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脳が心を作った理由が衝撃的だったのでまとめた

ヴィパッサナー瞑想という瞑想を10日間で100時間を行う修行に行ってから、約1年半が経った。その後も、毎日とはいかないまでも日々瞑想を実践していると、自分の心(思考)を観察する癖がついた。

瞑想や、マインドフルネス系の本をよく読むようになったが、よく出てくるのが「私とは何か?」というテーマだ。

瞑想すると、いろんな考えが頭を巡り過ぎ去っていくことに気づく。そしてその思考は過去の体験による条件付けであり、よく観察してみると「思考」は自分そのものではないと分かる。

では、自分や意識、魂とはなんなのか?を日々うーんと考えているときに出会ったのが「脳はなぜ「心」を作ったのか」という本。この本がかなり衝撃的だった。

結論から言うと、人の自由意志は存在しない。私たちが思う「私」や「心」は脳の錯覚である。具体的には、普段の行動は脳のニューロンの一つ一つが判断をした結果であり、その行動が起こった後に自分の意識が生じている。

つまり、私たちが何かをしようと意思を持って決定するけれども、実はこれは錯覚。脳が無意識のうちに判断 / 行動し、後から意識が後付けされているということである。著者の前野さんはこれを「受動意識仮説」と呼ぶ。

(著者前野さんの慶應義塾大学での講義)

内容を理解すると、アドラー心理学を知ったときのような衝撃、天動説から地動説に移った大発見を感じる。しかし、本書を読めばかなり納得感を得られる。以下では「受動意識仮説」とは何かをまとめていく。

自由意志の天地を変えたリベットの研究

前野さんの主張を決定づけるのは、1983年に行われたリベットの論文だ。この実験では被験者に指を動かしたい気持ちになった時に、指を動かしてもらう。被験者には、事前に電極を取り付け、「人の意識の信号」と、「指を動かす筋肉の信号」を比べた。

結果は、筋肉の信号の方が早かった。つまり、先に筋肉を動かそうとしてから、意識があとからついてきたのである。私たちは、意図して指を動かしたと思うがそれは錯覚で、指を動かしてから意識が意味づけをしているというなんとも衝撃的な発見であった。

心の天動説

リベットの研究からわかったことは、「私」という存在が指を動かそうと命令しているのではなく、脳の一つ一つのニューロンである小人が無意識のうちに判断し、指を動かす信号を出してから「私」がいかにも自分が命令して動かしたかのように知覚しているということだった。

これは天動説が誤りで地動説が正しいというコペルニクス的展開と似ている。通常、「私」が中心にいて主体的に「自分」をコントロールしていると考えるのが普通の考えである。しかし、実はこれは脳の錯覚で、「私」は受動的で「自分」は世界とつながっているというような転換が起こる。

少し奇妙だが以下の図がわかりやすい。

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(本書95、96ページより)

こう考えると、では誰が小人をまとめ役をするのだろうと言う疑問が残るが、これは小人たちが民主主義的に決定しているのだと言う。つまり、「私」がトップダウン的に独裁政治をしているのではなく、小人たちがボトムアップ的に、民主主義を行い、「私」はその結果をみているのにすぎないのだ。

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(本書104ページより)

なぜ脳は心(私)を作ったのか?

では、なぜ脳は心(私、意識)を作ったのか?それは、エピソード記憶をするためだ。エピソード記憶とは、自分の行動、体験を記録するためのもの。具体的には「自分は昨日どのお店に行ってどれくらい食べた」ということを記憶することができる。

昆虫は、エピソード記憶を持たない。例えカブトムシは餌を見つければ反射的に食べるし、敵を見つければ攻撃する。しかし、エピソード記憶がないので、「昨日登った木には餌がなかったから、他の場所を探そう」といったような思考、シュミレーションはできない。

一方、人間は進化の過程でエピソード記憶を獲得することで、ここまで生き残ることができた。生き物が生存してこれたのには理由があることは、最近話題の「サピエンス前史」でも分かることである。

しかし、注意したいのは人間は自分が体験したこと全てを記憶しているわけではないことだ。全てを記憶したら、脳はパンパンになる。脳は錯覚することで、都合よく処理している。

では、エピソード記憶をどのように優先づけよう?そのために、「意識」が生まれたというのが結論だ。

エピソード記憶により、私が生まれた

エピソード記憶の履歴を保つために、「私」の意識が生まれた。私たちは、普段対象に対して、快/不快を感じることで、大切なエピソード記憶を残し、いらない部分は編集したり、削除したりする。夢をみている時は、その編集作業をしている時だ。小さい子供がよく寝るのは、たくさんの未知と出会い、大人よりも記憶の処理がたくさん必要だからだ。

過去の印象的な記憶を思い返す時、言葉では表現できないありありとした体験を思い返すことができる。これが意識であり、哲学の専門用語でクオリアと呼ぶ。(ちなみにUverworldの曲「クオリア」はめちゃいい曲)

「私」が幻想だとしたら何をしてもよいか?

本書の主張はひとまずこれで終わり。これを読み終わった時、ある疑問が起こった。もし私が幻想で環境や出来事によってニューロンの小人たちが民主主義的に判断して決定を行うのなら、自由意志がないのなら、例えば殺人なども許されてしまうのではないか?どうせそれも幻想なのだから。

実は、人は自由意志の存在を疑うと、不正行為に走り、他人に協力することをやめる、といった傾向が強まるということも実験で証明されているらしい。

自由意志のなしに、人生をいかに生きるか?

「このことから学べることはなんだろう?」これは最高の問いだ。人は思考することができるからこそ、過去の失敗から学び進化することができる唯一の生き物である。

この前野さんの主張はあくまで「受動意識仮説」であり、科学的に立証されているわけではない。しかし、リベットの研究はいまだに覆されておらず、逆に自由意志があるのだとしたら、「意志は脳の働きではない」ということが証明されないといけない。

もし自由意志がないとしたら、私たちは人生をどう生きることができるだろう?この事実から学べることはなんだろう?

例えば、もし不運なことが起きたり、人生つらいなぁーと感じることがあっても気にしなくて良い。それは私ではなく、脳のニューロンが導き出した思考だからだ。私が考えたものではない。そう考えると人生少し楽になるのではないだろうか?(そう考えているのも私ではなく、ニューロンの民主主義の結果だけど)

私たちが思う「私」は大した物ではない。環境が、過去の経験がありもしない自分を形成している。その事実に気づいた時、自分が執着していたものや過去、思い込みは無意味だったと気づく。

だからもっと気軽に人生を楽に生き、今を楽しめば良いと思うのだ。

それから「私」が生きた奇跡は、自分のエピソード記憶としてとどめておくことに価値があるのではない。生きていたってどうせ忘却していくし、脳内の記憶は身体の死とともに消滅する。だからそこにしがみつくことに意味はない。それよりも、子どもや教え子や世界の人々に思想として生きた証を伝承することの方が重要ではないか。

そうすれば、個人の記録は、ささやかながら文化として受け継がれていく。「私」はなんらかの形で伝承される。そして、<私>はちっぽけだけれど、気楽に、着実に、ゆっくりと自分のペースで歩んでいけばいい。安心していい。「私」は確実に、世界とつながっているのだから。

(本書「エピローグ」より)


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