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クレア・キーガン『青い野を歩く』岩本正恵訳、白水社

日本ではあまり知られていない作家の短編集。これが実にアイルランド小説らしい。島国であることや、カトリック信仰から来る独特の強い閉塞感。それと美しい自然に囲まれて暮らす抒情や身近な動物たちへのあたたかいまなざし。そういうものが一体になっていて、たとえばジョイスの『ダブリナーズ』がダブリンを舞台とするアイルランド小説の代表だとしたら、こちらは地方が舞台の典型的なアイルランド小説だ。ジョイスは100年前の作家だけれど、この閉塞感(ジョイスは「麻痺」と呼んだ)は今日でもそれほど変わっていないのではないかとさえ思ってしまった。ただ、今も昔もアイルランド人は英語ができるから、その気にさえなれば外国へ移り住むことができる。ジョイスのように。ただ「その気になる」というのがまた難しいことではあるのだけれど。特に女性にとっては。

こう書くと暗い小説のように思うかもしれないが、ときおり希望もまじるし、興味深い女性のキャラクターも登場する。「別れの贈り物」は実父から性的虐待を受けてきた若い女性がやっとアイルランドを出てアメリカに旅立つ話。最後に彼女はダブリンの空港に着き、トイレに入る。泣きたくなるが、「きみは泣かない。また別のドアを開けて閉め、鍵をかけて個室に安全に閉じこもるまで、きみは泣かない。」ここで終わる。うわーん、がんばれよー、とこちらも涙ぐみながら応援したくなる。

「長く苦しい死」は、ある有名作家が昔暮らした田舎の家に短期的に住んでこれから仕事を始めようとする若い女性作家の話。そこに図々しくて傲慢なドイツ人の元大学教授が見学に訪れる。自分が作家の邪魔をしておきながら、散々言いたいことを言って帰っていったこのミソジニー男を主人公にして、彼女は書き始める。その小説の中でかの男は病気になり、遺言状を書き、長く苦しい死をこれから迎えようとするのである。痛快。

最後の「クイックン・ツリーの夜」は大柄で豪快な女性が登場する。若いときに神父との恋に苦しんだが、いまは執着を断ち切り、野放図な生き方をしている。その風情が、まるでハグ(hag)(一種の鬼婆)のようで面白い。彼女はひょんなことから隣家の孤独な男と寝るようになり、その子を産むが、やがてそこを飄然と去っていく。女性が本来持っている荒々しい生命力を体現したような女だ。

女性だけでなく、男性が主人公のものもあり、中には悩みを抱える神父の話「青い野を歩く」もある。神父は他人の悩みを聴くばかりで自分の悩みは誰にも打ち明けられない。考えたら辛い存在だ。この神父はあるとき謎めいた中国人に出会う。こういう主人公が出るのもアイルランドならでは。

この夏、アイルランドを旅行するのもいいけれど、この本1冊読めばかなりディープなアイルランドを知ることができますよ。お勧め。


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