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愚考のゆくえ

 地震の時もそう。大雨の時もそうだ。これくらいなら大丈夫、そのうち納まるだろう。隣近所はまだ逃げてないから大丈夫だろう。これだ人が原始の頃から種の生存のために組み込み培って来たであろう正常化バイアスと同調性バイアスと言われる遺伝子を繋ぐ装置の一部、これが問題だ。

 簡単に説明すると、正常性バイアスと言うのは、異常なことが起こった時に「大したことじゃない」と落ち着こうとする心の安定機能のようなもの。日常生活では、不安や心配を減らす役割がある。もう一つは同調性バイアス
と言われるもので、周囲の人の行動に合わせる、集団の中にいるとついつい他人と同じ行動をとってしまう心理で、日常生活では協調性につながる。しかし、災害時には周囲の人の様子をうかがっているうちに避難が遅れる原因にもなる。余談ながらその反対に、「おおかみ少年効果」周囲に率先して避難する人がいれば、より多くの人を避難に導くことも可能ちなるというもの。大雨のたびに出される避難勧告などに従って、繰り返し避難したが毎回空振りすることも多い、要は諸刃の剣とも言えるものもある。(対策としては、定期的な防災避難訓練と防災リテラシーの向上、率先避難者になるなどと書かれてもいる。)

 さて、年々災害は増えている。気象庁でも今までに経験したことのないといった表現が使われるようになって来た。地球規模の気候変動の影響だろうか、記憶に残っている災害、大きな災害で思い出すのは、1991年普賢岳噴火、1995年1月17日阪神淡路大震災、2011年3.11、2014年御嶽山噴火、2016年4月熊本地震くらいだろうか。私たちの住む大分県は幸いなことに大災害が殆ど来ない。これもいけない、対岸の火事なのだ。

 会社や何かの団体といった組織に属していれば、それなりに災害避難マニュアルを作って対応はしているものの、週末、夜間となり個人に帰してしまえば、それぞれの自治会の地域防災の中に飲み込まれてしまう。昭和の頃とは違い、向う三軒両隣は死語となり、代わりに登場した個人情報保護が足枷で、不用意な声掛けも憚られてしまうことになってしまった。会社で声高に防災意識を啓発するそこそこの役職のお父さんたちも一旦地域に帰ってしまえば、自治会の総会はお母さん任せ、地域清掃にも行事にも顔を出さない情けない始末、区長の名前も民生委員の名前も知らない。

 そんな矛盾を抱えていることを自覚しながらも、災害報道で被災地の目を覆わんばかりの惨状を見るにつけ言葉を失う。阪神大震災以降から防災に対する行政の取組みも盛んになり、地域の防災意識も高まって来た。阪神大震災では友人の家が全壊した。熊本地震でも知人が被災し、地震も恐ろしさや具体的な被災体験も聞いた。行政も障害者に対しての個別避難計画の策定に取り組んでいる。当事者団体でも難病の患者会でも議論してみた。直近の大雨での緊急避難情報を受けて、どうしたか話して貰った。

 ところが、実際に過去の災害も含めて聞いても、避難した事例は少ない。老々介護で逃げることなど出来ない。逃げたところで、避難所での生活が困難だ。だから揺れるに任せる。浸水するに任せる。それで死んだらそれまでの命と諦める。防災、減債に取り組んでいる人たちは一生懸命なのに、患者会を束ねる事務局としては、これが現場実態かと苦笑いするしかない。

 やれやれだ。自他ともに危機感の薄いこの状況を、どうやったら打破できるのだろうか。想像力の問題なのかな。例えば、家に強盗でも入って来たら、命を守るべく大騒ぎすることは間違いないだろう。この強盗が自然災害に替わると考えたらいいだけなのか。ただ自然は大いなる力を持っていて、とても人が抗える相手でないことがまた、座して待つ状況を作ってしまいかねない。地震の大きな揺れは大自然の抗えない脅威で、大雨のひたひたと押し寄せる水位は、こいつが荒ぶる脅威にいつ変わるのか判断を鈍らせてしまう。困った困った。

 でも待てよ。ドリフではないけれど、もしもこんな避難所があったらどうなんだろう。避難所が最上級ホテルとまでは言わないけれど、各部屋がユニバーサルルームで、至れり尽くせりのサービス付きだったら、避難指示が出たら直ぐに逃げると言うか押し寄せるよね。コロナ陽性者がホテル療養で対応できたではないか。国会の詰まらぬ審議、取らぬ狸の防衛費など、ちょっとした皮算用でなんとでもなるだろうに。以上、ながながと愚考した末の落とし所は「避難したくなる墓所づくり」じゃないのかな。20230818

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