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DIC川村記念美術館「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」とクライン・ブルー

イヴ・クラインを知ったのは大学の一般教養科目で現代美術の授業を取った時だったと思う。その時はただの名前としてしか記憶していなかった。ところが、卒業後20年も経って私はその名を追いかけることになる。
数年前から「青」を意識する機会が増えた。太田美術館で浮世絵のベロ藍を知り、インターメディアテクのギメ・ルームでギメ・ブルーを知った。その流れでクライン・ブルーに行き着いたというわけだ。

これはぜひ本物を見てみたい、と思ったが、もちろんそんなに簡単に見られるわけではない。
まず豊田市美術館にあることを把握し、Twitter公式アカウントのツイート通知をオンにした。展覧会やコレクション展があれば見たいと思ったからだ。ただ、それがいつになるのは不明だ。10月からは金沢の21世紀美術館でイヴ・クライン展があることも知った。しかしどちらも東京からは遠い。ものすごく頑張れば日帰りできない距離ではないが、相応に交通費もかかるし、そんなに遠くに行くのに美術展だけで帰ってくるのも勿体無い気がしてしまう。とはいえ家族はイヴ・クラインに興味はないから、家族旅行として付き合ってもらうのも難しいだろう。
さて、私がクライン・ブルーを見ることができるのはいつになるのだろうか…と思っていた。

しかし、そのチャンスは思ったよりすぐに、しかも突然訪れた。

お盆休み、子供と夫が帰省し、私は一人で東京に残った。これはチャンスだ。ずっと行ってみたかったところに行こうと思った。
行きたいところをリストアップしてみた。その日の夜には夫と子供が帰ってくるから、あまりにも遠くへは行けない。その前日に予定があったから、泊まることもできない。そこで川村美術館のことを思い出した。普段気軽には行けない程度のちょっとした遠出ではあるけど、無理なく夕方には戻って来られる。

企画展には正直なところ、それほど強く惹かれたというわけではなかった。しかし、コレクション展はどうだろう、と確認してみて驚いた。イヴ・クラインがある。まさか川村美術館にあったとは。うまくいく時はこんな風に物事が進むのだ、というお手本のような出来事だった。こうして私はイヴ・クラインを見に川村美術館へ行くことにした。

都内からはまず、最寄駅の佐倉までも遠い。そこから無料送迎バスで美術館へ向かう。始発のバスは開館前に着くが、ラウンジを解放してくれているので炎天下で待つ必要はない。

イヴ・クラインが気になるが、まずは企画展からだ。「色の海を泳ぐ」というタイトル通り、色に包まれる体験ができた。余白を持った展示構成と、キャンバスの大きさによるものだと思う。カラー「フィールド」というだけあるな、と思いながら回った。
作品は撮影不可だった。最近は撮影可の展覧会も増えてきたので、一切撮れないというのは久しぶりな感じがした。ノーランドの作品は、美術の課題にあったような、同明度、同彩度、同系色といった括りで作られている。ジャック・ブッシュの作品は日常にある何か、魚やボトルなどの形が浮かび上がり連想ゲームのようだった。ステラの作品は変形カンバスが斬新だった。
フランケンサーラーの作品は、水彩のようにぼんやりと溶け合う色がこの前のパッキリした作品と対照的で印象深かった。

抽象画を見ていると体を動かしたくなる。踊る、動く、人間や動物は動けなくなった時に死ぬということだな、と唐突に頭に浮かんだ。

ズーバスの荒々しさ、ブーンズの心地良くない感じも面白かった。心地良くなさに迫ることも自分との対話だろう。展覧会のメインビジュアルでもあるオリツキーの滲みからは、作者の意図はともかくとして悲しみや寂しさを感じた。感情に色をつけるならどうなるのだろう。

この展覧会は、展示作品の横にタイトルや解説文がなかった。作品リストにサムネイル画像と、タイトルや短い解説文が載っている。これはよかった。作品に集中できる。解説文を読もうと人だかりができることもなさそうな気がする。

コレクション展示は、色ごとに部屋を分けてあった。
「白/透明」の部屋にはガラス作品や、白く塗られた木の彫刻。木肌をなめらかにすることもできただろうに、あえてしない意図はなにか?油絵の白は、パレットナイフによる凹凸の表情が面白かった。この部屋は2面に大きな窓があり、存分に天然光が差し込む。窓の外は森で、軽井沢の千住博美術館を思い出した。

「青、緑」の部屋はエルンストの「石化する森」、ルノワールの水浴、モネの睡蓮、ポロック、リキテンスタインと、これまで見てきた展覧会では同じ部屋に揃うことがあまりないだろうラインナップだった。ルノワールとモネ、ポロックとリキテンスタインは同じ部屋になりそうだが、それら2グループは混ざらないだろう。色で分けるって面白いな、とシンプルに感じた。

この部屋にクラインブルーがあった。もちろん画面越しにどんな色なのか見てきてはいたが、実物はまた主張の激しさがある。自然にある青ではない、強いて言うならラピスラズリやアズライトが近いだろうか。それらをもっと濃く深く、突き詰めた色だと感じた。
作品自体は縦15〜20センチ、30〜40センチくらいの長方形の小さなものだった。しかし、海の底を覗くような引き込まれる感覚があった。昔、小笠原の海に入った時のことを思い出した。その時は浜辺から少し離れたところでシュノーケリングをしていて、ふと真横を見ると視界一面が深い青だった。陸ではなく、沖の方を見ていたからだと思う。青さに包まれるあの鮮烈な感覚は忘れ難い。その時の青とクラインブルーは違う青だが、心を持っていかれる感じはよく似ていた。

さらに先の「赤、黒」の部屋にはシャガール、マレーヴィッチのシュプレマティズムという不思議な作品。そして、ロスコ・ルームというらしい、洞窟のような暗い部屋に暗い赤で描かれた大きな四角が並んでいる場所があった。
色に包まれる、絵画に包まれるという体感が最も強かったのはこの部屋だった。
体内にいるようで、これは血の色だと思った。自分の原初へ降りていく感覚になる。自然と内省が生まれるような。でも私はクラインブルーの方が好きだ。この部屋は私には重く、少し怖かった。

常設展はさらに「銀・灰」の部屋、「金・黄」の部屋へと進み、マグリット「冒険の衣服」ピカソ「肘掛け椅子に座る女」、麦わらつながりでリキテンスタインとピサロが並ぶ。総じて、色という分類はとても面白かった。

今回、クラインブルーを見ることができたが、正直なところ私の中ではギメブルーとクラインブルーの色の違いはそれほど明確にはわからなかった。インターメディアテクの照明の暗さのせいもあるかもしれない。両方並べてみたらわかるのかもしれない。しかし、その違いを見つけることにあまり意味はないだろう。深い青の美しさに変わりはない。こういった色に私が惹かれるのは、子供の頃からだった。美術展を見ていると、そんなふうに自分の小さい頃を思い出すことがある。インナートリップもある種の旅だ。これからも企画展タイトルのように、様々な感情の色の海を泳ぎきっていきたいと思う。

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