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『取り戻しつつある五感が教えてくれる』

窓を開けると雨のにおいがするとか、季節のにおいや気配がしてぞくぞくするとか。
あの感じをちゃんと覚えていた。わたしの五感は少しずつ息を吹き返している。

「母ちゃん、お外の風気持ちいいなあ」
ソファ横の窓を少し開けると、いつもまるはそこに来て、網戸越しに風や鳥や人の声に耳をそばだてる。
心地よさそうに目を細めたり、その場でごろんとくつろいだり。
たまに目先の電線にとまった鳥にクラッキングしたりもするけれど。
「気持ちいい?よかったねえ。わたしは今から顔面工事するからねぇ」
「どっかお出かけするん?」
「そんなとこやね」
のんびりと会話をする晴れた日の午後のことだった。

トーンアップクリームの下に、いつもより念入りに日焼け止めを塗っておく。
今日は自転車で少しだけ遠い場所に行くからだ。
少しだけ遠い、という言い回しだけれど、これは今のわたしからすれば割と勇気のいる距離のことだ。
行って帰ってくるだけで体力は尽きてしまって、恐らく翌日は夕方まで潰れるんだろう。
「なんで出かけるん?」
「ちゃんと目的があるからやで」
今日の目的は、自身の日焼け止め機能付きの麦わら帽子と、なおさんのインナー。
続く息子からの「なんで?」攻撃を、昔抜きすぎて生えてこなくなった眉を描くのに集中しながら受け流した。


元気な人なら片道30分あれば余裕で着くところを、45分くらいかけてゆっくり行こうと思った。
そこは広い土地に2階建てのユニクロと地元に根付いたスーパー、大きなホームセンターに格安衣料品店やベビー用品店、道を挟んで家電量販店にスポーツ用品店、ドラッグストアがババンと建っている。
イオンみたいな商業施設以外でこんなに勝手が良いところは近くにない。
なおさんとは車で何度か来ていて、ここのホームセンターで最近猫のケージもアップデートしたし、家電量販店でポータブルブルーレイプレイヤーを買った。

今日ひとりで自転車で行ってみようと思ったのは。目的もあるけれど、昔からのわたしの癖みたいなものがあった。

猫に手を振ってエントランスを出ると予報よりだいぶ気温が高い感じがした。悩んだけれど五分丈にしてよかった。
ペダルを押して自ら風を作る。わたしはこういう風もすきだ。未明まで降っていた雨の湿気の残りが、新緑のにおいをより引き出している。

道はほぼ真っすぐで、やや幅広の河川を2本渡る。その橋のアーチの上りがしんどいくらいで、あとは本当に平坦な道。それでもバテるんだから、わたしは治療と共にもっとしっかり体力づくりに励まなければいけないと感じた。
明日は動けないことを覚悟して、それでも蘇生した「探検心」を今日は久々に優先させて、そんな自分に呆れもしながらのんびり車輪を回す。
まあ、明日だめになりそうということはなおさんにも伝えてあるからいいのだ、と頭の中で勝手に納得しながら。
少しドキドキしている。ひとりでこの道を通るのははじめてだったから。

夕刻より少し前の、陽射しが強い時間帯。
もう家からは離れてしまったところで今更ながらに気づいた。顔以外の露出している部分の日焼け止めを塗り忘れている……。
【うつ】になる前は日焼けをしないように、出かける少し前に絶対腕にも首にも髪にも、しっかりUVカットの対策をしていたのに。

出来ていたことが出来なくなるのはもう仕方のないこと。けれど物忘れが増えていくのは気持ち的に本当に辛かった。
若年性のアルツハイマーの可能性を疑って、頭を抱えたりもした。
今年、わたしは新しく日焼け止めを買ったのに。もう何度も塗り忘れて両腕はすでにいくらか吸収してしまっている。太陽光を。

この日は流石に頓服薬を頼っていたから、ひとまず目的を果たすために自転車を進めることができた。
ひとつめの河川の上の橋から下を少し覗く。犬を連れて散歩している女性に、釣り竿を垂らす男性が小さく視界に入った。車移動ではちゃんと眺められない光景。とても綺麗というふうではない川も、燦々と降る光の下で星屑を生み出すようにきらきらと揺れている。
のどかで、平和で、今のわたしからしたら羨ましい風景に少しだけ鼻の奥がジンとした。
あとからなおさんに言ったら、最近は鰻を目当てに釣りをしに来る人もいるんだとか。

ふたつめの橋にかかる直前の、横にそれた道に大きな家を発見した。なんだか複雑な形の豪邸で、外壁の色や素材、エントランスの雰囲気と玄関ドアのこだわりが素人でもわかる外観。よく見ると奥行きもすごい。近くにいかないと構造もわからないけれど、今は我慢とわたしは諦めて橋に進んだ。

これは悪い癖なのかもしれないけれど、昔から人の家を見るのがだいすきで、散歩がてら外から眺めて勝手に間取りやらを想像するのがいつも楽しくて。
ここは海に近い街。海抜ゼロメートル地帯が広がる平野で、たぶん土地の価格も比較的安いとかいろんな条件があるんだろう。広い庭に立派な家が多かった。見る分には本当にわくわくで面白い。
わたし好みのいい豪邸を見つけられた喜びで、先ほどまでの心の重さはどこかに行っていた。


ホームセンターには、量販店より製造年が古くて安い家電を下見した。また今度量販店を巡る予定ではいるけれど。
結局ここのホームセンターには探しているスチームアイロンはなくて、わたしは早々に麦わら帽子を探しに行く。
頭が大きいから、帽子集めには割と苦労している。なおさんの職場にNIKEのバケットハットがあるのだけれど、わたしはLサイズがいいのに行くたびにLが売り切れるから、もうわたしは別のところで買うことにしたのだ。べつにとりわけNIKEじゃないといけないわけでもなかったし。
帽子は何個かあるけれど、ストローハットは持っていなくて。髪の毛が日焼けしにくいUVカット機能があれば嬉しいなと思いながら。

大きなショッピングセンターや商品数の多い売り場は、次第にめまいが発動する可能性があるので、目的のものだけに集中した。
いくつか麦わら帽子をかぶってみて、つばの広さ、機能、つばの揺れ感、シルエットのバランスを見比べて。
最初は小さな鏡で見て、最終的に全身を映す鏡で確認して決めた。リゾートスタイルにもカジュアルにも、アウトドアっぽくもなれる可愛い一品を見つけられて、わたしは鼻息ふんふんで購入する。
ちなみに帰ったあとクローゼットにしまったんだけれど、大事なCA4LAの秋冬ハットとボリューム感が似てたから、CA4LAを型くずれさせないための土台にもなるように重ねて収めることにした。


ユニクロでの買い物は簡潔だ。
なおさんが欲しいと言ったインナーアイテムを希望された通りに買うだけ。
小さめのエコバッグは、わたしの帽子となおさんの服で満たされていく。いつもエコバッグはふたつ持ち歩く。もうひとつの茶色のバッグは、スーパーや薬局でたくさん買っても大丈夫なくらいの大きさ。

ユニクロに隣接するスーパーはやっぱり寒くて、仕方ないんだけれど寒くて長居をするのはやめた。
今日はさっぱりざるうどんを夕飯にしようと思っていて、スーパーのプライベートブランドの乾麺が美味しいのでそれを買って………
「あれ、きしめんあるじゃん」
乾麺コーナーに、同じくプライベートブランドのきしめんが並んでいる。迷った。
早々にバレているかもしれないけれどわたしはエセ関西弁で、これは関西から愛知に異動のために引っ越してきたなおさんの影響をもろに受けている。
元々は名古屋弁と三河弁が混じった話し方で、そこに関西っぽいイントネーションも割り込んできたからもうよくわからない言語に進化した。

それは置いておいて、関西からやって来たなおさんはこの地方できしめんと出会い、きしめんを好きになった。上司と出先で食べ、わたしと行った熱田神宮の境内でも食べ、お義母さんが遊びに来たときも近くのカレーきしめんが美味しいところに連れて行って食べた。
ちなみにお義母さんはお蕎麦を食べていた。
愛知の文化に少しずつハマっているなおさんを見るのは楽しい。わたしは今乾麺コーナーで身動きせずに商品を睨んでいる、あまり近付きたくない客である。
わたしはしばらくの葛藤の末、買い物かごにいつものざるうどんをひと袋いれる。そしてきしめんもひと袋入れた。
なおさんに「今日はざるうどんときしめんの食べ比べにします」とメッセージを送って。
それから10枚入りの大葉を一緒に買う。長芋は家にある。さっぱりなめんつゆに大葉を入れて、それから味変でとろろを加えよう。喉越しがつるりんと気持ちよく、腹持ちもいい。

少しだけ重くなったエコバッグを自転車のかごに詰める頃には、空は美しい水色と鴇色に染まっていた。気温が下がっただろうけれどスーパーから出たばかりのわたしには丁度いい温さで、心地よく自転車を走らせた。
イネ花粉が敵なのに少し遠回りして雑草が元気に生い茂る細道を進んだのには理由があったというか。
あの豪邸をもっと間近で見たくて、これがそこにつながる道だったから。
こういう探検心がまた自分の中でくすぶり始めたのは嬉しいことだった。【うつ】発症のとき、そういうものたちは、気力と体力と共に一掃されてしまっていたから。


「こうなる」前の話をもう少しだけすると、わたしは仕事バカなだけあって体力もそれなりにあるほうだった。
子供の頃は病弱だったけれど、ジュニアも参加できるマラソンで持久力もそれなりに鍛えられて。そう、持久力は個人的に数少ない自慢でもあった。
毎日の通勤はだいたい電車だけれど、上司とご飯をして終電をなくして、繁華街から4時間弱かけてアパートまで歩いたことは何度もあるし、それが6センチヒールのブーツでの帰路ということもあった。
流石に疲れるんだけど次の仕事への支障は特になかったし、少しのスリルを感じながら長い距離を歩くのは嫌いじゃなかったのだ。

みんなに話すと「馬鹿か」と心配される。そりゃ、歳は歳だけど女がひとりで真夜中に暗い道を歩いていたらと考えると、上司からしたらヒヤっとするんだろう。わたしも後輩が同じことをしたらちょっと怒るかもしれない。
持久力とどこかふっ飛んだ根性があった、あの頃を今は懐かしんで笑い話にしているけれど。なおさんにも「何してんねん」とよく言われていたなあ。
眠りにつく街にポツポツと明かりの灯るコンビニや深夜営業の飲食店。タクシーのランプに信号の赤と青。いつもと違う青い湿った空気。星の見えない空。
そんな、日常の中の少し妖しげな雰囲気の中を歩くのが、わたしは楽しかった。

それは、もう当分できないであろう探検。独身だから、元気だからできた自由の冒険。
今は家庭を持って、自分の病と向き合っていて、体力はまだ1/4くらいしか戻っていない。
特に悲観するわけでもなく、楽しかったなあという思い出話。

……探検心は、あのときとは別の形で今私の中で再び生まれている。
行きの道でちら、と見た豪邸は近くで見るともっと豪邸だった。建造物を見るのがすきだったわたしの心がいつぶりかに弾んだ。いつもはトライしない距離を自転車で走ってしんどいのに、それに勝るときめきだった。
きっと回廊みたいな構造で、中庭があって吹き抜けがあるんだろうなと勝手に想像する。表と裏側の外壁が違っていて面白かったし、この土地にかけるデザイナーのこだわりがきっとたくさんあるんだろうなと思わされる、素敵な外観だった。

「いいものを見たな」
そんな気持ちで、わたしは帰り道の方角に向き直る。
あくまで建造物を見るのがすきで、イコール住みたい憧れの家、というわけではないのだけれど。それでも気持ちは高揚する。わたしにとって目に入るその情報は即効性のある薬だった。

もうひとつの橋を渡る途中で見た空はセルリアンとマリーゴールドと白。川の上だから電線が邪魔しない、絶景の空だ。もうあの釣人の姿はなかった。

五分丈の広がる袖をぱたぱたと揺らす風、すっと涼しい夕暮れの気温。わたしの横を過ぎていく帰宅ラッシュの車とテールランプ。
どこかから漂う美味しそうな夕餉のにおい。
そんな普通の気配がすきだった。
……窓を開けると雨のにおいがするとか、季節のにおいや気配がしてぞくぞくする、そんなごく普通の風景が。
ただ、こんなに尊く思う日が来るなんて、以前のわたしは知らなかったんだ。

はやく帰ろう、まるが寝ながら待ってる。
なおさんが帰ったらそうめんときしめんの食べ比べをして、今日の戦利品を見せて、まるとなおさんが遊ぶ風景を見ながらお皿を洗って。
あの豪邸に暮らす人とは全く違う形だろうけれど。
我が家もこうやって、みんなが見過ごしていく普通で特別な風景の一部になっていく。

『取り戻しつつある五感が教えてくれる』

わたしがちゃんとこの景色の中で息をしているということを。

ちなみに買った大葉は、10枚入りなはずなのに9枚しか入っていなくて、ちょっとこのやろうって思った。


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