおかしい」ような印象を受けてしまう。乱暴で神経質で、自傷のような絵だなと思うことが多い。心のどこかをぎゅっと無理やり掴まれるような感覚になる。
絵を見た時の感覚は、画家や作品によって変わる。例えばルノワールだったら自然と目尻が下がってしまう。ゴッホは圧が強くて、満員電車に乗せられているような感じになる。心地良かったりそうでもなかったり、と雑に分けるなら、シーレは圧倒的に後者だ。剥き出しで生々しく感じて、少し嫌悪感を覚えるくらい。でも、というか、だから、というか、目が離せなくなる。
そんなエゴン•シーレは早世した画家で、作品も今風に言えば「病んでる」「闇深そう」なものが多いことから、貧困や薄幸のイメージがあった。しかし今回の展覧会で知ったのは、彼は恵まれた画家だったということだ。
パトロンもいて、画壇にも認められ、経済的にひどく困窮した様子もない。生前不遇で死後に評価された画家たちと比べたら、雲泥の差と言っても良いのではないか。会場の壁に連なっていた画家の言葉からも、繊細であることは伺えるが自分を堂々と主張する姿も見えてくる。あれ、この人、別に病んでるわけじゃないの?
最後まで見終えて思ったことは、「病んでる」と言われる彼の不穏な雰囲気は、相反する感情の表出なのかもしれない、ということだ。自分に自信のない自信家、とでも言えばいいだろうか。病んでる、という言い方にはマイナスだけがある。しかし彼の中にはマイナスもプラスもあって、それが高気圧と低気圧の気圧差が大きいと強い風が吹くように、内面の嵐を生んだのではないかと思った。誰の中にでもあるそういった嵐を、取り出して拡大し、はいこれ、と視覚化して提示してくるから冒頭のような印象を受けるのかもしれない。見る前と見た後では、自分の何かが違う感じになる。
今回間近で彼の絵を見て、とりわけ瞳の表情と殴打されたアザのような肌の色合いが、見てはいけないものを見てしまったような感じがした。でも本当は、「見てはいけないもの」などないのだろう。それは確かに、そこに存在しているのだから。
最後に、展覧会そのものについて少し書き記しておきたい。
今回はタイトルこそ「エゴン•シーレ展」だが、同時代の画家もかなり多く展示されている。また、国立新美術館での「ウィーン•モダニズム展」で見たようなウィーン分離派のポスター、クリムト展で見たような画家本人の写真など、妙な懐かしさを覚えるものも数多くあった。
写真撮影は風景画の部屋のみ可。
会期は4月9日まで。
ちなみにこのnoteは、お花見しながら書きました。雨だったのが残念。
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