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龍神さまのいるところ

 ウソみたいに信じられない話なんだけど、空から女の子が降ってきた。翌日の俺は、風邪をひいたフリをして学校を休む。舞香を乗っ取った妖怪の類いが暴れ出し、校内でアクションホラー映画並の惨劇が発生する事態を考えての危機回避だ。しかしながらそんな異次元的なことは一切起こることなく平和な時は流れ、週明けの月曜から、俺はビクビクしながら学校へと行くハメになってしまった。なぜだ?

第1章 


 ウソみたいに信じられない話なんだけど、空から女の子が降ってきた。

有名なアニメのワンシーンみたいに、仰向けに寝ている女の子が、ふわっと。

天から降りてくるみたいな感じでさ。

4月始めのまだ肌寒い校内に、俺はそんなものを見てしまった。

 山の上にある高校は、その山頂を削り、池を埋め立てて整地されたらしい。

校内に埋めきれなかった小さな池が残っているのが特徴だ。

ビオトープとかいうやつで、自然をそのまま残したとかいう名目の小さな池には、カエルだとかメダカなんかが住んでいる。

その周辺には芝が植えられていて、原生林の残る山腹と比べると随分と見栄えが異なるが、一種の憩いの場になっていることは間違いない。

あんまり人気はないけど……。

写真部の俺は、どうしても春先の夜空が取りたくて、その池の脇に三脚を立てレンズの調整をしていた。

憧れの天体写真撮影のために、ネットで色々と調べた時間と方法をスマホで確認しながら、レンズを空に向けた、その直後のことだった。

 何事が起こったのかと思った。

カメラのレンズにゴミでも付いているのかとのぞき込んでみたが、何もない。

そんなゴミもないか。

ただアニメと違ったのは、その女の子は真っ白な袴を着た肩までの黒髪の女の子で、体が半透明に透けている。

「あ、あの……。あれさぁ……」

 誰かに声を掛けようと思っても、周囲には誰もいなかった。

まだまだクソ寒い春先の、こんな屋外での長時間撮影に付き合ってくれようなんて奴は、写真部にもいない。

辺りはすっかり日も落ちて、完全下校時間も近づいている。

残っている生徒たちもほんのわずかだった。

その女の子はゆっくりと、こっちに向かって落ちてくる。

どうしよう。アレはなに? 

宇宙人? 地球侵略? それとも……。

考えている場合じゃない。

俺は迷わず、校舎の陰に身を隠した。

こういうのは、遠くから観察するに限る。

だろ?

 地上が近づくと彼女は閉じていた目を開け、辺りを見回す。

辺りに人気はなく、周囲も暗い。

だけど俺にはそれは、彼女が動揺しているようにも見えた。

ふわりと地上に降り立ったその女の子は、三脚のすぐ横を通り過ぎる。

しまった。

カメラ持って逃げればよかった。

小遣い貯めてやっと買ったカメラだったのに……。

三脚はどうでもいい。部の共用品だ。

だけどカメラだけは何とかならないものか……。

 半透明の彼女は池の縁に立つと、じっとその水面を見下ろした。

え、どうしよう。

このままどこかへ行ってくれなかったら、俺はあのカメラを諦めるしかないのだろうか。

ヘンに近寄って妙なことに巻き込まれたくなんかないし、余計なことをして襲われたくもない。

あのカメラさえいまこの手に握っていたら、さっさと逃げ出して帰れたのに……。

備品の三脚はどうなっても、後で怒られるくらいの覚悟はある。

反省文だって書ける。

だけどあのカメラだけは、なんとか救い出したい!

 彼女が振り返った。

不思議そうに校舎を見上げている。

その校舎の陰から、一人の女の子が出てきた。

去年同じクラスだった内村舞香だ。

それほど親しい間柄ではないけど、まぁ普通にしゃべるくらいはしたことがある。

演劇部の彼女は、衣装や小道具やらを詰め込んだ段ボール箱を抱え、とことこやってきた。

彼女は半透明の少女にまだ気づいていない。

彼女を見つけた瞬間、幽霊のようなその女の子は、パッと動いた。

「えっ……」

 一瞬の出来事だった。

その半透明の体は、彼女と重なったかと思うと、そのまま吸い込まれてゆく。

舞香は持っていた段ボールごと、ガクリと地面に倒れた。

体を乗っ取られ意識を失ったのか、そのまま動かない。

「ちょっと待って……。嘘だろ?」

助けに行ってやりたいが、俺にそんな勇気はない。

すぐに気づいた彼女は、頭を抱えながら起き上がる。

落としてしまった段ボールに気づいて、散らかったものを拾い集めた。

頭を気にしながらも立ち上がると、そのままこっちへ向かって歩いてくる。

もう逃げられない! 

俺は覚悟を決めると、隠れていた階段裏から一歩を踏み出した。

「あ、圭吾だ。いたの?」

「う、うん」

 じっと俺を見上げてくる。

なんだよ、そんなに見てくんなよ。

俺の背中はすでに汗でびっしょりなんだぞ。

「ねぇ、よかったらこのまま、一緒に帰らない?」

「え、なんで?」

「いや、ちょっと頼みたいことが……」

「ゴメン、いま忙しい」

「そうなの?」

「うん。すまん。また後でな」

 何事でもないかのように、慎重に冷静さを演じたまま、彼女とすれ違う。

心臓はバクバクだ。

手足の動きもぎこちない。

背中を見せたら突然襲われるかとも思ったけど、普通にすれ違っただけだった。

振り返るのも恐ろしくて、ようやくたどり着いたカメラ横で呼吸を整える。

女子たちの平和で呑気な話し声が聞こえてきて、俺はようやく一息ついた。

完全下校時間の近づいた校内だ。

日はとっぷり暮れている。

 彼女の消えた校舎裏から、また数人の女の子が出てきた。

今度は偶然一緒になったらしい、運動部の連中と一緒だ。

その中に舞香もいる。

俺は彼女に向かってシャッターを切った。

パシャリとフラッシュが光って、思いっきりにらまれる。

「なにあれ。写真部かよ」

「盗撮? ねぇ盗撮?」

「そ、そうではないと思うよ……」

「お腹空いたー。早く帰ろう」

「肉まん食べたーい」

 肩までの髪をなびかせて、彼女は消えた。

体内に空から降ってきた女の子を取り込んだまま……。



第2章


 翌日の俺は、風邪をひいたフリをして学校を休む。

舞香を乗っ取った妖怪の類いが暴れ出し、校内でアクションホラー映画並の惨劇が発生する事態を考えての危機回避だ。

しかしながらそんな異次元的なことは一切起こることなく平和な時は流れ、週明けの月曜から、俺はビクビクしながら学校へと行くハメになってしまった。

なぜだ?

「ははは。お前、すんげー風邪ひいてたんだな。だからこのクソ寒い春先での外撮影なんて、やめとけっつったのに」

 同じ写真部の連中はそんな呑気なことを言って笑ってたけど、俺はこの学校のどこかに幽霊だか妖怪だかに取り憑かれた生徒がいるのかと思うと、それだけで気が気ではない。

記録の代わりに残した画像もすぐに見ることは出来なくて、その「星空」フォルダーはいつまでもパソコンの中に放置されていた。

忘れたくても忘れられず、かといって誰かに話すことも出来ないまま、また一日が過ぎる。

登校するのがこんなサバイバルになるだなんて、思いもしなかった。

「圭吾、タイムラインに載せる画像早く選べよ」

「うん、ちょっと待って」

 新入生勧誘のために、部員の撮影した画像を学校専用SNSにあげるべく、俺は何十枚も撮った中から最高の一枚を選んでいた。

同じ部員である山本はPC画面をのぞき込む。

「圭吾もさぁ、諦めて加工すればいいのに。今時当たり前だよ」

 ボウズスタイルのいわゆる丸刈り坊主頭ではない、似合ってるのか似合ってないのかよく分からない頭をした山本は、その頭を掻いた。

「俺はそれがイヤなの」

「コレだってさぁ、いい写真なのに、ここに余計なものが入ってる」

 校舎を下から見上げるように撮影した写真だ。

そこに入り込んだ人物が、真正面でこっちを向いてしまっている。

「これを消しちゃえば、それなりに使えるのにさ」

「しょうがないだろ。シャッター切った瞬間カーテン開けられたんだから。そんな偶然に撮れたものに、いいのがあったりするんだよ」

「そうかもしれないけど、このままだとほとんどがゴミじゃん」

 そんなことは言われなくても分かってるけど! 

色のコントラストだって、変えた方が確かに綺麗だし映えるけど! 

俺は自分の目で見たものを見たままで写し取りたい。

そう思っているから、出来るだけ加工はしたくないんだ。

「その新入生勧誘のタイムラインに上げる、動画編集で忙しかったんだから。そこまでやる余裕なんてあるか」

 ふわりとした甘い香りが鼻先をくすぐる。

部長の希先輩だ。

「圭吾の写真はいいと思うけど、面白みはないよね」

 ショートボブの短い髪から、わずかにいつものシャンプーが香る。

「それがカメラのレンズ越しに見える、新しい世界なんじゃないの?」

 俺にとって彼女は憧れの先輩ではあるけど、それはあくまでも写真部部長としての憧れであって、俺は一部員として交流があり話しかけられるのであって、恋愛対象ではないことを知っている。

「あんただけだよ。まだ出してないの。加工する時間もいらないのになんで?」

「す、すいません……。だから動画の編集で……」

 何でもない会話に、いつも頬が赤くなる。

同じ2年生部員のみゆきがのぞき込んだ。

「圭吾はこだわり派だから。そんなに大変なんだったら、他の人に頼めばよかったじゃない」

 コイツは悪い奴ではないんだけど、とにかくアタリが強い。

俺だけなのかもだけど。

「素のまま、が、いいんだよね~」

 やっぱり顔が赤くなる。

そう言われると聞こえはいいが、みゆきはそんな俺を軽く下に見ていることは知っている。

ゆるく巻いた髪をくるくると指に絡めた。

「いいんじゃなーい? 好きなようにすればぁ~」

 そこにいた全員が、あははと笑った。

だけどそんなことは気にしない。

俺は自然写真家目指しているんだ。

人物に興味はない。

ノックが聞こえた。

この写真部の部員に、ノックをしてから扉を開けようだなんて、出来た人間はいない。

「はーい。どうぞー」

 希先輩の声に、ガチャリと扉が開いた。

スラリと背の高いイケメンが姿を見せる。

「初めまして。演劇部部長の荒木です。今日は写真部の皆さんにお願いがあって参りました」

 後ろには取り巻きのような女の子が3人もくっついている。

演劇部の部員だと紹介されなければ、このイケメン部長がただのファンを引き連れて乗り込んで来たみたいだ。

いわゆるマッシュと呼ばれるイケメン御用達のような髪型をしていて、俺も同じそのマッシュな頭をしているのに、土台が違うとこれだけ違うものなのかと思う。

その女の子たちのなかに、あの舞香もいた。

「荒木くん! なになに? どうしたの急に……」

 希先輩は、俺の見たことのない顔と声色で立ち上がった。

彼らのためにあたふたと席を用意すると、身を乗り出す。

「で、どういうこと?」

「実は、撮影を頼みたいんだ」

 話しはこうだ。

演劇部の舞台を高校生コンクールに応募しようと動画撮影したものの、ただ舞台全体を三脚を置いて撮影しただけのものでは味気なく、サイト内視聴回数も伸びが悪い。

しかし演劇部部員だけで撮影と動画の編集までするには、人員も足りないしパソコン等の機材もない。

映画研究部のないうちの学校において、お願いできるのは写真部しかないのではないか……とのことだった。

「照明とかにも人数取られちゃって。どうか頼めないかな。困ってるんだ。もしよかったら、写真部の撮影会モデルとして、うちの部員も協力できることはさせてもらうから……」

「え? モデル引き受けてくれるの?」

 部員たちは顔を見合わせる。

俺はずっと妖怪か幽霊に憑依されたままであろう舞香のことばかりチラチラと見ていて、ずっとそれどころではなかった。

この瞬間になって初めて、イケメン荒木部長と、ふと目が合った。

「キミの名前は?」

「い、岩淵圭吾です」

「圭吾はどう思う? 頼めないかな」

「う~ん。写真部ってあくまで静止画専門であって、動画の撮影や編集はやってないので……」

「でも、やろうと思えば出来るよね。てゆーか、やってるよね」

 舞香だ。

何者かに取り憑かれたであろう舞香が、そう言った。

四角く長机を並べた席の端っこで、肩までの髪を揺らしている。

その彼女と目が合った。

俺は反射的に立ち上がる。

「だ、だけど、うちにもそんな余裕があるわけじゃないし、動画の編集作業ってものすごく時間がかかるので……」

「じゃあさ、その編集作業の仕方だけでもいいから、教えてもらえないかな」

 舞香の視線に、ぐっと押し黙る。

本当は別に嫌じゃない。

嫌じゃないけど、今のこの正体不明な彼女ではイヤだ。

怖い。

無意識に立ち上がってしまった俺は、集まる視線をかわそうとパソコンに向かった。

俺はいま忙しいんだ。

だからそんな話しは出来ませんよアピールのつもり。

「確か写真部さん、学校SNSに動画あげてますよね。テロップとかの文字入れとかもしてるし。入学式の様子とかも。写真撮ったのをつなぎ合わせて、動画なんかも編集して学校ホームページとかにあげてましたよね。それやったの、圭吾なんじゃないの? 前に自慢げに話してたの聞いてたんだけど……」

 うう。何やってんだ俺。

そんな過去の行動がいまになって仇になるだなんて、そんなこと考えたことある? 

俺は横を向いたままパソコンを触っているフリを続ける。

ガタリと椅子が動いた。

「だけどほら、お願いされたって写真部のパソコンはもう保存データが一杯でさ、演劇部の長い動画編集は作業が重くなるから……」

マウスを動かし、時間稼ぎのためだけに、封印されていたフォルダーを開いた。

『星空』とフォルダーだ。

一枚しか保存されていないその中には、いま目の前にいる舞香が、あの時の瞬間のまま保存されていた。

「これって盗撮……?」

「はい?」

 突然、頭上から声が聞こえた。

驚いて顔を上げる。

すぐ後ろにイケメン部長が立っていた。

画面には、まっすぐにこっちを見ている舞香の画像が映し出されている。

慌てて画面を手で覆う。

「違います! だってほら、こっち向いてるでしょう?」

 とは言ったものの、すぐそこにいる本人に確認されればお終いだ。

画像ファイルを閉じなければ。

マウスを動かそうとした俺の手に、イケメン部長の手が重なった。

彼は俺の耳元でそっとささやく。

「舞香のこと好きなの?」

「だから違うって……」

「大丈夫。協力するよ。もう誰にも、盗撮だなんて言わせない」

「ちがっ!」

「ほら、やっぱり動画編集ソフトが入ってる」

 重ねられた荒木さんの手が動く。

操作されたマウスは、さっきまで俺の見ていた動画編集ソフトを、何の躊躇も忖度もためらいもなく表示する。

「ね、圭吾クンは動画編集作業できるの?」

「出来ますよ部長! 圭吾、そういうの得意だって自分で言ってました!」

「わー。それは実に頼もしいね」

 完全に棒読みじゃねぇか! 

俺がマウスを動かそうとしても、イケメンの圧がそれを許さない。

整い過ぎた顔が再び耳元でささやく。

「『星空』フォルダーだなんて、ロマンチックでかわいい」

「ち、違うんです……」

「心配しないで。ちゃんと協力するから。約束」

 イケメンのイケボなウィスパーボイスとウインクは、男にすらその効力を発揮するということを、俺は生まれて初めて知った。

「だ、だからそれは誤解で……」

 荒木さんのマウスを操作する手は止まらない。

パソコン画面には、PCの空き容量も表示されてしまっている。

彼はそれを確認すると、ニッと微笑んだ。

次の瞬間、彼は大きく両腕を振り上げたかと思うと、膝を折り額を床にこすりつけた。

「撮影会のモデルは快く引き受けるし、なんなら写真部の部員が好きな時に声をかけてくれたっていい。その時間でも撮影に付き合おう! だから、演劇部活動紹介と上演映像の、撮影と編集を教えてください! お願いします!」

「演劇部なのに? 舞台じゃなくてなんで動画配信にこだわるんですか?」

 俺がそう言った瞬間、希先輩ムッと眉を寄せた。

俺は「おかしくない?」っていう次の言葉を飲み込む。

「……。舞台映像をネットで流すのは、今や常識だよ」

来ていた女の子たちも口を開いた。

「自分たちでやれたらいいんだけど、パソコン使える人が他にいなくて……」

「貸していただけるだけでいいんです。それと、使い方を教えていただければ。後は自分たちでなんとかするので……」

 『星空』フォルダーの舞香が言う。

「高校演劇を本格的にやっている学校って、実はあんまり多くはなくて。交流の難しいなか、それぞれが動画を撮影し、互いに配信しあって交流しているの。より多くの人にも見てもらえるし。ネットで動画をあげることが出来れば、演出の助言や演技指導のアドバイスも受けやすくなるから……」

 イケメン荒木部長の手が、俺の肩に乗った。

「撮影モデル、喜んでさせてもらうよ。写真部の皆が、好きな時に好きな演劇部員を指名できるってことで、お願い出来ないかな」

 その言葉に、希先輩を始めとする部員全員が、ゴクリとツバを飲み込んだ。

顔出し人物画像の撮影が難しい昨今、その申し出は非常にありがたいけど……。

「本当にいいの?」

 希先輩の確認に、荒木さんはうなずく。

「本当にその条件で、モデルを受けてくれるなら……」

「お、俺は反対です!」

 冗談じゃない! 

得体の知れないヘンな奴になんて、絶対に関わりたくない。

「動画編集なんて、今どきスマホでだってやろうと思えば出来るのに、うちのパソコンが使いたいだなんて……。そんなの、自分たちでやればいいじゃないですか」

「ダメかな……」

 荒木さんの視線は、希先輩を追った。

いつもクールな先輩が、それを察知してわずかにうろたえる。

「そ、それは……。私は別に……」

「圭吾は人物に興味ないから、だからそんなこと言うのよ。いつも風景とか植物ばっかりでさぁ」

 みゆきが声をあげた。

そのまま背の高い荒木さんを見上げる。

「わ、私が荒木さんに、モデルをお願いしてもいいってことですよね……」

 端正な顔は、美しく微笑んだ。

「もちろん。編集作業、教えてもらえる?」

「部長! 私が教えます。だったらいいですよね!」

「う、うん。それで、写真部全員がモデルをお願いできるなら……」

「もちろん。その覚悟でお願いしに来ました」

 イケメンスマイルが炸裂する。

ノックアウト! 

そこからは早かった。

あれよあれよという間に日程が決まってしまう。

「じゃあ……。みゆきちゃん、お願いできる?」

「ハイ!」

 くそっ。

どいつもこいつも簡単に手懐けられやがって。

俺はちらりと舞香を盗み見た。

いまの彼女は、いったいどうなってしまっているのだろう。

見た目にはなにも変わらない。

完全に普通に見える。

去年同じクラスではあったけれど、特に接触があったわけではないから、そもそも普段っていうのが分からないワケではあるんだけど……。

まぁ、そもそも、俺の方から女の子に積極的に話しかけることなんてことも、基本的にないし、ましてや向こうから来るなんてことは、当然全然全く皆無なワケなんだけど……。

荒木さんが俺にささやく。

「ところで、舞香とはどういう関係?」

「去年同じクラスだったってだけです」

「えぇ? 『星空』フォルダーなのに?」

 驚いたようなその大げさな表情は、演劇部ゆえなのか元々の素なのか……。

どう返事をしていいのか分からず、動揺を隠せない俺に、彼はクスッと微笑んだ。

「そっか、そこからなんだな。了解」

 爽やかな笑顔で手を振って、彼らは部室を後にした。

嵐のようなその去り際に、舞香と目が合う。

彼女は俺に向かって、小さく手を振った。



第3章


 そんなこんなで、憂鬱な学校生活が始まってしまった。

なぜ俺がユウレイに憑依された、危険人物のうろつく空間にいなければならないのか。

「昨日来てた子、みんな可愛かったよねぇ~」

 同じ写真部の山本は、教室の窓枠に頬杖をつき、校庭を眺める。

「お前、基本的に女の子全員好きだろ」

「まぁね~。そりゃそうでしょうよ」

 昼休み、演劇部の連中は新入生勧誘目的も兼ねて、校庭で発声練習をしていた。

その中に憑きものの舞香もいる。

「舞香ちゃん、めっちゃ色白いよね~」

 外をのぞき見る。

彼女だけ抜けるように肌が白い。

だけどそれは、顔色が悪いだけなんじゃないのかと思ったりもする。

取り憑いた悪霊はどうなった?

「あれで裏方だなんてもったいない……」

 そりゃ表に出る役なんて出来ないだろうよ。

どこで正体バレるかわかんないし。

いや、悪霊と決まったわけではないのか? 

どっちにしろ、気持ち悪いことには変わりないけど……。

カメラに残されていた画像には、ヘンなものは写っていなかった。

やっぱ心霊写真なんてものはウソってことなのかな? 

もしかして見間違いだったとか。

もういなくなっちゃてるとか? 

そんなくだらないことを考えたり、やめてみたりを、ここ最近はずっと繰り返している。

「なぁ山本。演劇部への協力って、いつまで続けんのかな……」

「俺はこのまま、永遠に続いて欲しい」

 くそっ。

コイツとは話しにならない。

1学年に5クラスある高校だ。

去年同じクラスだったってだけで、記憶に残さねばならないほどの出来事は何もない。

山本情報によると、現在彼女は2組らしい。

俺たちは5組で、L字型の校舎では使う階段も廊下も違うから、ほとんど接点もなかった。

だから「あの日」以降も、校内で顔を見なかったワケだ。

本来なら充実した学園生活を送るはずだった、俺の青春を返してほしい。

どうして恐怖におびえながら、学校で過ごさなくてはならないのか……。

「あ、希先輩だ」

 腕に写真部の腕章をつけていた。

特に演劇部だけを見に来たわけではないような雰囲気だ。

首にかけたカメラは、胸の前でぶら下がったまま揺れている。

その視線の先には、やっぱりあの人がいるんだろうか……。

「あ、そういや圭吾。お前タイムラインに載せる画像選んだ?」

「あ……。忘れてた……」

「部活ラインで回ってきてただろ。みゆきちゃん、怒ってたよ」

 放課後になり、部室に入ったとたん、そのみゆきに怒鳴られた。

「ちょっと、圭吾! いい加減にしてくんない? 本気で未提出なの、あんただけなんだけど」

「ハイ。スミマセン……」

 彼女は一台しかないパソコンの前に座っていた。

俺はスマホを操作する。

選んでおいた画像を添付して、部室のパソコンに送った。

みゆきは動画編集ソフトを起ち上げている。

容量はとるけど、スマホでだって出来ないこともないのにな。

そりゃパソコンの方がやりやすいけどさ……。

やっぱ本当に来るのかな。

部室のドアが開いた。

「あ、演劇部の内村です。よろしくお願いします」

 舞香だ。

その姿を見たとたん、俺の手からスマホが滑り落ちる。

それは床に跳ね返って、ガツンと嫌な音をたてた。

「あ、大丈夫? 画面割れてない?」

 スマホに彼女の手が伸びる。

「触るな! って、あ……ご、ゴメン……。な、なんでもない。ありがとう」

 思わず出た声に、自分で自分もびっくりしてる。

なに言ってんだ俺。

めっちゃ恥ずかしい……。

「あ、いや……。私もゴメン。人のスマホに、勝手に触るもんじゃないよね」

 落としたスマホを自分で拾い上げた。

画面は割れていない。

俺はやっぱり、彼女の顔をまともに見られない。

「ちょっと圭吾。今のは酷くない? 拾ってくれようとしただけでしょ」

「はい。すみません」

「早くタイムラインに載せる画像送って」

「送ったって」

 みゆきに急かされ、マウスを動かした。

メールの送受信をチェックする。

新しい受信を知らせるアイコンが浮かび上がった。

そんな簡単な作業をしているのに、舞香からの熱い視線を手元に感じている。

「パソコン関係、強いの?」

「別にそういうわけじゃ……」

 これくらい、本当にどうってことない。

彼女は今度は、みゆきの操作するパソコン画面をのぞき込んだ。

「こういうの、出来るようになりたいんだよねー」

「うん。いいと思うよ。色々出来て楽しいし便利だし」

 この二人は初対面だったらしい。

みゆきが操作の説明を始めた。

彼女はそれをメモをとりながら、一生懸命に聞いている。

その後ろで俺は、二人の様子を落ち着かない気分のまま、ちょろちょろと眺めていた。

こんな狭い部室で、いくらなんでも二人っきりはないだろ。

俺がいなくなったら、コレ絶対みゆきがバケモノに襲われて、死亡確定なヤツだし。

「これが時間調整の仕方なんだけどね……」

「へー、こんなちっこい秒単位で調整するんだぁ」

「そう! で、ここで直接入力しちゃえば……」

 ため息が出る。

何をやってるんだろうか……、俺。

これでみゆきがバケモノに襲われたとして、俺は助けてやることなんて出来ないし、かといってなにか起こっても、見捨てた感じで後味悪いし……。

あれ? 

でも俺的には、いまここで自分だけ逃げた方が、得なんじゃね? 

え? 

だけど、それもどうなの?

「……。はぁ~……」

 また深いため息をつく。

もうゲームアプリの今日のデイリーミッションは、全てクリアしてしまった。

持っていたスマホを机に放り投げると、天井を見上げる。

何にもすることがない。

だけど舞香のことが気になって、ここから出て行くことも出来ない。

彼女の背中を見つめる。

俺はどうすればいいんだろう。

そんなこんなで時間だけが過ぎてゆく。

ふと振り返ったみゆきと目があった。

「ねぇ、何してんの。することないなら、撮影にでも行って来たら」

「別にそういうわけじゃ……」

「じゃあどういうワケよ。邪魔なんだけど」

 舞香の目が、俺のスマホを見ている。

「圭吾は、スマホで編集とか加工とかも出来ちゃうタイプなの?」

「加工はしないよ」

 やっぱやってらんない。

俺は立ち上がった。

この部室が血まみれになっても、めちゃくちゃに破壊されても、何がどうなっても俺は知らんからな。

「今日はもう帰るって、希先輩に言っといて……」

 バタンと扉が開いた。

「あー! 舞香ちゃん来てたのね」

「希先輩!」

 いつの間に仲良くなったのか、希先輩と舞香は二人ではしゃぎだす。

そこにみゆきも加わって、一気にやかましくなった。

希先輩と一緒に入ってきた山本は、首にカメラをぶら下げている。

「なんだよ圭吾、いたんなら来ればよかったのに」

 山本はスマホを取り出し操作を始めた。

「連絡入れてただろ」

「う、うん……」

 言葉に詰まる。

そりゃ知ってたけど、俺はここを離れるわけには……。

山本はニヤリと笑って、俺の肩にアゴを乗せた。

「なんだよ。文句言ってたくせに、やっぱお前も浮かれてんだ」

「なにが?」

「可愛いよねー。舞香ちゃん。つーかお前、ここに舞香ちゃん来た時から、ガン見しすぎ」

「だからそれは誤解だって」

「またまた。素直じゃないんだから」

 写真部だなんて元々何をしに来ているのか、写真を撮りに来てるのか、しゃべりに来てるだけなのか、その区別が難しいような活動内容だ。

結局集まった5人でしゃべり倒しているうちに、下校時間になってしまった。

そのままの流れで、裏の山門から学校を出る。

 山頂の学校から麓まで、アスファルトで固められた歩道があるとはいえ、急な坂道が延々と続く。

周囲には原生林がそのまま残っているものの、山さえ下りてしまえばごくごく普通の、どこにでもあるような平凡な街だ。

山麓のコンビニ駐車場兼バス停でとりあえず立ち話をするのが、うちの生徒たちのお約束になっている。

「喉渇いた~」

「なんか買ってこよう」

「アイス食べたーい」

 女子軍団のコンビニに付き合って、俺は仕方なくお茶を買う。

店を出るとすぐに彼女たちはアイスの袋を開けた。

日の傾いたコンビニ駐車場の壁に沿って、なんとなく5人で一列に並んでいる。

俺の隣に舞香が来た。

彼女が口にするのはパイナップルのアイスらしい。

その黄色い塊は、白い歯に噛まれ口に含まれると、ころころとその中で転がされている。

「……。アイスとか、普通に食べるんだ……」

「え?」

 もぐもぐと口を動かす彼女を、じっと見下ろす。

なにこの子。

もしかして日常を楽しむ系の幽霊だったりしたのかな。

だとしたら取り憑いてるのは、平和な癒やし系バケモノ? 

だとしても、普通じゃないことは確かなんだし……。

彼女の口元は再びアイスに食らいつく。

「パイナップルとか食べたことあるの? そういうの、知ってたんだ。アイスって冷たくない? それは大丈夫なんだね」

「う、うん? ……。まぁ、普通に大丈夫だけど……」

「甘い? 美味しい? 今まででアイス食べるのって、何回目?」

不意に彼女は、俺から顔を背けた。

うずくまるようにして顔を隠す。

「え? どうかした? なになに、大丈夫?」

 顔が真っ赤だ。

それを隠そうとしているから余計にタチが悪い。

え? 

待って待って。

もしかしてここで変身する?

「ちょ……。ここじゃ……」

 どうしよう。

ヤバい。

逃げればいい? 

いやむしろ逃げたいんだけど、どこへ? 

武器は? 

いや戦わんだろ。

スマホで警察呼ぶ? 

慌てて制服のポケットを探る。

こういうときに限ってなぜか、すぐにスマホは出てこない。

「待って。いまここで何かあっても……」

「バッカじゃないの! 頭大丈夫かよ。しっかりしろ圭吾!」

 みゆきがそう叫んで、俺の制服の袖を思いっきり引っぱった。

希先輩は冷ややかな視線を投げかける。

「え、もしかして初恋? 初恋な感じなわけ? うっわ、ないわ~」

「え、さっきまで部室にいたとき、もしかして私邪魔だった? ねぇ邪魔だったのかな? 二人っきりになりたかった?」

 みゆきがにらんでくる。

「は? ち、違うって! だから……」

「そうは言っても、あんたと二人っきりにはさせられないけどね!」

 舞香の顔は真っ赤だ。

「ちょ、だからちが……」

「まぁまぁ許してやってよ」

 山本の腕が俺の肩に乗った。

「しっかり俺が言い聞かせておくから。何かヘンなこととか、されそうになったら、いつでも俺に相談して」

「私も!」

「私にも。いつでも相談してね」

「だからなんでそうなるんだよ!」

 俺がどれだけ訴えても、全員「まぁまぁ」としか言わないし、否定すればするほど墓穴を掘っているような気が、自分でもしている。

舞香は「私、バス停反対方向なんで」とか言って先に帰っちゃうし、みゆきと希先輩も信号を渡って違う路線へ行ってしまった。

山本と二人取り残される。

「……。お前さ、いくら気になるからって、犯罪だけは犯すなよ」

「ないって!」

 猛烈にイラつく。

だけど、あの日見たことを誰かに話して、信じてもらえるかどうか。

それをやってみる勇気も自信もない。

夕暮れのバスに揺られながら、赤く染まった街並みを眺める。

もーいやだ。

学校行きたくない。

なんで俺がこんなことで悩まなくちゃいけないのか。

駅で山本と別れると、俺は電車に乗った。

すっかり暗くなった車内で、窓ガラスに映る自分の顔を見ている。

1年の頃の舞香って、どんな感じだったっけ。

別に普通だったよな……。

彼女の記憶をたどりながら、俺はその振動に体を預けていた。

 不幸な偶然は続くもので、その翌日には、ぎゅうぎゅう詰めのバスから下りたところで、登校途中の舞香とばっちり目が合ってしまった。

「あー……。おはよう……」

 さすがに無視するわけにもいかなくて、何となく隣に並ぶ。

彼女も一緒に歩いてくれているけど、並んで歩くその距離感が微妙にぎこちない。

森の中を貫く地獄の坂道を、一直線に上ってゆく。

どうしよう。

昨日の誤解を解かないととは思うけど、好きだとか好きじゃないとか、そんなことを説明して話すのもむちゃくちゃカッコ悪いし、逆に失礼じゃない?

「あのさ。俺、別に……。えっと、変な目でっていうか……その……。普通! 普通に思ってるから……」

 彼女の黒い髪が肩先で揺れて、そのままプッと吹き出した。

「うん。分かってるよ。大丈夫だから、私も普通にするね」

「はは……。ありがとう……」

 にっこりと微笑むその笑顔は確かに眩しいけれど、『普通』に見られる自信はない。

本当に何とも思ってないのか、それとも俺に見られていたことを知らないのか、彼女はやっぱり『普通』に見える。

「ねぇ、ちょっと聞いていい? スマホで写真の加工とか動画編集しちゃうって、本当?」

「まぁ、専用のアプリ入れれば……」

「ね、そっちのやり方も教えてくんない?」

「じゃ、じゃあ……。そのうち……」

「ね、ID交換してもらっていい?」

 互いにスマホを取り出す。

よく知っているやり慣れた操作なのに、動かす手はぎこちない。

マジで俺はいま泣きそうだ。

こんな憂鬱な場面が他にあるだろうか。

どうせならもっと普通の状況で、女の子とこういう会話がしたかった。

心の中で泣きながらIDの交換を済ますと、彼女と靴箱で別れる。

そんなに悲観せず楽しめ、楽しめばいいんだよ……とは思うものの、そう簡単に納得出来るものでもない。

しばらくして、彼女の方から送られてきたメッセージで、時間と場所を決める。

昼休みの自販機前テーブルだ。

そこなら人通りも多いし、二人きりになるなんてことは決してない。

「はぁ~……」

 ため息しか出てこない。

こんなに緊張するのは、人生初かも。

普通なら放課後の部室とかなんだろうな。

夕暮れの狭いごちゃごちゃした部室に二人きり。

そんな姿を想像してみる。

いいよね、そういうの。

憧れる。

だけど今回は俺のためにも彼女のためにも、この学校の安全と平和のためにも、そんな危険を冒すことは出来ない。

だって、急に正体を現し、暴れられても困るから。

色んな意味で、二人きりになるのは回避したかった。

そう思っているのに、約束の時間より随分早くにやってきて、彼女の分の席まで確保している俺って、マジでなんなの? 

だって座る場所がないからって、場所変えよっかとか言って、人気のない校舎裏とか体育館裏になんか連れ込まれたくない。

俺が死ぬ。

確実に食われる。

人生が終わる。

「早かったんだね、ありがとう」

 本当は、俺に出来ることなんてほとんどなくて、自分の使ってるのと同じアプリをダウンロードして、ちょっとしたチュートリアル的なものに付き合って、それでお終いなんだ。

何にも分かっていない彼女は、真剣に話しを聞いている。

俺はその横顔に少し罪悪感を覚える。

実際に使ってみないと分からないからとかなんだとか、知ったような知らないような話しをして、何か役に立ったのかな。

彼女の白く細い指が画面を滑る。

その指は本当に、普通の女の子に思えた。

「お芝居とか好きなの? 演劇部って」

「ううん。私は友達が最初に入ってて、それで人が足りないから手伝ってって。だから、裏方専門なの」

 傾けた耳元から、髪はさらさらとこぼれ落ちる。

頬にかかるそれをすくい上げる瞬間を、俺がいまカメラを持っていたら、きっと撮影しただろうなと思った。

「今はスマホでも……随分性能いいから……。容量はないけど、動画とかも普通に撮れるし……」

「普通にね」

「うん。普通に」

 目と目があって、微笑む。

彼女は学校SNSの、写真部タイムラインを遡り始めた。

「この中に、圭吾の撮影した画像もある?」

「うん、あるよ」

「どれ?」

 小さな画面に額を寄せ合う。

彼女のスマホの、その滑らかな肌に触れた。

「これと、これ。あ、これもかな?」

 写真部の主な活動範囲は、校内だ。

そこなら腕章をつけてさえいれば、文句を言われることも少ない。

部員がそれぞれに選んだ校内の画像が、次々とスマホのなかで入れ替わる。

調子よく流されていた画面の、その動きを彼女の指はふいに止めた。

「ねぇ、これはどこを撮してるの?」

「あぁ、これは正門横の第一校舎、2階資料室で……」

「資料室?」

 昼休み終了5分前のチャイムが鳴った。

もう教室に帰らないと。

「行こっか」

 そう言った俺と、彼女の視線がぶつかる。

「……。あっ、ちょ……。ま……。では頼む」

 ガタリと勢いよく、彼女は立ち上がった。

その反動で椅子がひっくり返る。

そのことに一切動じる様子を見せないまま、彼女は俺を見下ろした。

「どうした。行くぞ。案内いたせ」

 だらりと肩からぶら下がった両腕が、スマホストラップのように揺れた。

「案内って、どこへ?」

「どことはなんだ。その中に写されたば……って、もう昼休み終わっちゃうよね。教室戻らないと。あははは……」

 倒した椅子を慌てて戻すと、彼女は俺に手を振った。

「じゃ、また放課後ね!」

 小走りで廊下を曲がってゆく。

俺は完全に言葉を失ったまま、その背中を見送った。



第4章


 午後からの授業が始まったものの、その内容なんて一切頭に入ってこない。

体は寒くもないのに、ガタガタ震えている。

やっぱ何かヘンだしあの子。

やっぱ何かヘンだしあの子!

 あの時彼女が反応したのは、第一校舎2階資料室前の廊下を撮影した画像だ。

第一校舎は1階に保健室と図書室があり、2階は職員室と校長室、資料室と会議室がある。

3階は第二校舎と渡り廊下で繋がっていて、そこから上は音楽室や家庭科室、情報室などが入っている。

一般教室はない。

 資料室前に飾られているのは、主に運動部の獲得してきた歴代のトロフィーや記念の盾なんかだ。

ホコリをかぶったようなくすんだガラスケースが、いつから置かれているのか分からないほど、途方もない時の経過を感じさせる。

「……。部活やってた、卒業生とかなのかな」

 その関係で亡くなったりとかして、恨みを持った幽霊? 

それで在校生に取り憑いたとか? 

他にも色々考えてみたけど、考えても分からないものは分からない。

退屈な午後の授業は続き、俺は日の落ちたコンビニ前で見た、彼女のはにかんだような笑顔を思い出す。

あの笑顔は本物だったのかな。

山頂の学校から見下ろす窓には、緑の森が広がっていた。

ま、俺には所詮関係ないことだけど。

関わりたくもないし……。

 そうやって思い悩みながら、ようやく迎えた放課後だ。

部室に寄ろうか、そのまま帰るかの二択で、俺は帰ることにした。

このままうっかり顔を合わせ、資料室に案内しろなんて言われた時には、断り切れる自信がない。

山本には先に帰ることを伝え、慎重に帰宅計画を検討する。

彼女は今日は、演劇部に顔を出すのだろうか。

それとも写真部? 

鉢合わせしないようにしたいが、それをスマホで確認することもままならない。

彼女にバレる可能性があるからだ。

下校時の混雑が一段落したところで、ゆっくりと席を立つ。

考えても無駄だ。

何とかするしかない。

 人気の引いた廊下を、それとなく見渡す。

どうしてこんなにも自分が緊張しなくてはならないのか。

いつもの階段を下りようとして、ふと足を止めた。

ここだと彼女も使用する可能性がある。

写真部へ行くにしても、演劇部の活動場所である体育館へ行くにしても、彼女の教室からだと使用する階段は、最短距離にあるこちら側だ。

迷わず引き返す。

廊下に人のいないのは確認していた。

4階の教室から3階へ下りる。

踊り場をターンしたところで、ハッと何者かの気配を感じた。

恐る恐る顔を上げる。

彼女だ。

その先の3階廊下を真っ直ぐに歩いてゆく。

両腕を付属品のようにダラリとぶら下げ、向かう先は渡り廊下だ。

その先の校舎に、通常教室なんて存在しない。

目的地は間違いなく、資料室だ。

「はぁ~……。んだよ、まったく……」

 こんなところ、見たくなかった。

一心に前だけを凝視して突き進む彼女に、ため息をつく。

頭は完全にやめておけと言っている。

それなのに、どうしても体は勝手に動く。

足音を忍ばせ、こっそりと角からのぞき込んだ。

第一校舎へ渡り終わったところで、彼女はキョロキョロと左右を見回している。

迷っているのか? 

階段の方へ向かった。

「いや、だから違うだろ。帰ろう。帰れよ俺。さぁ帰るんだ」

 ヤバいことになんて、巻き込まれたくない。

ここまでのことを、全て知らなかったことにすればいい。

そうすれば今日の夜、明日の朝、学校で何が起こっていようが、彼女がどうなろうが、俺は無関係だ。

帰ろう。

一歩を踏み出す。

コンクリートの冷たい壁に手を滑らせる。

足を動かし、そのまま逃げてしまえばいいのに、ガタンという物音に立ち止まった。

資料室前だ。

何かをガタガタと強く激しく揺らしている。

俺は廊下へ飛び出した。

「何やってんだ!」

 舞香は資料室のドアに、手をかざすようにして立っていた。

その仕草からしてもう、怪しさ全開なんだからたまらない。

俺はいつでも逃げられるように、階段の角にしがみついたまま距離を保って抗議している。

「……。お前こそ、そこで何をしている」

 かざしていた腕を下ろした。

「ちょうどよい所へ来た。この扉を開けろ」

「無理に決まってんだろ、鍵がねぇ!」

「鍵なら開けてやる」

 再び手をかざす。

とのとたん、扉はガタガタと音を立てて揺れ始めた。

「壊れる! 壊れるよ、扉が!」

「破壊しないようにと努力はしているのだが、開ける仕組みが分からぬのだ」

「ねぇ、マジで壊れるからソレやめて!」

 そう訴えたとたん、急に静かになった。

彼女は彼女の姿のまま、こっちを見ている。

「……。お前はそこで何をしている」

「べ、別に……。ただの通りすがりですけど……」

 あんたこそ何者だ! 

俺はお前が舞香に取り憑いた瞬間を目撃してんだぞ! 

帰れ! 自分の世界に帰れ! 

……って言いたいけど、言っていいのかも、言っていけないのかも分からないし、何をされるか分からないから、怖いし……。

じっと見つめ合う。

「あの……。どちらさまでございますか?」

 舞香の体がこちらに向いた。

「この扉を開けてほしいのだ」

「開けてどうするんでしょう」

「アレが見たい」

 彼女は資料室の中を指さした。

どうやら目的は、廊下に飾られているショーゲースの記念品ではないらしい。

だが問題は、俺の身を隠しているこの位置からだと、資料室の中が見られないということだ。

「……。アレってなんでしょうか……」

「アレはアレだ」

 彼女の指先が、扉のガラス窓に触れる。

だから、廊下の角からそこは見えないんだって。

「私が怖いのか?」

 その指先は窓ガラスを離れた。

「なぜ畏れる。先ほどまで普通に接していたではないか」

 彼女の足が一歩近づく。

俺は一段と腰が引ける。

「待て。それ以上近寄るな」

「近寄るなとはどういうことだ。何を知っている。……。あぁ、そういうことか」

 ダメだ。

これ以上近寄られたら、もう逃げられない! 

ギュッと目を閉じた。

近づく足音が聞こえて、俺が食われる! 

……と思ったのに、それ以上近づいてくるような気配はない。

静かなままだ。

ビクビクしながら、薄目を開ける。

「ご、ゴメン……。ね?」

 わずかに頬を赤らめた彼女が、小さく首をかしげていた。

「え……、えっと……。ここのドア、どうやったら開くのかな。ねぇ、知ってる?」

「舞香を返せ!」

「どうして? 私は私だよ」

 そう言って、自分で自分の胸に手を当てた彼女の、その仕草にドキリとする。

こんな状態で、心臓がバクバクしない方がおかしいんだ。

「あのさ、えぇ~と……。圭吾? なのか? お願いがあるの」

「俺にお願いはない!」

「お願い? 何かあるのなら、私が叶えてあげようか?」

 目の前に立った舞香が微笑む。

こちらに向かって伸びてきた両腕に、思わず悲鳴をあげた。

「ひいぃぃ! やめて!」

 その場にうずくまる。

彼女の上靴の動きが止まった。

見上げた俺を、彼女の鋭い眼光が貫いた。

「なるほど。そなたが何を知っているのかは知らぬが、私にも舞香との約束がある。私の存在を、決して舞香以外の人間には知られぬようにすると約束したのだ」

「……。え?」

「だがお前は、私が舞香でないことを知っている。いつ知った?」

 そ、そんなことを言われても……。

彼女の安全を考えるなら、素直に答えるわけにもいかない。

「じゃあ、舞香はどうなるの……」

 彼女はため息をついた。

「舞香には内緒にしておいてくれ」

「は?」

「彼女は返してやろう。だが私の目的は、まだ達せられていない。それが叶わぬことには、舞香にもお前にも、身の保証はないと思え」

 ちょっと待て。なんだソレ!

「私はまだ、この新しい世界の仕組みについて行けぬ。慣れるまで舞香を助け、我が望みを共に叶えよ」

 張り詰めていた空気が、入れ替わったような気がした。

鋭い目つきをしていた彼女の表情は、何となく柔らかさを帯びる。

目のあった瞬間、彼女はビクリとなって驚いた。

「あ……、圭吾?」

 俺はまだ、床の上にしゃがみ込んだままだ。

「な、何してるの……」

「いや、別に……」

 どうしよう。

めっちゃ無理難題を押しつけられたような気がする。

「ま、舞香こそ、何してるの……」

「あ、あぁ……」

 彼女は困ったような顔をしながらも、さっきまでと同じように、資料室のドア窓を指さした。

「アレ、何なのかなぁ~って、気になっちゃって……」

 俺は恐る恐るそこから立ち上がる。

膝がガクガクと震えているのを、隠すだけでも精一杯だ。

やっぱり追いかけてなんて、こなければよかった。

それはそうなんだけど、もちろん今さらなんだって感じだけど、得体の知れないバケモノからの言いつけに背いて、恨まれるのも嫌だ。

ビクビクしながらも、小さな窓枠から中をのぞき込む。

そこにあったのは、学校沿革を年表のように示した古いパネルだった。

「アレがどうかしたの?」

「……。アレ、なんだろう……」

「アレね……」

 俺にはさっぱりわけが分からないが、どうやら彼女自身も分かってはいないらしい。

「アレ、だね……」

「は、はは……」

「ははは……」

 互いに見つめ合って、覇気のない笑いでごまかす。

「か、帰ろっか」

「うん」

 演劇部の方へ顔を出すという彼女と、そこで別れた。俺は真っ直ぐ家に帰る。

ヘンに寄り道とかしたりして、またヘンなものと遭遇したくない。

とりあえず安全と思われる自室に籠もると、問題の資料室画像を拡大した。

昼休みにバケモノが反応した画像だ。

たしかにここには、資料室にあった学校沿革のパネルの一部分が写っていた。

元々あった山を削ったことが書いてある文章の横に、埋め立てられる前の池の写真が載せられている。

そのほとりには、池の主を祀ったような小さな祠も写っていた。

池か。

そういえば初めてあのバケモノを見た時も、あの池のほとりに下りてきていたじゃないか。

きっとアイツは、あの池の主とかなんかなんだな。

きっと。多分……。

 何となく正体が分かってしまえば、怖いものはない。

だが触らぬ神に祟りなしという言葉のある通り、触らぬにこしたことはない。

助けろとは言われたけど、俺が正体を知っていることも内緒にしとけって……。

そんなのもうムリってことでしょ。

やっぱ俺には、関係ないね。

まぁ、そういうことにしておこう。

他の選択肢なんて、怖いしさ。

俺は布団に潜り込むと、寝た。



第5章


 そんなことのあった次の日の放課後、無関係を決め込んだ俺は、写真部の腕章をつけて校内を回っている。

足元に小さな花が咲いているのを見つけて、地面にしゃがみ込んだ。

「圭吾は、本当にそんなのばっかりだね。自然写真家なの?」

 聞こえた声に、ドキリとする。

希先輩だ。

その勢いでシャッターまで切ってしまった。

その音が二重に重なって聞こえてくる。

「ふふ。私も圭吾の写真撮ってる写真、撮っちゃった」

「……。まぁ、別にいいですけどね。写真部同士だし」

「いいの撮れてる?」

「まぁ、多少は……」

 並んでその場に腰を下ろす。

カメラの保存データを開いて、ここ数日の成果を互いに見せ合った。

希先輩の被写体となる対象は、圧倒的に人物が多い。

全く知らない人を撮るにはクレームも多いから、結局写真部同士か友達、先生とかに限定されてしまうのが、難しいところだ。

だから俺は、人を撮るのはあんまり好きじゃない。

撮らせてくれませんかってお願いして、断られることを考えれば、そんな無駄な時間と労力なんてかけられない。

「本当にさ、演劇部の申し出ってありがたくって」

 結局希先輩は、演劇部員個人にモデルを指定して頼むわけではなく、その活動中の風景をあちこちでウロチョロしながら撮影していた。

「やっぱり、部長の荒木さんは画になりますか?」

「まぁね、彼は目立つからね。背も高いしね」

 以前から気にはなっていた。

いつも先輩の写真に残っている人。

撮影する回数の多さとかじゃなくって、見上げる視点とか遠くから隙間を縫って撮影される、その撮り方の上手さ……。

「前からよく、撮ってましたよね」

「え? そうかな。あんまり自覚なかったけど……」

 そう言ってわずかにうつむいた、先輩の横顔にレンズを向けた。

パシャリというシャッター音が校庭に響く。

「そういう圭吾は、結構私撮るよね」

「まぁ部長だし。撮っても文句言われないし」

 そんなこと、気づかれてるだなんて思わなかった。

「さっき先輩だって、俺のこと撮ってたじゃないですか」

「あはは、本当だね。じゃ、また撮っちゃお」

 向けられるレンズの視線に、なぜかムッとする。

だけど、今だけは、きっと彼女と目が合っているんだ。

俺からはそれが、分からないけれど……。

この瞬間を、どんな顔をしていればいいのだろう。

それが俺には分からないから、撮られるのは好きじゃない。

カメラが完全に下ろされる前に、横を向いた。

 体育館のステージを練習場としている演劇部が、そこからはみ出して外に出てきていた。

黒髪の、誰よりも一段と背の高いあの人は、すぐに分かる。

「荒木さん、いますよ」

「え? あ、本当だ」

 さっきまでこっちを向いていた希先輩のレンズは、もうその人に向けられた。

「いい写真、撮れました?」

 先輩は、ショートボブの短い髪を耳にかけ直す。

「今ね、同じクラスなんだ。1年の時に一緒だったの。2年は違ったんだけど。今はまた同じクラスなの」

「そうだったんですね……」

 その横顔が静かに微笑んだ。

「実は私、一度あの人にモデルを頼んで、断られたことがあるんだ」

「そうなんですか」

 なんだかそれは、知っていたような気がする。

校庭の隅で泣いている先輩を、一度だけ見かけたことがある。

「だから、今回うちに頼みに来たのかなって。私にモデルするからって言えば、演劇部に協力してくれるかなって、思って来たのかなって……」

 その荒木さんは、ここからは遠い体育館外のエリアで、演技指導をしている。

じゃあ、断ればよかったじゃないか。

「じゃあ、モデル頼まないと損じゃないですか」

「はは。それはなんか、私のプライドが許さないからダメ」

 彼女はニッと微笑んで、俺を見上げた。

「で、舞香ちゃんとは?」

「は? 何言ってるんですか……」

「聞いたよー。昼休み、二人でずっとしゃべってたって」

「……。は? そ、それは!」

「なになに? 照れてんの? かわいー。なんだかんだで、ちゃんと頑張ってるんだ」

 きっとその誤解は簡単に解けないだろうし、俺の気持ちも永遠に伝わることはない。

「ねぇ、一緒に行こうよ」

 先輩の手が、俺の制服の袖を引いた。

「いいですけど、俺は写真撮りに行くだけですからね!」

「はいはい」

 うれしそうに駆け出す先輩は、本当は自分がそうしたいだけなんだって、知ってる。

だけどそんな顔でそんなことを言われたら、もう立ち上がるしかないじゃないか。

遠くに見えていた、体育館横へ向かう。

コンクリートで固めた地面に、使われていない机と椅子をいくつか並べていた。

これを大道具の代わりに見立てて、練習しているらしい。

「こんにちはー。ちょっとお邪魔しますね」

 そう言った先輩の後ろで、俺はペコリと頭を下げる。

すぐに快い返事が返ってくるのは、協力関係が成立しているから。

他の運動部とかだと嫌がられることも多いのに、これは写真部にとって、本当にありがたい話しなんだ。

 さっそく撮影を始めた先輩のカメラ位置は低くて、机を並べたりしてる演劇部員の腰辺りを狙っている。

背景はこの緑と青空かな。

人物があまり得意でない俺は、どうしようかと辺りを見回す。

「うわっ……」

 最悪だ。

うっかり荒木さんと目が合ってしまった。その顔がニンマリといたずらに笑う。

「なんだ。キミも写真撮りに来てくれたのか。喜んでモデルするよ」

 そんなことを言いながら、あからさまに時代遅れなセクシーポーズをとられても、誰がシャッターなんか切るかっつーの。

「いえ、結構です」

「聞いたぞ」

 そのうっとうしい腕が首に回った。

「なんだよ、案外ちゃんとしっかりしてんじゃん?」

「何がですか」

「え? アレ」

 親指でクイと差した方向には、ちゃんとしっかり舞香がいる。

「あぁ、彼女にはスマホでの動画編集方法を教えていただけですから。部長なのに報告受けてないんですか? 参考までに俺のと同じ編集アプリを入れてもらいましたけど、別にそれじゃなくたっていいし、使っていくなかでもっといいものがあればそちらの方で好きに変更してもらっても……」

「うふふ」

 荒木さんは楽しそうに笑った。手の平で俺の頬を挟むと、ムニッと押しつける。

「お前も案外かわいいな」

「マジでやめてください」

 その腕を乱暴に振り払い、そのまま立ち去り……たいけど、それも失礼だと思うから、挟んでいる手をそっと外して下ろす。

荒木さんは笑いながら後ろを振り返った。

「おーい、舞香。スマホでも動画編集出来るようになったって?」

「あ、はい。教えてもらっただけで、まだやってはないんですけど……」

 部長の呼びかけなんだから、彼女がすぐに駆け寄ってくるのも、当たり前の話しなんだ。

「じゃあ試しに、今ちょっと撮って教えてもらえよ」

「えっ!」

「え? あ、はい」

 彼女は素直に、ポケットからスマホを取り出す。

「じゃ、どうしよっか。どうすればいい?」

 全く、余計なことしかしやがらねぇ。

彼女は素直にスマホを操作している。

俺はこんなことをするために、カメラぶら下げて来たんじゃないし!

「えっと……。ネットで公開する予定なんだよね」

「うん。学校SNSだけじゃなくって、演劇関係の内部サイトで見られるような感じ」

 舞香の肩がすり寄ってくる。

彼女的にはスマホを掲げて撮影している、その小さな画面を一緒にのぞいて欲しいらしい。

どうしてスマホはこんなに小さい上に、両手で撮影しなければいけないんだ。

「画角って分かる?」

「撮影する時の、画の構図ってこと?」

 彼女の手に触れないよう、わずかにその角度を変える。

「あぁ、うん。ま、いっか。それと、焦点を合わせるってこと」

「勝手にピント調節してくれるんじゃないの?」

「あーうん。それでいいと思うよ」

 肩までの黒髪が鼻先をくすぐる。

近づきすぎた距離に、慌てて離れる。

彼女はちょっとムッとした顔をした。

「演劇って、基本舞台の上でしかやらないからさ。もちろん、そうじゃないのもあるけど」

「そうだね」

「私はスケジュール管理とか買い出しばっかで、こういうの初めてなんだ。だからどんくさいかもしれないけど、ゴメンね」

「いや、それは大丈夫……」

 気づけば荒木さんは演劇部員の中心に戻っていて、台本のようなものを片手に何かしゃべっている。

舞香の掲げるスマホの画面越しに、そんな荒木さんにレンズを向ける希先輩の姿が写った。

「……まぁいいや。ピント調節とかも、使うカメラによって違うから」

「じゃあどうすればいいの?」

 どうすればいいんだろう。

俺はこのまま、こんなことをしていていいんだろうか。

小さな画面の向こうで、希先輩はどこかに行ってしまった。

「ビデオカメラとかないの?」

「ハンディカムってやつ? あるけど古い」

「じゃあスマホ撮影でつなげるか。それなら台数もあるしね」

「ねぇ、本気で面倒くさいって思ってるでしょ」

「今さらそんなことないって」

 なんだか非難じみた表情で見上げられたけど、本当にそんなことはどうだっていい。

「とりあえず好きなように撮ってみて。それで編集してみて、どうやって撮った方が後から楽になるとか、分かってくると思うから」

「はーい」

「本当はビデオカメラとかがあった方がいいと思うけど。容量とかズームした時の、画質とかの問題だけだけど……」

「はーい」

 放課後の校庭を、爽やかな風が吹き抜ける。

てか、なんで俺が教えることになってるんだろう。

通りかかったみゆきに文句を言ったら、「まぁまぁ」とか言ってニヤニヤされただけだし。

その舞香はスマホを掲げたまま、前後左右に動きながら、演劇部員たちを撮影している。

太陽からの光りは柔らかく彼女に降り注ぎ、真剣な表情の横顔は、時折かけられる冗談に笑う。

吹く風が彼女の肩までの髪を揺らした。

 こうやって見ている分には、彼女は何者でもなく普通の女の子に見えた。

自分自身が乗っ取られてるとか、そういう自覚はあるのかな。

それとも同意はあった? 

だけど、乗っ取られた瞬間をみてしまった俺としては、少なくとも乗っ取られることに対して、同意はなかったように思う。

まずはそこを確認してみたいけど、それをどうやって聞きだそうか……。

彼女自身は、あのバケモノの正体を知っているのかな……。

 写真部と違って、演劇部は人数が多い。

やっている作業もそれぞれだ。

舞香はスマホを動画撮影設定にしたまま、台本チェックをしている部長を下から撮ってみたり、大道具チームの作業風景を、インタビューを交えながら撮影していた。

そんな彼女に向かって、俺はなんとなくシャッターを切る。

きっと彼女には気づかれていないから大丈夫。

 俺はその一枚を撮っただけで、なんとなくここには満足してしまった。

空に軽々と浮かぶ大きな鳥を見つけて、それを収める。

きっとあんな風に空を飛べたら、気持ちいいんだろうな。

演劇部員たちの賑やかな活動が続いているその場所を、俺はそっと離れた。

 水たまりみたいな、小さな池のほとりに立つ。

水面にアメンボが浮かんでいるのを見つけて、また一枚。

俺はこの場所が好きだった。

蚊が湧くとかいって他の皆は嫌がるけど、実際にはそうでもない。

池の周囲は整備された芝生が取り囲み、その向こうには原生林がそのまま残っている。

近所の猫が顔を出すこともあって、近寄っては来てくれないけど、写真は撮らせてくれる。

「舞香の写真はもういいの?」

 ふいに声をかけられて、俺は渋々と振り返る。

荒木さんだ。

「せっかくのチャンスを無駄にするなんて、もったいない」

「なんでこっちに来たんですか」

「いや、キミが抜け出したから。何かあるのかなーと思って」

 その端正な顔が、ふっと微笑んだ。

横顔を向け、彼の流れた視線の先は、小さな池を捕らえていた。

「この池は、昔はもっと大きくてね。深さもずっとあった。深い森の山の奥で、こんな人里迫る賑やかな場所ではなかったんだ」

 今は芝生の広がるだけの場所に、両腕を広げる。

「ここにね、それはそれは小さな祠があって、それが……。まぁ、昔の話しなんだが」

「……それって、この学校の出来る前の話じゃないすか? 50年以上前の話ですよね」

「え? そうだっけ?」

 普通、そんなことに興味ある? 

どうしてそんなことを知ってる? 

体が震えている。

それをこの人にバレないよう、隠すのに精一杯だ。

「学校の歴史とかに、なんでそんなに詳しいんですか?」

「まぁ、舞香に聞いてみるといいよ」

 ブルブル震えながら見上げる俺を、彼はじっと見つめている。

微かに微笑んだ。

「邪魔したね。もう行くよ」

 スラリとしたその姿が、完全に見えなくなるのを待っている。

それを確認してから、急いでスマホを取り出し、学校ホームページを開いた。

資料室にあった学校史のパネルが、そのまま載せられている。

その画像には確かに祠は写っているけど……。

そんなの、気にする? 

もしかしてこの人も、彼女の秘密をしっているのかな。

だとしたら『協力者』の一人?

「……。なんだよ、他にも仲間がいたんだ」

 そりゃそうだよな。

どうして自分だけが、特別だなんて思ったんだろう。

急に何もかもがバカらしくなって、芝生の上に寝転がる。

淡い空に消えそうな雲が浮かんでいて、それをカメラに収めた。

こうやってここに寝転がっていれば、いつか俺にも不思議なことが起こったりするのかな。

宇宙人が攻めてくる? 

魔法や超能力が使えて、ゾンビ倒せたりする?

「なにしてんの?」

 ふいに現れた舞香が、俺をのぞき込む。

スカートの中が見えそうで見えないのに、飛び起きた。

「な、なにも……、別に何も見えてないよ!」

「圭吾はここが好きだな」

 そう言って、池とフェンスの向こうの森を交互に見比べている。

「私も初めてここを見た時、よいなと思ったんだ」

 それだけを言って、くるりと背を向けた。

「……。なんの用?」

「用がないと、来てはいけないのか?」

 特になんの用もないことくらい、そりゃ知ってるさ。

俺に用のある奴なんて、そもそも滅多にいないし、あっても大概そんな時は、ロクなもんじゃない。

この演劇部の動画編集作業だってそうだ。

だけど、そんな理由でもなければ、きっと彼女と話すこともなかったんだろうな。

下からマジマジとのぞき込んでくるその全く遠慮のない物腰に、俺は若干どころか、だいぶ引いている。

「圭吾はこの池が好きか?」

 グッと近寄るその顔が近すぎる。

一歩ずつ寄ってくる足取りに合わせて、俺も一歩ずつ後ろに下がった。

俺は彼女が何者かに取り憑かれていることを知っている。

その取り憑いているバケモノも、俺が知っているということを知っている。

だけど舞香だけは、そのことを知らない。

彼女は彼女の秘密を、俺が知っているということを知らない。

 彼女がくるりと背を向けた勢いで、肩までの髪はサラリと広がった。

その光景を見るだけで、くらくらして目が回りそうになる。

自分の顔が、真っ赤になっているのが分かる。

その不自然さはもちろん自覚しているけれど、自然現象なんだから仕方がない。

こんなことで彼女がヘンな誤解でもしないかと、そっちの方が心配だ。

「好き……でもないけど、嫌いでもないし……」

「ここが出来る時に、変えられてしまったのか」

「学校ホームページにも、そう書いてあったよね」

 スマホの画面をもう一度開く。

いや、フツーこういう話題で盛り上がったりなんか、しないよ? 

こんなつまんない話しになんて、乗っかってくれる奴いないよ? 

それは彼女だからではなく、彼女に取り憑いたバケモノに、俺が頼まれているからだ。

小さな画面に彼女の顔が近づく。

「そうだな。しかしこれは、学校建設以降のことしか記録がない。それ以前は、どうしたらよいのだろうか」

「……。どうしたらいいんだろうね」

 知るかよ、そんなこと。

棒読み風な彼女のセリフにも、若干焦りを感じ始めている。

検索画面に戻った。

池、歴史……で、検索してみるか。

「……。その小さな機械はなぜ……あ……。いや、だ……待てっ!」

 突然、舞香は一人でオロオロとし始めた。

パタパタと両手を忙しく振っていたかと思えば、腰に手を当てふんぞり返る。

「だから……、ねぇ! って、ちょ、ま……」

 今度は、水中をかき分けるような仕草をした。

じっとそれを見ている俺に気づいた彼女は、ピタリと動きを止める。

真っ赤に照れた彼女が、俺のスマホをのぞき込んだ。

「ははは。へー。池って、人工的に作られていることの方が多いの
か……」

「自然にあるものじゃなくって?」

「も、もちろん、そういうのもあるみたいだけど……」

 突然雰囲気の変わった彼女に、俺は違和感しか感じない。

彼女自身も、自分のとってみた行動に限界を感じているようだ。

「だとしたら、この池も人工的な池?」

「だけど、ここは元々あった池を埋め立てた残りなんだよね」

「じゃあその前は、この山奥に人工的な池があったってこと?」

 互いに見つめ合う。

「あはは……」

「ははは……」

「はぁ~……」

 同時にため息をついた。

いや、俺にはこれ以上、一緒にいるのは無理だ。

色々と。

「池の歴史については、誰かに聞いた方が早いんじゃないの?」

 つい漏らしてしまった言葉に、ハッとする。

「誰に聞けばいいのかな?」

「さぁ……」

 彼女は口をつぐみ、グッと黙ったままうつむいてしまった。

その横顔に、なぜかまた罪悪感を覚える。

「だとしても、この池は自然発生的な池の方じゃないのかな」

 そんなことを言ってみたけれども、なんの反応もなかった。

いずれにせよ、俺に出来るのはここまでだ。

「そうかもね、ありがとう」

 それが本音なのか、フェイクなのかは分からないけど、俺にもこれ以上踏み込めないし、踏み込む気もない。

自分のことは自分で片付けてくれ。

俺に頼られても何も出来ないし、そもそも頼られる理由もない。

もっと他にいるだろ。

彼女が話しかけたり、相談したりする相手は、他にもいたしな。

きっとその人に相談した方が、何もかも上手くいく。

彼女も別に平気そうだし、もういいだろ。

 下校時刻が近づいていた。

彼女は演劇部の方へ戻り、俺も部室へ戻る。

今日撮影したデータをパソコンへ送り、USBにバックアップをとったらお終いだ。

他のみんなも続々と戻って来ている。

それでたわいのない話しをしてから、一緒に帰るのがいつもの流れだ。

俺はそんな変わらない、いつもの風景に安心する。

間違いのない、正しい姿だ。

扉をノックする音が聞こえて、それは遠慮がちに開かれた。

「あの……。圭吾って、いる?」

 舞香が姿を現した瞬間、そこにいた写真部員、全員が振り返った。

彼女の赤らんだ頬のせいで、平和だった空間に突如として不穏な空気が流れる。

「あっ、どうぞ! こっちに座ってください!」

「圭吾、お前もう用事終わってる?」

「帰るなら、先帰っていいぞ」

「なんだよ、お前ばっかずるくない?」

 なぜ俺が山本に首を絞められる? 

だからそんなんじゃないっての!

「あー、スマホ動画の編集? それはまた明日にでも……」

「ううん。ちょっと他にも、聞きたいこともあって……」

 体が硬直する。

女の子の方からこんな風に誘われるのは、生まれて初めてだ。

「一緒に帰れるかな」

「い、いいけど別に……。あーじゃあ、片付けるね」

 とたんに心臓が騒ぎ始める。

待て。

一緒に帰っちゃダメだろ。

相手は得体の知れないバケモノだぞ。

さっき自分でも見たじゃないか。

怪しげな言動を。

そう簡単に騙されてちゃダメだ。

鞄を持つ手が震えている。

ニヤニヤしながらこっちを見てくる、部員たちの視線が痛い。

「じゃ、行こっか」

 部室の扉が閉まったとたん、中から歓声が上がった。

本当に本当にやめて欲しい。

困るじゃないか、俺が。

「な、なんか、ゴメン……ね?」

「別にいいよ」

 いまだかつてない緊張感だ。

校舎の外に出る。

空は真っ赤に燃え上がっていた。

このまま山道を下っても、その先にはコンビニの駐車場しかない。

そんなところで話しをするわけにもいかないだろう。

同じ学校の生徒の目がつきすぎる。

「どっか場所変える?」

「そうだね。あ、コンビニの交差点を渡った向こうに、小さな公園があるの。そこでもいいかな」

 なんか素直に従っている風に見えるけど、俺は別に元からキミに興味があったワケではないから。

そんなの、何にもないから。

信号を渡った先には、確かに公園があった。

誰が何のために作ったか分からないような、米粒みたいに小さな公園だ。

外灯が一本とブランコが一つに、おまけみたいなベンチが添えられている。

夜の訪れと同時に、その古びた外灯に灯りがついた。

周囲からの喧噪は響いてくるのに、この公園だけは恐ろしいほど静かだ。

二人きりになるのがこんなにも緊張するものだなんて、思わなかった。

肩までの髪が振り返る。

「あ、あのね。驚かないで聞いてくれる?」

「うん」

「あ、あのね……」

 覚悟は出来てる。

俺は浮気するような奴じゃないし、キミの門限もしっかり守る。

嫌がるようなことは決してしないし、わがままだって言わない。

こうみえて結構尽くすタイプだと思うよ。

「本当に、びっくりしないでね……」

「分かった」

 たとえなにがあったとしても、受け入れる用意はある。

俺と彼女の間にあった空間が、ぐにゃりと歪んだ。

それはゆっくりと渦を巻きながら次第に紐状に形作られたかと思うと、真っ白な龍の姿へと変化する。

「久しいな、圭吾」

 半透明に透ける白い龍はそう言った。

長さは60cmといったところだろうか。

顎髭を伸ばし、二本の角とたてがみをなびかせるその姿は、日本の昔話に出てくるよく知った龍の姿そのまんまだ。

「なんだよ、そっちかぁ~……」

 全身の力がガックリと抜け落ちる。

それならそうと最初に言っておいてほしかった。

なんだ。

なんだよ。

緊張して損した。

目の前の龍は、ぷかぷかと浮いている。

「お前、名前なんていうの」

 なんかヘンなものかと思ってたら、やっぱり悪い奴ではなさそうだ。

龍といえば悪いものでもないだろ。

腕を伸ばしたら、その手にガブリとかみつかれた。

「痛った!」

「気安く触れるでない!」

「何だよ、突然噛むなよ!」

「無礼者め、そこから動くな」

 そんなことを言われたって、どうしろってんだ。

噛まれた手を見る。

血は出てないし、甘噛みだ。

舞香はめちゃくちゃ驚いている。

「圭吾、本当に知ってたの?」

「う、うん……。池の上から降りてきて、すぐに取り憑くところを見ちゃった……」

 チビ龍と彼女は息を揃え、盛大にため息をつく。

「だから、そういうことはもっと早く言ってくんないと!」

「私も知らなかったのだ。仕方ないだろう」

「どうしてそんなにマヌケなの!」

「間抜けとはなんだ、舞香よりはるかにマシだ」

 一人と一匹はにらみ合っていたかと思うと、また同時にため息をつく。

「えぇっと……、いまはどういう状況?」

 三人はそれぞれに目を合わせた。

それを聞かないことには、俺だってどうしようもない。

夕闇に沈む公園で、またため息をつく。

彼女とチビ龍の出会いは知っている。

問題はそれ以降と、これからのことだ。

「あの池をね、作ったのはこの人なんだって」

「ヒト呼ばわりするな。お前たちとは生きている次元が違う」

 要約すると、宝玉を隠すために天界から地上に降り、地面に隠したのはいいんだけど、その後どこに行ったのか分からなくなったんだって。

「行方不明なのだ」

「なくしちゃったから、探してほしいんだって」

「それはいつごろ隠したの?」

「1,200年前」

 平然とそう言ってのけるチビ龍を俺は見つめた。

舞香もそれが当たり前のように突っ立っている。

「あぁ、そりゃ大変だな」

 なんだよそれ。

やっぱり関わるんじゃなかった。



第6章


 1,200年前、チビ龍は天界からやって来て、大切な龍の宝玉をこの山に埋めた。

それが必要になったから取りに来てみれば、すっかり周囲の様子は変わってしまって、宝玉も見当たらないらしい。

【元々あった池の底に隠したってこと?】

【ううん。空からそのまま地面に落としたら、めり込んだんだって】

 なんて雑な龍だ。

家に戻った俺は、スマホのメッセージで舞香とやりとりをしている。

チビ龍は宝玉を隠してから200年後、つまり今から1,000年くらい前に、気になって一度は見に来ていたらしい。

落としたその場所が池になっていたところまでは分かっていて、その時はそこに宝玉があった。

【1,000から1,200年前って、平安時代なんだね】

【そこまでは私も調べた】

 それって、調べたっていうレベルか? 

トーク画面にあったその文字を、ついじっと見つめる。

【他には?】

【池がマイナー過ぎて、図書館の郷土資料史なんかにも載ってない。てゆーか、池だけで検索かけて調べるのがムリだった】

【そっか。俺も他になんか方法ないか、ちょっと考えてみるね】

 画面を閉じると、俺は部屋の灯りを消してベッドに潜り込む。

考えるって、なにをどう考えるんだよ。

平安時代だぞ?

 そのまま俺は眠ってしまったようで、気がつけば朝を迎えていた。

ベッドから起き上がり、いつものように身支度を調えると、家を出る。

「あぁ、今日もいい天気だなぁ~……」

 そうだよ、俺。

よく考えてもみろ。

相手は100年とか1,000年レベルで話しをしているヤカラだぞ。

だったらそれは、この数ヶ月でどうこうって話しではないんじゃないのか?

「おはよう」

 バスを降りたところで、希先輩と一緒になった。

「おはようございます」

 そのショートボブの短い髪に、なぜか罪悪感を覚える。

隣に並んで歩くのが、悪いことをしているような気がして、意識して並ぶその距離幅を、ちょっと広げてみたりなんかして……。

「部室のパソコンなんだけどさー。データの保存がもうパンパンで、容量増やすっていってもこれ以上はさ……、もっと動作環境を……」

 希先輩にとっては単なる愚痴とか連絡事項であっても、俺にとってはその全てが特別な何かに聞こえる。

「俺が何とかしましょうか」

「いや。自分のデータを移して、消去してくれるだけでいい」

 坂道を登り切ったところで、舞香の後ろ姿を見つけた。

つい視線で追いかけてしまう。

希先輩も、そんな俺に気がついた。

「じゃ、頑張ってね」

 先輩は耳元でそうささやくと、ニヤリと笑った。

颯爽と歩き出す。

舞香はすれ違う希先輩に、ペコリと頭を下げた。

彼女は彼女で俺に近寄ると、そのまま無遠慮に話しかけてくる。

「で、何か良い案思いついた?」

 頼りにされるのは、うれしくなくないワケではない。

だけど学校の靴箱とか、こんな誰もがみんな通るようなところで、あえて話しかけないでほしい。

噂になったら、どうするんだ。

冷やかされるのは俺たちだぞ。

チビ龍との交流だって、そりゃレア度としては非常に高いことは理解している。

だけどさ。

「う~ん……ゴメン。すぐにはちょっと……」

「そっか。だよね。じゃ」

 案外あっさりとした態度に、拍子抜けする。

もしかして怒った? 

それとも呆れられたのかな。

出来ればこういう面倒くさいことには、あんまり関わりたくないんだけど……。

もうちょっと付き合わないと、無理なのかな。

抜けられないのかな? 

いや、そうだよ。

そもそも朝から俺が女の子に話しかけられるなんて、どうかしている。

絶対に普通じゃない。

 階段を上がると普通に廊下があって、普通に教室に入れば、普通に普通が広がっている。

普通が一番だ。

そんな当たり前のことを守るために、俺はどんな努力も惜しまないし、譲る気も無い。

「で、告白は成功したのか」

 早速山本が絡んできた。

「告白ってなんだよ」

「付き合いだしたの?」

「だから、そんなんじゃないって。つーか、なんで俺から?」

「……。そりゃそうだろ。お前がモテるのがおかしい」

 そういうお前の偏見もどうかと思いますけど? 

「普通に動画編集の話ししてただけだよ。つーか、お前だって彼女いないだろ」

「だよなー」

 山本はボウズスタイルの頭をボリボリと掻いた。

「ま、現実はそんなもんだよな」

「そんなもんだよ」

 当たり前な普通を守って何が悪い。

それより困難で難しいことなんて他にあるか。

当然だ。

午前の授業は終わって、昼休みが過ぎた。

鳴るか鳴るかと待ち構えていたスマホは、結局鳴らないまま放課後を迎える。

入った部室には誰もいなくって、ホワイトボードの出欠表は、みんな撮影に出払っていて、俺は一人そこに取り残されていた。

もしかしたら彼女が編集作業のために来るかもしれない。

そんなことが頭をよぎる。

だけど、約束のない待ちぼうけは無意味な気がして、俺は自分のカメラを首にかけた。

スマホはいつだってポケットに入っている。

もし今日も彼女の方から編集作業を教えてほしいと思うなら、連絡さえくれればいつだって直行だ。

他に急ぐ用事もないし。

 カゴに放り込まれている『写真部』の腕章を腕に通した。

俺はこれからちゃんと真面目に写真部としての活動をするんだ。

無関係で余計なことになんて、関わらないでいい。

あれ? 

だけどもしかして、宝玉が見つからない限り、彼女は一生あのチビ龍に絡まれ続けるのかな。

寿命を考えると、ありえないことではない。

けど、メインは俺じゃないし、彼女の方だし……。

ま、いっか。

 そんなことをあれこれと考えながら、気がつけば1時間以上経過していた。

さすがにすることのなくなった俺は、あきらめて外に出る。

校庭には新鮮な空気が流れていた。

 写真部の活動範囲は、基本的には校内のみだ。

人物の撮影が余り好きではない俺は、誰もいない教室や廊下、雲なんかを相変わらず撮っている。

花壇に咲き始めたアジサイを見かけて、それにレンズを絞った。

 放課後の学校というのは、どこだって賑やかで開放感にあふれている。

ふと見れば、体育館の横で知らない間に、写真部と演劇部数人での撮影会が始まっていた。

 演劇部員一人一人を、写真部が順番に撮影している。

その隣ではふざけあう数人の演劇部員を、別の写真部員が撮影していた。

そりゃ自由に人物撮らせてもらえる約束なんだもん、写真部的にはうれしいよな。

 その騒ぎの中でも、ひときわ目立つ背の高い人物がいる。

荒木さんだ。

彼の放つ独特なオーラは、なぜか人目を引いた。

部長である彼は、賑やかな周囲に何か声をかけている。

遠くにいるから、こっちには気づいてないはずなのに、その中心にいる彼と、ガッツリ目があった。

仕方なくペコリと頭を下げると、彼はこちらに向かって手を振る。

さらに近づいても来るようだ。

なんで?

「舞香から何か聞いたか?」

「何をですか」

 上からの視線が見下ろしてくる。

俺は静かになったその人を見上げた。

「で、付き合いだしたの?」

「付き合ってません!」

「あはは、なんだよ。だったらこんなところにいないで、こっち来いよ」

 そんな爽やかな笑顔で煽られたって、そう簡単には引っかかりません。

「協力はしますよ。だけど、俺の撮影対象は、メインは人物じゃないんで」

 そう言えばこの人も、池の歴史に興味があるんだったっけ。

このヒトはどこまで、彼女と彼女の秘密を知っているのだろう。

「結局キミが舞香に編集を教えてくれてるんだって? 希から聞いたよ。最初は反対してたのに。ありがとう。助かるよ」

 信じられないくらい爽やかな表情で、彼は微笑む。

「これからもよろしくね」

 片手だけをあげて、フランクに挨拶するその仕草まで、実に優雅だ。

同じ人間とは思えない。

なんだか俺は恥ずかしくなって、うつむいてしまった。

あぁいう笑顔が出来たら、もっときっと誰からも優しくしてもらえるんだろうな……。

 遠くではしゃぐ人の群れが眩しくて、俺はそこへ向かってシャッターを切った。

楽しそうな写真は、遠くから撮すのが丁度いい。

そのまま演劇部と写真部のみんなが楽しそうに交わるのを眺めていたら、そのまま下校時間を迎えてしまった。

俺は一人部室棟へ引き上げる。

そういえば希先輩が、データの空き容量がどうのこうのって言ってたっけ。

 扉を開いたら、舞香が座っていた。

「あ、お帰りなさい」

 パソコンの前で、一人動画編集作業をしている。

「あ、あれ? 他のみんなは……」

「大体帰ったみたいだよ。最後に来る人と一緒に、後片付けと鍵をお願いって言われて……」

 ホワイトボードを見上げる。

そんな習慣は、うちの部にない。

いつも最後にはここで集まってから、顔だけ合わせて解散だ。

それなのに今日は、希先輩もみゆきも山本も帰っている。

いや、帰ったことになっている。

彼女と目が合った。居心地の悪さにスマホをチェックする。

「……。あ、ホントだ。メッセ入ってた……」

 なんだかハメられた気がする。

さっきまであいつら体育館横にいただろ。

手にしたスマホではこの空間の雰囲気を誤魔化すことしか出来なくて、俺は意味もなく画面の上をウロウロとしている。

「ようやく現れたか」

 その声に顔を上げた。

目の前の空間がぐにゃりと歪み、チビ龍が姿を現す。

それはもう、恐ろしいというより、なんだかちょっとかわいらしい。

「ねぇ、そんな簡単に姿見せて平気なの? そういえば、落ちて来た時は人間の女の子じゃなかった?」

「そこから見ていたのか」

 チビ龍は舞香の頭の上に、とぐろを巻いて座った。

「人の姿に化けると、あぁなってしまうのだ」

「今も化けとけば?」

「……。そう易々と言うな」

「宝玉がないから半透明で透けてるし、能力も全部発揮出来ないんだって」

「じゃあもうさっさと天上に帰った方が……」

「宝玉をなくしたままで、帰れるか」

「あぁ……」

 ため息が出る。

やっぱりそこは、クリアしないといけないのか……。

「じゃあそれが見つからないことには、俺たちはキミから解放されないってワケ?」

 キーボードを打つ舞香の手が止まった。

じっと俺を見つめる、彼女のその視線の意味が分からない。

うろたえ始めた俺に、チビ龍はかま首をもたげた。

「乗り気でないのなら、無理に探す義理はない。なんなら記憶ごと消してやってもいいが、宝玉のないことにはそれも叶わぬ。手伝えとは言わない。私たちのことは黙っていてくれ」

「あー……、うん。それは約束するよ。じゃあ、どうすればいいのかな。もっと具体的に指示してくれないと……」

 そう言っている間にもチビ龍の姿は徐々に薄くなり、完全に見えなくなってしまった。

舞香はパソコン画面を閉じる。

「圭吾はそのままでいいよ。今のままで」

「あー……。うん。ありがとう」

 それなら俺の望むところだ。

問題はない。

彼女は立ち上がった。

「じゃ、鍵締めて帰ろっか」

 ちゃんと話しをしてみれば案外簡単なもので、俺はあっさり解放されてしまった。

舞香も何でもないことのように、当たり前に接している。

なんだ。

ま、そんなもんか。

だよな。

舞香とよく話すようになってから、日は少しずつ延びていた。

それなのに今日は、まだ明るい山道を一言もしゃべることなく下り始める。

彼女の髪は相変わらず肩先で揺れていて、このままコンビニ前で別れたら、俺はもう彼女との関わりをなくしてしまうのだろうか。

「舞香はさ、嫌じゃないの?」

「何が?」

 チビ龍との関わり? 

それとも、俺とのこと?

「なんか色々、面倒に巻き込まれること」

 急な下り坂を歩きながらしゃべるのは、通い慣れた通学路といえども話しにくい。

「別に。嫌なことは嫌だってちゃんと断るし。手伝ってもいいなーとか、やってもいいなーって思ったことだけを、ちゃんと選んでやってるよ」

「嫌になったりしないの?」

「それは、思ってたことと違うってこともあるけど、頑張れる間は頑張るかなって思ってる」

 そう言った彼女の横顔は、真っ直ぐに前を向いていて、これ以上俺に出来ることはないんだと悟った。

「そっか、じゃあ頑張ってね」

「うん。またね」

 手を振って別れる。

彼女は点滅を始めた麓の横断歩道を、駆け足で通り過ぎてゆく。

俺はその場に立ち止まったまま、いつも遅れてやって来る遅いバスを待ち、太陽の沈んでゆくのを眺めていた。

面倒だと思っていた肩の荷は下りたはずなのに、全く軽くならない。

夜になって、彼女から入ったメッセージにも、何一つ浮かばれない。

【練習で撮った動画、つなげてもあんまり長くならなかったんだけど】

【それ自体を外部に上げるわけじゃないし、練習としては十分じゃない?】

 添付された動画は見た。

その内容にだなんて、興味はない。

【長く撮ったと思ってても、案外短いもんだね】

【実際の撮影は舞台の本番なわけだから、もっと簡単だし時間とか気にしなくていいし。編集も特にないでしょ?】

【舞台全体と、近影くらい】

【もう出来るんじゃない?】

【そうだね、ありがとう。また分からなくなったら聞くね】

【うん。じゃあ頑張って】

 俺はすっかり身軽になって、正常な普段の日常を取り戻した。



第7章 


 梅雨の季節がやってきて、雨の日が続く。

それが何よりも辛いのは、外での撮影が難しいこと。

雨に濡れた緑の若葉は美しいと思うけれど、カメラに収めるとなると一人では難しい。

傘を肩と首の間に挟んで、ピントを絞る。

跳ねた水滴がレンズに飛び散って、撮った画像も歪んでしまった。

「圭吾はなんで体育館に来ないの?」

 希先輩の声だ。

なんだか話しをするのも、久しぶりのような気がする。

俺は傘を片手にカメラを抱えていて、彼女は渡り廊下の屋根の下を身軽に通り抜ける。

「狭いし蒸し暑いから」

「はは、らしい答えだね」

 目の前を3人の女生徒が通り過ぎた。

カラフルで可愛い傘が並ぶその後ろ姿を、彼女はすぐに画像に収める。

「うちも学校外に公認URL取得して、作品アップしようかと思ってるんだけど。どうかな」

「いいんじゃないですかね」

「その作業、お願い出来る?」

「……。部長からのお願いなら……、基本断れないっすよね」

 希先輩からのお願いなら、なんだってするさ。

「ま、いま思いついただけの話しだから、本当にそうするのかどうかは、分かんないけど」

 彼女は笑った。

その笑顔にカメラを向けられるのなら、どんなによかっただろうと思う。

だけどもちろん、そんなことは出来なくて、俺はただため息をつく。

「冗談で言わないでくださいよ。本気にしたらどうするんですか」

「別にいいけど?」

 降り続く雨は止む気配もなくて、希先輩はトタン屋根の下でにこりと笑った。

「私、体育館行こーっと」

 ひるがえる制服のスカートの裾に目をそらす。

今さら演劇部のいる体育館になんて、行けるわけない。

別に特別な理由なんてなにもなくて、ただ俺の撮影対象がそこにないってだけだ。

 仕方なく立ち上がる。

あんまり気が進まないけど、雨に打たれる池の水紋でも撮りに行こうかな。

ぬかるみの中に一歩を踏み出す。

ふと荒木さんの姿を見つけて、立ち止まった。

 彼は渡り廊下の端から、じっとその脇にある植え込みを見下ろしていた。

ふいに背を丸めると、その角にしゃがみ込む。

植え込みの中に手を突っ込むと、何かを捕まえた。

チビ龍だ。

首根っこを掴まれ、バタバタとのたうち回っている。

「ちょ……」

 声をかけようかと思って、思いとどまる。

彼はぴちぴちくねくね暴れるそれを、ただじっと眺めている。

チビ龍と目を合わせた。

何かを話しかけるかと思った次の瞬間、彼はポイとソレを投げ捨てる。

半透明のチビ龍は、慌てふためいて姿を消した。

荒木さんはその様子黙って見届けた後で、何事もなかったかのように体育館へと向かう。

その姿は完全に見えなくなった。

「おい、チビ!」

 何もない空間に向かって、俺はこっそりささやく。

「聞こえてるだろ、出てこいよ!」

 ここは校舎と体育館をつなぐ空白地帯だ。

雨も降り人気もないのに、アイツなにやってんだ。

「見つかってんじゃねーよ、バカか」

「バカとはなんだ、こっちは死ぬほど驚いたんだぞ!」

 半透明のチビ龍が姿を現した。

俺は周囲から見つからないよう、その上に傘をかぶせる。

「なんで見つかってんだよ」

「寝ていた。うっかりした」

「そんなんじゃ、あっという間に全校生徒にバレるだろ!」

「大丈夫だ。元々バレている」

「誰に!」

「龍の存在など、みな知っているではないか」

「あぁ……」

 なんだか本当にそうなるのも、時間の問題のような気がしてきた。

「違う。違うんだよ、チビ。そういうことじゃないんだ」

「何がだ」

 どう説明していいのか分からないから、とりあえずスルーしよう。

「舞香は?」

「部活」

「あぁ、そう……。あぁ……。ならまぁ、いっか」

 彼女も必死で探しているワケではないのか。

そうか、そうだった。

大体1,200年も前になくしたものを探そうって奴だ。

人間時間の今日明日で、何とかしろってことでもないんだろう。

本当に全てがバカバカしくなってきた。

「一緒にいなくていいの?」

「居たいと思えばいるし、必要があれば、行けたら行く」

「そんなもんなんだ」

「お前は違うのか?」

 そんなことを聞かれても、何と比較してのことだか分からない。

そういう場合もあれば、そうじゃないこともあるんじゃないのかな。

「どうだろうね」

 チビ龍は宙に浮いたまま、じっとこっちを見つめている。

聞きたいことは山ほどあるけど、何をどう聞いていいのかも分からない。

そもそも、そんな込み入ったことを、簡単に聞いてもいいことなんだろうか。

同じ傘の中にいるその距離がぐっと近づいて、俺は無意識に後ずさる。

「雨には濡れても平気なの?」

「特に問題はない」

「普段は何を食べてる?」

「『食事』というものは不要だ」

「家族とか兄弟は? 友達とかいないの?」

「……。人の子はやはり不思議だな」

 半透明の実在するはずのない、空想の生き物だったそれは言った。

「聞きたいことがあるなら、ちゃんと聞け」

 透明な体はさらに透け、チビは言いたいことだけ言い残し、やがて見えなくなってしまった。

もうどこにもチビ龍の気配を感じられない。

俺に用はなくなったいということか? 

雨の降る音に混じって、運動部のシューズが床を擦る音が、ここまで聞こえてくる。

それが俺の耳に鳴り響いている。

自然と足はそちらに向かった。

 開け放された扉から中をのぞき込むと、バスケ部と卓球部の向こうに、壇上を行き来する演劇部の姿が見えた。

「圭吾、来たのか」

 頭上から声が聞こえた。

見上げると、二階席に山本がいる。

俺は入り口に戻って階段を昇ると、何となく山本の隣に腰を下ろした。

ステージに近い部分の二階席には、演劇部員たちがいて、なんだか色々やっている。

「でさ、舞香ちゃんとは結局、どうなったの?」

 いつの間にか山本にまで心配されている。

「いや。元々何でもないから」

「もう写真部に、編集も習いに来ないの?」

「さぁ」

 空席の並ぶその向こうに、スマホを抱えた舞香と希先輩がいた。

舞香から何かを話しかけ、希先輩がそれに応える。

彼女の小さなスマホ画面を、頭をくっつけ合うようにして眺めていた。

「ダメじゃん、もっと引っぱらないと」

 山本の乾いた笑いに、もはや腹すらも立たない。

「で、好きなの?」

「お前も遠慮ないよな」

「別に? 聞きたいこと、聞いてるだけだけど。お前も言いたいことがあるんなら、ちゃんと言っといた方がいいぞ」

 なんだそれ。

俺は山本の顔をじっと見つめる。

言いたいことなんて、そんなものあるわけない。

言いたいからって言っていいだなんて、そんな単純なわけがない。

背後でふわりと空気が動いた。

なんだか違う空間から漂ってきたような気配がする。

荒木さんの大きな体が、隣に腰を下ろした。

「俺も混ぜてもらっていいかな。圭吾。舞香と何があった」

「何もないっすよ!」

 ムカつくほど整った顔を、俺はジッとにらむ。

「舞香が明らかにお前を避けている。妙なマネをしたら、俺が許さないと言っただろう」

「言いました? そんなこと」

 山本が隣でため息をついた。

「だから犯罪は犯すなってあれほど……」

「何もしてません!」

 体育館の二階席は天上が近くて、むき出しの鉄骨がそのまんま見えている。

明かりの届きにくいこの場所は、いつだって薄暗かった。

荒木さんと山本は、また同時にため息をつく。

コイツらは言いたいことを言いすぎだ。

俺にはそんなことは出来ない。

出て行こうとして立ち上がったら、すぐに荒木さんの手が肩を押さえつけた。

「まぁ座れ。なんだか知らんが、舞香はいま落ち込んでいる」

「は?」

「行って慰めてやれ」

「なんで落ち込んでるんですか?」

「知らん。ただいつもより元気がない」

「荒木さんが元気づけたらいいじゃないですか。部長なんだし」

「なぜ俺がそんなことを?」

「なんでって……」

 彼女の横には必ず荒木さんがいて、舞香は俺には興味なくて、俺なんかが行くよりもずっと、こういう立場とか人望のある人に聞いてもらう方が、嬉しいし楽しいだろうし、たとえ間違ったとしても上手くいく……。

「悪いが俺は、お前のような興味は舞香にない。あぁ、恋愛対象としてってことな」

 どこまで真剣に話しているのか、よく分からないような顔を向ける。

だったら誰が恋愛対象なのかと、俺はその言葉を飲み込む。

「えーじゃあ誰か他に、気になる人いるんですか? 実際モテるでしょ。あ、彼女いるとか?」

「ばっ、お前、そういうことを平気で聞くなよ!」

山本は荒木さんに対しても遠慮がない。

「俺はいま、自分のやりたいことで精一杯だから、他のことなんて考えられないね」

 遠くに見える、ここと繋がる二階席の向こうで、希先輩は舞台に向かってスマホを掲げている。

その小さな画面を舞香はのぞき込む。

「演劇の大会ですか?」

「うん」

 そういえばこの人、さっきチビ龍を見つけたのに、そのまま掴んで放り投げてたな。

「自分以外のことに、興味ないとか」

「そうじゃない奴がこの世にいるのなら、逆に見てみたいね」

 その大きな手が、俺の頭に乗せられる。

ぐしゃりと髪を乱した。

「ま、嫌いじゃないけどね」

 それはどういう意味なんだろう。

同じ髪型をしているクセに、全く何を考えているのかが分からない。

「お前がやらないんなら、俺が代わりに行くぞ」

 乱された頭を調えると、その人と同じになってしまうような気がして、だけどぐちゃぐちゃにされたままでいるのも嫌で、結局髪を直す。

荒木さんはそのまま二階席を移動して、希先輩と舞香の隣に座った。

「はぁ~、いいよなー。あぁいうことが自然に出来る人って」

「何が?」

「モテる秘訣」

 くだらない。

そんなの顔の作り以外の他に、なんか要素ある?

「つーか、お前今日何枚撮ったんだよ」

「雨だもん、ほとんど撮ってねーよ」

「まぁそうだよなー」

 ふいに舞香が立ち上がった。

希先輩と荒木さんに小さく手を振る。

こちらに向かってくるのは、きっと二階席から階下に下りるため。

すれ違う時に、チラリと目があった。

彼女はペコリと頭を下げる。

俺も同じように返して、そのまま通り過ぎていった。

「……。あーあ。マジで終わってんだな」

「だから、なにも始まってないっつーの」

 そうだ。

だから、何てこともない。

当然だ。

俺と彼女は、同じ学校の生徒同士。

以上、終了。

 希先輩と荒木さんが何かをしゃべっている。

が、すぐに荒木さんは立ち上がり、別の部員と話し始めた。

そのまま二階席の手すりから身を乗り出し、すぐ下の壇上にいる演劇部員たちに向かって、何かを叫んでいる。

取り残された希先輩は、その後ろ姿にそっとレンズを向けた。

「いやー、そういうあっちは、どうなってるんですかねぇ~」

 山本は本当に遠慮がない。

「知らね」

 やっぱりこんなところになんて、来るんじゃなかった。

体育館を出る。

厚く曇った空から降り注ぐ雨には、止むつもりは一切なくて、体育館を出たところで行く当てもなかった。

俺自身が何をどう考えているかとか、そんなことは他人にとって、どうでもいいことだ。

もちろん俺がどう思っていようと、それはそれで自由なワケなんだし? 

何も言わない代わりに何も言われたくないと思うのは、当たり前なんじゃないかな。

だから何も言わないし、言われない。

だからきっと、そのおかげで全てが上手く回っている。

 湿っぽい廊下をうろうろして、机とか消火栓とかを、よく分かっていないままカメラに収める。

資料室前へ向かう廊下の前までやって来て、俺はガラスケースに飾られたトロフィーを遠くに眺めた。

もはや誰も見ていない、誰も覚えてさえいない古い記憶の残骸が並べられている。

もう終わった。

俺には関係のなくなったことだ。

することもないし、こういう時にパソコンの中に埋もれた画像の整理でもしよう。

 部室へ戻り、扉を開ける。

誰もいないと思っていたそこに、舞香が来ていた。

「あ、ゴメン……」

「いや、借りてるのこっちの方だし……」

 席を譲ろうとする彼女に、俺はそのままでいいと告げる。

そのまま作業を再開した彼女の横顔を見つめている。

「編集、出来るようになった?」

「うん。今、色々やってみてるとこ」

 文字の入れ方とか文字種の変え方とか、2画面3画面にするやり方とか、色々と聞かれて、それの聞かれたことだけを答える。

マウスを動かしアイコンをクリックして、彼女の作りたい動画が作りたいように編集されていく。

ふと気がつけば、机の上に真っ白なチビ龍がとぐろを巻いて眠っていた。

「こんなところで寝てて、平気なの?」

「大丈夫なんじゃないかな」

「透明じゃなくても?」

「透けてないってこと? 人によって、時と場合で見え方が違うらしいよ」

「なんだそれ……」

 便利なのか、便利じゃないのか。

「気分にもよるんだって。本人の。宝玉ないから不安定なんだって」

 呼吸に合わせて角が上下し、時折もごもごと口を動かしている。

呑気なもんだ。

「そうえば、どうなったの?」

「なにが?」

「えっと……」

 なにがって、そんなの聞かなくたって分かるだろ。

俺にそれを言わせようってのか? 

パソコンから聞こえてくる演劇部のセリフは、3倍速で流されている。

何度も聞いて知っているはずのセリフなのに、何を言っているのか分からない。

「演劇部の大会用脚本」

「あぁ、部長がこだわってるあれ?」

 彼女の顔に、ようやく笑顔が浮かんだ。

「オリジナルでやりたいからって頑張ってるけど、どうなんだろうねー」

 彼女の手はマウスを動かす。

壇上で続いていた、芝居の一部を切り取った。

別の角度で撮った映像をそこにつなぐ。

彼女に笑顔が戻ったのなら、それが正解だ。

問題ない。

だけど、切り取られてしまったその映像に、俺は覚悟を決めた。

「その脚本、舞香は面白いとは思ってないの?」

「分かんない。面白いとは思うけど、実際他の人からみたらどうかだなんて、分かんないよね」

「……。あのさ……、俺……」

 突然部室の扉が、勢いよく開かれた。

「お疲れー!」

入ってきたのは、希先輩だ。

「舞香ちゃん、調子はどう? 上手くいってる?」

「はい。圭吾にもみてもらって……」

 希先輩は首にかけていたカメラを外した。

それをテーブルに置いて……。

「あ、しま……」

「!!」

 人は本当に驚くと、声が出なくなるものらしい。

「ちょ……。ちょ! な……!」

 あぁ、恐れていたことがついに現実になってしまった。

俺は大きくため息をつく。

希先輩の言いたいことは、言えなくても分かる。

すやすやと眠るチビ龍が、希先輩に見えていることは間違いない。

舞香はそんな先輩を見上げた。

「え……。希先輩、ハクが見えるんですか?」

「ハク? ハクってなに?」

 チビはのんびり薄目を開けると、その小さな口で大あくびをした。

「なんだ。お前にも見えるのか」

「え? なに? 二人とも知り合い?」

 希先輩から交互に指をさされ、俺と舞香は顔を見合わせる。

「あぁ、そういうことになるのか」

「知り合い? ……。そっか、知り合いか」

 彼女の指は順番に俺たちを見回す。

「私と、圭吾と、ハクちゃんと」

「ハクちゃん?」

「舞香が名前をつけたの?」

 俺が聞いたら、代わりにチビが答えた。

「舞香が名付けをした。我が名は『ハク』となった」

「ちょっと! なんで今までこんなコト黙ってたのよ!」

「えっ?」

 俺はその声に振り返った。希先輩が身を乗り出す。

「私も混ぜて!」

「いいんですか!」

 舞香の目が、見たこともないくらいキラキラしている。

「もちろんよ……。てゆーか、もっと早く教えて欲しかった……」

「の、希先輩……」

「舞香ちゃん……」

 次の瞬間、二人の手はぴったりと重なり合う。

「きゃー! うれしい! 私ずっと一人で寂しかったんですぅ! 誰にも相談する人がいなくって!」

「やだ、ホント? 私に出来ることだったら何だってするから、言って! 言って!」

 女の子が二人で大騒ぎしている。

とんでもないことだ。

俺がそこから視線を外すと、ふとハクと目が合った。

「ようやく舞香に仲間が出来たようだ」

「仲間って?」

「仲間だ」

「え……だって……」

 俺は? という言葉を、言いかけて飲み込む。

「ちょ、どいて!」

 俺を突き飛ばし、希先輩はハクの前を陣取った。

キラキラと見下ろす。

「は……初めまして。私、井川希っていいます」

「そうか」

「しゃべったぁ~! かわいー!」

 俺が見る時はいつも半透明なのに、今のハクは真っ白な体そのままに、鱗の一枚一枚まではっきりと見える。

希先輩が広げた手の上に、ハクはふわりと飛び乗った。

「舞香を頼む」

「はい!」

 希先輩は、そっとハクに手を伸ばす。

ハクはその指先に、自ら頭をこすりつけた。

「かわいー!」

 なんだよ。

俺の手は噛んだくせに。

すっかり意気投合した女子たちの間で、ハクまで楽しそうにぷかぷか浮かんでいる。

「で、舞香の使命はどうなったの? ハクから言われた課題があったでしょ」

 俺はつい頬杖ついて、ため息をつく。

「そんなことも知らないで、簡単に希先輩も仲間入りだーとか言えるの?」

 舞香が俺を振り返った。

目が合ってしまって、逃げるように視線を外す。

「え、課題? 課題ってなに?」

 乗り気の希先輩に、舞香は説明を始めた。

1,200年前、天から落とされた宝玉の行方を捜していることを……。

「う~ん……。郷土資料館とかは?」

「郷土資料館? そんなのがあるんですか? 地元の図書館に行って、そこに置いてある郷土史は調べてみたんですけど、池のことだけってのは、なかなか載ってなくて……」

「あら、それで二人で調べ物とかしたりしてたの?」

 希先輩は、ニヤリと笑ってこっちを見る。

「あ、その……。圭吾は……」

「誘われてないから」

 そう。

俺は、誘われていない。

「誘われてないから、手伝ってない」

「あぁ、そうだったんだ……」

 希先輩が俺を見下ろす。

俺はまた視線をそらす。

「私はちゃんと手伝うから」

「ありがとうございます」

 ほらね、やっぱり俺は誘われない。

いらない人間なんだったら、邪魔にならないようにしなければいけない。

「じゃ、先に帰りますね」

 通学用のリュックを肩にかける。

「お疲れさま」

「またね」

 なにが『お疲れさま』だ。『またね』だ。

閉めた扉の向こうからは、もう何の声も、物音も聞こえなくて、どうして希先輩はこんなタイミングで、ノックもせずここを開けたのかと思う。

そうじゃなかったら、俺はそのまま彼女と話しをしていて、ハクのこともバレなくて、普通に……。

 いつも遅れてやってくるバスは、やっぱり遅れてやって来て、俺はいつものようにイライラしながら、それに乗り込む。

少し下校時間が早まったせいで、今日は自分と同じ制服の群れで、あふれかえってはいなかった。

ようやく息を吐き出す。

 まぁいいよ。

あんなのに関わったって、時間の無駄だ。

帰って宿題しよう。

あんな意味の分かんない連中と違って、人生は短いんだ。

そもそも自己責任だろ。

なくしたものが見つからないとか。

それを人任せになんてしないで、自分でなんとかしろよ。

自分に出来ないことを、他人に押しつけるな。

悪いのは全部自分だろ。

だったらちゃんと、自己完結しろよ。

 そう考えると、急に気が楽になって、渋滞のなか動かないバスに揺られているのも、楽しくなってきた。

家に帰ったら手を洗ってうがいをして、ご飯食べたら風呂入って、宿題をしよう。

それが何よりも、平和で幸福な証なんだから。



第8章


 ようやく梅雨が明けて、本格的な夏がやってきた。

俺はいつものように朝のぎゅうぎゅう詰めのバスに揺られ、学校へ向かう坂道を上る。

「おはよう」

 写真部も夏のコンクールとその展示会へ向けて、作品作りが本格化し始める頃だ。

「おはよう」

 偶然一緒になった舞香は、相変わらず肩先で黒髪を揺らしている。

「何か進んだ?」

「何が?」

 照りつける日差しは朝からキツくて、上り坂を歩いて上らないといけない俺たちには、少し辛すぎる。

「圭吾の方は?」

「俺?」

「希先輩が、これから忙しくなるって言ってた」

「まぁね」

 忙しくって、なんだ? 

写真展とコンクールのこと? 

それとも、宝玉探しのこと?

「……。校内で、2人しか参加枠がないから。展示会前に校内選抜があって、投票で選ばれた2枚が、コンクールに出展できるんだ。展示会は、普通に全員参加出来るけど……」

 そうだ。

これから俺は、沢山写真を撮らないといけない。

今年のテーマは何だったっけ。

そういえばまだ、聞いてなかったな。

「そうなんだ」

「演劇部の方は? 練習進んでるの?」

「今年は部長の気合いが違うからね」

 そうやって微笑む彼女の表情が、どうして俺にはいつもより、眩しく見えてしまうのだろう。

直視できない。

「何だかんだで脚本も決まったし、練習は本格化してるよ」

 彼女は演者でもないのに……。

小道具で、撮影係で、マネージャー的な人だから、本質的な所には、関係してないのに……。

「そっか。頑張ってね」

「ありがとう」

 手を振って別れる。

クラスが違うから靴箱の位置も遠くて、わざわざ会いに行かなければ、すれ違うことも話すことも何もない。

同じ学校の同じ校舎にいながら、無関係に過ごす人間の方が圧倒的に多いんだ。

 放課後になった。

今日は写真部の、月初め定例会の日だ。

ここにさえ顔を出していれば、写真部として認められる。

個別に撮影に向かうことが多い部員同士も、ここでは顔を合わせる。

「と、いうわけで、今年のテーマは『挨拶』です。校内選考の投票日までに……」

 希先輩の話しが続いている。

部長である先輩は、2年生の時から積極的に色々なコンクールに参加してる人だし、作品の質も高い。

こういう人が最終的に『選ばれる』人になるんだろうな。

「圭吾くん」

 解散となった後で、その希先輩に声をかけられた。

他の部員はそれぞれに帰宅してしまったり、撮影に出かけたりしている。

「まだ演劇部にモデル頼んでないでしょ。圭吾だけだって荒木くんが言ってた」

 希先輩は、あれからどうしたんだろう。

「まぁ、圭吾は元々人物撮らない人だし、必要ないなら、ないでいいんだけど。せっかくだからチャレンジしてみれば?」

 ふいに彼女の顔が近づく。

ドキリとした俺に、サラサラとしたショートボブの髪が耳をくすぐる。

「舞香ちゃんに頼んでもいいってよ」

「だからそれは!」

「はは。じゃあね」

 そんなことを言われたって、俺は演劇部の奴らにモデルを頼む気はさらさらないんだ。

たとえ撮ったとしても、今のこのつながりの中で、撮影することはないだろう。

幸いにも、学校周囲は豊かな森が取り囲む。

少しレンズを絞って角度を調整すれば、森と空が綺麗に写るんだ。

そうだ。

許可をもらって、校舎の屋上から撮影するのもいいかもしれない。

与えられたテーマとは別に、フリーテーマでの出展も可能なのだから、今年のテーマにこだわることもないし……。

 カナブンを見つけた。

何の花だか知らないが、花壇に植えられていたピンクの花に、ピカピカ光る緑の頭を突っ込んでもがいている。

花粉にまみれながらももがくその姿を、すぐさま画像に収めた。

これだって立派な『挨拶』だ。

 夏の日は、あっという間に過ぎてゆく。

一部の生徒たちの間で、演劇部の大会参加が話題になり始めた。

普段はお菓子サークルと化している家庭科部との連携をとりつけ、衣装製作を頼むことになったらしい。

その衣装を着た役者を写真部の部員が撮影し、学校SNSに上げたことで火が付いた。

おかげで体育館の二階席には、連日野次馬の姿が見える。

協力を申し出る生徒も増え、監督であり部長でもある荒木さんの周りに、もはや人の絶えることはない。

「凄いよなー。凄い人って、なんであんなに凄いんだろうなー」

 写真部部室の窓から、山本と二人で外を眺めている。

今日は体育館に演劇部の割り当てがないから、外練習の日だ。

すっかり演劇部専属カメラマンと成り果てたみゆきが、無駄にシャッターを切りまくっている。

「別に……。ちょっと派手な活動してるから、面白がられてるだけだろ」

 くだらない。

他人のやってることになんて、構ってられるか。

そんな暇があったら、いい写真を撮る努力をしてる方が、ずっといい。

カメラを手に取ると、外へ出た。

演劇部員なんかと、顔も合わせたくない。

普段は近寄りもしない、校舎裏へ回った。

色あせた壁を懸命に這う蟻を見つけて、レンズを絞る。

シャッターを切ろうとして、手を止めた。

「そんなに動き回ってたら、撮りにくいだろ、お前……」

 さっきまで見ていた光景が、頭にちらつく。

演劇部員の周りをちょろちょろしていたみゆきと、自分のどこが違うんだろう。

撮りにくいとか撮りやすいとか、そんなことじゃなくて、本当は……。

 壁に張り付いていた蟻が、ポロリと地面に落ちた。

そのまま何事もなかったかのように、土粒の間を歩き出す。

そのちょろちょろした動きを追いかけ、レンズを向けた。

地面に体を貼り付け、彼の歩いてゆく先を追いかけて……と、その画面に靴が入り込んだ。

小さな蟻と大きな靴先。

悪くない。

俺はそのままシャッターを押した。

思わぬ収穫に、一息つく。

「……。お前、何やってんの」

 荒木さんだ。

「何って、撮影ですよ?」

「地面に張り付いて人の靴撮ってるのが?」

「先輩には分かりませんよ」

 顔を上げ、背の高いその人を見上げ……。

「……。あの……、ソレ、誰ですか?」

 荒木さんは、幼い女の子と手をつないで立っていた。

カッチリとした濃紺の長袖の上着を着て、真っ直ぐな肩までの黒髪を伸ばしている。

抜けるような肌の白さは、日本人形そのまんまだ。

「お前は俺のことも忘れてしまったのか……」

「違いますよ!」

 4、5歳くらいの女の子だ。

能面のような顔には、なんの表情も浮かばない。

「あの……。だから、この子は……」

 荒木さんは彼女を見下ろす。

その女の子も、無言で彼を見上げた。

「……。俺の妹だ」

 その言葉に、幼女は黙ってうなずいた。

絶対にウソだ! だってその子は……。

「お兄ちゃんが大好きな、困った奴でな。学校までついてきちゃったから、これから家まで送っていくんだ。そうだよな?」

 荒木さんは、また彼女を見下ろす。

しばらくの間をおいてから、幼女もうなずいた。

「ねぇ、ちょっと待ってくださいよ……」

「待てない。そうだ、お前まだ、モデルを誰にも頼んでないだろう。仕方ないから俺がなってやってもいいぞ。時間と都合を考えておけ」

 そう言って、幼女の手を引く。

二人はそのまま、校門の方へ向かって行ってしまった。

真夏の炎天下に濃紺の冬服ということだけが、彼女の違和感の原因か? 

俺は遠くなって行く二人の後ろ姿に、ぐるぐると回らない頭を回す。

彼女の被る帽子と同じ色の、濃紺のリボンが揺れた。

「そうだ。あの子は……」

 思い出した。

最初に俺が見た、空から降ってきた女の子だ。

なんで荒木さんと? 

だとしたら、正体はチビ龍のハクじゃないのか? 

もしかして誘拐とか? 

売られる? 

荒木さんに正体バレた? 

ネットに晒される? 

舞香と希先輩に報告しないと!

「うわっ!」

 振り返ったとたん、ぶつかったのは山本だった。

「なんだよお前、驚かすなって!」

「……。なぁ圭吾、お前さぁ……」

 顔色が悪い。

いつになくおどおどとして、明らかに言動がおかしい。

「どうした? 何かあったのか?」

 おかしな様子の山本に、こっちまで不安になる。

「和物の龍って言ったら……分かる?」

「和物の龍? あぁ……。分かるよ」

「本当か?」

 山本の顔に血の色が戻った。

がっくりと全身の力が抜ける。

コイツも何かを見たのか。

「あれってさぁ……」

「うん」

「……。あれって……。よ、よく、神社とか日本画に出てくるやつだよな」

「そうだな」

「アニメとか」

「だね」

 山本と目が合う。

俺は目を合わせたまま、しっかりと力強くうなずいた。

彼はそれにようやく落ち着いたのか、乾燥しきった声で笑う。

「はは……。いや、何でもないんだ。ちょっとどうかなって思っただけで……」

「うん。分かるよ。なぁ、休憩しようか。ちょっと休もう。どっか涼しいとこ行こうぜ」

 肩に腕を回す。

少しホッとしたような顔をしたコイツに、なんだか俺の方が申し訳ない気持ちになる。

クソ。

なにが兄妹だ。

宝玉だ。

1000年の龍だ。

あいつら、ぜってぇ許さねぇからな。



第9章


 結局その日は、山本ととりとめのない話しをして一日が終わり、舞香にも希先輩にも顔を合わせることなく終わってしまった。

山本のこともある。

スマホから舞香にメッセージを送ってもよかったけど、なんとなく文字で打つのも長文になるような気がして、それもやめてしまった。

強い日差しの下、制服の白シャツと、その隣に並んだ濃紺の小さな制服を思い出す。

アレはなんだったんだろう。

俺は夢をみていたんだろうか。

 いつものバスに乗って行けば、同じ時間で一緒になれると思っていたのに、こんな日に限ってそうはならない。

通学路に舞香は見当たらなかった。

周囲に気づかれぬよう通りすがりを装って、なんとなく彼女の靴箱をのぞいてみる。

元々位置もはっきり知らない状態からの確認では、それも不可能だった。

L字型の校舎で同列に並んでいない教室の中を見に行くことも出来ず、いつもと違う階段も上れないまま、俺は教室に入る。

 自分の席につくと、盛大にため息をついた。

机の上にひれ伏す。

問題はもう一つあった。

こっそりと山本の席を確認する。

姿は見えなかったが鞄は置いてあるから、登校はしてきているということだろう。

学校、来るの怖くならなかったのかな。

まぁそれでも学校は来るか。

俺だって来たし。

 授業が始まった。

窓から外を見下ろすと、体操服姿の荒木さんを見つける。

どこにいたって、何かと目を引く存在だ。

男子生徒の間に混じって、普通にふざけ合っている。

特に変わった行動をしているとも思えない。

ネット上でも騒ぎはない。

事情を知ってる舞香や希先輩に報告する方が先か、それとも荒木さん自身に、それとなく探りを入れるのが先か……。

まぁ、舞香に直接聞いてみるのが一番か。

俺は仲間じゃないけど、報告するくらいのことは、親切の範疇だよな。

俺は仲間じゃないけど。

迷惑がられたり嫌われたりはしないよな。

そっか。

彼女と話しをするのも、久しぶりだな。

 放課後になった。

山本と一緒に写真部部室へ向かう。

ただそれだけのことなのに、俺はすっとそわそわしていた。

コイツは昨日の晩、ハクを見てしまったことで悩んだりしなかったのかな?

何から話したらいいのか、このまま話題に触れない方がいいのか、ちょっとは悩んで、コイツの方から話しかけてくるのを待つことにした。

山本には山本の事情があるだろうし……。

申し訳ないが、山本のことより、いまは荒木さんの問題が先だ。

俺なりのフォローは山本にはした。

きっと何かあれば、コイツなら相談してくれるだろう。

 部室に入ると、一番にパソコンを起ち上げる。

起動するのを待つ間に、俺はスマホを取り出した。

来る予定もないメッセージを、こまめにチェックするのがすっかり日常業務になってしまっている。

最後にメッセージを送ったのは、もう2週間以上も前のことだ。

内容は動画編集のやりとりだ。

自分から彼女に何かを送るにしても、その文字をどう打つか、真剣に考えている。

『ちょっと聞きたいことがあるんだけど』とか、『今度話す時間ある?』とか、そんな文字を打っては消し、また打っては消すということを、またここで繰り返していた。

最終的に思いついたのが『もう写真部に来なくて平気?』だ。

送信ボタンを押すか押さないか最後まで散々迷ったあげく、結局それもイヤミのような気がして、消してしまう。

結局ここで何も出来なくなるのが、俺なんだなぁ。

「はぁ~」

 ため息をついたところで、部室の扉が開く。

みゆきだ。

「あぁ、圭吾。ちょうどよかった。荒木さんが体育館来いってよ」

「なんで?」

「あんたがまだモデル頼んでないからだって、言ってた」

 ふと気になって、聞いてみる。

「みゆきは誰に頼んだの?」

「私? 私は特に誰って決めてない。色んなところを、ただ自由に撮らせてほしいって頼んだ」

「山本は?」

「俺は1年の川崎さん。ちっちゃくって可愛くってさぁ~。いいよねー、ああいう子」

 山本はやっぱ大丈夫そうだ。

心配して損した。

川崎さん? 衣装係の子か。

そういえば大量の生地を持ち込んで、そこに埋もれてたな。

「……。あれ? それって家庭科部の子じゃなかった?」

「なんだよ圭吾、お前も狙ってたのか」

「違うよ」

「とにかく、荒木さんの伝言は伝えたからね」

 みゆきはカメラを手にすると、すぐに出て行く。

行き先は知っている。

俺が行けない、演劇部のいる体育館だ。

「……。希先輩も体育館かな」

「じゃない?」

 山本は憐れむような目で、俺を見下ろした。

「お前ものんびりしてないで、頑張れよ」

「なにを!」

「……。舞香ちゃんと希先輩。荒木さんに夢中だぞ」

「そりゃみゆきだってそうだろ」

「イケメンは強いなー」

 みゆきはともかく、舞香と希先輩は違う。

いや、違わないのかもしれないけど、俺がいま考えるべきことは、そういうことじゃないだろ。

本当は事態は、もっと深刻なのかもしれない。

出来ることなら、一番に彼女に確認したい。

体育館に行けば、そこにいるのは分かっている。

先に捕まえれば何とかなるかもしれない。

肩までの髪が揺れている。

「行くか。体育館」

 決意を込めて絞り出したその言葉に、山本は呆れたように笑った。

「お前くらいだよ。来てないの」

 行ってみれば、二階席のほとんどが、演劇部関係者で埋め尽くされていた。

衣装や小道具の類いが広がり、照明や音楽の担当も打ち合わせをしている。

手伝いにかり出された家庭科部や美術部、放送部員なんかまでが、勢揃いだ。

「荒木さんって、やっぱタダ者じゃねーよな。これだけの人数に動員かけて協力が得られるって、やっぱ顔だけの人じゃないんだよ。天は何とかっていうけど、圭吾もそこは認めた方がいいと思うよ」

 そんなことは頭では分かっている。

分かってはいるけど、どうにもならないのがヒトってもんじゃないのか?

「舞香を探してくる」

 荒木さんに見つかる前に、彼女を探して、とにかく情報を仕入れないと。

あの人と二人きりになって話しをしたとして、何の事前対策もなしでは、勝てる気がしない。

そう思っているのに、どうして彼女は荒木さんと一緒にいるんだろう。

体育館二階席の最前列、すぐ真下に舞台を見下ろせる位置に、並んで立っている。

そしてその隣には、もれることなく希先輩もついていた。

「ね、荒木くん。圭吾が来たよ」

「お、よかったよかった」

 当然のように、肝心の女の子二人は俺に手を振る。

気楽なもんだ。

荒木さんは近寄ってきた俺を見下ろした。

「いや、俺は舞香に用があって来たんですけど……」

「え? 舞香? やっぱ舞香をモデルにすんの? じゃあ……」

「違います!」

「じゃあ何の用だよ」

「そうよ。素直に舞香ちゃんにモデル頼みなさいよ」

 希先輩の冷やかしに、彼女は何のためらいもなく、手にしていた台本を客席に置いた。

「いいですよ。撮影行きますか?」

 だから、撮影じゃ……。

「あ、荒木さんにモデルをお願いしたいです!」

 自分でも、何を言ってるのか意味が分からない。

ただ俺の顔が真っ赤になっていることだけは分かる。

「……。え、俺? 本当に俺でいいの?」

「いいんです!」

 本当はよくはないけど、今さら引き下がれない。

「なんか逆に申し訳なくなってきたんだけど……」

「お時間は取らせませんので、手短にお願いします!」

「あーうん。じゃあちょっと行ってくるわ」

 そんなこんなで、二人で体育館を抜け出す。

体はもの凄くフワフワしているのに、どうして気分はこんなに沈むのか。

「なぁ、別に無理しなくていいんだぞ」

 後ろからついてきている、荒木さんのその声だけで、顔を見なくても表情は想像出来る。

「こっそり舞香と交代するか?」

「他に誰のモデルやったんですか。写真部の女子は全員荒木さんとか?」

「いや。結局、何だかんだで、他の人とか別の写真と被るからとかで、全部潰れた」

「え、希先輩も?」

 思わず振り返った。

階段の上から、その人を見下ろす。

「希は俺を指名しなかったよ」

「でも、他に希望者はいたでしょ」

「いたけど、被りすぎてみんな『やっぱいいです』ってなった。同じ被写体ばっかになるのは、みんなイヤみたいだな。個別では受けてないよ」

「あぁ、そういうことね」

 もうこの人とは、一生分かり合える気がしない。

「で、どこで撮影すんの」

 どうせなら誰もいないところで、一度ゆっくり話しがしたい。

「じゃあ、教室で」

 人気の消えた放課後の廊下を進む。

周囲から生徒たちの声だけは聞こえてくるのに、校舎の中はひんやりとして誰もいない。

冷房をつけっぱなしにしたままの、教室の窓を開いた。

「そんなことして、怒られない?」

 そう言って荒木さんは笑ったけど、俺はその姿にレンズを向けた。

「そのまま、窓の外を見ていてください」

 彼は整った顔でクスリと笑うと、窓枠に肘をついて俺に背を向けた。

「撮すのは背中でいいの?」

「こっちで勝手に動くので。必要なら指示を出します」

 いまの正直な気持ちを言うと、こんな撮影をさせてくれることがありがたい。

モデルを独占できるなんてことは、滅多にないことだ。

俺は机を避けながら、何度もシャッターを切る。

彼は窓枠に背をあずけたまま、ふいに教室の中を振り返った。

「退屈しのぎに、ひとつ面白い話しをしてやろう。俺がこんなことを話すのも、お前が目にするのも、この生涯でいま一度だけだと、肝に銘じておけ」

「え……」

 カメラ越しに見る荒木さんの輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。

構えていたレンズを下ろす。

白いカーテンが、大きく風に巻き上げられた。

それが元に戻ったとき、窓際にたたずむ彼の姿は、白銀の鱗を輝かす美しい龍の姿に変化していた。

「まさか自ら、この姿を人に晒すことになるとは、思わなかったな」

 3メートルはあるだろう巨大な体が、机の下に沈む。

そこから立ち上がった時には、もう元の人間の姿に戻っていた。

「アレは本当に俺の妹だ。罪を負い地上に降ろされた俺を探して、こんなところまで来てしまった。顔を合わさず正体も知られないまま、天上に戻したい。助けてはくれないか」

 教室の中に妙なキラキラが光っているのは、きっと気のせいなんかじゃない。

「は? な、なんだよそれ……。か、勝手なこというなよ。大体、そ、そんなこと言ったって、もうハクとは接触してるんじゃ……」

「あぁ、そうだ。そのおかげで、俺は自分の記憶まで取り戻してしまった。死んではまた生まれ変わるという輪廻の苦しみに、己を消し去っていたのに」

 荒木さんは、穏やかな笑みを浮かべた。

俺はその不思議な魔力を持つ姿に、息をのむ。

「これ以上罪を重ねたくない。アレが宝玉を地上に落としたせいで、俺は引き寄せられたんだ、この場所に。近頃はこの付近ばかりで、繰り返し生まれ変わっている」

 彼は椅子を引くと、そこに腰を下ろした。

ほおづえをつき静かに目を閉じる。

「アレが宝玉を手に入れたら、間違いなく俺を引きずりだすだろう。再会したい気持ちは分かるが、それではアレも罪を犯すことになってしまう」

「……。刑期は、長いの?」

 外からの風が、彼の前髪を揺らした。

エアコンの冷気と生ぬるい外気とが、混ざり合うのが分かる。

「長いね。5千年だ。もう2千年は過ぎたか? だがまだ、半分も終わってない」

「なにしたの。なにをやったら、そんな罰を受けるんだよ」

「はは。それを話しても、人の子には分かるまい」

 なんだよそれ。

涼しげに言ってのけるその姿は、俺の知っている荒木さんと何も変わらない。

「正体を現したことで、封印は解かれた。アレも気づいたはずだ。あまり時間はない。俺はもう一度自分を閉じる。より強力に、もっと深くだ。この話しを記憶に残すのは、お前しかいない。どうかアレが自ら罪を犯す前に、天上へ戻してやってくれ」

「協力するなんて、一言も言ってないけど」

「人の子の命は短い。あまりにも短すぎて、目が回りそうだ。どうせ俺もお前もすぐに死ぬ。好きにすればいいさ」

 教室の扉が開く。

驚いて振り返ると、息を切らした舞香が立っていた。

「何があった!」

「な、なにって……」

 俺は荒木さんを振り返る。

彼はぽかんとしたまま、彼女を見ていた。

「ここに誰が来た!」

 コレは舞香じゃない。ハクだ。

「ここにお前たち以外の、誰かが来なかったかと聞いている!」

 荒木さんと目があった。

だが彼は何も答えない。

「……。お前、ハクなんだろ?」

 俺がそう言うと、彼女はキッとにらみつけた。

「そうだ。ハクだ。舞香の姿を借りて来た」

 彼女は俺の胸ぐらを掴むと、グッと引き寄せた。

「何かがここに来ただろう。その姿を現さなかったのか?」

「何もないよ」

「コイツも私の正体を知っている」

 荒木さんを指さした。

同じようにその胸ぐらを掴む。

「お前も圭吾が私の正体を知っていると、知っていただろう。何があった!」

「知らねぇよ。手を放せ」

 その彼女の手を、荒木さんはあっさりと振り払う。

「何だか知らないが、俺はお前らに一切興味はない。いまは撮影中だ。邪魔をするなら、出て行け」

 もの凄い形相でにらみつける彼女を、荒木さんは平然と見上げている。

ハクはチッと舌を鳴らすと、教室を飛び出していった。

「なんだアレ。二重人格かよ」

 荒木さんはふぅと息を吐き出すと、俺を振り返った。

「お前も物好きだな」

「……。何がですか」

「応援はするよ」

 龍に取り憑かれているのは、この人自身なのだろうか。

それともあの白銀の龍が、元々こういう性格なのか……。

理解の追いつかない俺は、まだ混乱している。

「おい。写真はもう撮らなくていいのか? 終わってんのなら、俺も行くぞ」

 正直ムカついてもいるし、怒ってもいるけど、結局なにを言っても無駄なんだろうな。

すましたその顔を、正面から撮ってやる。

パシャリと動作音が鳴った。

本当にこのヒトは、もう何も分からないのか……。

「荒木さんは、ドラゴンを見ても、なんとも思わないんですか」

「俺の人生に関わりないのなら、どうだっていい」

「……。そうっすよね。関係ないっすよね」

「当たり前だ」

 そう言って立ち上がったそのヒトを、じっと見上げる。

俺にちゃんとした判断が出来るかどうか、それは分からないけど、いま目の前にいるこのヒトは信用出来ると、その言葉になぜかそう思った。

 荒木さんが教室を出て行く。

俺は部室に戻り、撮影した画像をチェックした。

画面には人の形をした荒木さんの、窓辺にたたずむ姿しか写っていなかった。



第10章


 翌日、俺は舞香から空き教室に呼び出されていた。

ロック解除の仕方をマスターしたらしいハクは、鍵のかかっていたドアを開ける。

「入って」

 ムッとした熱気がその視聴覚室には籠もっていて、だからってここでエアコンをつけたら、学校にバレたりしないのかなーなんて、思ってみたりなんかして……。

「どういうこと」

「なにが?」

 舞香の体からハクが抜け出した。

真っ白なハクは、今日は透けていない。

なんで透けている時と、そうでない時があるんだろう。

そんなことをぼんやり考える。

「ハクが駆けつけた時には、もう気配が消えたってこと?」

「確かに現れたのだ。間違いない」

「で、そこにいたのは荒木先輩と圭吾だったと」

 一人と一匹の視線が集まる。

「だから、普通に撮影してただけだって」

「宝玉がそこに現れたってこと?」

「……。気配がしただけだから……。なんとも……」

 舞香の質問に対して、答えるハクの歯切れが悪い。

俺はコイツらの味方をする気はないが、邪魔をするつもりもない。

「宝玉って、自分で動くの?」

「……。そんなことはない」

「だったらその、現れたかもしれないって場所の近くを、探してみた方がいいんじゃないの? 学校の校舎の地下に、建設時に埋められちゃってるとか」

 それなら校舎を壊さない限り、探れないな。

あきらめるかな。

「だけど、こないだ荒木先輩と郷土資料館へ行ったとき、宝玉の話しが出たんでしょう?」

「そう、それ! なんでハクと荒木さんが一緒に出掛けてんだよ。どこでバレたの!」

 そのことの方に呆れている。

「二人で一緒に体育館裏でしゃべってたら……」

「ひょっこり現れて……」

「あっさりバレた」

「ねぇ、君たち。そんなガバガバで大丈夫なの?」

「で、なかなか資料館へ行く都合がつかなくて……」

「荒木先輩が場所知ってるっていうから……」

「姿を変えたうえで二人で出かけようとしたら、お前に会った」

 本気で大丈夫なのかな、この人たち。

「で、宝玉の行方は分かったの?」

 俺がそう言うと、舞香はハクを見た。

「分かったっていうか……」

「ご神体として池の底から掘り起こされ、神社に奉納された後、地元の武将に奪われ、家宝にされていたところまでは分かった」

「それって、もしかしなくても……」

「戦国時代」

「遠いな」

「その後は、この辺りを治めていた殿様に譲られた可能性が高いって」

「その子孫は?」

「さぁ……」

 俺は「真面目に探す気あんのか」と言おうとして、やめた。

余計なことに口を突っ込むと「だったら手伝え」って言われるのは、決まってるし。

「ま、頑張ってね」

「あ、ちょっとま……」

 俺は何の為に呼び出されたんだ? 

全くもって意味が分からない。

教室を出る。

荒木さん……、いや、あの白銀の龍め。

そもそも勝手に全部を俺に押しつけておいて、好きにしろとか、随分いい加減な話しだ。

自分の不始末は自分でケリをつけやがれ。

そもそもそんな悠長な問題に、かまっている暇はない。

 階段を下りる。

人気のない廊下は、少しほこりっぽい臭いがする。

本当はコンクール用の写真を撮らないといけないのに、すっかりやる気が失せた。

塗装の剥がれかけた壁に手を触れる。

そのままザラザラとする冷たい感触に、歩きながら触れ続けていると、肌はすり切れてしまいそうだ。

「圭吾」

 舞香が追いかけてきた。

「待って。撮影に行くの? 途中まで一緒に行こう」

 俺より少し背の低い、肩までの髪が隣に並ぶ。

なんだかちょっと珍しい雰囲気に、壁から手を離した。

「どうしたの?」

「どうしたって……」

 さっきまでずっとザラザラと触れていた壁のせいで、手の感覚がおかしい。

「荒木先輩と、いい写真撮れた?」

「あ、あぁ……。まぁ、それなりにね……」

「それなり? イマイチだったってこと?」

 くるりと振り返り、微笑んだ彼女は俺を見上げる。

彼女の目が、なんだかやけに眩しい。

透けるような彼女の頬が、わずかに赤らんだような気がした。

「なに?」

「……。荒木さんのこと、好きなの?」

「どうして?」

 ひさしぶりに間近に並んだ顔が、ちょっぴり傾く。

「圭吾は……、希先輩?」

「希先輩は、荒木さんが好きだから」

「なんか、あっさり認めるんだね」

「だって、舞香に隠してても、しょうがないもん。見てたら分かるでしょ」

「圭吾は、希先輩のどこがよかったの?」

「じゃあ逆に聞くけど、荒木さんのどこがいいの」

「あはは。やめてよ、そんなこと」

 彼女の後でスカートがはねる。

その背中は一段一段と階段を下りてゆく。

「ね。二人で撮影しながら、なに話してたの」

「別に。何も話してないよ」

「何もないことはないでしょ」

「たとえば?」

「たとえばって……。『こっち向いてー』とか」

「そんなこと、言わないし」

 もしそうやって彼女に呼びかけたら、あの教室でどんなふうに振り返ったんだろう。

そんなことを考えていたら、ふいに彼女は振り返った。

「ね、私が写真撮ってあげようか」

「は? なんで?」

「いいじゃない。ちょっとやってみたい。ほら、こっち向いてー」

 指で作る四角いフレームに、彼女の楽しそうな笑みが囲まれる。

「いや、そんなんじゃ撮れないでしょ」

「あ、じゃあ本気でスマホで撮る?」

 いつだって、そのためのカメラは用意してあるのに……。

俺はずっしりと重たい、首にかかるカメラを持ち上げた。

彼女に向かって、レンズを掲げる。

シャッターを切った。

「ちょ、やだ! ちゃんと撮る時は言ってよ」

「だから、そんなこと言わないって言ったし」

「もう! いいよーだ。私も撮るからね」

 スマホを構えたその姿に、もう一度シャッターを切る。

「ほら、こっち向いて!」

「向いてるし」

「だから、。私のはもういいよぉ」

 踊り場で振り返る。

ちょっと怒ったような上目遣いが、画像に納まる。

「……。これ、荒木さんに送ろうかな」

「やめて」

「冗談だって」

 はは。『はは』だって、どうした俺。

彼女の手が俺の腕に触れる。

カメラの表示画面を向けると、そこに頭を寄せてきた。

彼女の前髪が、鼻先をくすぐる。

「撮られてみた感想は?」

「感想って、別に……」

「よくない?」

「別にそうでもなくない?」

 そうでもなくは、なくなくない。

「なんかちょっと恥ずかしい」

「俺は悪くないと思うけどね」

 展示会の候補作品として、校内選抜にかけてもいいくらいだ。

そう思っているのに、彼女は本当に呆れたような顔で見上げてくる。

胸が痛む。

どうせならもっと、違う反応を見せて欲しい。

「他に……、なかったらね」

 演劇部員たちの声が聞こえた。

俺たちは同時に顔を上げる。

彼らは舞香に呼びかけると、手を振った。

あぁ、もうここでお終いだ。

彼女は駆け出してゆく。

そのまま行ってしまう後ろ姿に、目を反らした。

撮影に行かないと。

彼らの話す声が、ここまで響いてくる。

俺はすぐ目の前にあった植え込みに向かってしゃがみ込み、そこにレンズを向ける。

固くて丸いつぶつぶの葉を、画面に収めた。

「ねぇ、圭吾も一緒に体育館、行かない? 写真部のみんなも来てるって」

「あぁ、保存データがいっぱいになっちゃった」

 ランプが点滅している。

ここにはもう、何も入る余地はない。

「部室戻って、保存してくる」

「そっか」

「うん。……。じゃあ、後で」

「分かった」

 その場を離れる。

絶対に後ろは振り向かない。

だってそんなことしたって、いいことなんてなにもないの、知っているから。

取り囲む校舎と放課後の景色に、力強く一歩を踏み出す。

誰にも負けないくらい強く、ゆっくりと。

俺はこの場から、立ち去るんだ。

 部室に戻って、ようやく息を吐き出す。

誰にも気づかれないため息をついて、パソコンの前に座った。

そのまま画像の整理をしていたら、いつの間にか来ていた山本は画面をのぞき込んだ。

「お前、相変わらず風景とか動植物ばっかなんだな。ほら、この写真なんか悪くないと思うけど」

 指を指したのは、遠くから演劇部員を写した写真だ。

舞香の姿もある。

「風景もいいけど、人物の方が強いよ。いや、マジで。人が関心のあるのは、やっぱり人だからな」

「二人でなんの話ししてんの?」

 みゆきまで一緒にのぞき込む。

「あー! 何だかんだで、やっぱ演劇部撮ってるんじゃん。うん、コレ、悪くないと思うよ」

「俺のことはいいって」

 これ以上なにか言われないように、急いでページをめくる。

画面に荒木さんが現れた。

教室の窓辺にたたずみ、深く落ち着いた視線で、その視線がレンズを捕らえている。

「この荒木さん、なんか雰囲気あっていいね」

「そうかな」

 白銀の龍に、本当の彼になる直前の姿だ。

「お前も頼めばよかっただろ」

「やだよ」

「なんで」

 みゆきはフンと鼻をならした。

「撮れた画像のモデルがいいって言われるの、なんかムカつくから。やっぱ腕をみてもらいたいじゃない? そりゃいいモデル使う方がいいっていうのは、間違いないんだけどさ」

 みゆきはふてくされたような顔で言った。

「それに、希先輩も頼まないっていうから……」

「そうなの?」

 意外だな。

あの人は誰よりもそれを望んでいただろうに……。

「遠くからならいいんだけど、恥ずかしいんだって。つーか、去年希先輩がモデル頼んだ時も断ったって話しだから、本当は目立つのあんまり好きじゃないのかもね」

 そう言ったみゆきを見上げる。

「あぁ、なるほど」

 そういう解釈の仕方もあるのか。

「ちょっと意外だよね。『俺は誰のものにもならない』ってタイプなのに」

「なんだそれ」

 そんな雰囲気あるか?

「きっと圭吾には分からんよ」

「あっそ」

 そんな情報を仕入れたところで、どうしようもない。

遠くから見ているだけの俺には、それ以上近づけないことを知っている。

「ま、私の場合はそれだけじゃないけど……」

「撮影に行ってくる」

 ホワイトボードの行き先を「校内」に動かす。

賑やかになってきた部室を抜けだした。

人物の方が人気高いって、そんなのは知ってる。

だけど撮りたくないものは撮りたくないのだから、仕方がない。

 放課後の校庭というのは、特別な時間だと思う。

日中の学校がタテマエだとしたら、こっちはホンネみたいだ。

部活棟付近に設置された原生林脇のベンチに、舞香とハクが座っている。

ここからはあの池も近い。

俺が近寄ると、ハクはとぐろを巻いたまま片目を開けた。

今日は体が透けていない。

「だからさ、君たち不用心すぎない?」

「何しに来た」

「いや、撮影ですけど」

 ハクに向かってレンズを絞る。

「えー。どうせなら、私も一緒に写してよ」

 彼女は体をグッと前に屈めた。

そのレンズに向かって、流行のサインを手で形作る。

ハクが呆れてそれを振り返った瞬間、シャッターを切った。

「撮れた?」

 カメラの画面に、彼女が顔を寄せる。

その近さにちょっとびっくりする。

「あー、やっぱり無理なんだー。残念」

 保存された画像データには、自然な笑顔の彼女しか写っていない。

じゃあやっぱり、あの白銀の龍にレンズを向けても、無駄だったんだな。

「あの場所で何があった」

「あの場所って?」

 ここからは近くにあの池が見えた。

俺が一番最初に、女の子に化けたハクを見た池だ。

「私が飛び込んだ時……、あの教室でだ……」

「何もないよ。急に入ってきて、こっちがびっくりした」

 そうか。

荒木さん自身とはこの話しが出来なくても、ハクとは出来るんだ。

まぁ舞香もいるし、あんま深入りする気もないけど……。

「ハクはずっと気にしてるの。すっごく悔しがってて」

「……協力しろとは言わない。だが邪魔をするな」

「邪魔はしてない」

 多分だけど。

この小っこい頼りない龍も、いつかはあんなに大きくなるのかな。

「宝玉を見つけたらどうするの」

「……。天に帰る」

「なかったら帰れないわけ?」

「なかったら……。帰らない」

 舞香の手が、ハクに向かって伸びた。

その指先で龍の首元をなでる。

「ハクにとっては大事な宝物だから、なくしたままではイヤなんだって。見つけたらどうしてもしたいことがあって、それは宝玉さえ見つかれば、すぐなんだって」

「したいことって?」

「……。それは見つけてからの話しだ」

 ハクは宝玉を見つけて、あの龍と会いたい。

だけど、その龍が化けている荒木さん自身は、ハクに会いたくないし早く帰ってほしい。

宝玉は……見つけない方がいいのかな?

「見つけたら、すぐに帰るんだって。そうなんでしょ」

「あぁ、すぐに帰るさ」

 ハクは真っ白な体を少し動かして、とぐろをまき直す。

これ以上話す気はないらしい。

俺にしたって、どうしていいのか分からないし、深入りも関わる気もないから、距離を取ろうと思う。

「悪いが邪魔するぞ」

 荒木さんだ。

全員の体がビクリと震える。

「なんだ、まだお祓いを済ませてないのか。さっさと神社でもどこでも行って、終わらせろ」

 ギロリとハクを見下ろす。

本当に、このヒトも知っているんだ。

だけど白銀の龍は、もう決して姿を見せることはない。

それは確かなことなんだろう。

「お祓いとはなんだ! 私はそんなことでは姿は消さぬ!」

「お前のおかげで、うちの優秀なマネージャーが部活に集中出来ない。さっさと消えてくれ。そのために俺は協力したんだが?」

 ハクは負けじとにらみつけた。

だがその何倍も荒木さんの方が強い。

「つまみ出すぞ」

 ハクに伸びた荒木さんの手を、舞香は遮った。

「ちょっと待ってください。ハクをいじめないで! 演劇部のことはちゃんとやりますから、部長こそ邪魔しないでください」

「当然だ。それで、公会堂での練習予定日なんだが……」

 この状態のまま、めちゃくちゃ普通に事務連絡を始めてしまった。

ハクはその隣でガチガチとちっこい牙を打ち鳴らし、荒木さんに噛みつく素振りを見せてはいる。

だけどそもそも、届きもしないし本気で噛みつこうとも思ってない。

「……。ねぇ、それでいいの?」

「何がだ!」

「いや……」

 妹っていうことは、ハクは本当に女の子なんだな。

「ハクは荒木さんのこと、嫌い?」

 そう言うとハクは、じっと俺を見上げた。

「コイツは本当に私をつまみあげた上に、放り投げたんだぞ!」

「俺も一回は触ってみたいんだよね」

 手を伸ばす。

やっぱりガブリと噛みつかれた。

「痛いって」

「私に触れていいのは、舞香だけだ」

「ならばその舞香に、俺も触れてやろう」

 荒木さんの拳が彼女に伸びた。

こめかみの辺りをそれで挟み込むと、グリグリと動かす。

「ははは。どうだ。お前にはこんなことは出来まい」

「えぇ? 別にそんな……」

 うらやましいに決まってるじゃないか。くそっ。

「痛い。地味に痛いです部長」

「舞香に何をする!」

 チビ龍はその手に、ガブリと襲いかかる。

だがそれは噛みつかれる前に、パッとよけられた。

「はは、相変わらずとろいな」

 笑った! 

荒木さんは、俺が今まで見たことのないような顔で笑った。

「おいチビ。お前もさっさと帰れよ。お前みたいなのがここにいたって、いいことはないだろ。俺みたいな、悪い奴に捕まって売られる前に、さっさと帰れ」

「お前なんか嫌いだ! 宝玉さえ見つかれば、すぐに帰る!」

「じゃ、舞香。公会堂の件、しっかり頼んだぞ」

 荒木さんの姿が見えなくなるのを待って、ハクは舞香の胸に飛び込んだ。

彼女もハクをぎゅっと抱きしめる。

「ゴメンね、また意地悪されちゃって……」

「いいんだ舞香。奴の言うことに間違いはないのだから」

 ハクは彼女の腕の中で頭をもたげた。

「私だって、本当は早く天上に戻りたい。ここに来ているということが見つかっては、相当に不味いのだ。舞香に出来るだけ、迷惑はかけないようにする」

「うん。大丈夫だよ。一緒に見つけるって、決めたのは私だから」

「少し頭を冷やしてくる。何か見つかるかもしれないし……」

 ハクは空へと舞い上がった。

やがてその姿も小さく見えなくなる。

彼女は溜まっていた涙を拭った。

辺りはすっかり薄暗くなっている。

「ごめんね。圭吾も、もう帰るよね。結局邪魔しちゃった」

 あのヒトに乱された髪が、彼女の頬にかかっている。

直す指の先は、それをくるりと耳にかけた。

「荒木さんは、からかってるだけだと思う」

「それでも、気に掛けてくれていることは確かだから。実際手伝ってくれてるし」

 それはそうかもしれないけど……。

「圭吾は……、そんなつもりはないんでしょう? 関わりたくないんだったら、口を出さないでほしいな。ハクのこと、あんまり大勢の人に知られたくないし……」

 彼女の横顔が沈む。

きっと怒っているに違いない。

腹を立てているんだ。

ムカついてる。

イライラして、このままじゃきっと……。

「分かった。じゃあもう聞かない」

「うん。その方が、うれしい……。かも」

 沈む夕陽が、真っ赤に空を染めている。

俺はもう、ここから動けない。

「じゃあね」

 微笑んだ彼女が背を向けた。

このまま行かせてしまったら、きっともう会うこともない。

同じ学校、同じ校舎にいながら、すれ違っても話しかけることすらしなくなるんだ。

拳を握りしめる。

「……。モデルを、頼みたいんだ」

 俺はなにを言っているんだ! 

もう関わりたくないって、面倒くさいって、散々思ってたじゃないか!
 
これでもう希先輩や写真部の連中に、からかわれることもなくなるっていうのに! 

彼女は振り返った。

「も、もちろん、嫌なら断ってもらっても……全然、いいし。ほら、もう荒木さんにもやってもらってるから、演劇部としての義務は果たしてるワケだし……」

 そうだ、そうだった。

彼女がもう、俺に付き合う義理はない。

「……。無理にってことでも……、ないし……」

 なにやってんだ。

本気で挙動不審だ。

自分でも自分が気持ち悪すぎて、吐きそうだ。

「さ、さっき……、このベンチで撮った写真がよくて……。その、よかったら……」

 ヤバい。帰ろう。

どのみち俺には、縁のない出来事だった。

こんなこと、不思議な生き物も恋も冒険も、所詮俺には無関係なんだ。

似合わないしあり得ない。

もうちょっとで勘違いするところだった。

早く正気に戻ろう。

頭を冷やさないといけないのは、こっちの方だ。

「あ、ゴメン。やっぱ……」

「いいよ。だけど、私もお願いがあるの」

「お、お願い?」

「やっぱり、どうしても人手が足りないから、撮影を手伝ってほしいの。出来れば編集まで……」

 あぁ、やっぱり彼女にとっては、大事なのはそこなんだな。

「だ、だから、大会が終わってからだったら……いいよ。写真部のコンクールには、間に合うと思うから。……。ダメ?」

「分かった」

 胸の動悸が激しい。

言いたいこととか、言っておいた方がいいんだろうなーって思うこととかは、沢山あるけど、それが具体的な言葉になって出てこない。

それはどうやら、彼女も同じみたいだ。

「じゃあ、また今度……、ね」

「うん」

 心臓が止まりそう。

彼女の姿が見えなくなって、ようやく息を吐き出す。

全身からどっと汗が噴き出した。

「あぁ、とんでもねぇな……。俺……」

 今さら顔が赤くなる。

恥ずかしくて死にそうだ。

よくやるよ。

なんてことを口走ったんだ、自分。

よくオッケーしてくれたよな。

そうじゃなかったら、今度こそ本当に学校にこれなかったかも。

「……。命拾いした……」

 そうだ。

俺は彼女に対して、大変迷惑で申し訳ないことを言い出したんだ。

こんなこと、誰かに押しつけていいような感情じゃない。

彼女には迷惑をかけないよう、心して撮影に臨もう。

一人で帰る坂道に、固く誓った。



第11章


 放課後のチャイムが鳴って、一番に教室を飛び出す。

部室へ向かった。

彼女とほぼほぼ一ヶ月ぶりくらいにやりとりしたメッセージで、約束も取り付けた。

俺は写真部で一番新しい三脚を抱えると、貸し出しノートに名前を書き込む。

ホワイトボードの出欠表を「校内」に動かした。

「あ、圭吾。ちょっと聞いたんだけど……」

「すみません、急いでるんで!」

 希先輩の呼びかけだって、今日は無視だ。

なんだかもの凄く緊張している。

誰かと約束をして待ち合わせるのって、こんなにも気を使うものだったんだ。

体育館へ向かう。

公会堂での上演に備え、最終チェックを兼ねた、大がかりな予行演習を予定していた。

これが校内では最後の練習となるようで、俺が着いた時には、すでに沢山の人や道具であふれていた。

「結局、舞香にモデル頼みやがって」

 正式に手伝いを引き受けることになった俺は、部長である荒木さんへ挨拶に行く。

さっそくイヤミを言われた。

「上手いことやってんな。ま、応援すると言った事に、変わりはないから。頑張れ。色々な意味で」

「色々な意味でね」

「ま、こちらとしてもありがたい話しだし? さすがはうちの優秀なマネージャーだ。我が身を犠牲にしてでも、ちゃんと成果を取ってくる」

 ニヤリと笑った荒木さんの、その笑顔の方が恐ろしい。

我が身を犠牲ってさ……。

俺の立場はどうなってんの?

今日は体育館を貸し切ってしまっているから、舞台がちょうどよく撮せる、正面中央にビデオカメラをセッティングする。

「わー、ありがとう! 助かる~」

 舞香が駆け寄ってきた。

「とりあえず、全体を撮影するのはこのカメラでいいとして、後は舞台下での撮影だよね」

 役者の動きに合わせて、胸から上のアップも撮影出来るようにしたい。

より動画の視聴者が見やすく、分かりやすい編集が出来れば、その先のコンクールの映像審査でも、優位に働くだろう。

実際に上位常連校はどこも、ただ全体を撮影しているだけではなかった。

「もちろん舞台自身の、中身が一番重要だってことは分かってるんだけど、やれるだけのことはやっておきたいの」

「うん。その気持ちは分かるよ」

 だから俺だって、協力してるんだし……。

まぁ、後で自分のモデルも、個人的に頼んでるし?

「あ、舞香ちゃん。よろしくねー」

 山本がやってきた。

俺は彼女にくっついて撮影テクニックを教え、コイツはその補助をする。

「舞台右袖が舞香ちゃんの担当で、俺が左側ね」

 山本め、ニヤニヤしやがって。

お前の狙いは別の子だっただろ。

三人で台本を広げた。

ホンは読み込んで来た。

山本との、役割分担の打ち合わせも出来ている。

それを今日の実践で試してから、公会堂での撮影に挑むつもりだ。

山本は俺の耳元でささやいた。

「ようやく動いたか。それでも動けてよかったよ」

「何がだ」

 やっぱりニヤリとだけ笑った。

どいつもこいつも、俺をバカにしやがって。

「ね、舞台の全体を写すのって、こんな感じでいいのかな」

 彼女の操作するカメラに近寄る。

その画面をのぞき込んだ。

「こっちのカメラは、全景を撮る固定用だよね。だったらこれでいいと思う。ズームで撮る方のやつは?」

 彼女の細い指先が、撮影機器に触れる。

その触れた同じ部分のパネルを触れることにすら、戸惑いを覚える。

傾いてもいない三脚を立て直した。

さっき荒木さんにもイヤミ言われたばっかりだし、ちゃんとしないと。

合図があり演技が始まると、彼女はカメラを構え舞台を撮る。

通し稽古は明日もある予定だから、監督である荒木さんのストップが度々入った。

俺たちはその間に保存した動画を見せ合い、山本の動画と彼女の動画を比較する。

俺は山本なんかとは違って、真面目に仕事しに来てんだから。

「内村さんのはさ……」

 ふと俺は顔を上げた。

「お前、『内村さん』ってなんだよ。え? ずっと今まで、そんな呼び方してたか?」

 俺と話す時は、「舞香ちゃん」だったはずだ。

彼女も顔を上げる。

「なんで『内村さん』なんだよ」

「は? なんでって、お前……。なんだよ、もう……。俺は、そういうのちゃんと分けるタイプなの」

 なぜか山本の顔が赤くなる。

「山本くんはいつも、演劇部では『内村さん』って呼んでるよ」

 え? そうだったの? 

じゃあ俺もそうやって呼んでた方がよかった?

「それがお前のやり方か」

「なにがだよ!」

 他の女の子のこと、追っかけてたくせに……。

「じゃあこれからは、お互いに名前で呼び合えばいいってことだろ? 山本は『智明』な」

「それはダメ」

「なんで」

 俺は真顔になった山本を見た。

「俺は名前呼びは、彼女しか許さない主義なの。じゃ、内村さん、続きね」

 なんだよコイツ! 

山本は彼女とカメラを挟んで、普通に話している。

俺は真っ赤な顔をしていた。

なんでこんなことで、俺が照れなきゃならないんだ。

山本が笑って、彼女も微笑んで、俺は時々相づちを打って、思ったことを言う。

いつの間にか舞台では演技が始まっていた。

「あ、行こっか」

 カメラを持った彼女は走り出した。

俺はすぐにその後を追いかける。

肩までの髪が目の前で揺れ、シャンプーの匂いがわずかに漂う。

張り付いた舞台下で、役者に向かって構えたレンズの、その映し出す画面を見るフリをしながら、ずっと彼女の横顔を見ていた。

彼女はしゃべり始めた主役を撮ることに夢中で、レンズの位置がおかしくなっていることに気づかない。

声を出してしまったら、それが録音されてしまうから、俺はカメラを持つ彼女の細い手に触れないよう、そっとその角度を変えた。

目線だけで彼女は見上げる。

「うん」とだけうなずいて、俺は画面を指さした。

すぐに彼女も気づいて、小さくうなずく。

再び撮影に集中する彼女の横で、俺は満足していた。

床につく手が痛いとか、ずっとしゃがんで動き回っている膝がおかしいとか、そんなことすらどうだっていい。

体育館での、1日目の撮影が終わった。

「この後どうする?」

「ゴメン、私はミーティングがあるから……」

「俺たちも出た方がいいのかな」

「あ、それは大丈夫だと思う。何か連絡があったら、私からするし」

「そっか」

「ね、夜にオンラインで、いま撮った動画見ながら話し出来る?」

「あぁ、いいよ」

「じゃまた後で! メッセ入れるね」

 手を振ると、彼女は演劇部員のところへ駆け戻ってしまった。

そっか。そうだよね。

うん、そうだ。

俺たちは写真部だからな。

「じゃ、帰るか。部室寄ってく?」

「俺は川ちゃんのところへ行ってくる」

「川ちゃん?」

「1年の川崎さん」

 演劇部員が集まっている集団の方を指さす。

そのどこに『川崎さん』とやらがいるのか分からなかったが、もうそんなことはどうだっていい。

山本は嫌らしいほど細めた目で、俺を見た。

「夜のオンライン会議は、俺は欠席してやるよ。見たいテレビがあったからとでも、言っておいてくれ」

「どういうこと?」

「二人っきりにしてやる」

 なにが二人きりだ。

自分が面倒くさくて、やりたくないだけだろ。

「余計なお世話だ」

「俺は川崎さんだからな」

「勝手にしろ」

 俺は三脚を担ぐと、舞台に背を向けた。

山本は何のために、ここへ来て手伝ってんだか。

俺には不純な動機なんてないし、純粋に頼まれたからやってやってるだけだ。

本当は一刻も早く、コンクール用の作品を撮らないといけないってのに……。

 体育館から校舎の渡り廊下へ出る。

何かが通り過ぎたような気がした。

「ハク?」

 半透明のチビ龍を探して、周囲に目をこらしても、どこにもその姿は見当たらない。

「気のせいか……」

 そもそもそんなものが、しょっちゅう見えられても困る。

あんな、非現実的で厄介なもの……、面倒臭いだけだ。

そう。

俺の時間は俺だけのもので、他に使われることなんて許されない。

 夜になった。

約束の時間までに、ご飯と風呂を済ませておく。

自分の部屋に閉じこもると、パソコンの電源を入れた。

オンラインの入室制限部屋って、どうやって作るんだったっけ? 

さすがにあんまりやったことないから、試行錯誤でURLを取得する。

それを舞香へ送ってから、ほっと一息ついた。

ペットボトルから一口、桃の炭酸水を飲む。

少し早かったかな? 

すぐに既読がつかないことに、こんなにも気分が落ち着かない。

 余りにも早い時間から、一人でオンライン部屋にいるのも恥ずかしくて、だけど待たせるのも申し訳ないような気がして、リマインダーを設定して約束の時間の1分前には、自動で接続するようにした。

スマホをのぞき込む。

いや、あんまり焦って連絡してもしょうがないし、いや、もしかしたら接続方法が分からなくて困ってるかもしれないし……。

でも、もしそうなら、連絡くらいあるかなーとか、向こうのPCスペックいけてんのかなーとか、色々考えているうちに、URLを送ったメッセージに既読がついた。

なんだかんだで開きっぱなしにしていたパソコン画面に、突然彼女の姿が現れる。

「うわぁっ!」

「え、なに? ゴメン。待った?」

「う、ううん。ずっと画面開きっぱなしにしてただけだから……」

 私服……なんだろうけど、明らかにラフな部屋着姿に緊張感が高まる。

「えっとさ、動画そっちであげてもらえたんだよね。あと、そのやり方もよく分かんないから、教えてもらっていい?」

「うん。いいよ」

 少し前屈みになる度に、のぞきそうな胸元に目をそらす。

背景に写る彼女の部屋の様子が、そのまんまの素であり過ぎるのが、余計に辛い。

今度背景画像の貼り付け方を教えようか。

いや、そんなことしない方が俺的にも……。

「あ、ちょっと待って。パソコンの角度変えるね」

 画面に腕が伸びる。

二の腕の裏側と半袖の袖口からのぞく脇に、俺は天上を仰いだ。

部屋にいるのは自分一人だけだけど、彼女との会話を誰にも聞かれたくなくて、イヤホンをつける。

「ハク。ゴメン、ちょっと待って。邪魔だから見えない」

 画面の彼女は一人でしゃべり出す。

なんだ、ハクもいるのか。

当たり前か。

俺にはその姿は見えていないけど。

「ううん、そうじゃないよ。部活のこと。あ、うん。それは……」

 彼女の横顔がわずかにうつむいた。

「それは、後で話せたら話してみるね」

 画面が切り替わる。

全画面表示で体育館の舞台動画が流れた。

俺はそれを縮小させたけど、彼女はもう自分の画面を閉じてしまっていた。

彼女の映っていた画面スペースには、黒地に『参加中』という無機質な文字だけが浮かぶ。

「ね、手ぶれ機能って、どこまできくの?」

 真っ黒な『参加中』の文字から、彼女の声が聞こえる。

「そこそこ。よっぽど転んだりしない限りは、結構平気」

「そっか。そうだよね。あ、ココ、圭吾に直されたとこだ」

 彼女が俺の名を呼ぶ。

わずかに画面が揺れる。

だけど、それと知っていなければ気にならないくらいのレベルだ。

「あぁ、確かに。画面が中途半端に傾いてる。そういうの、気をつけてないとダメだね」

 自分の画面も閉じてしまえば、舞台映像だけにしてしまえば、そんなことはもう気にならないかもしれないのに、それでも彼女には、もしかしたら自分のこの画像が届いているのかもしれないと思うと、彼女はいま、俺を見ているのかもしれないと思うと、それを自分からは閉じられない。

ほおづえすらつけずに、画面を眺めている。

彼女はとっくに、俺の映る画面を閉じてるのかもしれないけど……。

「ねぇ、こういうのってさぁ、どっかでチェックして合図送ることとか出来ないのかな」

「あるかもしれないけど、自分で気をつけて撮ることを意識してた方が、いいと思うよ」

「あ、そうか」

「あとで編集の時に加工もできるし」

「そっか! 圭吾、さすがだね」

「舞香も、もう出来るでしょ」

「めっちゃ時間かかるけどねー」

 何気ない会話に何気ないやりとり。

そう、これが俺の望む正しい日常だ。

「だけどコレ、体育館で撮影するのと、本番の公会堂でやるのとは、随分雰囲気違うよね」

「だろうね、三脚置ける位置とかも違うだろうし。舞台下で撮影するのとか、許可ってもらった?」

 俺は真っ黒な画面に浮かぶ、『参加中』の文字に向かって話しかける。

この向こうには間違いなく彼女がいるのに、姿だけが見えない。

「そっか。それも確認しとかないとね」

 動画編集と撮影方法の打ち合わせ。

それに合わせた台本のチェック。

それら全てが終わったころには、すっかり遅い時間になっていた。

「あぁ、もう寝ないと。明日は圭吾、来なくてもいいよ。学校も休みだし。山本くんにはこっちから伝えておいたから」

「……。え? だって、大丈夫なの? 困ってるんじゃないの?」

 真っ暗な画面のままの彼女は言う。

いまの俺には、これでしかつながれないのに。

「今日ね、部長に怒られちゃった。自分の写真展の方の撮影もあるんでしょ? いつまで迷惑かけてんだって。大会前にはモデルの撮影、終わらせておくべきだったって。当日だって手伝わせちゃうわけだし……」

「いや。それは、いまは忙しいから。OKしたのは俺だし、実際コンクールにも間に合うから……」

 パンッと、両方の手の平を打ち合わせるような、そんな音だけが聞こえた。

「ゴメン。大会が終わったら、すぐにモデルするから。それまで待ってて!」

「……。うん。分かった……」

「ゴメンね。付き合い長引かせちゃって。ありがとう。おかげでコツがつかめたよ。本番の動画編集は、できるだけ自分でやってみるね」

「頑張って」

「じゃ、おやすみ」

 プツリと通信は切れた。

突然静かになった画面に、耳のイヤホンを外す。

そっか、そうだよな。

俺は別に、関係ない人だもんね。

結局、ハクとの話しも出てこないままだ。

早く繋がりを切りたいのは、俺の方なのに。

明日はちゃんと、自分の撮影に集中しよう。

久しぶりの自分のための時間だ。

パソコンの電源を落とし、部屋の明かりを消す。

ベッドに転がり込んだ。

そうだ。

俺には他にすることが、沢山あるんだから。



第12章


 翌日は学校が休みにもかかわらず、俺は早起きをして制服に着替えた。

いつもの時間に家を出る。

休日の電車はいつもとは雰囲気が違って、バスに乗っても、いつもならあふれかえるほどいるはずの同じ制服が、数えるほどしかいない。

今日は俺は、ようやく出来た自分の時間を無駄にしないために、自分の写真を撮る。

それだけだ。

 部室に入り、三脚を持ち出す。

まずはお気に入りの、山から見下ろす街の風景を撮ろう。

通学路の坂道にかかる、森の木々もいいかも。

そこに虫か鳥でもいれば最高だ。

そうだ、池にも行こう。

あそこには大概アメンボがいるから、本当に助かる。

いつも来る猫は、今日もフェンスを抜けて来るかな……。

 校庭に出る。

体育館に背を向け、それは視界に入らないようにする。

扉は全て開放されているのに、なんの声も音も聞こえてこない。

そういえば、本番当日の動きはどうなっているのかな。

三脚を片手に、被写体を探してあちこちを歩き回る。

まぁいっか。

俺には関係なかった。

そういえば、いつもどこで何を撮ってたんだっけ。

 空には厚い雲がかかり、日差しはないが空の撮影は難しい。

撮っても灰色の画面にしかならないだろう。

虫たちはすっかり隠れてしまって、どこにも見つからない。

こんな天気の日は、影が出ないから、そのぶん人物撮影には最適なんだけど……。

原生林との境界線に張られているフェンスが、ここだけ植物の勢いに押されて、すっかり覆われてしまっている。

その目の前の藪が、ごそりと動いた。

次の瞬間、パッと小さな女の子が飛び出してくる。

濃紺の制服と真っ白な肌に、吸い込まれそうなほど黒く真っ直ぐな髪が、肩先で揺れている。

少女は俺を見上げた。

目が合う。

そのまま駆け出そうとする彼女を、俺は呼び止めた。

「ま、待て。お前、あのチビ龍か」

 首を左右に振る。

「え? 違うの?」

 どう見たってあの時、荒木さんと一緒にいた女の子だ。

彼女の足が動く。

「ハク! ハクちゃん?」

 そう呼ぶと、ようやく彼女はうなずいた。

「あ、あっそ。……チビじゃなくて、ハクなのね」

 怒っているのか不満なのか、よく分からない目でじっと見てくる。

やっぱ面倒臭い。

「どっから出てきたんだよ」

 指さした藪をかき分ける。

鋼の芯が入っているはずのフェンスが、わずかに突き破られていた。

「もしかして、お前がやったの?」

 それに返事はない。

黙ったままじっと立っているその姿は、小生意気なチビ龍そのものだ。

「こんなところで何をしている」

 振り返った。

いまが一番忙しいはずの荒木さんが立っている。

その荒木さんが手を伸ばすと、ハクはとことことかけより、その手をぎゅっと握りしめた。

「悪いな。こっちにはこっちの都合があるんだ。お前の邪魔をする気はない。そこで撮影を続けてくれ」

「待って。どこへ行くんですか」

 荒木さんはハクを見下ろす。

ハクはその小さな頭を横に振った。

「急いでるんだ。また後にしてくれ」

「記憶! 記憶は?」

「記憶? なんだそれ。俺はいつだって気は確かだが?」

「だって……」

 ハクの俺をじっと見つめる視線に気づいて、グッと言葉を飲み込む。

「悪いな、行くぞ」

 歩き出す二人の、その背中を見送った。

……いやいや、違う。違うだろ! 

俺は体育館へ走った。

何が自分の記憶を消す、だ。

もしかして、ハクはもう気づいてる? 

荒木さんにとって、演劇部の大会より大事な用って、なんだ? 

部活より、ハクにバレないことの方が、大事なんじゃなかったのか? 

見慣れた体育館は、いつもと変わらない。

重く垂れ下がる暗幕を引き剥がした。

真っ暗な体育館の中にいた生徒たちが、一斉に振り返る。

「あ……。すいません……」

 明かりを消した体育館では、舞台の上演中だった。

そこには山本と希先輩とみゆきと、他の写真部員たちもいて、驚いた舞香と目が合う。

完全に場違いな登場をした俺は、慌てて分厚いカーテンを閉めた。

やってしまったことに、震えている。

 俺が恐怖にも近いようなものに震えているのに、だけど声だけ漏れ聞こえるそれは、部外者の乱入を問題にすることもなく進んでゆく。

落ち着け、俺。

そんなことより、大事なことがあるだろ。

 わずかな隙間からのぞいてみようかとも思ったけど、暗い所へ差す光は、目立ちすぎる。

連絡を入れるにしても、山本も希先輩もみゆきも、舞香までこの中だ。

どうして自分は、今この瞬間、この中にいなかったんだろう。

え? 荒木さんは? 部長でしょ? 

いなくていいの? さっきのは別人? 

もしかして中に本物の方がいるとか? 

その場にうずくまる。

違う。

無駄にする時間なんてない。

そうだ。

自分のことをするんだ。

どうして山本が中に入っている? 

今日は来なくていいって、彼女から連絡が入ったんじゃないのか? 

なんで希先輩まで? 

全員、無関係じゃなかったのかよ。

「あぁ、無関係なのは、俺だけだったってことか……」

 拒否したのは、遠ざけていたのは、立ち入らないと決めたのは、この俺自身だ。

「ハクは?」

 荒木さんの秘密を知っているのは、俺だけのはずだ。

その確認をしたかったのに、結局それも出来ていない。

「圭吾」

 目の前の暗幕が揺れた。

わずかな隙間が開いて、顔をだしたのは、舞香だった。

「もう入っていいよ。見に来てくれたの?」

「ご、ゴメン。邪魔したみたいで……。あ、荒木さんは?」

「部長に用事? 今日は元々、どうしても抜けられない用事があるからって、休みだったの」

「それは、あ、あの……ハク関連?」

 彼女はただじっと俺を見下ろした。

「どうして?」

「さっき、会ったから……」

 彼女は暗幕を広げた。どうやら幕間休憩らしい。

「それは……。公会堂の搬入手続き」

「そっか……。そりゃ大事だよね……」

 やっぱり俺は、ここには入れない。

さっさと視界から消えようと、立ち上がり背を向けた。

「ねぇ、よかったら見て行って」

 体育館の中央では、俺ではない別の誰かがカメラの調整をしていて、舞台下でも、演劇部員が撮影をしているようだった。

もう俺の居場所は、ここにはない。

希先輩や山本にはそこにいる理由があっても、俺にはない。

「えっと、三脚を外に置きっぱなしにしてて……。なくしたり壊れたりすると問題になるから……」

「そっか。じゃあしょうがないね」

 彼女の手が暗幕にかかる。

上演が再会されれば、本当にもう、俺はここには入れない。

「また必要なときに、連絡するね」

「ちょ……待って! すぐ取ってくるから! 急いで戻ってくる!」

「えぇ? ……あぁ、うん。じゃあ、待ってるね」

 彼女の返事に、猛然と走り始めた。

こんなにも必死で走るのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。

ポツリと芝生の上に立っていた三脚は、さっきまでの俺みたいだ。

それをつかみ取ると、再び体育館に駆け戻る。

俺を迎え入れたところで、暗幕は閉じられた。

舞台が再開される。

何度も台本で読んだ、知り尽くした内容だ。

薄暗く冷たい床の上で、彼女は微笑む。

「よかった。来てくれて」

「他の写真部の連中も、来てたんだ」

「うん。いいよって言ったんだけど、なんだかんだで、集まってくれて……」

 彼女の顔がうつむく。

「嫌われてるのかと思ってた」

 あぁ、そうだ。そうだった。

来なくてもいいって言われたからって、それを真に受けてちゃいけないんだった。

そんなこと、すっかり忘れてた……。

 いまどんな顔をしているのか、自分でも説明出来ない。

この場所が暗くて、本当によかった。

山本やみゆきがいたら笑われそうで、希先輩がみたら呆れられそうで、荒木さんなら……、変わらず、無視するかもな。

じっと前を向いたまま動かなくていいことに、心から救われる。

隣に座っていた彼女が、わずかに体を傾けた。

前を向いたままの、そのままで動かない横顔をこっそりとのぞき込む。

「!」

 ね、寝てる? 

回りが暗いから、はっきりとは見ることが出来なくて、なんで今が今のこの状況なんだろうと思う。

なんだよ。

こんな動けないタイミングで、なんでこんなんなんだよ。

よくも見れないし、反応のしようがないじゃないか。

もうちょっと考えてほしいよね、そういうとこ。……。

疲れたんだよね。

動画編集の練習、頑張ったんだ。

磁石に吸い寄せられるように、それは絶対的な不可抗力で、俺も彼女の方へ体を傾けた。




第13章


 学校での最後の練習公演も無事に終わって、舞台に設置された大道具や背景などの搬送が始まる。

演劇部員たちに混じって、俺もそれを手伝った。

トラックを見送ったところで、ようやく解散となる。

荒木さんもいないから、ミーティングも早い。

すっかり日の落ちた坂道を下ってゆく。

彼女と並んで歩くのも久しぶりだ。

「いよいよ、明日だね」

「うん。なんか緊張する」

「俺も」

 夜風がすぐ真横にある前髪を揺らす。

俺だって緊張している。

違うだろ。

本当に話したいことは、コレじゃない。

「もう準備は万全?」

「何度もチェックしたから、多分大丈夫」

「はは、こういうのって、いくらチェックしてても、絶対に当日忘れ物に気づくってやつだよね」

「ちょ、そんなこと言わないでよ」

 いつまでも、避けるワケにはいかない。

大きく息を吸い込んで、そのまま吐き出す。

「荒木さんと……、ハクに会った」

「ハクと?」

「ハクが人間の女の子になってて……。荒木さんと手をつないで、どっか行ってた」

「はは。荒木さん優しいな」

 そう言って笑った彼女の横顔に、外灯の明かりがさす。

「やっぱり気になるんだ」

「だれが?」

「荒木さん」

「なにそれ。うちの部長、確かにモテるけど、それは本性を知らない部外者だからだと思うよ」

「そうなの?」

「中身知ったら、そんなの吹き飛ぶから」

「……。どんなふうに?」

「そのうち分かるよ」

 上目遣いでにらみつける彼女に、思わず吹き出す。

笑い始めたら止まらなくて、気づけば彼女も一緒に笑っていた。

「怖いんだ」

「もうね、威圧的なの。異次元レベルで。自分超大好きで、他には全く興味ナシってかんじ」

「なんか分かる」

「だけど、目立つのは嫌いなんだよね。それが不思議。今回も主役じゃないし、演者でもないんだよ。監督なのにインタビュー記事とかまで、全部違う人に任せちゃってるし」

 体育館の時とは違う暗がりの中で、やっぱり彼女の横顔は真っ直ぐに前を向いていた。

「だけど、好きなんだ」

「しつこい」

 彼女のグーパンチが俺の腕に触れた。

もうちょっと強く叩いてくれないと、リアクションもしずらいんだけど……。

「そんなこと言われて、困ってたのは圭吾の方だったのに」

「なにが?」

「私とのこと」

「あぁ、それは別に……」

 いや、だからそうじゃなくって……。

「えっと、ハクの話しに戻そうか」

「うん。そうだね」

 ハッキリ言われる。

なんだか余計にしゃべり辛くなった。

終点のコンビニの灯りが、いつも以上に眩しい。

この坂、いつの間にこんなに短くなった?

「荒木さんは、どこまで知ってるの?」

「ほぼ全部。ハクが宝玉探すのを、何だかんだで手伝ってくれてる」

「進み具合は?」

「うん、全く。神社にご神体として奉納されてた宝玉は、その後地元武士の家宝にされてて、この辺りの土地をもらう代わりに、それを城の殿様に差し出したってところまでは分かった」

 宝玉と土地の交換か。

人間ってやっぱりニンゲンだな。

「宝玉って、ニンゲンに御利益はないの?」

「人に使えるものではないらしい」

「あぁ、そういうことね」

 ただ綺麗なだけで無価値な石なら、そりゃ土地の方がいいよな。

「で、その後は?」

「写真が残ってた」

「マジで?」

 スマホを取り出す。

彼女の見せてくれた画像は、古い紙の資料を撮影したものだった。

古びた木製の棚に張ったガラスが、フラッシュで反射している。

厚みのある小さな座布団に鎮座したそれは、俺の握りこぶしより少し大きくしたくらいのサイズだ。

見た目は虹色の光りを放つ透明な石で、よくある占い師の水晶玉のようだった。

「何かの雑誌に載ってたやつの、写真の写真?」

「そう。『昔の資料集に、こういう写真が載ってました』ってやつを写した写真」

「いつの資料?」

「戦前だって」

「わーお」

 随分と近づいたけど、まだ遠いな。

「……。戦争で失われた?」

「その可能性はないって、ハクが言ってた。そう簡単に壊されるものじゃないからって」

 資料の資料画像によると、戦前に建てられていたお城の、歴史資料館に飾られていたらしいけど、その資料館自身は、戦火によりお城と共に消失してしまったらしい。

「じゃあその後の行方は……」

「謎のまま。焼け跡に残ってるか、持ち出されてしまったのか……。もし、持ち出されたのなら、もうどこへ行ったのか分からないよね」

「全国の水晶玉を検索する?」

「売買サイトに上がらない個人所有のは、探しようがないって部長が……」

 ここまでか。

「で、荒木さんはハクを連れて、どこへ行ったの?」

「お城の焼け跡に行ってみるって。ほら、今は大きな公園になってるから」

「そっか」

 遠足でよく行く、地元では定番の公園だ。

だだっ広い芝生が広がっているだけで、特に何かがあるわけでもない。

「待って。じゃあもし見つかったら……」

「ハクと荒木さんが、第一発見者になるよね。私はほら、部活のことで忙しいから……」

 じゃあ、あの白銀の龍との約束は? 

いくら自分の記憶を封印して消し去ってるからって、いくらなんでも消しすぎだろ。

二人で一緒に見つけてどうする!

「ちょっ、それじゃ……」

 荒木さんを止めないと。

駆け出そうとして、ここがコンビニ前のバス停だったと気づく。

もう遅い。

「どうしたの?」

「あ……、荒木さん、ハクとか宝玉を、ネットに晒したりしないかな?」

 我ながら酷い言い訳だと思う。

そんなこと、するヒトじゃないって……。

「そんな焦らなくても、見つかってないんじゃないのかな。荒木さんからなんの連絡もないし」

「てゆうか、荒木さんは公会堂の搬入手続きとその手伝いのために先回りしたの? それとも宝玉探し? どっちがメイン?」

「さぁ……。きっとあの人のことだから、部活の方がメインだと思うよ」

 なんかもう、どこまで本気で、どこまで真面目なのかが分からない。

荒木さんも舞香も……。

俺はため息をついた。

「まぁ、そんな急いでるわけでもないのかもな。ハクも」

「うん。きっとそうなんだよ」

 彼女がうつむく。

その姿に、俺はふと我に返った。

「あ、バスの時間!」

「本当だ! じゃ、また明日ね」

 手を振ってかけ出す彼女に、同じように手を振る。

なんだかな。

これで本当によかったのかな。

そんな疑問が頭から離れない。

今日もバスは遅れてやって来る。

それに乗り込んで家路についた。



第14章


 翌日の天気は晴れ。

演劇部員は朝の7時に公会堂へ集合だったみたいだけど、俺たち写真部は8時に会場へ入った。

「リハーサルがあと10分で始まるから、よろしくな」

 当然だけど、今日は荒木さんがいる。

「私は他の準備があるから、ちょっと撮影準備の方、お願いしてていい?」

「もちろん」

 会場後方、中央部分にある機材ブースに入る。

カメラの電源を入れ、充電量を確認した。

空き容量も大丈夫だ。

舞台の幅に合わせて、映像の映り具合を調整する。

話し合った末、本番は舞香が中央全景カメラにはりつき、俺と山本が舞台下から撮影することになっていた。

 リハーサルが始まった。

細かい操作や設定、注意点を再確認する。

一緒に準備してきたんだから、そこは安心している。

開場時間を迎えた。

「圭吾。ちょっといいか」

 荒木さんに呼ばれた。

明るい客席に、誰かと手をつないで、会場通路を下りてくる。

「この子を頼む。どうしても上演が見たいって聞かないんだ」

「え?」

 ハクだ。

また小さな女の子の格好をしている。

「いいんですか?」

「あらぁ! ハクちゃん本当に来たんだ。いいよ。私が一緒に見てあげる」

 希先輩が手を伸ばした。

自分の目の前に差し出されたその手を、ハクはじっと見つめているだけで、動こうとはしない。

「なによ。やっぱり私のコト嫌いなワケ?」

「かわいーですね。妹さんですか?」

 何も知らない山本は、かっちりとした濃紺の制服を着込むハクを見下ろした。

ハクは山本を見上げたまま、つないでいた荒木さんの手をぎゅっと握り返す。

「人見知りでね。実はロクに話しも出来ないんだ」

「そうなんだ。荒木さんも大変ですね。さすがに舞台袖はちょっと無理だけど、客席なら……」

 そのハクの手が荒木さんを離れ、俺の手を掴んだ。

「はは。やっぱ圭吾がいいってさ。よろしく頼むよ」

 なんだそれ。

つーかそんな目でにらみ上げられても、俺は面倒見切れないぞ。

「大丈夫よ、私もついてるからー」

 希先輩の手が、俺の肩にのった。

全身がビクリとなったのを、ハクはフンと鼻で笑う。

いや、だから……困るって……。

 舞台下で撮影をしなければならない俺たちの席は、最前列の一番隅っこに用意されていた。

俺の補助として希先輩がつき、山本の方にはみゆきがいる。

ハクは冷ややかな目で俺と希先輩を順番に見上げたあと、俺の席だったはずのところに、ちょこんと腰をかけた。

仕方なく希先輩がその隣に座る。

「なんで来たんだよ」

 周囲に聞かれないよう、ハクにそうささやく。

ハクはこちらをチラリと見ただけで、返事はしない。

「この子、私に対しても無愛想なのよねー」

「最初めちゃくちゃ懐いてたじゃないですか。俺は未だに全然なのに」

「最初だけだったの!」

 何があったんだろう。

プリプリ怒ってる希先輩と、すました顔で前を向くハクを見比べる。

「ハク、世話になる人の言うことくらい、聞けよ」

 そう言ったら、ガツンと一発、足を蹴られた。

くっそ。

子どもの格好してるからって、ナメやがって。

「屋内では、帽子は取ろう」

 腹いせに帽子を持ち上げたら、あごひもがびよーんと伸びた。

それは素直に自分で外して、膝に乗せる。

舞台が始まった。

 何度も見たことのある、同じ動き同じセリフが、何一つ変わらないまま台本通りに進んでゆく。

ハクは練習していたのを、見てはいなかったのかな? 

他の生徒たちに見つかるのを恐れて、それも出来なかった? 

一人隅っこに座る、小さな女の子をそっと眺めた。

ハクを人間の女の子の年齢に例えたら、このくらいの年頃になるんだろうかと思うと、ちょっと複雑な気持ちになる。

希先輩はウトウトと寝てしまっていた。

何てことのない現代劇だ。

舞台は高校で、ちょっとしたミステリーを織り混ぜた青春モノ。

 ハクは人形のように、真っ直ぐ前を向いたまま、まばたきもしないでじっと見上げている。

天上に住む龍が、こんな人間のベタな物語に共感なんて出来るのかな。

俺にはそっちの方が不思議だ。

幕間にトイレは大丈夫かと、座り続ける彼女に聞いたけど、「うん」とうなずいただけでやっぱり置物のように動かない。

「面白い?」

 そう尋ねても、返事はなかった。

希先輩はそのハクにあれこれと話しかけ、世話を焼こうとはしていたけれど、それにも全くのお構いなしだ。

無反応過ぎるハクに、ついに希先輩はさじを投げた。

「何考えてんの」

 俺がサラサラと黒すぎる髪に触れようとしたら、それは払いのけられた。

意識はあるらしい。

上演は再開され、俺はまた舞台下を撮影班として、ちょろちょろと動き回る。

芝居が終わって、大きな拍手が沸き起こり、ようやく息を吐き出した。

「おつかれ」

 山本とハイタッチ。

「片付け手伝いに行こう」

「圭吾はその子連れとけよ」

 山本と希先輩は、さっさと舞台袖に行ってしまった。

俺は明るくなった客席で、ハクの隣に腰を下ろす。

「どうする?」

 無言のまま、彼女は俺の手を握った。

そりゃ舞台袖に上がりたいのは分かるけど、こんな小さな子を連れて行くのはダメだよなぁ。

かといって、本当は幼くないコイツの扱いを、どうしていいのかも分かんないけど……。

目が合った。

ハクは俺の手を引いて、撤収作業の始まる舞台下まで近寄る。

「えっと、ここまでにしとこうね」

 慣れない口調とちぐはぐな会話に、ドッと汗をかく。

その場に立ち止まると、彼女はじっと何かを目で追いかけている。

何を見ているんだろう。

顔を上げると、舞香と目が合った。

「圭吾。先に帰っててよかったのに。あぁ、ハクを任されちゃったのか」

 ハクは壇上の彼女に向かって、小さな白い手を振った。

「うん。一緒に帰ろう。待っててね」

 以心伝心? 俺には何も聞こえないのに……。

ハクは何かを言いたげに俺を見上げたけど、そんな目で見られても俺には分かんないよ。

 撤収作業が終わって、公会堂の外に出る。辺りの日はすっかり落ちていた。

演劇部員の最後のミーティングが終わると、いつの間にか用意されていた花束が、演劇部員全員に手渡される。

感動の一幕ってやつだ。

みんなは拍手と笑顔でその輪の中に入っていたけど、俺とハクは手をつないだまま、離れたところでその様子を見ていた。

ハクはまばたきもしないで、じっとその様子を見ている。

その中心にはやっぱり荒木さんがいて、やがてそれも解散となった。

「お待たせ」

 荒木さんがこちらに向かって来る。

何かと思ったら、いきなりハクを抱き上げた。

「いい子にしてたか」

 笑った! 

ずっと能面のように固かったハクの顔が、うれしそうに笑った。

荒木さんもハクのその表情に、目を細める。

抱き上げたハクの頬に自分の頬を寄せた。

「圭吾に意地悪されなかったか」

 ハクは荒木さんの頭にぎゅっと抱きつくと、その髪に顔を埋める。

声を出さず笑う彼女の姿に、俺は正直、面食らっている。

「もーね。荒木くん、ハクにベタベタのあまあま」

 荒木さんに抱かれたまま、ハクは自分で乱したその人の髪を、ちょろちょろと小さな手で直し始めた。

「はぁー。ハクはいい子だね。ありがとう。このまま抱っこしてる?」

 なぁ、兄妹だってのは、内緒にするんじゃなかったのか? 

いいのか、そんなんで? 

コレ絶対バレてるだろ。

他の部員たちはすでに姿を消していて、残っているのは俺と荒木さんと舞香、希先輩だけ。

「俺には妹がいたんだ」

 ふいに荒木さんは言った。

夕焼けの落ちてゆく日の光りが、その二人を包む。

「歳の離れた妹で、ちょうどこれくらいの年頃の時に病気で亡くして……。そっくりなんだ。だからどうしても、ほっとけない」

 ハクを見上げる目は、ここではないどこかを見ていた。

ハクもその彼の腕に高く抱かれ、じっと見下ろしている。

「にしたって、デレ過ぎない?」

 希先輩にそう言われ、ハクは再びぎゅっとしがみつく。

荒木さんの首にしがみついたまま、希先輩を見下ろした。

「黙れ。お前になど用はない」

「ちょっと! 本当の姿に戻りなさいよ。デレるのは妹キャラの時だけで、本当の姿にはこの人、全然興味ないんだから!」

「ハクちゃ~ん。そろそろ一緒におうち帰ろぉ」

 そう言った舞香の声は、泣きそうだ。

その涙の訴えに、ハクは荒木さんの腕の中で、ポンッと本当の姿であるチビ龍に戻る。

「ハクちゃん!」

 龍の姿に戻ったハクの首根っこを、ガシッとつまんだ荒木さんは、そのままグイと舞香に押しつけた。

今度は舞香が、チビ龍のハクを抱きしめる。

荒木さんはあっさりと二人に背を向けた。

「じゃ、お疲れ。ゆっくり休めよ」

「ちょ、待ってよ!」 

 希先輩は、すぐに荒木さんの背中を追いかける。

振り返ることもなく行ってしまった彼の腕に、自分の腕を絡めた。

「ねぇ、話しがあるんだけど……」

 希先輩は荒木さんの腕に絡みついたまま、気遣いも見せない彼を見上げる。

希先輩の横顔は沈む最後の夕陽に照らされ、浮きあがっていた。

あっという間に俺たちは、この場にとり残されてしまう。

街路樹と交互に並んだ外灯に、明かりが灯った。

「荒木さん、龍のハクには興味ないんだ」

「うん。人間に化けてないと、見向きもしない」

「同じものなのにな」

 舞香の腕の中の、ハクを見つめる。

彼女は何も言わなかった。

「か、帰ろっか。もう遅いし」

 俺には半透明に透けて見えるハクが、舞香の腕からふわりと飛び上がった。

「私は少し、様子を見てくる」

「……。ハクはやっぱり、荒木さんと希先輩が気になる?」

「宝玉が眠っているのかもしれないのだろう? もう少し、この公園付近を回ってくる」

 舞香の質問には答えず、ハクは一匹で出かけてしまった。

俺と舞香は、すっかり日の落ちた公会堂を後にする。

彼女と肩を並べて歩いた。

いつもの通学路とは違う道のりが、歩く二人の距離を縮めているような気がした。

「荒木さんね、妹さんのこと、すごく好きだったみたい」

 彼女はポツリと、そうつぶやいた。

「歳が離れてて……。ほら、荒木さん、自分以外に興味ない人だから。妹さんのことも、そんなに相手にはしてなかったみたいなんだけど……。病気が分かって、入院して、そのまま退院することもなく、あっという間に亡くなったんだって。荒木さんが小学生の時の話しらしいから、もう何年も経つんだけど……」

 それは、あのヒトの天上での過去と繋がっているのか、それとも現世で受ける罪の一部なのか……。

「いまも後悔が残っていて、その妹にそっくりなハクを見ると、どうしても我慢できなくなるんだって」

「……。俺さ、前に荒木さんが龍のハクを捕まえて、外に放り投げてるの見ちゃった」

「そう! ツンデレっていうの? 人間の女の子の時と、龍の時との差が激しいの……」

 彼女の目に涙が浮かんだ。

「私のハクちゃんなのに……」

「えぇ? わ、私のって、宝玉見つけて天に返すんでしょ?」

 彼女の顔は、パッと俺を見上げた。

たっぷりと涙を含んだ目が震えている。

「どうしよう……。私、ハクと離れたくない。離れたくないの。本当は宝玉なんて、見つかってほしくない!」

「だ、だってそれじゃあ……」

「ハクとずっと一緒にいたい。私が死ぬまででいいから、天になんて帰らないでいい。そばにいてほしいの!」

 ドンッと俺の胸にすがりつく。

いや、ここ人通りの多い繁華街なんですけど? 

バシッと咄嗟に両手を挙げ、俺はバンザイ維持状態に突入!

「ちょ、ちょっと待って……」

「私、別れたくない!」

 いやいやいやいやいや! 

周囲の視線が痛い。

俺は彼女の肩を引き離した。

「どういうこと? もしかして、ハクの邪魔してんの?」

「じゃ……ま、は、してない。ただ、一緒にいたいだけ」

「好きなんだ」

 彼女の目に涙が浮かぶ。

「ペットって言ったら、ハクは怒るかもしれないけど、私にとってはもう、大切な家族みたいな存在なの。ずっと一緒にいたい。ハクはそうじゃないかもしれないけど、私は……」

 鼻水をズズッとすする。

強く固い決意に満ちた目で、彼女は俺を見上げた。

「ハクを天には帰さない。宝玉は見つけない。ハクの寿命が長いのなら、私の一生なんて一瞬のはずでしょ? だったら私が死ぬまで、絶対一緒にいてもらうから!」

 彼女の体が離れる。

ふらふらと歩き出した。

人通りの中でくるりと振り返ると、ビシッと俺を指さす。

「絶対に別れないから!」

「あぁ……」

 頭が痛い。

だからココ、人通りの多い繁華街なんですけど……。

街を行き交う人々の視線が辛い。

色んな意味で。

盛大なため息をつく。

やっぱり関わるんじゃなかった。



第15章


 ハクは1,200年前に天から地上に落としたという、宝玉を探しに来ている。

見つけ次第帰るというが、本心は他にある。

ハク自身は誰にもバレていないつもりだろうけど、俺だけは知っている。

白銀の龍を見つけ出すこと。

宝玉が見つかれば、白銀の龍もすぐに探し出せるらしい。

ハクの真の目的は、この白銀の龍に一目会うことだ。

 その白銀の龍は何の罪だか知らないが、罰を受け地上に降ろされている。

刑期は5,000年で、まだまだ終わらない。

現在は演劇部部長の荒木さんとして存在しているが、荒木さん自身に天上での記憶はない。

彼は龍のハクには興味はないが、女の子に化けている時だけは溺愛する。

宝玉探しには協力的。

だけど本当のあのヒト自身である白銀の龍は、自分を探しに来たハクと顔を合わせることなく、正体も見破られることなく、天に帰ってほしいと思っている。

 舞香はハクとずっと一緒にいたいから、宝玉なんて見つかってほしくなくて、希先輩は……。

きっと荒木さんが関わっているから、そこにいるだけなんだろうな。

あと、ハクのことがバレているのは、山本か。

 知らなければよかったんだ。

きっと。

そうだったら俺は、こんなに悩むこともなかったし、考えることもなかっただろう。

平和な日々を送り、いつものように学校へ行きご飯を食べ、眠っていた。

だったら忘れてしまえばいいじゃないか、もうキッチリ関係を断つと決めたら、それでいいじゃないか。

少なくとも彼女は……、舞香は、それでいいと思っている。

俺にしたって、面倒くさいのは嫌だ。

根本的に関わりたくない。

てゆーか、俺みたいなのが関わったところで、なんかある?

 翌日の写真部部室には、舞香が来ていた。

撮影した本番の編集作業のためだ。

「ゴメンね。これが終わったら、ちゃんとモデルするから」

 正面で2台、舞台下からの撮影2台、計4台のカメラからの編集だ。

文字入れ等の必要がないとはいえ、台本と見比べながらの早送り鑑賞が続く。

 進んでは戻り、戻ってはまた進める。

台本で確認しながら、役者の見せ所では舞台下からの映像を使い、適宜全景と組み合わせながら編集していく。

彼女の作業を横目に見ながら、自分の現実もこうやって編集出来ればいいのにと、そんなことを思った。

「この場面、どっち使ったらいいと思う?」

「う~ん……。やっぱ左カメラかな」

「だよね。ありがと」

「俺も人生編集したいな」

 そう言うと、彼女は笑った。

「撮影より編集の方が大変だよ」

「そっか。じゃあ素直に撮られるだけにしとくか」

「うん。そっちだけの方が絶対楽しいし、楽だと思う」

 編集作業は進んでいく。

時々部室に誰かが入ってきては、また出て行った。

俺と彼女しかいない狭く薄暗い部室で、カチカチと動かすマウスの音が響く。

校庭から聞こえる声は、別世界からの音声のようで、パソコン画面の中で何度も何度も同じシーンの繰り返される、この変わらない芝居の方が俺たちには現実だった。

下校時間が近づく。

今日の作業はここまでだ。

「今日はハクは?」

「いつも一緒にいるわけじゃないの。自由気ままにあちこち行ってる。自分でもちゃんと探してるよ。ハクは」

 片付けをして、部室を出た。

山頂の学校からは、夕暮れの街が一望出来る。

通い飽きた坂道を並んで歩いた。

今日はいつもと同じように、彼女との距離は遠い。

「……。宝玉探し、手伝わなくていいんだ」

「だって、今は忙しいんだもん」

 だけど、それだとハクは困っているだろうなって、そんな言葉を飲み込む。

俺だって手伝っているわけじゃないし、手伝いたいとも思っていない。

 通学路は森の中なのに、山を下りれば市街地だ。

人の住む街の気配がする。

「昔ここは、全部こんな山だったのかな」

 通学路と原生林を分ける境界線のフェンスの向こうには、深い闇の森がある。

「ハク、空から落としたとき、地上の様子までは見てなかったんだって」

「なんでそんなことしたんだろ」

 荒木さんは……。

あの白銀の龍は、人には分からないからと、何も言わなかったけれど……。

午後の日に輝く、美しい姿を思い出す。

頭上の夕焼けに一番星が輝いた。

それはとてもとても小さくて、遠い星だ。

「悪いけど、私にはそんなこと、どうだっていい。初めてなの、こんな気持ち。だれかと一緒にいて、嫌じゃないっていうか、何でも話せるっていうか……」

 彼女の歩く足取りは、とてもとてもゆっくりで、今にも止まってしまいそう。

「ハクってね、何でも聞いてくれるのよ。私の話をいつでも聞いてくれて、いつも応援してくれるの。自分だって困ってるのにだよ? 『私は急がないから』って言ってくれて。優しいの。助けてって手を伸ばしたら、いつでもその手を握ってくれる。欲しかった言葉をくれる。側にいて、一緒に眠ってくれる。いつだって……」

 彼女の足が止まってしまった。

「ハクの寿命がとんでもなく長くて、私たち人間の一生は一瞬なんだったら、そんなの、ハクにとってはまばたきする間のようなものでしょ。それくらいの時間、付き合ってくれても悪くないんじゃない?」

「それをハクも望んでいるのなら……」

「ハクは私のこと、好きって言ってくれてる」

「だけど……」

 彼女は一歩前へ、パッと飛び出した。

スカートのすそを、くるりとひるがえす。

「圭吾はこんな話し、興味なかったよね。自分のことで忙しいんだし」

 微笑むその笑顔は、俺にも身に覚えのある顔だ。

「圭吾は絶対に邪魔したり、関わったりしてこないって思ったから、こんな話ししたの。知ったからって、無関心でいられる人でしょ? 関係ないし! 他人の領域も自分の領域も、ちゃんと守れる人だよね」

 彼女の見上げる黒い目と髪が、夜の闇と混じり合う。

「そういうところが好きだし、信用できる。私は圭吾の邪魔をしない。だから圭吾も、私の邪魔をしないでね。じゃ」

 坂道を駆け下りる、彼女の背を見送る。

そりゃ俺だって、関わりたくはないよ、今だって十分すぎるほど、面倒くさいと思ってるよ。

「……。俺は、そんな都合のいい奴じゃないんだけど……」 

 すっかり日の暮れた停留所で、いつも遅れてくるバスに乗り込む。

ようやくやって来たその中で、俺は揺られながらいつになくイライラしている。

巻き込むなって言ってんのに、巻き込んでるのはどっちだよ。

あぁ、そうか。

これ以上関わらなければいいんだ。

俺には最初っから、関係ないんだった。

 関わってほしくないとか、邪魔するなとかいうなら、わざわざ話しなんかするなっつーの。

なんなの? 

もしかして自分の話しを聞いてほしかっただけ? 

彼女の言う通りだ。

ちゃんと自分の境界線は守ろう。

 飯を食う。風呂に入る。寝る。

朝起きたら、ちゃんと着替えて学校に行く。

授業を受けて、部活行って、また家に帰る。

これ以上に、これ以外に、俺の関心も興味も引きつけるものは何もない。

それがこの世の全てで真理で、今の自分に出来る精一杯だ。

それで正解。

それが正解。

誰も何も文句のつけようのない正しい世界だ。

俺はどこも間違っていない。

平凡な日常こそ、なによりもかけがえなく大切で美しい。

 いつもの放課後がやってきた。

部室に入る。

彼女はもう来ていて、他の写真部員と一緒に、いつものように楽しく普通に過ごしている。

動画編集も3日目に入った。

それも今日で完成する。

これでお終い。

「色々お世話になりました」

「あら、まだ終わってないでしょ?」

 希先輩はニヤリと微笑む。

「次はうちの圭吾のために、頑張ってくれないと」

「あ、モデルですね。もちろんです」

 彼女は何でもないことのように、真っ直ぐに俺を見上げた。

「いつにする? 明日とかでもいいよ」

「できるだけ、早い方がありがたいんだけど……」

「そうだよね、急ぐもんね。しめきりもあるし」

 普通そうに見える彼女のどこに、ハクの影があるんだろう。

今は姿を消してるのか、ここにいないのか。

どうしてそんなに、彼女は……。

「じゃ、明日から?」

「今ちょっと、夕焼けと一緒に撮ってもいい?」

 一斉に冷やかしが入る。

舞香は恥ずかしそうにしているけど、本当はそんなことも、どうだっていいんだろ? 

三脚を担ぐと、俺は今年になって初めて彼女を見かけた池のほとりに、運んできたそれを立てた。

山頂を削って建てられた学校だ。

真っ赤に沈む夕陽の下に、市街地が広がる。

俺が好きなのは、こんな風景なんかじゃない。

「なんでこの場所?」

「俺がここが好きだから」

 場所を指定して、彼女を立たせる。

ふわりと風が吹いて、肩までの黒髪が揺れた。

それを押さえようとする姿に、シャッターを切る。

「大人しくていい子なんだと思ってた」

「誰が?」

 それには答えない。

レンズ越しに見る彼女が、夕焼けに広がる街並みに浮かび上がる。

「そうじゃなかった?」

「いや。そうだと思う」

「でしょ? 私は、圭吾も優しくていい人だと思ってるよ」

「だって、そういう風になるように努力してるもん」

 彼女は微笑んだ。

「うん。私も」

 髪を押さえながら、彼女はうつむく。

立ち位置が気に入らなかったのか、足元の芝生を軽く踏みならした。

横を向いたかと思うと、夕焼けに目を細める。

「コンクールの頃には、この関係も終わるよね。あ、それよりも前の、校内選抜のしめきり前か。それまでには撮影、終わらせてないといけないもんね。いつ?」

「来週の水曜かな」

「じゃ、それまでよろしく」

「うん。それまでだね」

 何かが俺の、すぐ脇を通り抜けていったような気がした。

目の前の彼女は、何もない空中に手を差し出す。

それににっこりと微笑むと、頬ずりをするような仕草を見せた。

「どうしたの?」

「え? どうしたのって?」

 彼女は片腕を上げている。

俺の想像が正しければ、そこにハクが巻き付いているはずだ。

「ハクがいるの?」

「見えてないの?」

 俺はそれには答えられない。

返事が出来ない。

彼女の腕が真っ直ぐに下に下りた。

今度はハクは、肩に移ったはずだ。

「ふーん。見えてないんだ。ちょうどよかったね。じゃあ私も、そういうことにしておくよ」

 荒木さんがやって来た。

舞香の頭上をチラリと見てから、普通に話し始める。

彼女は頭に本でも載せて話しているような姿勢で、バランスを取りながら話している。

すぐに希先輩がやってきて、荒木さんの腕に自分の腕を絡めた。

希先輩の半袖からむき出しの腕が、荒木さんの素肌に絡まる。

その彼の腕を希先輩がグイと引っぱると、荒木さんは困ったように彼女を見下ろした。

「ね、今日は一緒に帰ってね」

「そんな約束はしてない」

「好きにしろって言ったのは、自分でしょ?」

「……好きにしろ」

 その荒木さんの腕が、希先輩の胸の間に挟まっている。

「え? 付き合ってんの?」

 俺の言葉は、三人の視線を一度に集めた。

荒木さんはため息をつく。

「やっぱりそんな風に見えるのか?」

「違うんですか?」

「違わないよ。合ってるよ」

 希先輩は、その腕をもう一度荒木さんの腕に絡める。

「私たち、付き合いだしたから。そうだよね?」

「……。好きにしろ」

 荒木さんは希先輩に構うことなく、舞香との事務連絡を交わした。

「じゃあ。邪魔したな、圭吾」

「別に邪魔なんかされてませんよ」

「お前らも付き合うんじゃなかったのか」

「……。ないです」

「そうなのか?」

 荒木さんは今度は、舞香に視線を向ける。

「ないですね」

「ね、もう行こう。用は済んだでしょ」

 希先輩は、宙を舞う虫を追い払うような仕草を見せた。

「もう! うるさいし邪魔! あんたは関係ないでしょ?」

 怒ったまま、俺を振り返る。

「じゃ、お邪魔しましたぁ!」

 互いに腕を絡ませたまま、二人の姿は消えてゆく。

夕陽というのは、あっという間に沈んでゆくもので、完全下校時間を知らせるチャイムが鳴った。

「帰らなきゃ」

 舞香は暗くなり始めた空を見上げる。

その横顔は、一点を見つめたまま動かない。

「そこにハクがいるの?」

 彼女が振り返った。

微笑んだスカートの裾は、膝上近くまで跳ね上がる。

「さぁね。ハクって、誰?」

 彼女は弾む足取りのまま、校舎の角へ消えてしまった。

「ハク……。ハク?」

 こっそり呼んでみても、返事はない。

すっかり暗くなった池の面は、映していた校舎の灯りを、そっと消した。



第16章


 写真コンクールの校内選抜まで、一週間を切っている。

使えそうな写真なんて、まだ一枚もない。

フォルダーに保存されている使い物にならない無駄な画像を、次々と飛ばし見ている。

俺はこれまでの数日間、一体何をしていたのだろう。

いくら演劇部の手伝いをしていたとはいえ、他のことをする時間もあったはずだ。

「よ。舞香ちゃんと付き合いだしたって?」

「誰だよ、そんなデマ流してんの」

「希先輩から聞いたぞ」

 狭い部室に一台しかないパソコンの前で、山本は俺の隣に座る。

「校内選抜に出す写真、選んでんの?」

「お前は?」

「いちおう決めた」

 山本はマウスを動かす。

カチカチとフォルダーを開くと、そこには舞台衣装を着て野外練習をしている演劇部員たちの、裏方スタッフを含めた練習風景が写されていた。

ふりそそぐやわらかな午後の日差しに、派手な衣装と制服のコントラスト。

緑の森を背景に、コミカルでユーモラスな雰囲気が映し出されている。

「……。なんか、有名な洋画の巨匠作品、元ネタ実写版って感じだな」

「マジ? ちょっとうれしい」

 山本は喜んでいる。

ちゃんと伝わってるじゃないか。

俺だって褒めたし、褒めたつもりだ。

「お前のは?」

 彼の動かすマウスが、俺の空っぽになったフォルダーをクリックする前に、それを取り上げた。

「結局、演劇部の動画編集に付き合ってたから、撮れてないんだよ」

「あぁ、舞香ちゃんのモデル撮影もまだだしな」

「うん」

 山本にそんなことを言われ、渋々三脚を担ぐ。

俺にはなぜか、顔を上げることは出来なかった。

「あ、今から撮影?」

「待たせてるから」

「頑張れよ」

 部室を飛び出す。

賑やかな放課後を、急ぎ足で通り過ぎる。

後ろめたさが俺の足を動かしている。

待ち合わせ場所の中庭に、もうすでに彼女は来ていた。

「早いね」

「ね、どこで撮る? 教室?」

 振り返ったその表情で、一枚。

「そんな突然始まるもんなんだ」

 呆れたような表情とその仕草に、また一枚。

「階段上って、教室に移動して」

 その指示に、彼女は動き出す。

一段一段と上ってゆく足元を、後ろ姿でまた一枚。

「ねぇ、なんで私をモデルに選んだの? 他の人でもよかったのに。荒木さんとも撮ってたじゃない。それはどうなったの?」

「どうもなってない」

 そういえばあの写真、どこに保存したっけ。

「それで、なんで私?」

 西日のあたる廊下で、彼女は両手の指先を絡める。

そのまま、真っ直ぐに伸びをした。

その横顔を一枚。

彼女は誰もいない教室の扉に手をかけると、こっちを振り返る。

肩までの髪が頬にかかった。

「ま、どうだっていいけど。関係ないし」

 その姿はすぐに教室の中に消えた。

消えゆくその瞬間の、扉に吸い込まれていく半身をまた一枚。

「ここで、荒木さんとも撮ったんでしょう?」

 彼女の視線が何もない教室のなかを、何かを追うように流れる。

ゆっくりとその腕が宙に伸びた。

微笑んで、肩に頬を擦り付けるような仕草をする。

ピクリと体を動かした。

「どうしてその写真を使わないの? あの人、背も高いし顔も綺麗だし、モデルとして申し分ないと思うけど」

 ふいに彼女の視線が、真っ直ぐ俺に向かう。

「それとも、ここで宝玉を見かけた?」

「お前、ハクか」

 構えていたカメラを下ろす。

「舞香だよ?」

「舞香ならそんなことは言わない」

「どうしてそう思うの?」

 背後で扉が開いた。

山本とみゆきだ。

「あ、お前らこんなところで撮ってって……」

「!」

 山本が口ごもる。

「いや……何でもない……」

 みゆきは宙を見つめたまま、ガツンと固まった。

「おい、みゆきどうした」

 みゆきの顔から、血の気が引く音が聞こえたような気がした。

青ざめ、倒れるかと思った瞬間、我に返る。

「いいいいいいやぁ何でもないよおお」

 明らかに動揺していて、動きはぎこちない。

みゆきは山本と目を合わせる。

「ねえここにいても、しかたないんじゃない? しゃしんとるの、じゃましてもわるいし」

「そうだね、みゆきちゃん。場所をいどうしようか。じゃましちゃ悪いし」

 もつれた足で転びそうになったみゆきを、山本が咄嗟に支えた。

ガタガタと机をかき分け、二人は逃げるようにして教室を出て行く。

俺は舞香を振り返った。

彼女はニコリと微笑む。

「やだ、あの二人。なんかやましいことでもあったのかな」

「んだよそれ」

 いくら舞香でもハクでも、そんな言い方は許せない。

「付き合ってるとか?」

「それはないだろ」

 カメラを手にしたまま、彼女をギュッと見つめた。

舞香は静かに微笑む。

ふいに、彼女の体が動いた。

教室を横切り、肩までの髪が俺の目の前で揺れる。

その指先が頬に触れ、顔が近づいて、唇が触れた。

彼女は目を細め、にっこりと微笑む。

その表情に、俺は口を拭った。

「なにすんだよ」

「キス。嫌だった?」

 軽やかな足取りで彼女は扉へ向かうと、そこに手をかけた。

「本当のことを言わないと、やめてあげない」

 なんだそれ。

そのまま教室を出て行く。

俺にはそれを、追いかけることは出来なかった。




第17章


 翌日、登校してきた校門の前で、舞香は待っていた。

顔を見るなり俺の腕に絡みつく。

「おはよう。私に会えなくて寂しかった?」

「舞香を返せ」

「どうして? 私は私なのに?」

「舞香はハクのことが好きだったんだぞ」

「今でも好きだってよ」

 その腕を振り払う。

「お前がその気なら、俺は許さない」

「ここであったことを話せ」

「お前の探しているものはなかった」

 舞香の顔が歪む。

そうさせているのは、ハクだ。

そうだ。

ハクの探しているのは、宝玉なんだ。

あの白銀の龍じゃない。

「お前の探しているのは、誰の宝玉だ」

「……。やはり、ここで会ったのだな」

 しまった! 

「会ってない」

「何を話した」

 舞香の手が、俺の胸ぐらを締め上げる。

「なんと言っていた。お前に、何を伝えた」

「ハク……、こんな目立つところで、いいのか?」

 今は朝の校門前。

登校してくる生徒たちの、注目の的だ。

話しをするにも無理がある。

だけどそんな人間の都合は、ハクには通じない。

「全てを話せ!」

「舞香ちゃ〜ん!」

 彼女の腕を押さえたのは、山本だった。

「こんなところで痴話喧嘩は、さすがにダメだよぉ〜」

「放せ!」

 いくら舞香がハクでも、男2人に女の子1人の力じゃ敵わない。

もしくは、ハクに宝玉がないから?

「圭吾もこんなところで怒らせないの! さぁ、一旦落ち着こう」

 騒ぎに気付いたみゆきも、やってきた。

「ま~いか! 愚痴なら聞いてあげっから。教室行こ」

 みゆきは舞香の肩を抱き寄せた。

そのまま靴箱へと向かってゆく。

ハクは大人しくなったようだが、舞香に戻ったかどうかは分からない。

山本は盛大なため息をつく。

「で、ケンカの原因はなに?」

「荒木さん」

「……。圭吾、あきらめろ」

 やかましいわ。

そうは思っても、だけどそれ以上は、なにも言えない。

「ま、本当のことを言いたくないなら、それでもいいけど、困った時は相談くらいしろよ。友達だろ?」

 山本を見た。

ニッと愛想よく笑ってくれても、こんなこと、誰にも相談出来ない。

教室へ向かう階段を上る。

あれ? 

そう言えばコイツって、ハクが見えてるんだっけ? 

山本の制服の白いシャツは、俺のすぐ目の前を上ってゆく。

「お前さ、最近……」

「何?」

 言いかけて、止める。

こんなコト、話したとして、信じてもらえるか? 

俺が舞香を信じたように……。

「……。いや、何でもない」

 やっぱり言えない。

言えないよ。

山本の為にも、舞香の為にも。

ハクと荒木さんの為にも……。

 そう思っているのに、山本はやっぱり俺に対して遠慮がない。

昼休み、昼食を食べ終わった山本は、俺の前にドカリと腰を下ろす。

「別に荒木さんが本当の理由じゃないだろ?」

「……。まぁね」

「そんな簡単に人のせいにしちゃダメだよ。あの人の為にも。自分の為にも」

「うん」

 すっかり外の風は、夏の気配を忘れてしまっている。

教室の窓から吹きこんだそれは、俺の前髪を揺らした。

山本は紙パックのバナナジュースをズズッと吸いこむ。

「ケンカの原因はあえて聞かないけど、舞香ちゃんと圭吾自身の気持ちが、上手くかみあえばいいね」

 そんなことは分かってる。

それをどうしていいのか分からないから困っているんだ。

窓の外を見る。

俺はどうすればいい? 

ガラリと教室の扉が開いて、舞香が顔を出した。

「圭吾!」

 そのまま駆け寄り、俺の背中に抱きついてくる。

これはハクだ。

「ね、写真今日も撮る? まだ撮れてないでしょ?」

「もういい」

「どうして?」

 後ろから回された腕を、ゆっくりと払う。

「何枚かストックがあるから、その中から選ぶ」

 彼女はキョトンとした顔をした。

「もういいのか?」

「もういい」

 じっと見下ろすその仕草は、少し粗暴で幼くて、あの小さな女の子そのままだ。

「じゃあ、どうすればいいんだ?」

 どうすればって……。

ん? 待てよ……。

「あ、やっぱ撮影しよ」

 俺はとっさに、彼女の腕をつかんだ。

「や、やっぱり……。俺には舞香が必要だった……」

 そう言うと、彼女はうれしそうにニッとなる。

「だろ? じゃ、後でな」

 俺との撮影が不要になったということは、彼女は演劇部に戻るということで、そこには荒木さんがいて、ハクと接触させるのは……。

彼女はご機嫌で手を振ると、すぐに教室を出て行く。

「本当に荒木さんがらみなんだな」

 山本は俺を見た。

「あきらめろ」

「分かってるよ!」

 くそ。

本当に面倒くさい。

なにがどうしてこうなった? 

舞香に乗り移ったハクは、すっかり人間としての生活を満喫している。

高らかな声で笑い、廊下に駆け出しては会いに来る。

一目を気にせず大声で俺の名を呼び、遠くからでも手を振った。

自販機のジュースを要求し、何でもよく食べる。

「お前、小さい女の子の時はあんまり動かなかったのに、なんでそうなった?」

 放課後になった。

池近くのベンチに、ようやく座らせる。

ハクは舞香の姿のまま、お気に入りのマンゴージュースを、勢いよく吸い込んでいた。

「使う労力が違うのだ。取り憑くのと化けるのとでは。体の動きも重いし、それでは見聞きするくらいでやっとだ」

 飲み終わった紙パックを、ブンと放り投げる。

超人的な飛距離とコントロールで、校舎脇に設置されたゴミ箱に転がり込んだ。

「舞香の体を借りた方が、出来ることも多いし、何よりラクでいい」

 彼女がくるりと振り返る。

うれしそうに足をぶらつかせ、俺をのぞき込んだ。

「で、終わったらどうする?」

「終わったらじゃない、撮影まだだろ」

 ジュースとコンビニでのアイス。

その後のラーメンとハンバーガーまで約束しないと、言うことを聞かない。

それを条件に、大声で名前を呼ぶことと廊下を走ること、俺に抱きつくことをやめさせた。

それと……。

「足!」

「へ?」

「スカートなんだから、ちゃんと足を閉じる!」

 舞香はその裾を持ち上げた。

「不思議な着物だ。確かに以前に比べると動きやすいし便利だが、うっとうしいといえば邪魔だな」

 俺の足に視線を移す。

「以前は色や柄の違いくらいしか、着る物に違いはなかった」

 その手が俺の太股に置かれる。

ゆっくりとズボンの生地をなでた。

「こっちの着物と、どっちがいいのだろうな」

「さ、触るな!」

 その手をつまみ上げた。

「圭吾はどうして、そっちの着物を選んだ?」

「お触り禁止って言ったでしょ!」

「顔が赤いぞ、圭吾」

 無邪気な彼女の顔が、グッと近づく。

その指先が頬に触れた。

「どうした? 熱でもあるのか」

 そのまま両手で俺の顔を挟む。

「宝玉さえあれば、すぐに治してやれるんだが……」

 じっと見つめてくる、その目が気になるのか、少し開いた唇が気になるのか、そのまま俺は動けない。

「だから、それを探しに来たんだろ?」

 頬に触れていた手を引き離す。

そういえば彼女の手をちゃんと握るのは、初めてかもしれない。

「そうだ。だが一向に進展がない」

 舞香の横顔は、真っ直ぐに前を見つめた。

「舞香に任せていてはダメだ。私にはもう時間がない。彼女には悪いが、しばらくこの体を借りることにした」

「そんなことをして、大丈夫なの?」

 ハクはニヤリと微笑む。

「さぁな。時間がかかれば、どうなるかは知らん。物の怪に取り憑かれた人間の末路など、正直私には興味はない。所詮、木々よりも短い命だ。舞香は己の一生を、自分の側にいてほしいと私に懇願した。ならば共にあろうと、約束したのだ。宝玉が見つからなければ、ここに来た意味はない」

「は? ちょっと待て。どういうことだ」

「お前が協力する気がないのなら、それでもいい。私の邪魔をするな。これからは舞香ではなく、自らで探しだす」

 校舎の陰から、荒木さんが現れた。

その姿に、彼女の視線は釘付けになる。

「これは仕方のないことだ。もう撮影はいいのか? いいのなら私は行くぞ」

「待って」

 立ち上がろうとした彼女の腕を、咄嗟に掴んでしまった。

「まだ何にも撮影していないじゃないか。おごらせるだけおごらせておいて、そのまま行くのか?」

「ならば早くすませろ」

 荒木さんは俺たちの目の前に立つ。

「いちゃついているところを申し訳ないのだが……」

「いちゃついてません」

 彼女はじっと彼を見つめたままだ。

「出来るだけ早く、舞香を解放してほしい。編集の終わった動画チェックは、こっちで終わらせた。細かいところを直して、審査会本部へ送らなくてはならない。その他にも色々とある。コイツはマネージャーとして、うちに必要だ」

「分かってますよ」

「宝玉を探しているのだ」

 舞香になったハクが言う。

荒木さんは彼女をじっと見下ろす。

「それがどうした。……。俺は、協力したはずだ。もうこれ以上は知らん」

 彼の視線は、舞香から俺に移る。

「さっさと撮影を済ませて、舞香を返せ。……。別に、お前から奪おうってワケじゃないんだから、いいだろ」

 だから、それは……。

顔が真っ赤になっているのは分かるけど、自分ではどうにもならない。

まったくこの生体機能はどうにかしてくれ。

「そういうことだから。舞香、さっさとすませて、部活に戻ってきてくれ」

「分かりました」

 彼女の腕が、俺の腕に絡みつく。

「ね、早く撮影しよ? どこで撮る?」

 彼女の肩までの髪が揺れる。

その場ですぐに立ち上がると、俺たちはレンズ越しに向かいあった。

午後の日差しの中で、深い緑の森が揺れる。

「どうして宝玉を落としたりなんかしたんだよ」

「そんなこと、聞いてどうする」

「協力するにしても、動機が必要だろ」

 彼女は自由気ままだ。

撮影のことなんて全く頭にないから、本当に好き勝手に動き回り、ぶらぶらしている。

「動機って、手伝うつもりもない奴に、話してどうする」

「俺は不要ってこと?」

「必要だとでも思っていたのか?」

 思わずレンズを下げ、舞香をにらむ。

だけどここで荒木さんの話を出すのは、負けのような気がした。

「別に。そんなこと、知ってるし」

 肩までの髪が流れる。

背後から吹き抜けた風が、彼女の髪を巻き上げた。

その横顔にシャッターを切る。

「ならいいよ」

 うつむいて、乱れる髪を耳にかける。

彼女が背を向けた。

「意味なんてないもんね。そんなことしたって」

「そうだよ」

 分かってるじゃないか、自分だって。俺だって。

「私ね、ちょっとは仲良くなれた気がしてたんだ。圭吾とも。あんまりしゃべらなかったけど。それでも友達になれた気がしてたのは、自分だけだったんだなって」

 彼女は俺に背を向けたまま両腕を広げ、ゆっくりと歩き出す。

その一歩一歩を、俺はカメラの画像に収める。

「友達だよ。友達。俺と舞香は、友達」

 俺はその問いに答えた。

振り向いた彼女は微笑む。

「そうだよね。よかった」

 舞香が泣いていたような気がして、だけどそんなことは気のせいで、どうして彼女がいまそんなふうに見えたのかなんてことは、きっと考えたって出てこない。

「うん。ありがとう。助かったよ」

「もう写真はいいの?」

「多分……。チェックしてみないと分かんないけど。大丈夫だと思う」

 俺は、カメラ本体から撮れたばかりの画像を見ている。

彼女はそこに、近寄っては来なかった。

「だ、ダメだったら、また連絡するね」

「うん」

 何もかも、彼女の姿のままなのが悪いんだ。

これがハクだったら、文句も言えただろう。

「そっか。よかった。じゃあまたね」

 その『またね』に、本当の『次』がないことを、俺はよく知っている。

追いかけなきゃいけない。

追いかけて行きたいと思っているのに、どうしても体が動かない。

それはきっと、『動かなくてもいいこと』だからなんだと自分に言い聞かせる。

「早く……。写真を選ばないと。マジで間に合わないから……」

 部室に戻る。

狭い部屋に何人かがいて、いつものようにしゃべっている。

一台しかないパソコンは空いていて、俺は撮ったばかりの画像を保存することなく、そこを出た。

 そのまま帰ればいいのに、体育館は、いつものバス停とは違う、逆の正門の方なのに、つい足が向いてしまう。

カメラがあるから、これさえあれば、いつでも彼女に話しかけられると、そう思っていた。

だけど立ち寄った体育館は、もうすっかり運動部が占領していて、演劇部が体育館を使っていたのは、大会の前だけだったんだと思い知る。

結局、それまでの存在だったんだな。

彼女の言う通りだ。

 引き返すのも恥ずかしくて、そのままいつもと違う門から坂道を下る。

学校という同じところから出発しているのに、見える景色は全く違っていた。

正門となるこちら側は、山を下る坂道も緩やかで、視界を覆う原生林もまばらだ。

眼下に住宅街らしい街並みが広がっている。

ゆるやかな坂道を下ってゆく。

だけどここからは、いつものバス停、いつもの駅へは行けない。

遠回りだ。

最短距離を選ぶとしたら、もう一度学校へ戻って、裏の山門からやり直すのが、最適解なのは分かっている。

だけど……。

俺は顔を上げた。

目の前に広がる街並みはずいぶん違って見えても、本当は何にも違ってなんかいない。

結局それは、全部繋がっているんだから。

慣れない道を下りながら、俺はここからどうやって家に帰ろうかと、そのことばかり考えていた。




第18章


 翌日から、すっかり舞香の姿を見かけなくなった。

当然のことだ。

休み時間ごとにのぞきにきていた教室にも、必ず絡みにきた昼休みも、顔を出さない。

放課後も同じ。

俺は誰もいない部室で一人、カメラをパソコンにつないだ。

 ファイルフォルダーの中の、無駄に撮った画像を次々と流している。

ふとマウスを動かす手が止まった。

別フォルダーとして放置されていた『星空』のファイル。

初めて舞香とハクを見た時の写真だ。

山本が入ってくる。

ドカリと隣に腰を下ろした。

「別れたの?」

 紙パックのマンゴージュースを飲んでいる。

それは俺が最後にハクに買ってやったのと、同じヤツだ。

「だ、れ、が? だ、れ、と?」

「お前と舞香ちゃん」

 ズズッという音を立てて、最後の一滴をすする。

飲み終わったそれを、ポイとゴミ箱に投げ入れた。

山本の外したそれを、俺はちゃんと捨て直す。

「だから、付き合ってないって」

「希先輩と荒木さんを奪い合って、希先輩が負けたっぽい」

「は?」

「舞香ちゃんと荒木さん。付き合いだすんじゃね?」

 思わず立ち上がる。

「圭吾はそれでもいいのかなーって」

「よくない!」

 よくはないけど、よくなくないこともない……。

「つーかソレ、なに情報だよ」

「みゆき情報」

 みゆきか……。まぁ、表現の仕方は問題あるけど、要するにそういうこと、ではあるのだろう。

「お、俺には関係ないから……」

「あっそ」

 腰を下ろす。

もう一度立ち上がって、また座る。

山本と目が合った。

「なにやってんの」

「何も!」

 そもそも俺は、山本と一緒で、偶然ハクを目撃してしまっただけの、無関係な人間だ。

ちょうどよかったじゃないか、役者がそろったとは、このことだ。

彼女はきっと、本物の荒木さんと出会って、それから……。

「いや、待った」

 立ち上がる。

ハクたちにとって、人間の一生が一瞬のものなんだったとしたら、舞香に乗り移ったハクにとっても、彼女の命は一瞬のものだ。

言ってたじゃないか、白銀の龍も、人の一生は目が回るほど忙しいって。

だとしたらその一瞬を、ハクは舞香として荒木さんと過ごすという選択肢もあるんじゃないのか? 

天上では結ばれなくても、地上では……。

「いや、待て」

 腰を下ろす。

ハクと荒木さんは兄妹だ。

兄と妹だ。

そりゃ神さまの世界はどうだか知らないけど、兄妹で結ばれるってのも、違うんじゃないのか? 

人間になったときのハクの幼い姿が、人間に換算された年齢だとするならば、それはそれで恋愛対象ってのも違う気がする。

「いや、違う」

 立ち上がった。

物の怪に取り憑かれた人間の末路がどうのこのとか、ハクは言っていたじゃないか。

そういうのって、大体あんまよくない話しだよな? 

昔話とかによくある、キガフレルとかいうヤツじゃない? 

そもそも、ハクに体を乗っ取られてしまっているっていう状態は、彼女は彼女としての人生を送れないということになってしまう……。

それは、いいのか?

「いや、だけど……」

 だけど、共にありたいと言っていたのは彼女自身だし、ハクもそれを舞香が望んだって言ってた。

実際の契約というか、約束がどうなってるのかは分からない。

だけどハクだって、そんな悪い奴とも思えない。

だったら、俺がそんな心配するようなことは、ないのかも……。

「そもそも、俺には関係なかったはな……」

「いいから行ってこい」

「どこに! 俺はあの二人の仲に、口出しする権利なんか持ってないから!」

「池の近くでモメてたぞ。荒木さんと」

「は?」

 山本を見下ろす。

「まだいるんじゃないのか」

「そんなことを言われたって、俺は校内選抜用の写真を選ばないと……」

 座ろうとしたその足が、椅子に当たってゴトリと音を立てた。

いや、やっぱ違うだろ、俺!

「あ、用事思い出した。ちょっと行ってくる。え、えっと、すぐ帰ってくるから。職員室に、ノート取りに行かないといけないんだった……。痛っ」

 また机に足をぶつけた。

絶対あざになっているやつだ。最悪だ。

「そうだ。数学のノート、忘れてた」

「いってら」

 廊下へ今すぐにでも飛び出したいけど、ゆっくりとそれを開ける。

慎重に扉を閉め、しっかりと隙間なく閉じられているのかを目視した。

よし。行こう。

 走りたいけど走らない。

走って行ったりなんかしたら、絶対引かれるし怪しまれる。

「あんた何しに来た?」って言われる。

だから走ってなんかいかないし、普段通り、何となく偶然通りかかったみたいな感じで、さりげなく……。

 右足が動き、左足が動く。

その交互に入れ替わる動きが、次第に加速している。

どうやって彼女に話しかけよう。

怪しまれない方法って、なにがある? 

普通に「おー」とか、手を振るくらい? 

そっからさりげなく近づいて、なにげない雰囲気で……。

階段を飛び降り廊下を駆け抜け、校舎を飛び出すと芝生を走った。

「こんにちは!」

 水たまりみたいな池の横に、彼女と荒木さんは立っていた。

「お……、お久しぶりですね! ……。げ、元気でした……か」

「……。どうした。ずいぶん息が切れてるぞ。走って来たのか」

「やだなぁ! ははは……。遠くで、ちょっと見かけたも……ので……」

「その割りには一直線だったぞ」

 両膝に手をつき、息を整える。

「舞香は?」

「何の用だ」

 ハクの手が、荒木さんの腕に触れた。

「お前が来るな」

「来ちゃ悪いのか」

 そう言われるってことは、こっちだって予想済みだ。

「お前が探してるのは、宝玉じゃない。お兄さんなんだろ?」

 彼女の意識が、ようやく俺に向いた。

「確かに会ったよ、あの教室で。だけどそれは、荒木さんじゃない」

 舞香の体が、その荒木さんから離れた。

「どういうことだ。もっと詳しく話せ」

「やだね。約束したんだ。絶対に他の人には話さないって」

「無駄だな。私がお前の中に入れば、それで済む話しだ。抵抗はできない」

 ハクが一歩ずつ俺に近寄る。

動きたいのに、金縛りにあったように体が動かせない。

彼女の両腕が伸び、頬を押さえた。

彼女の肩までの髪が揺れ、ゆっくりと額を合わせる。

「痛っ!」

 パッと雷光が走った。

チカリと眩しい光りに、思わず目を閉じる。

俺たちは互いにはね飛ばされ、尻もちをついた。

ハクの触れた額が痛い。

「何をした!」

「何もしてない。お前こそ、何をしようとした」

 額に手を当てる。乗っ取られた? 

いや、俺は乗っ取られてない。

乗っ取られてない乗っ取られてない……。

だから多分、大丈夫! 

舞香はゆらりと起き上がった。

「なるほど、確かにお前には、何かがあったようだ」

 彼女が真っ直ぐに立ち上がったその瞬間、ガクリと体は崩れ落ちた。

咄嗟にその腕を支えたのは、荒木さんだった。

「大丈夫か」

 舞香を支え、その場にまた座り込む。

「あ、荒木さん。離れてください! 危険です」

 舞香は意識を失っているようだった。

荒木さんの腕の中でぐったりとしている彼女の額に、乱れた髪がかかっている。

「あ、荒木さん! いま、舞香の中身はハクですよ! 何されるか分からないから、離れてく……」

 彼の手は、その舞香の前髪を丁寧に整えた。

「だから、危ないって……」

「危険なんてない。お前には分からないのか」

 荒木さんは自分の腕に彼女を抱いたまま、じっと彼女を見つめている。

その視線はまるで、何よりも愛しい者を見つめる視線のようで、めっちゃ近寄りにくい。

めっちゃ近寄りにくい雰囲気ですけど!

「い、妹さんですからね。荒木さんにとっては!」

「妹ではない。後輩だ」

「そりゃそうですよ、舞香はね!」

 仕方ない。

てゆーか、ハクにしたって、このヒトを傷つけるようなことは、しないだろう。

くそっ、ちょっと怖いけど、しょうがない。

ドカドカと近寄る。

俺もすぐ隣にしゃがみこんだ。

「妹……なのか?」

「らしいっすよ」

「なぜ?」

「なぜって……」

 荒木さんは、腕に眠る舞香を見つめている。

それを知っているのは、本当は荒木さん自身なんだけど……。

「舞香はお前に任せる」

「え?」

「頼んだぞ」

 彼の腕にあった彼女の体が、俺の胸に預けられた。

突然のその重みと体温に、びっくりする。

「え! ……。えぇ?」

 ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って……。

うろたえる俺を無視して、荒木さんは立ち上がった。

「ど、どこへ……」

「分からん」

「あの、俺を一人にしないでください……」

 そう言うと、彼はじっと見下ろした。

フッと優しくない顔で笑う。

「お前は大丈夫だ。好きにしろ」

 えぇ……、やっぱヒドい……。

荒木さんは校舎の中へ消えてゆく。

あのヒト、本当に余計なことに関心ないな。

つーか、どうすんだよコレ……。

俺に託されてしまった舞香は、まだ眠っていた。

彼女の背と腕とが、俺の胸と手に接している。

これ以上どこをどう触っていいのかも分からない。

てか、これはハク?

「おい、起きろ」

 体を揺すってみる。

何度かそれを試して、ようやく目を開いた。

「あ、あれ……。圭吾?」

「そうだよ」

 彼女はようやく、自力で身を起こした。

「なに? ……どういうこと?」

「記憶がないのか?」

「……。それはある」

「あぁ、よかった。それなら話しは早い」

 俺はため息をついた。

だったら荒木さんがここにいないのは、逆によかったのかもしれない。

「宝玉を探そう。手伝う」

 彼女はぼんやりとしたまま、じっと俺を見上げている。

「どこまで捜索が進んだのか、俺は知らないから。悪いけど聞かせて」

「嫌だ」

「どうして」

 彼女の目に、涙がこみ上げてくる。

ゆっくりと首を左右に振った。

「わ、私……約束したの。一緒にいるって……」

「それは、荒木さんと一緒に、地上でいたいってこと?」

「違う。それは、天上のルールで、出来ないから……」

「よかった」

 だとしたら、もう迷うことはない。

「あのヒトは、ハクに会いたくないんだって。そう言ってた。自分と会うことは、ハクにとってはリスクなんだって。それは、ハク。自分でも、分かってんだろ? 危険を冒して、こんなところまでやってきたお前の本当の望みは、宝玉を探しだして、そのヒトに会うこと。違う?」

 俺は、彼女の目をそっと見つめる。

「だけど、これ以上罪を重ねてほしくないんだって。だから、大人しく待っててって。そしたらちゃんと、会いにいくからって」

 最後のセリフは、俺が勝手に付け足した言葉だけど、それでもきっと分かってくれる。

ハクとあの白銀の龍なら大丈夫……。

あのヒトなら間違いなく、そう言うに決まっている。

彼女の頬を、涙が伝った。

「時間がないの。地上に降りていることが見つかったら、大変なことになるって……」

「多分あのヒトも、そのことを心配してたんだと思う」

「……。宝玉はね、戦後発見されて、元の池にあった場所に戻されたらしいの。だけど、この学校が建てられることになって……」

「じゃあ、学校建設前には、やっぱりここにあったってこと?」

 彼女はうなずく。

この学校は、最近建てられたものだ。

間もなく創立50周年を迎える。

「あのパネル! 学校のホームページに載ってたやつだ」

 スマホを開く。

学校史のページを開くと、森の中に沼のような深い池があり、その畔には小さな祠が写っていた。

「じゃあやっぱり……」

「この近くにあるんだよ」

 彼女と目が合う。

「探そう」

 俺たちは立ち上がった。

池の周辺には、整備された芝生が広がっている。

中庭にも校庭の隅にも、こんな祠は見たことがない。

「この近くっていっても、だけど校内にはないよね」

「だとしたら……。このなかに、まだ残されてる?」

 俺は夕闇に沈もうとしている、深い森を見上げた。

「ハク! お前、ここから出入りしてなかったか?」

「え?」

「なんか前みた時、ここから出てきてただろ」

 そうだ。

抜け穴があったはずだ。

小さな女の子になったハクが、この辺りの藪から飛び出してきていた。

俺はフェンスからはみ出した木の枝をかき分ける。

足元に直径十数㎝の穴が開いていた。

「ハク専用かよ」

 仕方ない。

乗り越えるには、高すぎるフェンスだ。

高さは6メートルくらいはある。

「山門の方から回ろう」

 歩き出した俺の後ろを、距離を保ったままの彼女がついてくる。

駆け出そうかとも思ったけれど、舞香にその気配がないから、ゆっくり歩く。

裏門から外へ出た。

 その道は、アスファルトで固められた急な下り坂だった。

左手に迫る原生林の植物の侵食を押さえ込むため、切り開いた断面をコンクリートで固めてある。

俺の頭より少し上くらいの高さだ。

乗り越えようと思えば超えられる。

見上げるその向こうには、1000年前から変わらない森がある。

どこからなら上りやすいだろう。

俺が先に上がって、後から舞香を……。

「ねぇ、……そんなところ、怖いからヤだ」

「そんなこと言ったって、もう残ってる可能性は、ここしかないでしょ」

「暗くなるよ。明日にしよう」

 俺は彼女を振り返った。

「だ、だって、この森、ヘンな噂が一杯あるでしょ? 変な人がうろついてるとか、暴行事件があったとか……」

 まぁ確かに、そんな噂がないワケではない。

それは知っているけど、本当にあったかどうかだなんて、誰も確かめたことはなかっただろ。

「だけどハクは、帰らなきゃならないんだろ? 天に」

 彼女は首を横に振った。

「え……、だって……。自分がどんだけヤバいことしてるのか、本当に分かってる?」

「私、言ったよね、そんなことしたくないって!」

「時間がないって言ってただろ。見つかる前に帰らなきゃって」

「だから、それは一瞬の出来事だって……」

「あのヒトは、迷惑だって言ってんだよ」

 日が沈む。

辺りがすっかり暗くなってしまう前に森に入らないと、本当に何にも見えなくなってしまう。

「なにがあったのかは知らないけど、お前は黙ってここへ来たんだろ? あのヒトは、お前までこれ以上巻き込みたくないからって、お前を頼むって、俺に言ってきたんだ」

「……。本当に会ったんだ……」

「会ったよ。あの日、教室で……」

 坂道をゆっくりと下ってゆく。

コンクリートの斜面が、肩のあたりまで下がった。

ここからなら上れる。

俺はそこに手をかけた。

「待って!」

「私、行きたくない! ハクと離れたくないって言ったよね!」

「え?」

 俺は彼女を振り返った。

「ハクが天に帰っちゃったら、私との約束はどうなるの?」

「……。もしかして、まいか……ちゃん?」

「そうだよ。本気でハクだと思ってた?」

「だって、ハクが……」

「うん、そうだよ。乗り移ってたよ。私はハクで、ハクは私だったよ。だけどね、そんなのは一時のことだけ。常に入れ替わってたし、ハクはハクで忙しくしてたの。だから圭吾が見てたのは、ハクばっかりじゃないし、私だけでもないの!」

 そんなこと言われたって、俺に分かるワケが……。

「自分の……わがままだって、分かってる。ハクにとって、何が一番大切なのか。ハクのことを本当に一番に考えるなら、どうしたらいいのかなんて、言われなくても分かってる。ここにはずっと、一緒にいられないことも……」

 舞香の肩までの髪が、小刻みに揺れている。

「い、いじわる……しちゃった。ハクのこと、手伝いたくなかった。話しもちゃんと聞かなかったし、わがままばっかり言って……」

「……。俺も、似たようなもんだから……」

 そうだよ。

俺だって、何もかも面倒くさいと思ってたよ。

避けてたし逃げてたよ。

本当はどうすればいいのかなんて、ずっと前から分かっていたのに……。

「私、どうしたらいいのかな」

「一緒に宝玉を探そう。そしてハクをちゃんと見送ろう」

「そ、そうだよね。それが正解だもんね」

「それがきっと、俺たちに出来る、できる限りのことだと思うよ」

 伸ばされた彼女の手を握る。

壁に足をかけた彼女を、思い切り引き上げた。

肩までの髪が揺れ、落ちそうになるのを抱き止める。

俺の腕の中にすっぽりと収まった彼女を、そっと離した。

互いの指先が伸びて、俺たちは手をつなぎ合わせる。

「行こっか」

「うん」

 すっかり暗くなってしまった森の中を、ゆっくり進む。

木々の隙間から見える街の明かりが、俺たちの視界を辛うじて確保していた。

「……。圭吾はさ、私とハクがころころ入れ替わってたの、気づかなかった?」

「うん? まぁ、何となくは……」

 分かってたところもあったし、なかったところもある。

「ゴメン。興味ないよね、こんな話し」

 積もった枯れ葉に足元が滑る。

踏みしめた小枝はポキリと折れる。

「すごく、楽しかったんだ……。どうやってお別れしていいのか、分かんない……」

「笑って『またね』って言えばいいんじゃない? いつものようにさ」

「はは。そんなの、ぜったい無理」

 彼女の足が止まった。

「ヤだよ。やっぱり行きたくない」

 舞香とハクの間にどんな友情があったのか、その過程を俺は知らない。

知らないから、彼女を慰める適切な言葉と対応が思いつかない。

それが俺の間違いだったとか、失敗だったってことが、いまの後悔になっている。

「俺が一緒にいてやるから、大丈夫だよ」

「……。そんなの、信じられない……」

「そうかもしれないけど、とりあえず今は信じてくれる?」

「……どうして急に、そんなふうになったの?」

「俺自身がキミを、気になってるってことに気づいたからだよ」

 裏門側から森の中を、学校の方へ戻るように進んでいる。

木立の間に見える校舎の位置から、そろそろ池の場所が近い。

「どっかこの辺りに……」

 太古の森の暗がりに、目をこらす。

若い木の立ち並ぶ何でもない傾斜に、その祠はポツリと立っていた。

「あった……」

 何度も見ていた祠だ。

学校ホームページにあった画像とも、日に焼けて変色したパネルとも同じ。

高床式の観音開きの扉に、三角屋根からは二本の角が生えている。

扉には丸い窓のような木枠があり、そこにはかんぬきがかけられていた。

「……すごい。こんなところに……。本当にあった」

「あのヒトが言ってたんだ。多分この近くにあるって」

「そんなことまで話したの?」

「まぁ、そんな感じのこと」

 高さ1.5メートル、横幅だって70㎝あるかないかくらいの大きさだ。

そっと横木を引き抜く。

「最初から、誰も間違ってなかったんだよ。ハクがここに降りてきたのも、荒木さんがこの辺りで、ずっと転生を繰り返してるって言ってたのも……」

「荒木さん? なんで?」

 人の気配がして、振り返った。

「俺がどうかしたのか」

 腕には、小さな女の子になったハクを抱いている。

彼女はそこからぴょんと飛び降りると、真っ直ぐに祠へ駆け寄った。

「あ、ちょっと待っ……」

 ハクの小さな手が、祠の扉に伸びた。

触れたかと思った瞬間、バチンと雷光が走る。

その衝撃に、ハクは痛む手をおさえうずくまった。

ギッと俺たちをにらみつける。

「何かに守られているのか」

 そう言った荒木さんの視線は、俺に向けられていた。

「さっきは普通に、横木を外せたよ?」

 そう言った舞香は、ハクに寄り添う。

ハクは俺を見上げたまま、黙ってうなずいた。

それは、俺に開けろということか? 

祠を振り返ると、その扉に手をかける。

「やっぱりこれが、正解だってことだ」

 まだ新しいようなそれは、音もなくスッと開いた。

中には分厚い座布団に鎮座した、ガラスのような丸い玉が森の闇を透かしている。

そっと手を伸ばす。

触れようとして、その手を止める。

だけど俺は、それを取り出した。

 ひんやりと冷たくて、表面は驚くほどすべすべしていた。

軽いような重いようなそれを、皆の前に差し出す。

「見つけたよ、宝玉」

 周囲を太古からの木々に覆われ、市街地からここまで届く光はわずかだ。

その闇と光りに半分溶けてしまったような宝玉は、静かに輪郭だけを光らせている。

「で……、どうすればいいんだ?」

 見つけたはいいが、その先のことなんて考えてなかった。

「ハ、ハク。ほら、お前のだろ? 取れよ」

 彼女は舞香にしがみついたまま、激しく首を横に振る。

「な、なんだよ。宝玉見つけたら帰るって……」

「……。嫌だ。私はずっと、舞香とここにいる」

「……。え? ここに来てそれなの?」

「ハクちゃん!」

 舞香はハクをぎゅっと抱きしめた。

ハクも彼女にしがみつく。

「舞香、舞香は私のことが嫌いか?」

「ううん。なんでそんなこと言うの? 嫌いなわけないじゃない」

「よかった。舞香には……。たくさん迷惑をかけた。意地の悪いこともしたし、正直……。私は、お前を利用するつもりだった」

 ハクは人形のように、変わらない表情で舞香を見上げる。

「人だなんてものは、天上人の形だけ真似た、まがい物だと思っていた。だけど私たちと、なにも変わらない。罪を背負い地に落ちた者たちの思いが、ここにはあふれている」

 ハクの肩までの髪が揺れた。

「ここは楽しいな。その短すぎる命を、必死で生きようとする姿を、あの方は私にもあの方にも、見せたかったのかもしれない……」

「ハク……」

 舞香の手が、ハクの流れてはこない涙を拭った。

その白く固い表情に、わずかな笑みが浮かぶ。

ハクは、キッと俺をにらみつけた。

「舞香はすぐに死んでしまう。この生は一瞬の出来事だ。だとしたら私は、せめてその間だけでも、舞香と一緒にいる」

 俺は荒木さんを見上げた。

なにも言わず動かないまま、じっと二人の様子を見ている。

「ハクちゃん。ありがとう」

 舞香はハクのかぶっている、濃紺の帽子を手に取った。

艶やかな髪を指先ですくい上げる。

「私もハクと離れたくない」

「舞香! ありがとう。私はお前の望み通り、共にあろう。一緒に海にも行きたい、また観覧車にも乗ろう。沢山の物をみて、共に笑い、泣き、いつもその胸に……」

 舞香はハクの額を、その指先でそっと触れた。

「だけどね、ハク。ハクにとってなにが一番大事なのか、自分でも分かってるよね」

 小さな女の子の姿のまま、ハクはその表情を暗くした。

「……分かってるよ。自分でも、無駄なことしてるって……」

「ハクは天上に戻って、やらなくちゃいけないことがあるんでしょう? 宝玉は見つかったよ。ハクはハクのすることをやらなきゃ」

 ハクは舞香の腕に抱かれたまま、俺の手にある宝玉をじっと見つめる。

「ね、ハクが地上で本当にしたかったことを、教えて」

「……。その宝玉は、私のものではないんだ。そのヒトのものだ。許された者しか触れられないのだとしたら、それはそのヒト自身がかけた術によるものだ」

 ハクが手を伸ばす。

やはり彼女の指先で、小さな火花が散った。

ハクの顔が俺を見上げる。

「つまり、許されたものにしか扱えない」

「ど、どうすればいいの?」

「そこまで聞いてないのか」

「き、聞いてない」

 願えばいいのかな。宝玉に願いごと? 

だけど人間に扱えるものじゃないって……。

俺は手にした宝玉を、天に掲げた。

「ハ、ハクを天に帰して!」

 日はすっかり落ちて、こんな森の中では側にいる皆の顔すら、もはやよく分からないほどの暗さになってしまった。

鳴き始めた虫の声と街の騒音が聞こえる。

「ちょ……めっちゃ恥ずかしいんだけど……」

「まさか偽物?」

 触れようとした舞香の指先にも、ピッと雷光が走る。

「痛っ!」

 舞香にもハクにも触れられない。

唯一触れることの出来る俺には、その扱いが分からない。

宝玉は発見した。

ハクを戻す方法はこの次か……。

「もう遅い。今日はこのまま帰って、これからのことは……」

「かしてみろ」

 荒木さんの手が伸びた。

大きな手で、俺の持っていたそれをわしづかみにする。

「あ! ちょ、それはダメな気が……」

 彼の手の平にすっぽりと収まったそれは、その手に触れた瞬間、輝き始めた。

「光ったぞ」

「いやいやいやいや……」

 だ、だから! 荒木さんが持っちゃダメだって! 

それじゃあここにいるみんなに……。

その瞬間、ハクの体が光りに包まれた。

夜空の闇を突き破るように、頭上から光りの柱がゆっくりと降りてくるのが見える。

「迎えだ」

 荒木さんはそれを見上げ、ゆっくりと微笑んだ。

「お前、まさか!」

「ハクちゃん!」

 舞香はハクを抱きしめた。

「元気でね。もう二度と会えないかもしれないけど、私はずっと忘れない。空の上から見守ってて。私はちゃんと、元気にしてるって」

 舞香の腕の中で、小さな女の子は息を飲む。

覚悟を決めたように、それを吐き出した。

「……分かった。私も舞香のことは忘れない」

 光りの中で、ハクの体は女の子から龍へと変化する。

その力には、何人たりとも逆らえない。

「たとえ遠く離れても、永久にこの身を分かつとも、そなたのことは決して忘れぬ。また会おう、いつの日か。そなたと交わした約束を、我が違えることはない」

 ハクの体は、ゆっくりと光りの中で宙に浮き上がった。

「……私にとって……大切なヒトが、天上からいなくなったんだ。いわれのない罪を着せられ、それと分かっているのに、誰もそれを止めなかった。そのヒトは自ら地へ落ちた」

 ハクは俺の手にある宝玉を見下ろす。

「だが私は、信じている。また会える日を。たとえこの身が、ままならぬものと成り果てても……。舞香! そなたの記憶と共に、残しておく!」

 ハクの体が、ゆっくりと天に昇ってゆく。

それはきっと、舞香へ向けて発せられた言葉だったんだろうけど、俺にはまた別のヒトに向けられた思いにも聞こえた。

「これもだ、ハク……」

 荒木さんの掲げた手から、光りの中で宝玉が浮かび上がる。

龍となったハクは、荒木さんをじっと見つめている。

「迎えに……来たんだ」

「お前が持って帰れ」

 それはハクを連れ、天上へ消えゆく光りの柱を追うように浮き上がった。

しかしそのスピードに追いつくことなく、ポトリと落ちる。

荒木さんの手に転がりこんだ。

「ハクー!」

 舞香は叫ぶ。

光りの柱は加速してゆく。

そこにハクを取り込んだまま、宝玉を地上に残し、あっという間に上空へ吸い込まれてゆく。

「ハク……」

 強い光の消え去ったあとの森は、すぐにそれまでの静けさを取り戻した。

目が慣れてきたころには、少しは周囲が見えるようになってくる。

俺はハクのかぶっていた帽子を拾うと、泣くじゃくる彼女に手渡した。

舞香はそれをぐしゃりと胸に抱きかかえる。

「帰ろう。ハクも帰ったよ。俺たちも帰ろう」

「うん」

「待て」

 荒木さんは俺を呼び止めた。

「これはどうする」

 その手には、すっかり輝きを失った宝玉が握られていた。

「どうするって……」

「お前に預ける」

「え?」

 ポンと放り投げられたそれは、空中で一瞬光ったかと思うと、ふわふわと宙に浮かんだまま、こっちに漂ってくる。

「え? えぇっ!」

 この世界の全てを透かしたような透明な玉は、俺の胸にスッと吸い込まれた。

荒木さんはニヤリと笑う。

「所詮短い命だ。一瞬の間、お前に預けるよ」

 フェンスの向こうで、ざわざわとしたどよめきが聞こえる。

突然現れた光りの柱に、生徒たちがざわついていた。

「さぁ、帰ろう。俺たちの日常が待ってる」

 歩き出した荒木さんの後ろを、舞香は歩き始めた。

俺もその後ろをついてゆく。

彼女の胸には、ハクの残した濃紺の帽子が握られたままだ。

俺は古代から姿を変えない、太古の森を振り返った。

そこには空っぽになった祠が残されている。

 この祠も、いずれは朽ち果ててしまうのだろうか。

そのご神体としての宝玉を失ったいま、この祠の残された意味はなんだろう。

誰にも知られずひっそりと、深い森の中でたたずむそれは、なにを思うのだろう。

 森から抜け出すと、荒木さんは通学路に飛び降りた。

すぐ後に続いていた舞香に手を差し伸べ、降りるのを手伝おうとしているのに、彼女はためらっている。

俺はそんな舞香より先に飛び降りると、彼女を見上げた。

「帽子はどうするの?」

 ハクの帽子を、舞香は自分の頭に乗せた。

俺と荒木さんから伸ばされた二本の手に、彼女は掴まる。

せーので無事に着地した彼女は、まるでハクみたいだった。

 山門をくぐると、池の周辺には十数人の生徒が群がっていて、その中には先生の姿もあった。

すぐに消えてしまった巨大な光の柱に、様々な憶測が飛んでいる。

「圭吾!」

 山本とみゆきが飛び出してきた。

「お前、どこにいたんだよ!」

「えぇっと……」

 後ろを振り返る。

荒木さんは体についた枯れ葉のくずを払っていて、舞香は泣きあとの残る顔を見られまいと、ハクの帽子でそれを隠していた。

「……あれ、もしかしてお前らか?」

「あ、あぁ……。うん。まぁ見たけど……」

 言葉に詰まる。

なんと答えていいのか、分からない。

山本の目が、真っ直ぐに俺を見つめた。

「なんかさ、俺には光りの中に龍みたいなのが……」

 ふいに、彼はその次の言葉を飲み込んだ。

「いや、何でもない! お前らが無事だったら、俺はそれだけでいいんだよ!」

 山本は笑っている。

みゆきは首にかけていたカメラを外すと、それを俺に押しつけた。

「フラッシュ! カメラのフラッシュが壊れたのよ! ね? そうでしょう?」

 みゆきの顔がグッと鼻先まで近寄る。

「それで騒ぎになっちゃったけど、もう撮影終わったし調子も戻ったって、そういうことよね」

 彼女からの『そういうことにしておけ』圧が凄い。

「そ、そうだよ……。だけどもう、直ったから大丈夫」

「はは……」

「ははは」

「あはははは……」

 群衆の中から、希先輩が姿を見せた。

荒木さんの姿を見つけると、そのまま飛びつく。

しがみつくようにその胸にすがる希先輩に、彼はため息をついた。

彼女のその肩を抱き寄せると、耳元でささやく。

希先輩はようやく顔をあげ、小さくうなずいた。

「俺たちも帰ろう」

 そんな風景にも、俺の胸はもう痛まない。

舞香を振り返る。

彼女は隅っこで小さくなったままだった。

ハクの残した帽子のつばを、ぎゅっと握りしめたまま、動けずにいる。

まだ震えている彼女の手に、俺は自分の手を添えた。

「そばにいるよ。ハクの代わりに、今度は俺が」

 彼女の手が動いて、互いにそれをつなぎ合わせる。

消えてしまった光に、集まった人々も散り始めていた。

その流れに乗り遅れぬよう、彼女の手を引く。

「だから聞かせて。今までキミとハクとの間にあった、俺の知らない物語を……」

「……。ちゃんと聞いてくれるの?」

「はは、もちろん」

 すっかり暗くなった校内を、彼女の手を引いて歩く。

「キミが話したい時に、話したくなったら、話したい分だけでいいからさ」

 振り返ると、うつむいていた彼女は顔を上げた。

肩までの髪が頬にかかっていて、それを舞香は、自分の指で払った。

「分かった。じゃあその時は、ちゃんと聞いてね」

 唇の形がそう動いて、俺はそこにキスしたいと思ったけど、それはまた今度にしようと思う。

 完全下校時間を、とっくに過ぎてしまっていた。

俺たちは、山本とみゆきと4人で並んで、いつかのようにぎゃあぎゃあと騒ぎながらコンビニまでの坂道をくだる。

そこでいつものようにおしゃべりをして、コンビニでアイスを食べ、彼女に手を振る。

「またね」

「またね」

 彼女も笑顔でそう言って、俺に手を振った。




最終章


 宝玉をもらった俺がどうなったかというと、特に何にも一切変わらなかった。

特殊能力に目覚めるとか、チートスキルが発動するとか、そういったことはびっくりするくらい何もない。

「もうちょっとさぁー、なんかあってもいいんじゃないんっすかねー。ねぇ、なんかあるでしょ、普通。変化とかが。せめて」

「あ? なんの話しだ」

 荒木さんに聞いても、それが素なのか演技なのか、さっぱり話しが通じない。

よく考えてみれば、このヒトは演劇部の部長をやってるんだ。

その言動に、どこまで信用をおけるのだろう。

 いつものように平和な放課後だ。

運動部のかけ声が、すっかり涼しくなった空に響く。

演劇部は、もう来年の公演に向けて準備を始めていた。

体育館横の野外練習場で、新部長が指揮を執る。

その横で荒木さんは、古くなった小道具の整理をしていた。

「もっとこう……分かりやすく……。なんとかさぁ……。空が飛べるとか、波動が使えるとか……」

「だからなんだよ。それが俺になんの関係がある。お前の話はいつも意味が分からん」

「マ、ジ、で。俺もそう思ってますよ」

 彼は俺を見下ろすと、フッと笑った。

「好きにしろよ。自分の思う通りに。好きなようにさ」

 その手が伸びてきて、俺の耳を引っぱった。

「痛いって!」

「はは」

 本当にこのヒトほど、どこまで信用していいのかが分からないヒトって、見たことない。

「なにやってんの?」

 希先輩が割り込んできた。

あの日のことは荒木さんのなかで、どういう処理のされ方をしたのだろう。

少なくとも俺との間では、全く話題には上がらなかった。

「ホントにもう。すっかり私より仲良しなんだから」

 希先輩もなにも言わない。

そう言って彼女は笑った。

あの白銀の龍を思い出す。

もう二度と話すことはないって言ってたのに、あの瞬間の荒木さんは、絶対に封印解かれてたよね。

それをどうして、俺に預けようと思ったんだろう。

 このヒトの姿にそれを重ねてみても、もう終わったことと、興味をなくしてしまったのだろう。

再び記憶を封印し、また消し去ってしまったのか……。

 希先輩は荒木さんに、あれこれと話しかけているけれども、全く相手にはされていなかった。

身振り手振りで一生懸命笑ったり怒ったり……。

ふと希先輩と目が合う。

「なによ」

「いえ、何でもないっす」

 結局付き合い始めたのかな? 

そうでもないのかな。

よく分からないけど、まぁいっか。

希先輩が楽しいのなら、それでいいや。

もう関係ないし。

俺は立ち上がった。

「じゃ、また」

「おう。舞香によろしく」

 そう言った荒木さんを見下ろす。

隣の希先輩からの視線が痛い。

この人は本当にもうちょっと、自分自身のことをなんとか考えた方がいいと思う。

回りのことは十分見えているのに、自分のことだけは完全に見えていない。

 体育館を離れ、校舎の陰を横切った。

いつだって人気のない静かなベンチに、肩までの髪を揺らして彼女は座っている。

放課後の時間をここで待ち合わせするのが、なんとなく習慣になっていた。

「お待たせ。早かったね」

「別に待ってないし」

 舞香は紙パックのマンゴージュースを、ストローでズズッと吸い上げる。

「それで?」

「それでって?」

「宝玉もらって、別に気分が悪くなったとか、体調悪いってこともないんでしょう?」

「まぁね」

「胸に違和感もない」

「ない」

 彼女はため息をついた。

「人に扱えるものじゃないって言ってたから、本当に人間には、どうしようもないのかもね」

 そのことは分かった。

だけど、どうして荒木さんは、俺に預けようと思ったんだろう。

つーか、あのヒトは将来、どうやって回収するつもりなんだ? コレ……。

「持たされ損?」

「預かり損的な?」

「なんだそれ。レントゲンとかどうすんだ。CT撮るとか、飛行機の検査場とかさぁ」

 自分の胸に手を当てる。

納得いかない。

だったらなんで、こんなことしたんだ。

そこをなで回している俺に、舞香はため息をついた。

「きっとそういうトコ」

「なにがだよ」

「何でもない!」

 彼女はベンチに座ったまま、両腕を思いっきりう~んと伸ばした。

「きっとまた、会いたいってことだよ」

「え? 誰に?」

「で、いつ見に行くの?」

「なにを?」

 彼女の視線が、じっと非難たっぷりにこっちを見てくる。

「えぇっと……」

 うつむいたその視界の端に、山本とみゆきの姿が見えた。

並んで歩く二人の背が近づいたかと思うと、キュッと手をつなぐ。

「お? なんだアレ!」

「知らなかったの?」

 舞香はため息をつく。

「もうそれなりに前だと思うよ」

「いつ!」

 彼女は俺をにらみつけた。

「本人たちに直接聞けば? 知らなかったのは、圭吾だけだって。そっちの方がびっくりだよ」

 彼女はベンチから立ち上がると、とことこと歩きだした。

校舎脇に設置されたゴミ箱に飲み終わった紙パックを捨てると、また戻ってきて俺の隣に座る。

「で、圭吾は私とハクの、どっちが好きだったの?」

「だ、だからそれは……。もちろん舞香だって……」

 あれから何度も聞かれている。

毎回同じように答えているのに、どうしたって彼女には納得してもらえない。

「じゃあ、いつのころからそう思ってたワケ?」

「ん? あぁ、それは……。だけどさー。ハクの最後のセリフ、覚えてる?」

「へ? そんなの、もちろん覚えてるよ。絶対に忘れないでしょ」

 うん……。それはそうなんだけどさぁ……。

「舞香と荒木さんの名前は出たのに、俺の名前はなかった……」

「ウソ! そんなことないって」

「薄情すぎない?」

「大丈夫、大丈夫! ハクは覚えてるよ」

「ついでで?」

「ついでで」

 舞香と目を合わせる。

次の瞬間、彼女は大爆笑した。

「あはは、ずっとそれを気にしてたの?」

「もういいよ……」

 ハクが舞香に取り憑いた理由が、何だか最近分かってきた気がする。

舞香は中身まで、ハクとそっくりだ。

「ね、今日はフォトコンを見に行く約束でしょ。早く行こ」

「うん」

 学校をあとにする。

結局俺が選んだのは、舞香とハクを並んで撮した画像だ。

そこには舞香だけしか写っていないけれど、俺と彼女だけは、そこにハクがいたことを知っている。

「特選に入るといいね」

「うん、それはきっと無理……」

 俺たちは歩きだすと、そっと手をつないだ。


【完】





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