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自分が誰かにとって最後の命綱かもしれない

『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』を観て、創作における狂気性について書きましたが、
あの映画の中でもう一つ、書きたい場面があったので書きます。

前半は、死後に発見されたネガフィルムが大反響を呼んだというドラマ性と、「一体彼女は何者なんだ?」を解明する高揚感があるのですが、

後半は、彼女の孤独にフォーカスが当てられて、どうしても社会から疎外されてしまった、彼女の孤独の恐ろしい深さについて考えざるを得ないような内容でした。

その中で、深く印象に残ったのが、かつてヴィヴィアンの雇用主であった女性とその娘が、30年ぶりに彼女に再会した時のことを語っている場面。

以下、映画からの引用です。(母と娘の語りが混じってます。)

30年ぶりの再会よ
でも一目で分かった
"元気だった?久しぶりね"と挨拶を交わしたわ
会えてよかったと再会を喜んだ

そして歩き出そうとした時よ
彼女は母に"キャロル 行かないで"("Carol, please don't leave.")

早く水浴びを孫たちは騒ぐし とにかく暑かった

もっと話そうとせがむ彼女を"今は無理よ"とはねつけたわ
すると"でも友達でしょ?"

放棄よね
そうとしか言えないわ 後悔してる
旧友に会えた喜びを絶望に変えたのは 私の態度だった

"一緒に"と誘ったけど彼女は来なかったわ
それきりよ

ヴィヴィアンの晩年の様子(浮浪者になって、おかしなことを叫んだりゴミをあさって食べたりしていた)を知ると、この場面にはすごく胸が痛みます。

私が思うに、このキャロルという女性は、ヴィヴィアンにとっての最後の命綱だったのではなかろうかと。

彼女は乳母という記号の上でしか他者と関われなかったし、関わった人々とも「雇用主と乳母」という関係を超えて理解しあうことはできなかった。

それでも、関わってきた人々は孤独な彼女にとって唯一の繋がりで、救いだったのだろうと思います。

孤独と狂気にほとんど覆いつくされそうになっていたときに、偶然再会した「繋がり」。

ヴィヴィアンと世界をつなぐ糸はほとんど切れかかっていて、もうだめかと思っていたところに偶然現れた旧友。

キャロルと出会って、「あぁ、久しぶりに友人と会話できる。これでもうしばらくは耐えられる...。」とヴィヴィアンは感じたかもしれません。

「今は無理よ」というキャロルの言葉は、ヴィヴィアンにとって「唯一の命綱を切られた」というくらい深刻なものだったのではないかと思うのです。

無人島で、食糧も全て尽きて死にかかっていたところに現れた船。
その船が、こちらを一瞥したけど自分の存在に気付かずに去ってしまった。
もう船は来ない。

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精神が健康な人にとっては何でもないような、ほんの少しの挨拶や会話が、誰かの「命綱」になっていることがあるのではないかと思うのです。

実際、自分もすごく落ち込んで、友人にもあまり会わず何となく外に出る頻度が減っていた時期があって、

それほど関係の深くない友人とたまたますれ違い、

「あ~久しぶり!最近学校で会わないね」と何てことない短い会話をしたとき

「救われた」

という気持ちになったことがあります。

たぶんその友人にとってはあまり記憶にも残らないような些細な出来事だったのだろうと思いますが、

私にとっては、孤独の中で「正常な」世界から少しずつ遠のいていた自分をつなぎとめてくれたような、大切な出来事だったのです。

これが、自分だけが目線を向けたけど友人は気づかず、何も言葉を交わさずにすれ違っていたら、もしかしたら精神的にダメになっていたかもしれない。

私たちの精神は案外、人生の中での大きなイベントではなく「ほんの小さな出来事」の積み重ねで形づくられているのかもしれない。


自分が、誰かにとっての最後の命綱になりえるかもしれない、と考えたことはありますか?

自分が何となく無視してしまった相手が、実は自分に「救い」を求めていたのだとしたら?

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私たちは、精神的に参ってしまった人や自殺してしまった人に、「何で?」と問うてしまうけど、明確な一つの大きな要因があるわけではなくて、
日々の本当に小さなことの積み重ねなんだろうな、と改めて感じました。

Netflixで話題になっている『13の理由』はその小さな出来事の連鎖をすごく上手く描いていると思う。

誰か1人のせいというよりは、かかわってきた色んな人に、少しずつ理由がある。

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