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レイモンド・カーヴァー『Carver's Dozen: レイモンド・カーヴァー傑作選』村上春樹編・訳、中公文庫

何度目かのカーヴァー。村上春樹の翻訳で。やっぱりいい、というより読むたびにさらによくなる。

見知らぬ女性が間違い電話をかけてきて、間違いなのに会話をつづけてしまう「あなた、お医者さま?」とか、掃除機のセールスマンが来て掃除機をかけていく「収集」などは村上自身も似た話を書いている。そして何より、井戸に落ちる話もカーヴァーが書いてるじゃないか(「僕が電話をかけている場所」)。村上の影響のされ方がまったく半端じゃない。でもきれいな話になったり、象徴になってしまっている村上のよりも、カーヴァーのリアリズムの方がわたしは好きだ。

今回特別によかったのは「足もとに流れる深い川」。女の気持ちがどうしてこんなに書けるんだろうと思う。カーヴァーってずんぐりした男で、そんな風には見えないのに。夫がやったことにどうしても引っかかってしまう妻。それがうまく言葉にならず、ただその気持ちを引きずっている。いらつく夫。セックスで解決しようとするが、妻はそんな気にならない。この二人が結婚して長年連れ添うのは、そもそも無理があるんだろうなぁ。

そして、自身が癌でまもなく死にそうなときに、最後の力をふりしぼって書いたという「使い走り」。チェホフが死ぬときの様子を描いている。いよいよというときに医者がシャンパンをホテルに注文し、チェホフはそれをひと口だけ飲んで死んでしまう。そのあと、妻がホテルのボーイに事細かく彼がやるべきことを指示する。それが単に段取りよく進めるための指示ではなく、すべてチェホフという偉大な作家にふさわしく物事が行われるようにとの思いからなされている。これを書いているカーヴァーは、きっと自分が死んだあとのことを想像していただろう。自分の死のあとに起きるこまごまとしたことを思い描くように書いている。シャンパンのコルク栓が床にころがっていて、ボーイはそれが気になって、最後に部屋を出る前に栓を拾っていく。そんな小さなことを含めて、自分がもういない世界で起きる様々なことを透明な目で見ている。

今回は「大聖堂」が以前ほど感心しなかった。どうしてだろう。これ以外に別の翻訳バージョンがあったのかなと思うぐらい。最後の主人公と盲人が一緒に大聖堂の絵を描く場面も、以前はかすかにセクシャルな感じがしたのに今回は何も感じなかった。変だな。以前、自分で原文を読んだり、それを翻訳してみたりしたときにはもっと感動したのに。でもこういうことはたまにあるのだ。

村上春樹のカーヴァー訳は、出版にからんだ事情から複雑なことになっているらしい。同じ作品でも手を入れて改訳したものもあるとのこと。

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