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猫と見たオロール

「母ちゃん、すごいね!きらきらしてる!」
そんなふうに興奮しているこの子のクリーム色の毛も金の瞳も、光を浴びて美しく煌めいていた。


昨日はなおさんと少し口論をした。なおさんにとっては2連休の2日目だった。
口論、というのは大げさかもしれない。まるのサークルをもっと背の高いものに買い換える話は少し前からしていて、この日は最近できた大きなペット関連ショップや、リニューアルオープンした近くのホームセンターまで車を走らせてくれた。
まるのためのお買い物はいつもあれこれ話し合いながら一緒に買うことが多い。定番になりつつある夫婦のデートでもあった。

「店頭やと、やっばり理想のサークルはないね」
「なんかいいなと思ったものでも、レビューをみると微妙やしね」
車中でそんな話をしていたはずだった。けれど気づいたら、会話の内容も声も明るさを失っていて。
意見を言い合っていたら、どんどんお互いの意見のすれ違いが明らかになる。
結局どこのメーカーとか、どれくらいの大きさとか、はじめは検討していたアイテムたちもあったのにわからなくなってしまって、ふたりの思考の糸がごちゃごちゃに絡まってこの話は一旦保留になった。

なおさんはあまり空気を重くしたくなくて、わたしの名前を呼びながら「また考えよう」と言ってくれる。けれどわたしは、頭の中が一度フリーズするとしばらく戻らない。
【うつ】の治療を続けて、漢方も併用しながら少しずつ好転に向かっているのは確かだと感じてはいる。だけど少し気持ちが浮上すると、思うようにいかないことが起こったときに脳がパニックを起こしてしまうのだ。
「無気力」に蝕まれた跡は簡単には治せない。手術もできないこの病は長い時間をかけて心と体を改築するしかない。

とりあえずホームセンターで買ったまるのご飯と猫砂を持って家のドアを開ける。
「父ちゃん母ちゃんおかえり!ぼくいい子にお昼寝してたで」
サークルの中でびびびっと伸びをしてあくびをする我が子を見て、わたしはようやく思考が動き始めた。

ああ、わたしはこの子の親に不適合なのかもしれない。わたしはいい母にまだなれていない。
目の前に息子がいるのに、足元は奈落に思えた。

サークルの前で立ったまま涙を止められないでいるわたしの肩に、大事なものを壊さないように触れるみたいに、なおさんは恐る恐る手を置いてくれた。
「ごめんね、せっかくデートやって楽しんでくれてたのに」
そんなことをあなたに言わせてしまう自分が情けなくてたまらない。
「わたし、まるの親失格や。なおさんの妻失格や」
そう嘆きながら子供みたいにわんわん声を上げて泣くわたしを、彼は今度は強めに抱きしめてくれて、
「そんなわけないやろ、誰よりも俺とまるの事を必死に考えてくれてるんやから」
子供をあやすような優しい声で伝えてくれていた。


皮肉だけれど、心というものは壊れても「無」になっても、「消滅」することは絶対になくて。
一度破裂したわたしの心は長い時間をかけて破片をひとつずつ縫い合わせて、今ようやく子供くらいまで成長し治しているんだと思う。
まだまだ月日、あるいは年月をかけていかないといけなくて、それでも今幼い心で声を出して泣くわたしを、なおさんはしっかり抱きとめてくれていて。

まるにもなおさんにも申し訳なくて、でもすごく安心できて、ごちゃごちゃに絡まっていた思考の糸が少し緩んだ気がした。
「母ちゃんどうしたん?」
しばらくして涙が止まりかけて、ぐしゃぐしゃに濡れた顔を夫にティッシュで拭いてもらっていたら、まるが不思議そうに見上げながらうかがってきた。
深呼吸をひとつして、
「ねえ、また色々見に行ってみようか」と言葉にしたら、なおさんはほっとしたように笑ってくれた。

この日の夕飯は彼が好きな和風のハンバーグで、いつもより美味しくできた気がする。


なおさんが休み明けの出勤に備えてぐっすり寝ている横で、わたしはこの日一睡もできなかった。
頭が考え事をやめてくれなくて、好きな香りのオイルを嗅いでも、睡眠薬を飲んでも効果はない。寝苦しいわけでもないのに。
わたしは諦めて、夜明け前に布団から出た。リビングにそっと入るとまるは「あれ?」みたいな顔でハンモックからこちらを見てくる。
「母ちゃんどうしたん?早起きやね」
日常の半分以上、昼過ぎまで起き上がることができないわたしの珍しい行動に、猫はきょとんと目を丸くしている。
「起こしてごめんね。まるは寝てていいよ」
そんな感じでお白湯を用意して、テレビもつけずにリビングで過ごした。まるはいつの間にかまた丸くなって寝息を立てていた。

リビングの窓はシャッターを閉じていた。オレンジのスポットライトだけつけてしばらくぼーっとして、白湯が冷めたから水を足して温めて珈琲を飲もうかとキッチンに行ったとき、縦長のハーバー窓から光が漏れているのに気付いた。
夜明けの光だ。
わたしはもうずっと、この光を見ていない。

なおさんは仕事柄早くても起床は7時過ぎになる。稀に彼と一緒に起きれたとしても見るのは登った朝陽であって夜明けではないから、本当に久しぶりの日の出。
ハンドルを回して窓を開けてみたけれど、ここからは隣の建物で太陽は見れない。
「まる、お日様見よっか」
わたしの物音でハンモックから起き出た猫。サークルの扉を開けると
「父ちゃん起こしに行くの?まだ早ない?」
って言いながらも寝室についてきた。

寝室では東に枕を向けている。頭上の小窓のカーテンの隙間からは明るい光が漏れていた。
猫は「ぼくの特等席!」と言わんばかりに窓枠にひとっ飛び。なおさんが寝ている横で、眩しさで起こさないようにわたしもそっとカーテンの中に入って、磨りガラスの窓を半分開けた。
わあっ、と弾むような猫の声。建物の間の向こうに見える、高架鉄道の線路のそのまた向こうの空から、低い陽がそれでも眩く光を放ちはじめていた。
「母ちゃん、ぼくお日様がこんなに光ってるのはじめて見た!」
眩しそうに瞳孔を閉じるゴールドイエローの目はまん丸くて、光を取り込んで放さない宝石みたいで。タイミングよく通る貨物列車のシルエットを嬉しそうに追う息子の頭を、指で優しく撫でる。

空はコーラルがかった淡い色と水色のグラデーション。上から薄い白と影を刷毛でひと撫でしたように雲が画かれている。
夕陽よりも優しく強い意志のこもった光。
きれいなオロール色だった。
オーロラの意味があるけれど、元は夜明けの女神アウロラからきている。女神の夜明けの色を、猫と一緒に眺めている。

あなたはわたしの愛しい息子。
心で唱えたわたしを、はじまりの陽の光が温かく肯定してくれるような、そんな思いがした。
「昨日は心配させてごめんね」
後頭部を撫でながら小声で言うと、猫はわたしを振り返って、輝く毛並みと宝石のように煌めく目で言った。
「母ちゃん、すごいね!きらきらしてる!」
うん、うん。きれいだね。ありがとう。きれいだね。
足元の夫が寝返りするまでの少しの間、母と子で束の間の夜明けを見ていた。今朝のオロールを、わたしはきっと忘れない。



大切な子供のことなのだから、夫婦で時には言い合いにもなる。ならないほうが本当は怖い。
間違えていけないのは、最終目的。この話の最終目的は「まるが幸せであること」。
そのためにも「わたしもなおさんも幸せになること」をタスクとして、またわたしは治療を頑張りたいと改めて静かに思った。

朝の陽と空は本当に不思議で、根拠はないけれど心の退化を止めてくれるような、自身のまだ幼いそれの成長を少しだけ促してくれるような……。
そうして気休めでも思わせてくれる。
今一緒に窓の外の景色を眺めるわたしとまるは、ちゃんと親子なのだと。

『猫と見たオロール』

「朝焼けの空ってきれいやね」
いつもの時間に寝ぼけ眼でリビングにやってきたなおさんに声をかける。
よく明け方に釣りをするなおさんはそれを思い出したのか、それともわたしの表情がなんとなく明るかったのか、目を細めて「そうやね」と言ってくれた。


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