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イアン・マキューアン『土曜日』小山太一訳、新潮社

前知識なしに読み始めたのだが、時間の流れ方がひどく遅く(つまり一定の時間内の描写がひどく長く細かい)、これはいったいどういうタイプの小説なのだろうと戸惑った。小説の冒頭は、主人公の男が早朝に窓の外を見ると飛行機が火を噴いて降下しながら飛んでいる。それを目撃した男の長い長いモノローグがつづく。

読み続けてわかった。これはものすごく細かく意識の流れを書きこんだ小説なのだ。主人公は脳神経外科医で、彼が土曜日の早朝目覚めてから、妻となどやかにセックスしたり、息子と会話したり、コーヒーを飲んだりする。その間も実に細々と彼が考えたことがつづられる。妻は弁護士で大事な仕事のため外出するが、彼は仕事に行かなくていい。だが常に仕事のことが頭をよぎっている。ゆっくりとクルマで家を出て、イラク戦争反対のデモを眺めながらこの戦争のことを考え、交通規制された道路をクルマで走り、事故に遭う。クルマをぶつけてきたのはならず者のグループ。グループのボス格の男としゃべるうちに彼が難しい病気に冒されていることに気づいて相手に告げる。

男のグループとはややこしいことにならずに切り抜け、彼は予定通り同僚とスカッシュをする。痴呆症の母親を施設に訪ねる。家に帰って娘と会話し、義父を家に迎え、仕事から帰って来るはずの妻を待つ。今夜は家族で集まってちょっとしたパーティをするのだ。だが、そこでたいへんなことが起きる…。と、こういう土曜日のロンドンでの出来事を早朝から深夜まで追いながら、徹底して主人公の意識の流れを記述していく小説だ。

つまり、これは現代版の『ダロウェイ夫人』なんだ、と思った。約100年前にヴァージニア・ウルフがロンドンのある一日を描いたのと同じ手法だ。だが主人公は女性ではなく男性。主人公は経済的に恵まれた平穏な生活を送っているが同時に社会では大きな出来事(ウルフは第一次世界大戦直後で、マキューアンはイラク戦争中)が起きている。初めに飛行機がよくわからない不安をかきたてるし、一日の終わりがパーティでそこにある種の「死」が訪れるのも同じだ。

とてもイギリス的な小説だと思う。冒頭の飛行機事故やイラク戦争反対の大きなデモ、自分の交通事故などに遭遇しながら主人公はその都度気持ちが揺れているし、恐怖も感じている。だが、いつも精神のバランスを取って踏みとどまろうとする。大きくは崩れない。(そこは心理的な揺れの激しい『ダロウェイ夫人』とは違うところだ。)

『土曜日』のパーティでの出来事はネタばれになるのでさすがに書けないが、そこである詩が大事な役割をするのが面白い。マシュー・アーノルドの「ドーバー・ビーチ」という有名な詩だ。この詩自体がとてもイギリス的だ。

大人なんだな、イギリスは。大人であるとは「感じない」ということではなく、大いに感じて揺れているのにその揺れを抑える力を持つということなんだと思う。つまり相当な胆力が必要になってくるのだろう。



(うちの古いものシリーズ。ビクトリア時代のガラスの器。美しい赤い色のためこのガラスは「クランベリー・グラス」と呼ばれています。)




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