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王太子の出す初めての命令


権力争いに破れた父は、絞首台で処刑。財産は全て奪われ、家族は国外追放処分。なのに、あとわずかで国境を越えようというところで、山賊に襲われ一家はバラバラになってしまった。
私という存在があなたに危険な橋を渡らせてしまうというのなら、そんなことは望まない。どこにいても、この先なにが起こっても、私はただあなたの平穏で幸せな日々を願っている。その証として、ここを去ります。

もう過去に囚われる必要がないって、なんて自由なんだろう。私はくるりと回って、スカート裾を翻す。それは午後の穏やかな風に吹かれ軽やかに舞い上がった





第1章


 王子という身分を隠し、ボロ布を着て部屋を抜け出す。
まだ夜も明けきらぬ早朝の通用門付近は、王城から出入りしようとする多くの者で混雑していた。
俺は明るい白金の髪を黒く染め、獲れた獲物を売りに来る流しの狩人のような格好をしている。
頭に巻いたターバンと所々破れた指のない手袋は、従者ニコラが用意したものだ。
彼も同じような格好をして、背に弓と矢筒を背負い身をやつしている。

「ランデルさま。こちらです」

 およそ王城に出入り出来るような身分の二人には見えないが、下働きの男女が最も多く行き交う時間帯であれば、多少怪しげではあっても、ここから外に出て行こうという人物に気をかける者などいない。

「急ごう」

 残された時間は少ない。
俺は頭に巻いたボロ布で口元まで覆うと、ひっそりと雑踏の中へ踏み出した。
息をひそめ足を忍ばせるその視界の隅に、ふとアッシュブロンドの波打つ髪が映り込む。

「! まさか……」

 深い緑の頭巾を被った彼女の横顔に、俺の目は急速に吸い寄せられた。
急がなければならないと分かっているのに、どうしても目が離せない。
その横顔に髪に背に、全ての意識が奪われてしまっている。
頭では否定していても、気持ちに嘘はつけない。
そんな奇跡が、起こるはずもないのに……。

「ランデルさま。どうなさいましたか?」
「いや……。何でもない」

 遠い記憶が蘇る。
何度も諦め、幾度割り切って忘れたフリをしたか分からない。
もう決して手に入ることもなく、取り戻すことも出来ないと思っていた夢の欠片が、いままさにこの目の前でフェンザーク城の厨房へと消えた。

「リアンネ」

 思わずそう呟いた俺に、ニコラはムッと眉間にしわを寄せた。

「ランデルさま? お急ぎください。約束の時刻に間に合いません」

 思わぬ再会に、心臓が激しく脈打つ。
まさか、そんなことが本当に? 
……。いや、あるわけがない。
他人のそら似だと信じて疑わない理性と、それでも信じたい願望に混乱した頭で、彼女の消えた王城の食事を支える厨房入り口をじっと見つめる。
ピタリと閉じられた分厚い木の扉は当然のように固く閉ざされ、何も語ってはくれない。
今すぐにでもそこへ駆け込み、確かめたい衝動と戦いながら、隣で待つニコラを振り返る。

「すまない。行こう」

 今はまだ早い。
もう少し、あともう少しの我慢だ。
儚い夢と消えるはずだった現実が、こんな近くに潜んでいたとは。
だがそのためには、まだ必要な準備が足りない。
俺はもう一度ターバンを深くかぶり顔を隠すと、城の外へと抜けだした。




 私は間借りしているパン屋から抜け出すと、早朝の街へ出た。
レンガの敷き詰められた道を急ぐ。
この通りは、日中はいつも多くの人で混雑しているが、こんな早い時間となれば人影もまばらだ。
昼間はもう十分温かくなってはきていたが、朝はまだ冷える。
私は寒さに震えながら自分の持っている唯一の防寒着といっていい、深い緑色のスカーフを頭から被った。
これは以前働いていた宿屋の女将から、仕事を追われる際、手切れ金代わりにもらったものだ。
毎日のように朝から晩まで働き続ける手は、すっかりひび割れ爪も割れてしまっている。

「マノン。知り合いに頼まれた仕事があってね。三ヶ月程度の間だけなんだけど、うちより給金がいいっていうんだ。やってみないかい?」

 そうやってパン屋の女将から声をかけられたのが、もう一ヶ月ほど前のこと。
私は「はい。分かりました」と素直に返事を返す。
そうやって、ここより給金がいいと別の仕事を紹介されるときは、決まって追い出される前兆なのだと知っている。
人手の足りない雑用から雑用係へと、いろんな土地を幾度も渡り歩いてきた。
紹介される「次の仕事」が、その時働いていた給金よりよかったことはほとんどない。
人手の足りない、忙しく辛い仕事にばかりに回されてきた私にとって、流れ着いたフェンザーク城厨房の雑用係は、屋根のある部屋の中での仕事なぶん、いくらかマシな方だった。

「フェンザーク城か……」

 石を積み上げて出来た歴史ある城は、長い戦争の歴史に耐え今も強固にそびえている。
まもなく先の内戦で勝利した国王の、正式な後継者を任命する儀式が控えていた。
そのお披露目のために盛大なパレードが行われ、各国の王侯貴族を集めた大規模な宴会も予定されている。
私はその手伝いのために、王城の厨房へかり出された。
つまり、王太子の任命式と、それに関連するパーティーが終わってしまえば、用なし。
職を失う。
そうやって解雇された時には、都合よくパン屋も追い出されてるってこと。
今はまだこうしてパン屋から通っているが、間もなく部屋の大掃除をするとかで、引き上げるよう言われている。
そうなったら、どこで寝泊まりをすればいいのだろう。
厨房脇に隣接されているリネン室かな?

 城の生活を支えるバックヤードといえるこの場所から、灰色にそびえ立つ城を見上げる。
本当は、こんな所になんて来たくなかった。
私が一番恐れ憎む場所。
だけど、生きていくためには仕方がない。
期間が三ヶ月と決められているのなら、その間は大人しく目立たず息をひそめていれば、きっとやり過ごせる。
そもそも貴族がこんな下っ端の下男下女と顔を合わすこともなければ、言葉を交わすこともない。
まとまったお金が手に入れば、今度こそこの国を出よう。

 城内へと入る裏門へ回った。
ここは朝早い時間から、中で働く使用人たちの出入りでごった返している。
同じ城で働く人間であっても、最下級クラスの下働きが使う門だ。
出入りする貴族たちの目には、決して入らないようになっている。
分厚い壁で仕切られ、城内の他の場所への立ち入りは厳しく制限されていた。
ここから見上げる城は、漆喰で塗り固められた、高い壁だ。
窓もなければ、派手な装飾もない。
見上げる青い空の一部を覆い隠す、ただの巨大な壁でしかなかった。
私は重い木の扉を開け、厨房の中に入る。

 王宮内で、王族だけでなく、そこで働く貴族や高級官僚のための食事を用意するのが、ここでの仕事だった。
広い作業台の周囲に様々な道具が並び、オーブンや煮炊きする窯が、いくつも並んでいる。
鍋はどれも大きなものばかりで、以前働いていた宿屋の厨房などとは比べものにならない。
集められている食材も、実に様々な珍しいものばかりだった。
壁際には、いくつもの皿やカトラリーが、これでもかと所蔵されている。
だが、そこに収められているのはどれも質素なものばかりで、王侯貴族が使用する食器は、専用に管理する部署が存在した。
もちろん私は、そこには入れない。

 厨房に入るなり、私はすぐに箒を手に取り、床掃除を始める。
食品を扱う部署だ。
衛生管理には特に厳しく、毎晩最後まで残って残った食材をきっちり片付け、食べ残しなどないよう生ゴミは全て処分していても、翌朝には食べ物の匂いを嗅ぎつけた虫が湧いて出る。
それを掃きだしておくのが私の朝一番の仕事だった。
それを終えると、大きな窯に湯を沸かし、調理器具を消毒する。
ぐつぐつと湧いた鍋に、巨大なナイフや肉を刺して焼くためのフォークを放り込む。
もちろんそれらも、昨日のうちに洗って乾かしておいたものだが、それを湯に入れ調理を担当する職人たちが出てくる前に、冷まして元の位置に戻しておかなければならなかった。
肉を削ぐ細長いナイフを沸騰した湯に入れたとたん、跳ねた滴が手に火傷の痕をつくる。
私の手は、そうやって出来た小さな火傷で、赤くまだら模様になっていた。

「おや。マノン。今日も早いじゃないか」

 現れたのは、調理師の中で最も若いニックだ。
くるくると巻いた赤い髪の頭を、ボリボリと掻きながら近づいてくる。

「もう消毒作業は終わったのか? お前は本当によく真面目に働くな」

 そう言って、私の全身を舐めまわすように眺める。
好意を寄せられているのはなんとなく分かるが、私自身にその気は全くない。

「もうすぐ終わります。そしたら、乾して元の位置に戻しておきますから……」
「手伝うよ」

 ぐらぐらに湧いた鍋を火から下ろそうとして、手が触れる。
背後からピタリと体を寄せられ、背筋に悪寒が走った。

「お前には重たくて持てないだろうからさ、俺が持ってやるよ」

 耳元にささやく吐息が気持ち悪くて、思わず鍋を持つ手を放してしまった。
そのとたん、熱湯でたっぷり満たされた鍋を落としてしまう。

「熱っ!」

 こぼした湯を全部被ったのは、鍋を持っていた私だ。

「おま、何やってんだよ!」
「すみません」

 せっかく消毒が済んだナイフやオタマなどの器具を、全部土の上に落としてしまった。
熱湯の染みこんだ服で、肌が焼けるように熱い。

「なんの騒ぎだ!」

 厨房の扉が開いた。そこに立っていたのは、同じく調理長であるケニーさんと、ここで働く女性たちを束ねる女頭首であるミナだ。
ミナはこの厨房でもっとも長く勤めている古株で、調理長であるケニーも頭が上がらない。
ミナは出来上がった料理をワゴンに乗せ、給仕を担当する侍女たちに料理を引き渡す仕事をしている。
残った料理は、大抵皿を下げる侍女や兵士たちに食べられてしまうが、それでも残った果物の欠片やスープの残りを平らげてしまうのが、ミナだった。
この厨房で立ち入りを禁止されているエリアまで近づき、上位の召使いたちと接する機会のあるのは、料理長ケニーとベテラン調理師たち、女性ではミナだけだった。
そのことが彼女の一番の誇りでもある。

「またこの新人がやらかしたのかい? 名前はなんて言ったっけ?」

 ミナはフンと鼻息を鳴らすと、顎を突き出し私を見下したように笑う。

「マノンです。以後お見知りおきを……」
「あっそ。覚えたくなったら覚えてあげるわ!」

 ここへ来てから、ミナに名前を名乗るのはもう3回目だ。
ワザとこうやっているのは分かっているけど、逆らうことは出来ない。
彼女に出て行けと言われた瞬間、私は帰る場所を無くしてしまう。
パン屋の狭い屋根裏部屋に数少ない荷物は残してきたものの、戻ることは出来ない。
今ここで突然の宿無しとなり、何の心づもりもなく追い出されることだけは避けたい。

「ニックの言う通り、マノンは本当にお前がお気に入りなんだなぁ。いっつも何かやらかすとしたら、ニックと一緒の時だ。しかも二人きりの時を狙って。そうなんだろ? ニック」
「やだなぁ。そんなことマノンの前で言わないでくださいよ、料理長。まるでマノンが俺に気があるみたいに聞こえるじゃないですか。俺は迷惑してんのに」

 そう言って男たちは笑った。
ニヤニヤした卑しい目つきで私を見下す。
調理師のニックは、誰かの失敗を見つけ出しそれを笑い者にすることを趣味としている。
そうやって調理長のケニーやミナに取り入って自分を高く見せようとすることに、どんな意味があるのだろう。

「ねぇミナさん。マノンはこの間も、洗濯していたテーブルクロスと布巾のことを忘れて、ロッテとおしゃべりに夢中になっててさ、雨で全部台無しにしちゃったの、覚えてます?」
「えぇ、ニック。もちろん覚えてますとも。ここで雇い始めていちばん最初にやらかした失敗ね」
「おや、それは違いますよミナさん。マノンの最初の失敗は、ケニー料理長の大切にしていた鉢植えを割っちゃったこと」
「あぁ、そうだったわね」

 そう言って、クスクスと笑った。
こうやって何度も同じ話をぶり返しては笑う二人に、今さらなんの感情も浮かばない。
料理長の大切にしていた鉢植えを割ったのは、ミナだ。
それを偶然目撃したのは、私とニック。
その瞬間、ニックは「どうして鉢植えなんか持ってんだ、マノン!」と大声で叫んだ。
その声に顔を覗かせたケニー料理長に向かって、彼は私が鉢を壊したと訴える。

「マノン! テメーなんてことを!」

 殴られそうになった私を、庇ったのは鉢を割った張本人のミナ。

「まぁまぁ。マノンもまだ慣れないから。許してやりなよ」
「俺がどれだけ大事にしてたか、ミナも知ってるだろ!」

 それは、王さま付きの侍女からもらった花の種を植えたものだったという。
貴族しか立ち入ることの出来ない庭で、庭師が収穫した種を分けてもらったらしい。
咲いていたのは、とても王宮の庭に植えられているような花には見えなかったけど……。

「……。申し訳ございませんでした」

 どれだけ言い訳をしても、誰にも聞いてもらえないことを私は経験から知っている。
自分の感情がどんなものかだなんて、そんなものがあったことすら忘れている。

「ほら。こうやってマノンも謝ってることだしさ」

 ミナは私に向かうと、大声で怒鳴った。

「このウスノロ! もう二度と余計なマネをして、大事なモノを壊すんじゃないよ!」

 まだ怒っている料理長をニックはなだめにかかり、ミナはすっかり気分をよくして、私に片付けを命じた。
それ以来、ニックとミナはすっかり意気投合してしまっている。

「ほら。今度こそ失敗して、雨に濡らすんじゃないよ!」

 昨夜の食事で使われた、汚れたテーブルクロスが山のように積まれていた。
それが入った大きな籠を渡される。

「全部キレイに洗濯して、今日中に消毒も済ませておくんだよ」
「はい。かしこまりました」

 私はその籠を持つと、厨房の外に出た。
前が見えなくなるほど積まれた白いテーブルクロスの山を抱え、裏庭に出る。
まずは水くみから。
王城に暮らす貴族たちを支えるため、城にはいくつかの井戸が掘られていた。
渡された洗濯物の量から、必要な水の量を考える。
瓶に6本あれば大丈夫かな。
私が使っていいと許可されている瓶は3つまでだけど、予め水を汲んで運んでいても、倒されたり取られたりするから、1つ分しか運んでこない。
効率悪いとか、間抜けとか頭が回らないとか気が利かないとか、何度も水くみに往復させられるより、罵倒されるだけの方がずっといい。

 大きなタライに汲みたての冷たい水を入れ、テーブルクロスを入れると、足で踏む。
すぐに細かな泡がぷくぷくと泡だってきた。
みんな洗濯は嫌がるけど、私は好き。
昔覚えたステップで、水に濡れたクロスの上を舞う。
口元から自然にワルツのリズムが流れてきた。
それを水ですすいで、絞り器にかける。
水に濡れた大きな一枚布は、重くて濡れるし誰もやりたがらない。
だから私がやっていても、誰も手伝いに来ない。
洗濯をしている時だけが、一人でいられる唯一の時間だった。
張られたロープに、バサリと白い布を広げる。
風に吹かれ、それは鮮やかに翻った。
まるで女王さまのスカートみたい。
純白に揺れるスカートを、まるで自分が着ているような気分で、鼻歌を交えながらくるりと一回転する。
洗濯物の、最後のクロスを乾し終えた。

「素敵な曲だね。その曲はどこで覚えたの?」

 突然声をかけられ、振り返る。
黒い髪に耳当てのついたターバンのような帽子を深くかぶっている。
首に巻いたボロ布と、すり切れたような手袋、軽くて動きやすい服装からみるに、城の厨房に狩ったウサギかウズラを売りに来た狩人だろう。
座っていた石垣の上から身軽に飛び降りると、緑がかった灰色の目がじっと私をのぞき込む。

「キミの名は?」
「……。マノン」
「そう。マノンっていうんだ」
「あなたは?」
「俺? 俺は、トーマス」

 嘘だ。
どれだけの年月が過ぎても、髪の色を変え、服装や話し方を変えても分かる。
彼はランデルだ。
間もなくこの国の王太子となる人。

「あまりみない顔だと思ってさ。マノンは新入りなの?」

 だからこの城に来てはいけなかったんだ。
たった三ヶ月ならと、お金に目が眩んだ私がバカだった。
顔を見られないよう、干し立ての布で顔を覆い隠す。

「恥ずかしがらないで。もっとよく顔を見せて」

 彼が掴んだクロスを引き離そうとするから、私はその反対側に逃げる。
どうしてこんなところに来たの? 
もう私とは無関係な人なのに。
今の彼が一番関わってはいけない人。
忘れていて欲しかった。
どうして放っておいてくれなかったの? 
私だって、あなたのことを忘れていたかった。
なのに一目みてすぐに分かった。
分かってしまった。
今の自分の姿を、この人にだけは知られたくなかったのに!

「マノン。お願いだから逃げないで。キミは俺の知っている人によく似てるんだ。だから声をかけた。怖がらせるつもりはなかったんだ」

 彼の手が私の腕を掴む。
今すぐにでもここから逃げ出したい。

「俺に見覚えない? この顔にさ、どこかで会ったことない? 昔……。ほら、子供の頃とかにさ」
「私はあなたのことなんて知らない。話しかけてこないで」
「そんなことを言って、こっちをよく見ようともしてないじゃないか。俺はキミのことを覚えているよ。忘れたりなんかしない」
「早く手を放して! あっちへ行って!」
「……。そうか。ゴメン」

 彼の手が離れる。
ゆっくりと後ろに一歩一歩下がりながら、トーマスと名乗ったランデルが言った。

「本当に、俺のこと覚えてない?」

 答える代わりに、首を激しく横にふる。

「そっか。分かった。もうこれ以上聞かない。突然驚かせてゴメン。邪魔はしない。だから、遠くから見てる。それならいい?」

 ランデルは、まだ私のことを覚えていてくれたんだ。
私だって覚えてる。
忘れたことなんてなかった。
だからランデルも、私を見つけてしまったのね。
流れる涙を拭いながら、それでも私は知らないフリをする。
いつかこんな日が来たとしても、そうするんだって、ここを出た時からずっと決めていた。
ランデルが私のことを覚えていてくれた。
それを知れただけで、もう十分。

「よくない。早くどこかへ行って」
「どうして泣いてるの?」

 彼が一歩近づく。
その手を伸ばし、慰めようとしてくれてるの?

「私はトーマスなんて人は知らない。もうここへは来ないで!」
「そっか。分かったよ。人違いだったのかも。俺は忘れられても、仕方ない人間なんだ」
「さようなら」

 そう言った私に、彼は苦しそうに息を止める。
もういい。
たとえ厨房の人たちに片付けが出来てないって酷く叱られたって、いまここでこれ以上、彼と顔を合わせている方が辛い。
出しっぱなしの絞り器はそのままに、私は洗濯用のタライだけをかき集めた。
厨房のリネン室に駆け込むと、内側から鍵をかける。
流れる涙を、どうしても抑えることが出来なかった。
声を殺し、一人むせび泣く。

 ランデルは私がリアンネだと気づいていた。
だけど互いにそれを打ち明けたとして、今の私と彼とでは身分が違いすぎる。
もう決して手の届かない人。
そして会ってはいけない人。
こうなる前に、この国から出て行けばよかったんだ。
どうしてもっと早く、そうしなかったんだろう。
私の中にも、まだこの城への未練が残ってたってことだったのかな。
だとしたら、本当に振り切らなくてはいけない……。

 しばらく泣いて、ようやく気分が落ち着いてくる。
私は辺りに人気がないのを確認してから、外に出しっぱなしにしていた洗濯道具を片付けた。
今日はどんよりとした曇り空。
まだクロスも布巾も乾ききっていない。
ランデルの姿は、もうどこにも見えなかった。
よかった。
彼はそう簡単に、しょっちゅう変装してお忍びでこんなところに来られるような人じゃない。
大事な式典も控えている。
もうここへ来ることもなければ、会うこともないだろう。
式が終われば、私はすぐこの城を追い出される。
そしたら今度こそ、国外にでよう。
もうこれで、思い残すことは何もなくなった。

 厨房に戻ると、貴族たちに出す夕食の準備で、いつもの騒ぎが始まっていた。

「マノン! まーたお前はどこに姿を消してたんだい? さっさと後始末をしな!」

 ミナや他の調理師たちに怒鳴られながら、野菜を運んだり、使い終わった器具やら鍋やらをひたすら洗い続けた。
いつもは辛いこの作業も、今はありがたい。
余計なことを考え過ぎないですむから。
忙しいのが一段落すると、今度は皮を剥いだウサギやむしった鳥の羽根と骨を集め、肥だめとなっている区画に運び込む。
生ゴミと糞尿の混ざったとんでもない悪臭が立ちこめるその場所は、地面がドロドロに溶けたようになっていた。
私は息を止めそこに近づくと、桶の中の野菜クズや小骨を投げ捨てる。
血や抜けた毛にまみれた桶を洗い終えると、乾していたテーブルクロスとナプキンを取り込む。
しわ伸ばしは、また明日だ。

 こうして、私の毎日は過ぎて行く。
ランデルはそれ以降、一度も姿を見せることはなかった。
それでいい。
私は「マノン」と名乗ったのだから、よく似た別人だと判断したのだろう。
あれから5年以上の月日が経っている。
もう私の顔なんて、ちゃんと覚えてもいないだろう。
彼はあの頃のままだったけど、私はすっかり変わってしまった。
分からなくでも仕方ないし、そもそも出会うのが間違っていたんだ。
ただ一時すれ違っただけの偶然。
それだけのこと。
私は暗い夜空の下、リネン室の扉を閉める。
ふかふかのテーブルクロスに身を包むと、目を閉じた。




第2章


ランデル王子が正式な王位継承者として任命される、王太子礼の日が近づいてくる。
そのパーティーのための食材が、大量に運び込まれてきた。
私のように期間限定で働く者たちが、ひっきりなしに出入りしている。
用意された、見たこともないほどの牛の数と七面鳥の干し肉、沢山の卵。焼かれるパンやパイのための小麦粉で、倉庫は一杯だ。
任命式を数日後に控え、盛大なパレードが予定されていた。
私はそれを、忙しく働く王城内の裏庭から見る。

「ほら! マノン見て! 王子さまのパレードよ」

 同じ時期に、臨時で雇われたロッテに引っ張られ、建物の隙間からパレードを覗く。
花で飾り付けられた屋根のない立派な馬車に乗り、紙吹雪が舞う中をきらびやかな行列が通り過ぎてゆく。
その一部が、高くそびえる王城の壁と壁の隙間に見えた。
黄金に彩られた馬車は、日の光を浴びてキラキラと輝く。
王子の誇らしげに微笑む白く高い鼻と白金の髪が、両側から落とされる塔の影の向こうに小さく見えた。

「ね、マノンにも王子さま見えた?」
「う、うん。ちょっとだけね」
「わー。素敵だったね。ランデル王子は、どんな王さまになるんだろうね」
「きっといい王さまになるわ」
「ふふふ。そうだといいけど」

 ロッテは淡い茶色の髪に、そばかすがよく似合う明るい女の子だ。
太陽のようににっこりと大きく笑う笑顔が印象的で、誰とでもすぐに打ち解けた。

「ねね、王太子になると同時に、婚約発表があるっていう噂、知ってる?」
「え……?」

 驚く私に、ロッテは可笑しそうに笑った。

「あはは。そりゃそうでしょ! 王子も18だっけ? もういい歳だもん、そういう話になってもおかしくないでしょ。任命式のパーティーで発表されるのかな? それとも、その時のダンスの相手から選ぶのかしら?」

 ロッテは両手を組み、夢見るように明るい空を見上げた。

「いいわよねー。私も一度は行ってみたいわ。一目見るだけでもいいの。素敵なダンスパーティー!」
「ふふ。そうね……」

 そっか。ランデルが結婚か……。
もしかしたら、今夜のそのパーティーに、自分がいたのかもしれない未来を想像する。
数日前に現れた黒髪の狩人は、確かにランデルだった。
彼が探していたのは……。

「ちょっと! なんでマノンが落ち込んでんのよ。これからが忙しくなる本番なんだからね! 私たちにもお祝いが配られるって話よ。それを楽しみに頑張りましょ」

 パレードを皮切りに、お祝いの宴は7日間続く。
招待されている各国からの使者の数も、過去最大数だと料理長が言っていた。
いつもの3倍以上の仕事量に忙殺されている。
それでも、これだけ盛大に祝われる彼のことを思うと、私は安心する。
よかった。
ランデルが幸福な王子として、王に愛され王太子として任命される証だ。
私はこの厨房から彼のための宴席を用意することで、ささやかなお祝いとしよう。
どうか彼の前途に、よき未来がありますように……。

 実際に祝宴期間が始まると、臨時の増員だけでは間に合わないほどの忙しさだった。
城に各国使者たちが長期滞在しており、それぞれのお国柄に合わせた実に様々な要求が飛び込んでくる。
彼らの舌を満足させる高品質のお酒を探し、十分な量を確保するだけでも大変なことだった。
王室から湯水のように割かれる予算額はまさに天井知らずで、いま世界中どこを見渡しても、この厨房ほど豊かな食材を揃えているところはないように思う。
宴会の席が大規模になればなるほど、厨房が担当する洗濯物の数も増えた。

 朝一番に洗濯して乾したテーブルクロスを取り込み、夜にも洗って朝まで乾しておく。
クロスもナプキンも新たに買い足されてはいたが、それでも一日に二回の洗濯は必須だった。
暖かい季節でよかった。
夜中に踏む洗濯の水も、足に丁度心地いい。
朝一番の洗濯を手伝ってくれる者はいても、夜の二度目の洗濯は私一人だった。
唯一一人きりになれる時間。

 私はタライの中で洗濯物の布巾の山を踏みながら、足が覚えているダンスを踊る。
灰色に塗り固められた夜の城壁を見上げ、華やかなパーティーを夢想する。
きっと彼も今ごろは、こうやって過ごしているに違いない。
私は彼のために一曲踊り終えた後で、タライの中でスカートの裾を持ち上げ膝を折った。

「どうかランデル王子に、よき幸せが訪れますように」

 不意に視界の隅を、何者かが横切った。
頭に私と同じ深い緑の頭巾を被っているみたいだけど、あれはロッテ? 
波打つ豊かな髪が、被った頭巾の端からこぼれ見えている。

「マノンは、ランデル王子のこと好きなの?」

 その声に全身をビクリと震わせる。
声の主は黒髪にボロ布を纏い、狩人の格好をした「トーマス」だった。
耳当てのついた大きすぎるターバンのような帽子を深く被っているのは、きっと顔を隠そうとしているため。

「ラ、ランデル王子が好きだなんて、そんな……。会ったこともない人に?」
「やっぱりマノンも、王子さまには無条件で憧れるのかなーって」

 ランデルはトーマスと名乗った自分が、私にランデルだと気づかれていないと思っているのか、すました顔で近づいてくると、その場で靴を脱ぎ始めた。

「なにしてるの?」
「俺にも洗濯やらせて。一度やってみたかったんだ」

 彼の白くつるりとしたおよそ狩人らしからぬ足が、泡立つタライの中に入る。

「わ。なんか滑りそうだね」
「慣れないと転ぶわ」
「じゃ、手をつなごう」

 洗い桶の中で、彼が私に手を差し出す。
ねぇ、待ってランデル。
今は城の王宮の豪華な広間で、パーティーの真っ最中なんじゃないの? 
こんなところにいて、大丈夫なの?

「ほら。早く手を繋いでくれないと、俺が転んじゃう。それとも、俺からのダンスの誘いを断るつもり?」
「そ、そういうワケじゃ……」
「ほら。早く」

 そう言うと、ランデルは私の手を取った。
狭い桶の中で体を寄せ合い、その場から動けないままステップを踏む。

「あはは。これじゃダンスとは言えないね。本当に足踏みしてるだけだ」

 跳ねた水が顔にまで飛び散っている。
心から楽しそうに笑うその顔は、私の記憶に残る幼い頃のままだ。

「ランデ……。トーマスは、ランデル王子に会ったことがあるの?」
「うん。あるよ。キミにだけは、特別に教えてあげる。俺は今、王子から秘密の任務を請け負っているんだ」
「秘密の任務?」
「そう。だけどそれは秘密だから、マノンにも秘密ね」

 なにそれ。
私は彼の肩に手を置き、繋いだ手を上下に揺らされながら、その場でくるくると回っている。

「マノンが王子のことを好きなら、いつでも王子に会わせてあげるよ」
「トーマスにそんなことが出来るの?」
「もちろん! 俺は王子のお気に入りだからね」

 汚れてすり切れたような服を着ていても、本当に山に分け入って狩りをする獣の臭いが染みついたような猟師とは違う、質のいい石鹸のよい香りがする。
全く荒れていないきれいな手と健康的な肌が、分けられた身分と境遇の違いを決定付けている。

「だけど、もし会えたとしても、王子は私のことなんて気にもとめないわ」
「どうして! そんなの、会ってみないと分からないじゃないか!」
「会わなくても分かるし、最初から会いたくもないから」

 私は彼の肩に乗せていた手を下ろすと、足の動きも止めた。

「会ったところで、どうしようもないもの。そんなものに夢見るような歳でもないし。王子と顔を合わせるくらいなら、早くここから出て、自由になりたい」
「……。マノンはもう、王子とは会いたくないの?」

 まるで落ち込んだかのように、真剣な表情で私をのぞき込むランデルに、思わず笑みがこぼれる。

「会いたくない。貴族なんて嫌いよ。お城にいる人たちも、みんな大嫌い」

 私の父は、内戦で勝利を勝ち取った現行王に、対抗する王弟側勢力の中心にいた。
権力争いに破れ、父は絞首台で処刑。
財産は全て奪われ、家族は国外追放処分。
なのに、あとわずかで国境を越えようというところで、山賊に襲われ一家はバラバラになってしまった。
私たちを追放するはずだった兵士たちは、助けもしないでそのまま仕事を放置し姿を消した。
山賊たちも彼らが反撃してこないって、分かってたんだと、今になって思う。
もしかしたら彼らは人買いで、申し合わせがあったのかもしれない。
捕らえられた母や弟、他の従者たちがどうなったかなんて知らない。
私は山中を一人逃げ惑い、運良く親切な羊飼いの老夫婦に助けられた。
そのまま生きるためだけに仕事を探し渡り歩いて、流れ着いてしまったのが、フェンザーク城だったってだけ。

「俺だって、貴族連中は嫌いだよ」

 内戦で勝利した現国王の、第五王子っだったランデルが王太子として王位継承第一位に任命されようとしているのは、上の兄たちが内戦中にも関わらず互いに小競り合いを続け、命を落としたから。
第一王子は暗殺され、第二王子は戦場での怪我により戦病死。
第三王子は政治に興味がなく、荒れた国内から逃亡を試みたものの、山中で変死体となり発見され、第四王子は自ら命を絶ったと言われている。

「それでも、王子はこの国から逃れることは出来ないんだ」

 ランデルにもきっと、私が城を追われている間に色んなことがあったんだと思う。
近くにいてあげたいとは思っても、内戦の始まるきっかけとなったかつての政敵の娘を、城に迎え入れるわけにはいかない。
ましてや国外追放処分とされた者が城内に戻り、王子と会っていると知れたら……。

「ねぇトーマス。王子と近しいのなら、ランデル王子に伝えて」

 髪の色はいくらでも誤魔化せても、目の色だけは変わらない灰緑色をしている。

「王子のことを、心から慕う庶民がいることを。王子にとっての安らかな毎日を、願っていますって。決して出会うことがなくても、そんな人が世界に一人はいるんだってことを、教えてあげて」
「マノンは本当に、王子とは会いたくないの?」
「うん。ゴメンね。私はランデル王子とは、一度も会ったことのない知らない人だもの。次の王さまになる人が、いい人だったらいいなって、そう思ってるだけ」
「そっか……。だけど王子に直接会えば、マノンの気も変わるかもしれないよ?」
「ふふ。そんなことは、絶対にありえないから」

 私は笑って、繋いでいた手を解く。
夢の時間はもうお終い。
私はタライから下りランデルを引っ張り出すと、脱ぎ捨ててあった彼の靴を差し出した。

「さ。トーマスも、もう帰って。こんなところにいることを誰かに見つかったら、あなたが叱られてしまうわ」
「そうだ! ねぇマノン。これから王子に会いに行ってみない? きっとランデル王子なら、キミを大歓迎してくれると思うよ」
「なにそれ。トーマスは王子から、今夜適当な女の子を王子の部屋に連れてくるよう命じられてるの?」
「そんなんじゃない! そんなこと、あるわけないじゃないか!」

 彼は突然、靴を差し出す私の腕を強く掴んだ。

「マノンは今まで、そんな目にあってきたの? マノン。俺はキミをこのまま……」
「放してって言ったじゃない!」

 彼の腕を振り払う。
そんな同情、されたくなかった。
彼は今にも泣き出しそうな目で、私を見つめる。

「マノンはもう、俺にも会いたくないの?」
「会いたくないのって……。そ、そんなの、私から会いにいけないもの」
「会いに行けるなら、俺に会いたい?」
「別にそういうことを言ってるんじゃ……」

 彼は靴を受け取ると、急いでそれを履いた。

「なら俺が会いに来たら、会ってくれる?」

 私はそれには答えず、踏み終わった布巾をすすぎ用のタライに移し始める。
ランデルはそれも手伝ってくれた。

「今だって、自分から勝手に会いに来てるじゃない」
「俺はさ」

 彼は水をたっぷり含んだナプキンを持つ手に、力を込めた。

「マノンが俺に会いたいかどうかを聞いてるんだ」

 そんなこと、答えられるわけがない。
私の返事は決まっている。

「会いたいなんて、言えるような立場じゃない」
「……。そうか。分かった」

 彼は立ち上がると、首に巻いた布を口元まで覆った。

「ランデル王子に、キミからのお祝いの言葉は伝えておくよ。王子は悪い人じゃないんだ。そこは誤解しないでほしい」
「そうね。私もそうだと思う」
「ありがとう。俺もその言葉を聞けて安心した。もう時間がない。また会いに来る」

 彼はさっと姿勢を低くすると、石垣の影にそって走り去る。
誰かが迎えに来ていたようだ。
ひょいと身軽に壁を乗り越えると、下働きには立ち入りが禁止されている区間へ消えてしまった。
王子とは身分も立場も違う人。
またすぐ会いに来るなんて、そんな言葉に期待はしない。

私は残された洗濯物を片付け終えると、リネン室の隅でようやく眠りについた。




第3章


 ランデル王子の、王太子即位を祝う宴会は続いている。
厨房では狩りに出掛けた貴族たちが持ち込む大量の獲物をさばいて調理することが求められ、城に残っている夫人たちからは、ひっきりなしに菓子と果物を要求されていた。
高い茶葉や日持ちのするクッキーなどの焼き菓子はすぐに提供出来るよう、高級な食器類とともに城内に保管されているが、いつもの常備量では追いつかない。
次々と舞い込む複雑な注文に、そうでなくてもギリギリの人数で回している厨房は、完全な人手不足に陥っていた。

「マノン! これを早く王宮にまで届けて頂戴! 急いでって言われてるのよ!」

 いつもは絶対に上級の使用人と私たちを会わさないようにしているミナであっても、これだけ忙しいとそうも言っていられない。

「さっさとしな! 向こうを待たせてるんだからね。さっきから催促ばかりしてお怒りだとさ!」

 焼き上がったパイが6つに、カトラリーまで足りないのか、厨房に置かれているあまり質のよくない質素な陶器の皿まで数十枚と、バスケットに詰め込まれたナイフとスプーン。
取っ手のついた陶器の瓶には、絞った果汁をブレンドした飲み物と水、絞りたての牛乳が二本ずつたっぷり満たされている。
それらを全て乗せたワゴンを、一人で運べと言う。
どれだけ一生懸命押しても、重たいうえに乱暴に扱うことも出来ない。
力を込め、最初の一歩を踏み出そうとした時、ロッテが私の隣に並んだ。

「私も手伝う!」

 二人がかりでワゴンを押し、ようやくそれは動き出した。
ガタガタと路面の悪い道を、上級使用人の待つ部屋の前まで運ぶ。
本来ならここでワゴンを受け渡して終わりになるのが、今日は私とロッテに、そのままここから一番遠い奥庭と呼ばれる庭園まで運べと言う。

「こんな重いの、とても私たちじゃ運べやしないわ。それに、とっても遠いの。あなたたちはこのワゴンをそこまで運んだら、中身を取りだして入れ替えるところまでやってちょうだい」
「はい。かしこまりました」

 私たち下級の召使いたちは貴族と顔を合わすこともないから、それぞれ自前の服を着ている。
しかし直接貴族と対面し世話をする上級の侍女たちとなると、全員がお揃いで仕立てられた、綺麗な制服を支給されていた。
隣に並んで立っているだけでも、その身分の違いは明白だ。

「さ、行くわよ。ついて来て」

 上級侍女たちがワゴンの中身を確認すると、その扉を閉める。
動かそうとした瞬間、それはガタリと大きく揺れた。

「あ、ちょっと待って」

 ロッテが中を開け、飲み物の入った瓶の位置を確認すると、すぐにそれを閉める。

「さ、行きましょ」

 私はロッテと並ぶと、重いワゴンを押した。
多少のでこぼこ道も、坂道だって問題ない。
段差や階段は、さすがに無理だと途中に控える兵士たちが持ち上げてくれる。
一番キツいのは、草の上だった。
ただただ広い大庭園の奥庭の芝生は見ている分にはとても美しいが、そこでワゴンを押すとなると、とたんに動かなくなる。
テントの張られた東屋のゴールまでもう少しなのに、そこからどうしてもワゴンは動かない。

「あぁ、もう! 仕方ないわね。中身を一緒にテント裏まで運んでちょうだい」

 侍女の一人が中を開け、パイの乗った大皿を手に取った。
もう一人の侍女もパイ皿を持ち、私もそれに手を伸ばす。
ロッテは牛乳の入った瓶を手に取った。
ゆっくりとくつろぐ貴族たちの視界に入らないよう、庭園の隅を大回りしてテント裏にそれを持ち込む。
用意されていたテーブルにパイを乗せると、白髪の老紳士が待ち構えていた。
ロッテはその耳のラインから白く長い髪をしている執事に、牛乳の入った瓶を渡す。
彼はしわがれたような重い声で言った。

「ご苦労。間違いはないか?」
「はい。間違いございません」
「では、計画通りよろしく頼む」

 私は侍女たちに命じられるまま、パイや食器を運んでいた。
ロッテはまだその執事と何かを話している。

「この中に入った指示に従えと?」
「今夜中に確認していただければ。こちらの求めに応じていただければ、確かなものにしてみせます」
「フン。相変わらず生意気な女だ」

 牛乳の入った瓶を受け取った初老の従者は、木立の奥に消える。
他に従う大勢の侍女たちは、運ばれたばかりのパイを切り分けるのに夢中だ。

「ほら。早く往復してちょうだい! 皆さまがお待ちかねよ」

 レンガを積んだ簡単なかまどに火がかけられ、湯が沸かされる。
鉄板の上にパイが置かれ、温め直された。
私とロッテは、ワゴンとテント裏を往復する。
今度は空になった瓶や使い終わった皿が、ワゴンに乗せられた。

「ちょっと。あなたたち」

 支給されたシワ一つ無い制服に身を包んだ侍女が、声をかけてくる。

「日が落ちたら、ここに戻って残ったお皿と食器を片付けておいてね。城内に入る許可は出してもらえるよう、お願いしておくわ」
「はい。かしこまりました」

 行きよりは幾分軽くなったワゴンを押し、もと来た道を帰る。
中身が入っていない分、運ぶ方の気は楽だ。

「また夜にも来なくちゃいけないのね」

 ロッテがうんざりしたようにため息をつく。

「あー。ミナが許してくれるかなぁ。入城の許可が貰えるなんて、名誉なことだけど」
「大丈夫よ。あの人、夜は帰りたい人だから」

 私はふと、気になったことを聞いてみた。

「ロッテは、さっきの人たちの中に、知り合いがいたの?」
「まさか! あんな人たちの間に、知り合いなんているワケないじゃない」
「でもさっき……」
「ねぇ、またあそこに夜一人で行くなんてイヤよ。ね、マノンは厨房で寝ているんだっけ?」
「厨房の、リネン室でね」
「そっか。じゃあ奥庭に行く時には、私にも声をかけて」
「分かった。一緒に行こう」
「うん。だけど、どうしてリネン室なの?」
「洗濯を任されてるから。たたみ終わったあとで、そのまま寝ちゃったことがあって、そのまま」
「あはは。洗濯したばかりのものに囲まれて寝ているんなら、快適ね」
「厨房の二階で、ネズミや虫に囲まれて寝るよりマシだわ」

 暖かな日差しが降り注ぐ。
どれだけ忙しくても下町で働くより、城内にいる方が一息つける時間はあった。
身の安全も確保されている。

「そういえば、ロッテはいつもどこで寝ているの?」
「馬小屋よ。あそこの藁の中に、シーツを隠してあるの」
「そうなんだ」
「ね、夜も一緒に片付けに行きましょ」
「いいよ」
「あーぁ。ミナさんに一人で行けって意地悪されなきゃいいんだけど」
「そんなこと言うかしら」
「言いそうじゃない! もし私がいなかったら、先に一人で行かされたと思ってね」
「うん」

 私たちは厨房に戻ると、ワゴンの中を取り出す。
洗い場には、これでもかというほどの汚れた皿が積まれていた。
普段は食器や鍋を洗うことのない調理師たちまで、料理長の指示で片付けにかり出されている。

「それが終わったら、すぐに明日の仕込みだぞ!」

 私は袖をめくり上げると、早速洗い物の山に取りかかった。
ふと顔を上げると、ロッテが果物の入ったバスケットを抱え、再び城内へと届け物に使わされていた。





第4章


 すっかり日が落ちても、まだ厨房には明かりが灯り、翌日の準備に追われている。
私はいつもの3倍の量はあるテーブルクロスと、5倍の量はあるナプキンの山を前に洗濯にとりかかった。
ナプキンは食事中に汚れた手や口元を拭うのに使われている。
来客が多い分、使用量も多かった。
いつもなら大きなタライに一回ですむ洗濯も、今日は3回はやらないと間に合わない。
一心不乱に足で踏んでいる最中、すっかり忘れていた昼間に言付かった用事を、ふと思い出した。

そうだ。
奥の庭園の片付けに行かなくちゃ。
テント裏に、食器や鍋が放置されたままだ。
私は急いで洗濯の続きに取りかかる。
ロッテは覚えているかしら。
そういえばあれからずっと姿が見当たらない。
手早く洗濯を済ませようと急いだつもりでも、すっかり遅くなってしまった。
夜も深い時間になって、私はワゴンを運び出す。
厨房にも、まだ仕込みを続ける調理人たちが残っていた。

「あの、ロッテを見ませんでしたか? お城に残したお皿や瓶を、今夜中に引き上げるように言われていて……」
「あぁ? ロッテ? 見てないよ。あの子はすぐサボるから」

 野菜の皮むきを手伝っていたミナがそう言って振り返る。
ニックがミナに続いた。

「お前、ロッテ一人に仕事させてんのかぁ? マノンは本当に気が利かねぇなぁ。ちょっとは働けよ!」

 そこに残っていた数人が、一斉に笑う。
私は何も言わずその場を離れた。
もしかしたら、本当にロッテが一人で片付けに行ったのかも。
寝床にしているという馬小屋をのぞき込んだ。
馬小屋の中の詳しい場所までは聞いていなかったけど、ここにいるのは荷物を運ぶための馬で乗馬用の馬ではないし、それほど数も多くない。
5頭の馬が一列にならんだ一目で見渡せる厩舎内に、人影のようなものは見当たらなかった。
やっぱりロッテは、一人で片付けに行ったんだ! 
私は急いで奥庭を目指した。

 城内に入るには、城壁の内側に入らなければならない。
バックヤードとも言えるこの場所は、築城後に後から城にくっつけたような造りをしていた。
一応は壁に囲まれ、安全の確保と外部から簡単に中へ侵入されないよう工夫はされている。
だが本当の城の中に入るには、城壁の一部をくり抜いた扉から、中に入らなければならなかった。
そのため私たちのような身分の低い下男下女には、上級召使いたちからの入城許可を必要としている。
すっかり夜は更けていた。
各国要人の来賓警護に回されているのか、いつもはこちら側に立っている門番の兵士まで持ち場を不在にしている。
私は簡素な木の扉をそっと押してみた。
それは簡単に開いてしまう。

「あの、入城の許可をいただきたいのですが……」

 扉の向こうは、上級使用人たちの仕事部屋だ。
外部と直接繋がっているバックヤードから城に入るものは、全てここでチェックを受けていた。

 関門ともいえるこの場所が、今夜は鍵もかけられていないし、明かりもない。
真っ暗な中を部屋へと忍び込む。
本当は無許可で入れば叱られる部屋なんだけど、今は仕方ないよね。
片付けを言われていたんだもの。
侍女から許可を出しておくとも言われていたし。
何より早く洗い物を引き上げておかないと、明日になって文句を言われるのは料理長であり、怒鳴られるのは私とロッテだ。

 部屋には人の出入りと物資の受け渡しを記録する記載所があり、荷物を置いて置く棚や台が並んでいる。
必要な籠やワゴンも、私たちが使うものより随分と立派で新しいものが並んでいた。
掃除道具や、大きな剪定ばさみなんかも見える。
部屋の奥には両側に扉がついていて、ここが城壁の中であることから想像すると、通路のようになっているか、次の部屋に繋がっているのだろう。
私は真っ直ぐに顔を上げた。

 目の前には、広大な芝の庭園が透けて見える大きなガラス扉があった。
木の枠にはめられ、左右対称に焦げ茶色の木で蔓のような模様があしらわれている。
私は床から天井に至る扉の、中央を押し広げた。
それは音も無くゆっくりと両側に開く。
丁寧に整えられ何もかもが誰かによって作り込まれた、別世界のような庭が広がる。

「……。戻って来たのね。結局、フェンザーク城に……」

 懐かしさと同時に、悲しみと後悔も同時に浮かび上がる。
昼間ワゴンを押した庭も、数年前の私なら、優雅な衣装を着て扇で顔を煽ぎながら、無邪気にゆったりと座っていればいいだけだった。
でも今は違う。
もしかしたらあの頃の方が、儚い夢だったのかもしれない。

「ワゴンよ。とにかく今は、片付けに行かなきゃ」

 感傷に浸っている場合じゃない。
見張りが誰もいないなか、部屋の中まで空のワゴンを押し、境界となっている部屋を通過する。
記帳台の記録に、いちおうサインもしておいた。
開けたままにしておいたガラス扉から、庭に出る。
ガラガラと動かしにくくはあったが、空っぽな分扱いやすかった。
急いで片付けてしまおう。
私はワゴンを押す足を速める。

 奥庭と呼ばれる、昼間軽食を運んだ庭が近づいてきた。
芝生の中に入ると、やはりワゴンは重くなる。
空の状態ならテント裏までなんとか運べそうだけど、そこから中に皿や調理器具を詰め込んだとして、芝の上を動かせるか自信がない。
それに、ロッテが先に行っているとしたら、二人で二つのワゴンを運ばなくてはならなくなる。
そんなことは、到底無理だ。
急がなくちゃ。
私は芝生広場に入る手前でワゴンをそこに置くと、テント裏へ向かった。

 月のない暗い夜を、静かに急ぐ。
ふと顔を上げると、ただただ広い芝生の上に、人影が見えた。
暗くてよく見えないけど、誰だろう。
二人いる。
私は駆け足でそこに近づく。
男女の二人組だ。
男の人は、もしかしてランデル? 
王太子の正装である真っ白な礼服を着て、白金の髪がピタリと整えられている。
パーティーを抜けだし、ここで婚約者となる女性と会ってる? 
王太子礼と同時に、婚約が発表されるという噂がある。
とたんに胸がズキリと痛んだ。
だとしたら、私が邪魔してはいけない。
見てはいけないと思いながらも、どうしても視線は相手の姿を追ってしまう。
それにしても、高貴な貴族令嬢であるはずの女性のドレスが、あまりにも質素だ。
頭に頭巾を被っているのは、まるで私みたい。
もしかしたらお忍びってこと? 
東屋のテント裏で、何かがキラリと光った。
剣を構える男たちが、複数人そこに潜んでいる。

「ランデル、危ない!」

 そう叫んだ瞬間、兵士たちが一斉にランデルと女性に向かって斬りかかった。

「くそっ。邪魔しやがって!」

 その兵士のうちの一人が、私に剣を振り上げた。

「きゃあ!」
「マノン!」

 斬りつけられ、倒れた私にランデルが駆け寄る。

「マノン! 大丈夫か、しっかりしろ!」

 傷口を押さえようとしたランデルの背に、密会していた女性本人がナイフを突き立てた。

「くっ……。貴様……」

 ランデルの顔が、苦痛に歪む。

「全く。本当に真面目でいい子ちゃんなんだから。王子もあんたも。こんなバカで不器用なお嬢さん、私も嫌いじゃないけどね」

 ロッテだ。
彼女は被っていた私と同じ深い緑色の頭巾を取り払うと、その場に投げ捨てる。

「王子はやったか?」

 テント裏に潜んでいた5人の兵士のうちの一人が、ロッテにそう声をかけた。

「まだ生きてるでしょ。そのお嬢さんもね。あーぁ。二人ともバッサリ斬られちゃって。これじゃもう動けないわね」

 彼女はスカートの中に隠し持っていた、もう一本のナイフを取り出した。

「二人とも、ここで仲良く死にな」

 そう言ってランデルに短剣を振りかざしたロッテに、兵士が斬りかかった。
ロッテはそれを身軽に避ける。

「ここまでご苦労だったな。ロッテ。死ぬのは二人じゃない。三人だ」
「ちっ。やっぱりそういうことか。これだからお貴族さまってのは、信用ならないんだよ」

 戦闘が始まった。
五人の兵を相手に、ロッテは短剣で互角に戦いを進めている。
胸を斬られ動けない私の手に、白い礼服を血に染めたランデルの手が重なる。

「大丈夫だ、マノン。キミのことは、必ず助ける」

 彼は震える手でポケットから小さな笛を取り出すと、それを吹いた。
高く細い笛の音が、月のない夜空に響き渡る。

「おや。まだ動けたの? さすがだね王子さま」

 ロッテは5人の兵士を一人で斬りつけ倒し終えると、着ていたスカートを腰から引き剥がした。

「じゃあね、お二人さん。これから色々大変だろうけど、頑張って!」

 バサリとそれを脱ぎ捨てると、瞬く間に芝の広間を通り抜け、木に飛び移る。
東屋の屋根に駆け上がると、そこから城壁の向こうへと姿を消した。

「マノン。しっかりしろ。もう大丈夫だ」

 ランデルが私の手を握りしめる。
彼も深手を負っているはずなのに、その手は力強かった。
次第に重くなるまぶたを持ち上げ、彼を見上げる。

「あぁ、よかった。キミが無事なら、それでいい」

 ランデルは残された兵士たちを前に、剣を抜き立ち上がった。

「お前たち、ちゃんと生きているだろうな。これからしばらく、俺に付き合う覚悟をしておけ」

 遠くから、複数の馬が駆けてくる蹄の音が聞こえる。

「ランデル王子! ご無事でございますか!」

 駆けつけた兵士たちが、瞬く間に辺りを取り囲んだ。

「俺は大丈夫だ。早くマノンを……」

 遠のく意識の中で、ふわりと体が浮き上がる。
次に気づいた時は、私はベッドの上だった。





第5章


 清潔な寝間着に、ふかふかのベッド。
朝日の差し込む明るい部屋で、私は目覚めた。

「マノン? マノン! 目が覚めたのか?」

 ベッドサイドには、王太子としてこれから任命式を控えたランデルが、胸に沢山の勲章をつけ正装をした状態で私の手を握っていた。

「ラ、ランデル……王子? 痛っ!」

 起き上がろうとして、痛みに体がうずく。
バサリと斬られた胸には包帯が巻かれしっかりと手当がされていた。

「大丈夫か?」

 ランデルが心配そうにのぞき込む。
私は彼に支えられ上体を起こした。

「医師の話によると、見た目ほど傷は深くないそうだ。具合はどうだ?」
「えっと……。はい」

 派手ではないけれど、きれいに整頓されしっかりとした作りの家具類が並んでいる。
もしかして、ここはランデルの私室? 
天蓋付きの大きなベッド周りには、大勢の侍女や騎士たちが控えていた。

「よかった。キミが目覚めるまで、心配で心配でならなかった。他のことなんて、全く手につかなくて……」
「王子」

 黒髪の騎士がランデルに声をかける。

「マノンさまのお世話は他の者にお任せください。早く即位式の方にご出席を……」
「分かってる」

 それでも彼は、私の手を強く握りしめた。

「ね、マノン。キミに話したいことがあるんだ。どうしても聞いてほしい。これからここを一旦離れるけど、すぐに戻る。それまで待っていてくれないか?」

 ランデルは灰緑色の目を輝かせる。

「えっと……。私は……」

 戸惑う私に、彼の方こそ困惑したようだった。

「どうしたの、マノン。……。あ、そうか!」

 不意に彼は、優しい悪戯な笑みを顔一杯に広げた。

「俺が誰だか分かる?」
「……。ト、トーマス?」
「あはは。そうだよ。ずっとキミに会いに行ってたのは、俺自身だったんだ」

 だからこそ私は、ランデルの大事な時に、ここにいてはいけないのに。
握られている手を、そっとそこから離す。
彼の表情がとたんに引き締まった。

「怖がらなくていい。キミのことはここにいる侍女たちに話してある。安心して待っていてほしい。約束出来る?」

 余りにも純粋で真摯な彼を、直視することが出来ない。
私は小声で「はい」と返事をしながら顔を背けた。

「……。驚かせて悪かった。ちゃんと説明させてほしい。式が終わったら、話がしたい。ねぇ、マノン。キミは……」

 不意に、扉を叩くノックが聞こえた。

「何の用だ。ここへの立ち入りは禁止していたはずだが?」

 ランデルの怒気を含んだ声に、閉じた扉の向こうからたじろいだような兵士の返事が返ってくる。

「あ、あの。お忙しいところ申し訳ございません。今回の件に関して、詳細を知ると申すものが現れまして……」

 ランデルは従者であるニコラと顔を合わせた。
二人の顔つきがみるみる引き締まってゆく。
ランデルはスッと立ち上がると、気高き王子としての威厳を取り戻した。

「マノン。キミは決してしゃべるな。何があってもこのままここに居ろ」

 彼は天蓋にかかる厚手のカーテンを引いた。
侍女たちがさっとそれを手伝い、私の姿を完全に隠す。

「入れ」

 ランデルの声に、扉が開いた。
ガチャガチャと鎧のこすれあう音と共に、何者かが部屋に入ってくる。
扉の閉まる音が聞こえると、兵士が言った。

「この者たちが、王子襲撃の犯人を知っていると申しております」
「なに? それは本当か。ならば申してみよ」

 ランデルの声に、どこかで聞いたことのあるような声が答える。

「これがその証拠にございます」
「このナイフをどこで?」

 突然、ニックの甲高い声が耳に響いた。

「ワタクシが、厨房脇にあるリネン室で今朝見つけたものにございます!」

 うわずったように調子の狂った興奮した声で、ニックは続ける。

「厨房のリネン室には、マノンという下女が寝泊まりしておりました! その者がきっと、落としていったに違いありません!」
「そのマノンという者は、昨夜事件のあった現場に出て行ったと、厨房の料理長含め数人から証言を得ております。ここに控えるニックも、そのうちの一人にございます」
「そのナイフをこちらへ」

 ずるずると膝で床を這う音が聞こえ、再びランデルが口を開いた。

「確かに。このナイフは、昨夜私が襲撃された時のものだ」
「おぉ! やはり……。なんと恐ろしいことを……」

 この声はどこかで聞いたことがある。
だけど、どこで聞いたのか思い出せない。

「私を刺したという女は、今どこにいる?」

 初老というにはまだ若い、かさついた低く重たい声だ。

「その女は、厨房に王子の立太子礼のために臨時で集められた下女にございます。昨夜から行方が分かりません。いつも厨房に寝泊まりしていたようでございますが……」
「ハイ! マノンという下女が、厨房に寝泊まりしておりました!」

 ニックの高揚した得意気な声に、私の頭はクラクラと重くなる。

「その女がナイフを落としていったと」
「王子自身が、このナイフに見覚えがあるとおっしゃったのでは?」

 男の声が、探るようにランデルに語りかける。

「確かに。私はこのナイフに見覚えがある」
「恐ろしい女です。まだ遠くには逃げておりますまい。この出際のよさ。手練れの者に間違いございません。すぐに追っ手を差し向け、捕らえるのがよろしいかと」
「なるほど。だがその女に厨房の仕事を紹介し、事件前には城内への入城を許可した者がいるはずだ。私はその者から調べればよいというわけか?」
「まことに王子はご賢明でいらっしゃる」

 男はその声をずる賢い声色へと変化させた。

「どうかその者をお調べください。きっと王子も驚くようなことが、明らかにされることでしょう」
「この者を今すぐ捕らえよ!」

 ランデルの口調が、厳しいものに変化した。
すぐさま複数の足音が鳴り響き、男のうろたえる声とニックの悲鳴が聞こえる。

「何をなさいますか、王子!」
「そなたの名はなんと申す」
「私は庭師のロペにございます」
「なるほど。なぜ庭師が昨夜の事件を知っている」
「実際にこの目で見てはおりません。しがない庭師でございます。今朝方仕事のために登城し、昨夜の騒動を耳にいたしました」
「それで厨房に直行したのか?」
「私は庭師であると申しました。事件の前日、王子を襲撃した者が奥庭に出入りしていたのを目撃しております。その者は厨房よりワゴンの押して現れ、事件のあった東屋に料理を届けておりました」
「その片付けに昨夜奥庭に向かったのが、マノンでございます!」

 ニックが甲高い声で叫ぶ。
思い出した。
この声は、ロッテから牛乳の入った瓶を受け取った男だ!

「もうよい、黙れ!」

 ランデルの怒りに、室内は静まりかえった。

「ロペ。お前は自分で事件を直接見たわけではないと言ったな」
「はい。私は昨夜は、街の居酒屋で一晩を過ごしておりました」
「なのになぜ、私を襲った者が、女だと知っている?」

 ランデルの足音が、凍り付いたような部屋に響き渡る。

「昨夜捕らえたのは、男ばかりの5人組だ。その中に女性は誰一人としていない。なのになぜ『女が刺した』とお前は言う」
「ですが! 先ほど王子自身も認めたはず! このナイフは確かに自分を刺したものだと!」
「言ったな」
「だとすれば、このナイフが発見された場所にいた者に関係があると推測するのは、自然なこと。現にそこを寝床にしていたという女は、昨夜より現場に立ち入り、今朝もまだ見つかっておりません!」

 その瞬間、目の前のカーテンが勢いよく開かれた。
兵士たちに押さえつけられているニックと白髪の男が、驚きに満ちた表情でベッドに座る私を見上げる。

「お前たちが犯人だというマノンは、昨夜私を庇い怪我をして、こちらで保護している。姿が見えないのは、そういうわけだ。マノン。この二人に見覚えは?」
「は、はい。あります。ニックは厨房で働く調理師で、もう一人の方は、昨日奥庭の東屋の裏でお会いしました」
「奥庭の東屋?」

 そう言ったランデルの言葉に、ロペの顔つきが変わる。

「はい。ロッテから牛乳の入った瓶を受け取りどこかへ消えてゆきました。その時の方に間違いありません」

 暴れようとした初老の男を、兵士たちが強く床に押しつける。

「お前のような下っ端風情に、なにが分かる! 王子はこのような下賤の者の言葉を信じるのですか?」
「私は嘘偽りや自らの憶測を語る者ではなく、ただ真実を話す者の言葉のみを信じる」
「この私が嘘をついているとおっしゃるのですか?」

 ランデルは控える兵士たちに言った。

「この二人を牢に閉じ込め、真実を語らせよ」

 抵抗するロペを、ランデルは見下ろす。

「先に捕らえた5人への尋問は始まっている。お前たちの話を聞けるのが楽しみだ」

 二人は追い立てられるように立ち上がると、部屋から引きずり出される。
ニックが叫んだ。

「マノン! 助けてくれ! 俺は何にもしてない! お前なら俺のこと分かってるだろ!」

 ランデルを見上げる。
彼はまっすぐに顔を上げたまま、厳しい表情を何一つ崩していなかった。
その横顔に、私はただ従った。

「その二人も、十分に調べておけ」

 扉が閉まる。
大きく息を吐き出し、ランデルは肩の力を抜いた。
ようやく彼は、私の知っている彼に戻ると、私を振り返った。
彼の指先が頬に触れ髪を耳にかける。

「リア……。いや、マノン。キミには何と言えばいいか……」

 彼は何かを言おうとして、言葉を飲み込む。
その後ろで、ニコラが叫ぶように言った。

「王子! これ以上時間を延ばせません。即刻、即位式にご出席を!」
「あぁもう! 分かった。分かったよ!」

 ランデルは私の手を取ると、しっかりと握りしめる。

「すぐ戻る。話したいことが沢山あるんだ。だからここで待ってて」

 黒髪の騎士ニコラに急かされながら、ランデルは何度もこちらを振り返りつつ部屋を出て行く。
扉が完全に閉まったところで、ようやく私は一息ついた。

「マノンさま。何かご用はございますか? 私どもはランデル王子から、マノンさまのご要望には全てお応えするように申しつかっております」

 上品な侍女たちが、ニコニコと笑顔でベッド周りに控えていた。
私は胸に巻かれた包帯に手を当てる。

「傷は、それほど深くなかったと聞いたのですけど……」
「えぇ。すぐに手当がされましたゆえ、傷跡に残ることもないだろうと」
「そうですか。分かりました」

 だとしたら、何の問題もない。

「あの、疲れているので、少し休みます。大勢の人に囲まれるのは慣れていないので……。しばらく一人にしてもらえますか?」
「かしこまりました」

 侍女たちを全員下がらせ部屋に一人になると、私はベッドから起き上がった。
傷は痛むが、動けないことはない。
ランデルの私室をゆっくりと見渡す。

「ふふ。なんだかすっかり、ちゃんとした男の人の部屋みたい」

 昔私がここに出入りしていたころは、彼のお母さまの趣味で、可愛らしい家具や装飾が部屋を飾っていた。
今は剣や槍、盾などの武器が並び、壁にはこの国の地図が飾られている。
ふと壁際に飾られた、小さな額縁が目にとまる。
そこには、子供用の小さな古いハンカチがはめ込まれていた。

「嘘……。ランデル?」

 そのハンカチは、私が初めて刺繍をしたものだ。
拙い手つきで、ランデルのイニシャルを縫い付けた。
渡した時のことが、ありありと蘇る。
あの頃の私たちは幸せだった。
何も知らずただ二人でいるだけでよかった。
ずっと優しく見守っていてくださった、彼のお母さまももうこの世にない。
その額縁を抱きしめ、頬に流れる涙を拭う。
ありがとうランデル。
私はあなたの足枷になるつもりはない。
だから私は、ここにはいられない。
もう「リアンネ」のことは忘れていい。
あなたが忘れても、私が覚えているのなら、それでいいでしょう? 
そうすれば私が死ぬまで、思い出が世界からなくなることはないんだから。

 飾られていたハンカチの額を、伏せた状態で元の場所に返す。
私は意を決すると、棚の横に置かれていた鉢を動かした。
この壁は、隠し通路に繋がる道になっている。
子供のころ、よく通っては怒られた。
非常時に使うものを他人に教えるなって。
本当だったね、ランデル。
私はその秘密の通路を通って、この城から外へ抜け出します。
ありがとう。
お礼もなにも言えずに立ち去るのは心苦しいけど、私は幼いころの可愛かった「リアンネ」のまま、あなたの記憶に残っていたい。
もうこれ以上、叶わぬ夢を近くから見ていたくはない。
ロッテはもしかしたら、私の正体に気づいていたのではないかという不安が、どうしても頭から拭えない。
私と同じ格好をして昨夜ランデルを呼び出していたのなら、いずれ「マノン」の正体も明るみに出るだろう。
詳しい調査が始まれば、言い逃れは出来ない。
私という存在があなたに危険な橋を渡らせてしまうというのなら、そんなことは望まない。
どこにいても、この先なにが起こっても、私はただあなたの平穏で幸せな日々を願っている。
その証として、ここを去ります。

 壁際の特定の位置を決められたリズムでノックすると、カチリという音がして隠し通路が開いた。
大人が這って入れる程度の穴に潜り込むと、私はフェンザーク城をあとにした。






最終章


 隠し通路を抜け城外に出た時には、午後の日が西に傾き始めていた。
ベッド脇のサイドテーブルに用意されていた新しい服に着替え、草原に掘られた壕から外に出る。
支給されるはずだった城での給金も、パン屋に残しておいた荷物も取りに戻る勇気はなかった。

「あはは。本当に一文無しになっちゃった」

 それでも、気分は晴れやかだった。
もう過去に囚われる必要がないって、なんて自由なんだろう。
私はくるりと回って、スカートの裾を翻す。
それは午後の穏やかな風に吹かれ軽やかに舞い上がった。

「ま、何とでもなるでしょ。これまでも何とかなってきたんだし」

 ここから一番近い国境はどこだっけ? 
ランデルの部屋に飾られていた地図を思い出す。
あぁ、北西に向かう国境が一番近いな。
私たち一家が捨てられた国境は、城から一番遠い北東にあった。
自分で自分の行き先を決められるなんて、こんな素敵なことってある?

 枯れ草の茂る草原をしばらく歩いて、フェンザーク城を振り返る。
灰色の城は、もう遠くに霞んでいた。

「さようなら! 元気でね!」

 これでもう、思い残すことは何もない。
私はこれから進む深い森に向かって、真っ直ぐに顔を上げた。
どんな困難が待っているか分からない。
だけど、もう何があっても平気。
生まれ変わった気分だ。
ここから国境までの道のりを考えると、気分は憂鬱になるけど、新しい国での新しい自分に期待を膨らます。
ズキリと痛む胸の傷も、その頃にはすっかりよくなっていることだろう。

「さ、行くわよ。リアンネ」

 私の本当の名を知る人は、私だけでいい。
そうね、次の名前はなんにしよう。
流行の可愛くて斬新な名前がいいな。
誰もが聞いて驚くような呼び名にしよう……。

 胸元まで伸びた枯れ草の草原を、森へ向かって歩く。
日が落ちる前には森の手前で休もう。
そして夜明けと共に森に入り、日があるうちに国境まで向かいたい。
そんなことを考えながらのんびり歩く私の耳に、激しく馬を駆り立てる一群の蹄が聞こえた。

「まさか!」

 咄嗟に草むらに身を潜め、隙間からのぞき込む。
ランデルが兵士たちを引き連れ、馬を走らせていた。

「お前たち、彼女の顔は覚えてるな! 必ず見つけ出せ。絶対に傷つけるな!」

 どうしよう。
こんなにすぐ見つかるなんて思ってもいなかった。
即位式は? 
もう終わったの? 
ちょっと早すぎじゃない?

 私は耳を塞ぎ草むらに身を潜める。
じっと隠れていたつもりだったのに、ランデルの率いる騎馬隊はすぐ真横を駆け抜けた。

「きゃあ!」
「リアンネ!」

 馬に蹴飛ばされそうになって、思わず悲鳴を上げる。
私に気づいたランデルは、馬上から飛び降りた。

「待って! なんで逃げるんだ!」
「なんで追いかけてくるの!」

 もう無駄だって分かっていても、足は止まらない。
私は枯れ草の草原を懸命に走った。

「話したいことがあるって、言っただろ!」
「そんなもの、私にはないの!」

 すぐに追いつかれ、ランデルが私の横に並ぶ。
それでも止まらない私に、彼は飛びついた。

「だから話を聞けって!」

 ランデルと一緒になって、地面を二度三度転がる。
彼は私の両手首を掴むと、そのまま地面に組み敷いた。

「部屋で大人しく待ってろって、言っただろ!」
「それは聞いたけど、待つとは言ってない!」
「なんで逃げる?」
「どうして追いかけて来たのよ!」
「リアンネ!」

 その名を呼んだ彼に、私は口をつぐむ。

「リアンネ。キミはリアンネなんだろ? 一目見てすぐに分かった。城で見かけた時、心臓が止まるかと思った。俺に会いに戻って来てくれたんじゃなかったのか?」
「……」

 なんて答えよう。
「そうじゃない」と言っても「そうだ」と言っても、どちらも嘘になる。

「ずっと探していた。忘れたことなんてない。リアンネ。キミもそうだと言ってくれ」

 答えられない私は、返事の代わりにぎゅっと目を閉じる。
目から涙の滴がこぼれ落ちた。

「どうしてキミが答えられないのか。なんで逃げ出したのか。言いたくないのなら言わなくていい。リアンネという名が気に入らないのなら、マノンのままでもいい。どうか俺のそばに居てくれ。もう離れたくないんだ」

 ランデルの手が、こめかみを流れる涙をすくい取る。

「式から戻ったら、キミに伝えたいことがあるって言ったよね。それを今、ここで言ってもいい?」

 山裾の草原を吹き抜ける風が、私たちを取り囲む枯れ草を揺らした。

「父王にね、お願いしたんだ。俺が王太子に即位したら、叶えてほしい願いがあるって。それはね、先の内戦で処罰を受けた人たちを、許してほしいってこと。もう十分な年月が経ち、王宮の内部は随分と整理された。もちろん、俺や王の命を狙う者はまだ耐えない。だけど、俺はもうこんなことを全部終わりにしたいんだ」

 ランデルの手が、私の頬を撫でた。

「だから、即位に際して、恩赦を出してほしいって。俺がこれから王となって作る国には、敵も味方も必要ない。みなが平穏に暮らせる、穏やかな時代にしたいんだ。父王は、許してくれたよ。だからもう、キミは罪人じゃない。この国にいて、城にいて、俺の側にいていいんだ」

 見上げるランデルの顔が、涙で歪んで見える。
それはランデルも同じみたいだった。

「ねぇ、俺とした約束覚えてる? 結婚しようって。その返事として贈られたハンカチを大切に置いてあったの、キミも見たんだろ?」

 彼の額が、私の額にコツンと当たった。

「キミには亡くなった母上の前で約束した通り、結婚してもらう。これは俺が王太子として、初めて下す命令だ。逆らうことは、キミでも許さない」

 ランデルの唇が、私の唇に重なった。
絡みつく彼の熱い想いが、私の全てを押し流す。

「リアンネ、返事は?」
「……。はい。王子の命に、従います」
「はは。ここが俺の部屋じゃなくてよかった」
「え?」
「ううん。こっちの話し!」

 彼は私を助け起こすと、ふわりと自分の馬に乗せた。

「さぁ、城に戻ろう。すぐに婚約発表の準備を始めなきゃな」

 ランデルが手綱を引く。
草原に遠く見えるフェンザーク城に向かって、私たちは走り出した。




【完】




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