桔梗の花咲く庭
家の都合が優先される結婚において、理想なんてものは、あるわけないと分かってた。そんなものに夢見たことはない。だから恋などするものではないと、自分に言い聞かせてきた。叶う恋などないのなら、しなければいい。
時代劇ですが普通に純愛モノです。
第1話
小雪舞う肌寒い夜、私は生まれて初めての輿に乗っていた。
お供は子宝と安産を願う雌雄の犬張子。
不安と緊張に、帯の守刀をぎゅっと握りしめる。
花嫁行列は高い白壁の続く静かな道を、ゆっくりと進んでゆく。
ふいに動きが止まった。
餅をつく音だけがここまで聞こえてくる。
貝渡しの儀式が終わった合図に、再び動き始めた。
式台へと進んだ輿はガタリと揺れ、ゆっくりと下ろされる。
御簾が巻き上げられると、私はそこから一歩を踏み出す。
あちこちに焚かれた松明からの火の粉が、白無垢の打ち掛けに散って焦がしてしまわないかと気を揉む。
付添人の待上臈の案内で手を引かれ座敷に上がると、休む間もなく祝言の間へと通された。
緊張で動かぬ足を気遣いながら、長い打ち掛けの裾を引きずり、のろのろと上座へ進む。
用意された席に腰を下ろすと、ようやくほっと一息をついた。
隣の新郎の席は、まだ空いたままだ。
待上臈はコホンと一つ咳払いをする。
「このたびはご結婚おめでとうございます」
そう言われ、私は頭を下げた。
いよいよ新郎の登場だ。
ついに今夜、この坂本家に嫁いで来た。
緊張で口の端も手も足も、驚くほどぎこちない。
「では先に、三三九度を交わしましょう」
祝言の作法は、家によって様々だ。
言われるがままに、盃を手に取る。
酒を注がれ、体にたたき込んだ所作通りに飲み干した。
鳴り止まぬ胸の鼓動を抑えつつ、それを膳に置く。
長い長い祝詞が続き、やがてそれも終わりを迎えた。
待上臈は目を閉じ、ツンと上を向いている。
いよいよ新郎の登場だ。
スッと襖の開く音が聞こえた。
視線をわずかに下に下ろし、じっと待っている。
初めて正式に顔を合わす相手だ。
輿入れの前に相手の顔を知るのは、無礼で恥じとされている。
私のことを、どんなふうに思うだろう。
どんなふうに思われるのだろう。
自分だって相手のことをよく知らない。
新郎の顔を盗み見るのははしたないと知りつつも、どうしても目が追ってしまう。
「あ……えっと、志乃さん? よくいらっしゃいました。ちょっと失礼しますね。晋太郎の母、三津と申します」
現れたのは、新郎のお母さまだ。
「あ、えっと、こちらが晋太郎の祖母の阿恵で……」
「こんばんは」
白髪の上品そうなお祖母さまは、丁寧に頭を下げた。
「こちらが、父親の吉之輔です」
新郎一家が揃って、額を床にこすりつけるような礼をする。
慌てて私も額をつけた。
「あ、はい。これからよろしくお願いします」
義母となる人が、いそいそとにじり寄ってきた。
「ね、志乃さん。今日は朝から一日疲れたでしょ? 先にごちそうにしましょうよ。ね、せっかくなんですもの。お腹空いたでしょ? 先に食べちゃいましょ。ね!」
新郎の晋太郎さんは、まだ姿を見せない。
本来なら新郎の登場の後に、三三九度の盃と式三献と言われる夫婦だけの盃と膳が出されるはずだ。
親族との盃を交わすのは、その後なのに……。
「あの、晋太郎さんは……」
「さ、お食事を運んでちょうだい!」
お義母さまの指示で、豪華な膳が運ばれてくる。
それは空いたままの晋太郎さんの席にも置かれた。
今日の昼には婚礼の儀式のために、うちに来ていたのは間違いない。
その時に祝い酒を酌み交わしたのは互いの顔を知っている父と兄だけで、私は姿を見ていない。
生きて存在していることだけは、確かなはずだ。
「あの、晋太郎さ……」
「この鯛ね、とってもよいものが入ってきたのよ。縁起がいいわねぇ~。上物よ! 今日はとってもおめでたい日なんですもの、奮発しなくっちゃ。ねぇ、お父さん!」
そう言われた義父は、居心地の悪そうに焼いた鳥を箸にとると、何も言わず口に放り込んだ。
「さ、志乃さんも先にいただきなさい。まぁ~! なんて、おめでたい日ですこと!」
お義母さまは高らかに笑い、また私の盃に酒を注ぐ。
妙に芝居がかった賑やかな祝言の宴と、飲まされ続けるお酒のせいで、頭がふらふらとしてきた。
待って。なんか違うよね、コレ。
この婚礼の儀は、何かがおかしい。
絶対にもっと何か他の、もっと大切なことを考えなくちゃいけないのに、不安と緊張と酒のせいで、頭が上手く回らない。
私が嫁いで来たのは、本当にあの方のところなんだよね?
ね? 間違ってないよね?
気がつけばお義父さまやお義母さまの食事は、ほとんど食べ尽くされていた。
「あの、新郎の晋太郎さんは……」
「そうだ! 志乃さん、せっかくですもの、お色直しもやってしまいましょうよ。志乃さんの綺麗なお衣装、私も見たいわぁ~!」
お義母さまの突然の提案に、また目が回る。
酔いのせいだけなんかじゃない。
親族との盃は交わし終わった。
なんだかんだで、引き出物の贈りも終わっている。
この次はお婿さんが花嫁を連れて、先祖の位牌にお参りだ。
お色直しは、その後!
「ねぇ、お義母さん。お父さんもそう思うでしょ! ね、ほらほら、じゃあ先に、着替えてきちゃいましょうかねぇ!」
いつの間にか頼りになるはずの待上臈も、姿を消している。
義母に促され、立ち上がりたくもないのに立たざるを得ない状況だ。
すっかり酔いも回り、気分までおかしくなった足元がよろける。
このまま本当にあの人が来なかったら、どうしよう。
長い袖が引っかかり、祝いの膳がひっくり返った。
「あ、すみません……」
驚きと悲しみと、情けないのと恥ずかしいのと。
こんなのは祝言の宴なんかじゃない。
ましてや婚礼の儀式なんかじゃ絶対にない。
涙がにじむ。
これが酔うということなのかな。
もうダメ、泣きそう。
「あの、晋太郎さんは!」
バンッ!
その瞬間、襖が開いた。
背の高いスッとした鼻筋の、その人が飛び込んでくる。
「晋太郎!」
「遅れました」
ズカズカと突き進み、並べた膳を蹴散らし、お義母さまの声を振り切って、その人は私の腕をつかんだ。
「来い!」
廊下へ出る。
引きずられるようにして、ずんずん突き進む。
掴まれた腕の痛みに、なぜかほっとした。
外は寒いはずなのに、酒のせいか体は熱い。
大きな月がぽっかりと浮かんでいる。
この人が、私の夫となる人か。
掴まれた手の強さと、大きな背中にくらくらする。
よかった。大丈夫だよ、うめ。
中庭を抜け、さらに奥へと進んだ。
晋太郎さんは、すぐ脇の部屋へと私を押し込む。
「失礼する!」
用意されてあった布団の上に押し倒された。
白無垢の裾が足に絡まり、思わす悲鳴をあげる。
「痛い!」
乱暴に投げ出されたせいで、角隠しの下のかんざしが頭皮に突き刺さった。
ムッとして頭を押さえると、その人はのぞきこむ。
「すまぬ、どこが痛む」
「ここ!」
本当に泣きそうだ。
お酒のせいで頭はくらくらするし、締め付ける帯のせいで気分も悪い。
おまけに掴まれた腕も痛いし、柱にぶつけた足も痛い。
「血が出てるかも……」
「許せ。見せてみろ」
晋太郎さんは私から帽子を取ると、乱暴に髪を掻き分けた。
「血など出ておらぬ、大丈夫だ。たいしたことはない」
そう言うこの人の顔は真っ赤で、手元もおぼつかない。
「もう乱暴にはいたさぬ。安心しろ」
そう言ったかと思ったとたん、頭が肩に乗った。
吐く息は恐ろしく酒臭い。
両手で腕を掴まれ、抱きすくめられたたかと思うと、ずるずると引きずられる。
「あっ、待って……」
私もずいぶんと飲まされたはずなのに、それでもこの人の息が酒臭いと分かる。
泥酔しているようだ。
「ん……。重い……」
のしかかる体を横にずらすと、ドシンと布団の上に倒れてしまった。
そのまま眠ってしまったようで、伏して動かぬこの人を、どうしていいのか分からない。
だけど……。
私はほっとして、胸に溜まっていた息を吐き出す。
真新しい分厚い布団が二つ、並べて敷いてあった。
透かし彫りの入った間仕切りが行燈の灯りに照らされて、ぼんやりと浮かび上がっている。
枕元には蓬莱の飾りが置かれているから、ちゃんと用意されていた寝所ということか。
寝息が聞こえる。
寝転がっているその人の頬をパシパシと叩いても、何の反応もない。
私は帯を解いた。
いま思うと、私自身もずいぶんと酔っ払っていたのだろう。
白打ち掛けを脱ぎ捨てると、晋太郎さんの乗っていた布団の片方を引っ張り、ずるずると引き離した。
その人をそのまま横へ転がしておいてから、布団の中へ潜り込む。
頭はくらくらしていて、自分も横になりたいということだけしか考えられなかった。
「はぁぁ、よかった!」
満足して目を閉じる。
そのままぐっすりと眠ってしまい、次に目を覚ました時には、すっかり朝日が昇っていた。
第2章
嫁いで初めての朝だというのに、完全に寝坊してしまった。
起き上がろうとして、自分の着る物がないことに気づく。
昨日の酒のせいか、頭はぼんやりとして、体は重くだるい。
脱ぎ散らかしていた花嫁衣装を、見栄え程度に畳み衝立で隠すと、こっそり廊下をのぞいた。
足音を忍ばせ、そろそろと進む。
味噌汁の香りと話し声が聞こえて、障子越しにそっと聞き耳を立てた。
「で、コトは首尾よく済ませたのですか?」
「朝からなんの話です」
「志乃さんはまだ起きてこないの?」
「母上、少しくらい寝かせてやってもよいではないですか」
「ちゃんとやることを、やっていればよいのです」
「分かっていますよ」
お義母さまと晋太郎さんの争う声だ。
お義母さまは大きなため息をついた。
「だいたい、昨日のアレはなんですか。あんなことではこの先、あの方とやって行くのに……」
「私には関係ありませんよ」
「あなたも同意したではないですか」
「知りませんよ。渋々だったのはご存じのはず。もはや私は、後悔すらしております」
「なんですって? 今更そのようなことを……」
「条件は先にお示ししたはずです。母上におかれましては、それは十分にご承知おきの上でのことと理解しておりますが」
「晋太郎!」
義母は声を荒げた。
これ以上話が長引くのを、盗み聞きしているのも申し訳ない。
いや、それよりもなにも、早く着替えたい……。
「あ、あの……」
障子越しに話しかける。
「お、おはようございます」
言い争う二人の声は、ピタリとおさまった。
「志乃さん? どうしたの、早くいらっしゃい」
少し怒ったような義母の声に、さらに縮こまる。
「いえ、あの……。着替えがどこにあるのか、分からなくて……」
急に開こうとする障子を、慌てて押さえつけた。
きっと晋太郎さんだ。
こじ開けようとしているのに、全力で抵抗する。
こんな肌着姿のところを、見られるわけにはいかない。
昨夜いきなり寝所に連れ込まれたせいで、先に送った嫁入り道具の置き場を知らされていない。
「……そ、そのようにつかんでいては、開けられないではないですか……」
「あ、開けないで……見ないでください……」
ぎりぎりと押し迫る危機に、全力で抵抗する。
それを抑える自分の腕は、ぷるぷると震えていた。
私も本気だが、向こうも本気だ。
「……い、一旦、部屋に戻りなさい……」
「は、はいっ!」
手を離し、廊下を駆け戻る。
頭まで布団にくるまって、とにかく姿を見られないようにした。
「開けますよ」
すぐ聞こえたその声に、ビクリとする。
私の夫となった人は、どうやら部屋に入ってすぐのところに座り込んだらしい。
襖を閉める音が聞こえる。
「そのままで結構」
晋太郎さんは布団をかぶったままの私に向かって、ゆっくりと話し始めた。
「着物はここに置いておきます。場所は後で、母にでも尋ねてください」
どう返事をしようかと悩んでいる間に、その人は深く長いため息をついた。
「……。母は、気難しいところはありますが、悪い人間ではありませんので、仲良くするようにしてください。私のことは構う必要はないので、何でもあなたのお好きになさい」
もしかして気を使われてる?
布団の中から頭だけを出したら、うっかり目が合って、お互いに真っ赤になった。
「ではこれにて」
その人は立ち上がり、すぐ部屋を出て行ってしまった。
運んできてくれたのは、確かに私の小袖だ。
十も歳の離れた人だ。
まだ十四の私のことなんて、ずいぶん幼く見えるだろう。
嫁入りのために仕立ててもらったばかりの、お気に入りだったはずの小袖に袖を通す。
こんなはずじゃなかったのにと思うことばかりで、気分はすっかり重くなってしまった。
私はちゃんと、あの人に嫁として気に入ってもらえるのかな……。
とぼとぼと廊下を歩く。
今度はしっかりと挨拶をしてから、障子を開けた。
「あら志乃さん、昨日はよく眠れました?」
先ほどとは打って変わった、予想外のお義母さまの明るい声に、また混乱する。
叱られはしなくとも、注意か嫌みくらいはあると思っていたのに……。
寝坊しておいてそんなふうに聞かれると、どう返事をしていいのかが、また分からない。
「は、はい……」
義母は急に顔を赤らめ、コホンと咳払いをした。
「で、コトは首尾よくすませましたか?」
コト? コトとはなんだろう。
私はまた首をかしげた。
まだここに来てから一日も経っていないし、やったことといえば、食べて寝て起きたくらいだ。
「えぇ、はい……」
なんだかよく分からないけど、とりあえずそう答えておく。
「そ、ならいいわ。早く食事をなさい」
ぱっと背を向けた義母は、自らご飯をよそってくれた。
とりあえずほっとする。
「あまり無理をすることはありませんからね。そう緊張することもないわ。これから、よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げた義母に、慌てて私も頭を下げた。
「こちらこそ! よ、よろしくお願いします」
こうして、私の新婚生活は始まった。
第3章
朝は起きると、一番に食事の支度をする。
それが済んだら、掃除に裁縫。
お義母さまの花やお唄の稽古にも付き合って、私も一緒にやったりなんかする。
買い物をしたり、たまにはお茶もしたりなんかして、夕飯を作り、寝る。
お義母さまは優しかったし、お祖母さまもいつもにこにことしていた。
しょっちゅうおはぎや羊羹なんかもくれたりして、みんなで一緒に食べた。
お義父さまも穏やかで、にこやかに笑うよい人だ。
私はすっかりこの家に満足していた。
夜になると、自分の部屋へ戻って布団に入り横になる。
いつも私がそうしてから、しばらく経って晋太郎さんはやってきた。
嫁に来た翌日自分で布団を敷いた時、なんとなく気恥ずかしくなって、少し離して二つの布団を敷いた。
その夜はなかなか晋太郎さんは現れなくて、いつの間にか私は眠ってしまっていた。
翌朝目を覚ますと、その人はもういなくて、もっと離された布団と布団の間に、間仕切りとして大きな一枚板の衝立が置かれていた。
晋太郎さんの布団にはほんのりと体温が残っていて、ここで寝ていたことは間違いない。
それ以来なんとなく、ずっとそうやって床を整えている。
晋太郎さんは思っていたよりも、ずっと静かな人だった。
会話はほとんどない。
用があって外に出かける以外は、ほとんど全ての時間を、屋敷の北の奥で過ごしていた。
私は家の中で時折すれ違うこの人の姿を、遠くから見上げるだけの日々を過ごしている。
それを寂しいとか意外だとは思わない。
父親同士が家のためを思い、本人の意思とは無関係に決めた結婚だ。
見ず知らずの者同士の結婚なんて、最初はきっとこんなものなのだろう。
その日、お義父さまはお勤めに出ていて、晋太郎さんはいつものように、奥の部屋に籠もっていた。
私はお義母さまとお祖母さまの三人で、いただいた甘納豆をつまんでいる。
「ところで志乃さん」
ふいにお義母さまは言った。
「晋太郎とは、仲良く出来ていますか?」
「えぇ、それなりに……」
ほとんど話しなんてしていないけど、喧嘩もしていない。
なにしろもう夫婦になってしまったのだから、あの人にとってもこれ以上、どうということもないのだろう。
私にしたって、なにが正解なのかも分からない。
お茶をすすると、お義母さまはお祖母さまと目を合わせた。
「晋太郎の所にも、これを持っていってやって」
そう言って、取り分けた甘納豆を懐紙に乗せる。
晋太郎さんのものだという大きな湯飲みを渡され、初めてそれに触れた。
私の手には大きくて重すぎる根岸色のごつごつとしたそれを、盆にのせる。
「いってらっしゃい」
そう促されて、私はこの家へ来て初めて、晋太郎さんの自室となっている奥の部屋へ足を向けた。
北に向かう廊下は冬でも少し湿っぽくて、ツンとした冷たさが足袋を通して体の芯まで響く。
ここは屋敷の中でも、特に静かな場所だった。
緊張なのか寒さのせいか、かじかむ手で板戸を開く。
広い縁側と、それにかかる屋根の庇が大きく庭に向かって伸びていた。
庭は綺麗に掃かれた何もない質素な土だけ庭で、その人はそんな小さな庭を前にして、書架に広げた本を静かに読んでいる。
晋太郎さんは日々を仕事と道場の手伝いとに費やし、時折どこかに出かけていた。
この奥まった部屋にじっと籠もっていれば、同じ家にいてもほとんど顔を合わせることはない。
家にいる時には、晋太郎さんはこの部屋から出ることはほとんどなかった。
「お茶をお持ちしました」
盆ごと差し出す。
晋太郎さんはそれをちらりと見ただけで、何も言わず視線を本に戻した。
日のよく降り注ぐ縁側は、風さえなければ冬でも暖かい。
「……。何をお読みになっているのですか」
用は済んだので、戻ろうと思えば、すぐに戻ってもよかった。
祝言の日とその翌朝に言葉を交わして以来、この人の顔もろくに見ていない。
何を話そう、なんて話そう。
年上の大きな男の人を相手に、どう接していいのかも分からない。
無意識にぎゅっと拳を握りしめる。
「もう下がっていいですよ」
本から離れた手は、ただ盆を引き寄せただけだった。
大きな湯飲みを軽々と持ち上げ、視線を本に向けたまま口をつける。
そう言われて、緊張で固まっていたのが少しほぐれた。
小さな庭は白壁に囲まれていて、壁際にわずかに常緑樹が植えられている他は、地面がむき出しになっていた。
何を話そうか話題を探してみたけれど、それすら思い浮かばない。
仕事のことも、たまにいく道場の師範としての手伝いのことも、全部お義母さまから聞いて知っている。
「では、失礼します」
立ち上がろうとして、続きの奥の部屋にずらりと箪笥の並んでいるのが目に入った。
「まぁ、立派な箪笥がこんなに。ずいぶんたくさん置いてあるのですね」
掃除の時にも、この部屋に立ち入ったことはない。
ふらりと近寄る。
「とっても素敵。ここには、何が入っているのですか?」
「触るな!」
引き出しに手を掛けようとして、その声にビクリと手を引っ込めた。
「いや、大声を出してすまなかった。しかしそれには触らないで欲しいのです。できれば……そのままにしておいてください」
「は、はい! すみませんでした」
ろくに返事も出来ず、ペコリと頭を下げる。
そこを逃げ出した。
そんな急に、突然あんな大声を出さなくてもいいじゃない!
私はただ単に、並んでいた箪笥が見たかっただけなのに……。
駆け戻ると、お義母さまとお祖母さまは障子から頭だけを廊下に出し、こっちの様子を窺っていたようだ。
ひょいと首は引っ込む。
泣き出しそうな私を見て、お義母さまは大げさに声を荒げた。
「まぁ! あの子ったら、志乃さんに何を言ったの?」
「た……箪笥に、触るなって……」
「ほんっとに全く、相変わらずなんだから……」
義母はイライラと手を揉んだ。
「分かりました。では私が行って、話をつけてきましょう!」
「その必要はないですよ」
ふいに障子が開いた。
もぐもぐと口を動かしながらやって来たその人は、甘納豆の粒を口に放り込む。
腰を下ろすと盆を畳に置いた。
「母さんの方こそ、どうなんですか? 志乃さんを使って介入しようとは。それこそ卑怯者の所業と罵られても、仕方ないのでは?」
そう言って、じっと上から見下ろす。
「まぁ! なんということでしょう。実の母に向かってその口の利き方とは。大体あなたが……」
「志乃さん」
晋太郎さんは怒り始めたお義母さまを完全に無視して、視線を私に向けた。
「あなたが気になさるようなことは、この家には何もないのです。それだけはしっかりと覚えておいてください」
口の端についた甘納豆の欠片が今にもこぼれ落ちそうで、私にはそれが気になって仕方が無い。
「これは、私と両親との間の問題なのです。分かりましたか?」
「ここに……」
私は自分で自分の口の端を差す。
「甘納豆の欠片がついております」
「……。理解してくださったのなら、それで結構です」
晋太郎さんは指の先でそれを拭った。
立ち上がり、お義母さまをギロリとにらんでから、また奥の部屋へ戻っていく。
姿が見えなくなって、ようやくほっとため息をついた。
お義母さまはプリプリ怒っていたけど、私は義母の部屋を出る。
すっかり自室となってしまった、夜には寝所となる部屋に戻ると、いつも晋太郎さんが寝ている畳の場所を見つめた。
私はあの人にとって、頼りない嫁なのかもしれない。
何も知らぬ年若い嫁など、気にもかからぬのだろう。
すぐに何もかもが上手くいくだなんて、そんなことは思ってはいなかったけれども、それでも少しは傷ついた。
一度家を出たからには、簡単に帰るわけにはいかない。
私の居場所は、もうここにしかないのだ。
自分の置かれた場所を少しでもよくしていきたい。
そのためにはあの人のことも、ちゃんとしないと。
子供の頃から知っている寺子屋仲間の男の子とか、奉公人とは違うんだ。
他に男の人で口を利いたことがあるといえば、お稽古の先生か、お父さま、お兄さまくらいしかいない。
晋太郎さんにとっては何ともないことかもしれないけど、私にとってはこの全てが初めてのことなのだから……。
「よし、覚えた。『晋太郎さんは、甘納豆が好き』!」
夜になって、布団に潜り込む。
いつものように少し間をおいてから、衝立の向こうの襖は開いた。
行燈の薄明かりの中で、じっと目をこらす。
唐草文様のぐるぐると複雑に渦巻いた透かし彫りの向こうに、寝巻き姿の晋太郎さんが見えた。
部屋に入り、着物の兵児帯に少し手をかけてから、膝を落とす。
「あ、あのっ!」
勇気を出して飛び起きた私に、その大きな肩はビクリと動いた。
「お、お話があるのですけど……」
「……何でしょう」
晋太郎さんは襟元を整え、枕元に正座する。
私も慌てて、その正面に座った。
その人のぎゅっと握りしめた拳の関節が、行燈の灯りに照らされて浮かび上がる。
こうして向かい合ったはいいが、何を話すのか考えていなかった。
今夜は絶対にこの人に話しかけようと、そのことだけで頭は一杯だった。
「……。わ、私は、桃より梨が好きです」
ようやく思いついたそれだけを言って、恐る恐る晋太郎さんを見上げる。
「あ、もちろん桃も好きですけど……」
自分でも失敗したと分かっている。
晋太郎さんは微動だにせず、何も表情を変えないまま、じっと私を見下ろしている。
「あ、甘納豆も好きですが、汁粉も好きです。焼き栗も好きだし、蒸かした芋も好きです」
自分の寝巻きの袖を、ぎゅっと握りしめた。
「晋太郎さんのことは……、私は、お義母さまからたくさん聞いて知っていますけど、晋太郎さんは、私のこと、あまり知らないだろうと思って……」
「……そうですね」
沈黙が続く。
さほど広くはない部屋で、行燈の明かりが揺れている。
この人からの言葉はない。
「また明日も、お話ししてもいいですか?」
「……。まぁ、それほど長くないのであれば……」
そう言われて、どうしていいのか分からないまま、もじもじとしている。
その人はふいに横顔を向けると、立ち上がった。
「話が済んだのなら、休みます。失礼」
「わ、私にも、何か言いたいことがあったら、遠慮せずおっしゃってください」
「えぇ、分かりました。互いに遠慮は無用です」
その人は衝立の向こうでさっさと横になると、布団をかぶり背を向けてしまった。
私も布団に潜り込む。
これでいいんだ。
ちょっとずつ、ちょっとずつでいいから、ゆっくり、ちゃんと、仲良くなろう。
そう誓って、目を閉じた。
第4章
目が覚めたら、今朝はまだ晋太郎さんが隣で寝ていた。
それだけのことになんだかうれしくて、布団から飛び起きる。
起こさないよう、こっそりと部屋を出た。
朝餉の支度が出来て、やってきたその人の横に座る。
「ご飯、よそいます」
今まではこんなことすら言えなくて、黙って差し出した私の手の上に、無言で茶碗が置かれるだけだった。
相変わらす私の手に茶碗をのせるこの人の仕草には、何の変わりもないけれど、言えた自分の一言がうれしい。
なにか気に入ってもらえるような、可愛くて面白い話を思い出そうとしている。
掃除や縫い物をしていても、奥の部屋ばかりが気にかかる。
そこにあの人がいると思うだけで、縫い目すら違って見える。
今夜はなんの話をしようか、岡田の家での話?
木登りして落っこちたとかいう話は、気に入ってもらえるかな。
「出かけてきます」
ふいにその人の声が聞こえて、針と糸を放り出した。
晋太郎さんの背が廊下を曲がる。
「どちらに行かれるのですか?」
勝手口の土間に並んだ草履を引っかけ、出て行こうとするその人にようやく追いついた。
「すぐに戻ります」
脇には小さな縦長の手桶と、ひしゃくが置いてある。
「先祖の墓参りですか? 待って、私も行きます! 一緒に行ってもいいですか?」
「え?」
晋太郎さんは、明らかに困惑していた。
「供はつけなくてもよいのですか?」
「あ、あなたは来なくてもよろしい」
夫婦で並んで出かけるなんてことが、この人にとっては恥ずかしいのかもしれない。
たしかにそんな夫婦はいないかもしれないけど、それでも私は、そうしたい。
「どうして? 一緒には行けないようなところなのですか?」
「そういうワケでは……」
台から飛び降り駆け寄った私に、この人は明らかに嫌がるようなそぶりを見せた。
「私が行ってはお邪魔ですか?」
その人は言葉に詰まる。
「いつも一人で行っているので……」
小さな手桶を握りしめている。
騒ぎを聞きつけた義母がやって来た。
晋太郎さんをギロリと見下ろす。
「志乃さん、一緒にお行きなさい。私が許します」
そう言った義母を、晋太郎さんも負けずににらみ返した。
そのままくるりと背を向けると、その場を後にする。
「では、行って参ります!」
私は急いで後を追いかけた。
高い白壁の続く道を、必死で追いかける。
「嫌なら帰ります。晋太郎さんがお嫌なら、帰ってほしいのなら、すぐに帰ります!」
白壁に囲まれた通りは人影もまばらで、駆け足で追いかける私は、すぐにこの人に追いつけた。
大通りに出る一歩手前で、この人は立ち止まったかと思うと、振り返ってため息をつく。
「女子が一人で、外を出歩くものではありません」
そう言われて、私はうつむいた。
武家の者が一人歩きするだなんて、あり得ない。
だけど、今だって晋太郎さんは、一人歩きしようとしているくせに……。
帰るつもりはさらさらない。
もしかしたらこの人は、自分から帰ってほしいと思っているのかもしれないけど……。
じっと黙ったまま突っ立っていたら、この人はまたため息をついた。
「何がお好きなのでしたっけ? ところてん? こんにゃく?」
「どちらも好きです!」
再び歩き始めた背中を、必死で追いかける。
人混みの中をかき分けるようにして歩きながら、数歩後ろをついて歩く私を、それでも黙って許してくれている。
晋太郎さんはすぐ近くにあった、川沿いの小さな茶店に腰を下ろした。
無言で隣に座るよう促される。
私が腰を下ろすと、晋太郎さんは大根を注文した。
「この店では、これが一番美味いのです」
大釜でゆでた大根の一切れが出される。
それは湯気を立てたまま、その人の口に消えた。
私は自分の手に乗せられた、柔らかな煮物に箸を通す。
醤油で煮付けたこの大根は、確かに美味しいけれど……。
昨晩私が好きだと言ったのは、桃と梨だったし、これはところてんでもこんにゃくでもない……。
「こういった味付けが、お好きなのですか?」
晋太郎さんを見上げてみても、それに返事は返ってこなかった。
話しかけたのが聞こえていなかったのか、さっさと食べ終わったこの人は、橋を通り過ぎる人々の群れをぼんやりと眺めている。
私が食べ終わるのを待って、すぐに立ち上がった。
「では戻りましょう」
「お出かけは、よろしかったのですか?」
「えぇ、もうよいのです」
すたすたと歩き出す。
「あ、やっぱりお邪魔でした?」
「いいえ。そういうことではございません」
晋太郎さんはその言葉通り、来た道をまっすぐに戻ると、屋敷の門をくぐり再び北の奥へ引きこもってしまった。
その姿になぜか胸が痛む。
仕方なく部屋に戻ってみると、出て行った時に放り出した裁縫道具が、きれいに片付けられていた。
きっとお義母さまだ。
裁縫の続きをしようにも、針を持つ気にはなれない。
出来ればもう少しだけ、二人で話していたかった。
嫁に来たのに、これでは嫁ではないみたいだ。
あの人は、私と仲良くしようという気もないのだろうか。
悲しくはないけど、少し疲れた。
怒るほどのことでもないかもしれけど、遠慮は無用と言ったのはなんだったの?
ふいにゴトリと音がして、襖の向こうへ聞き耳を立てる。
晋太郎さんが持っていた手桶を、廊下の柱へぶつけたようだ。
「どちらへ?」
襖を開けた時には、もうその姿は見えなくなっていた。
お義母さまと言い争う声が遠くに聞こえてくる。
私はそれに、じっと聞き耳を立てていることしか出来ない。
やがてそれも静かになったかと思うと、晋太郎さんは再び家を出て行ってしまったようだ。
あの人は私を家に連れ戻すことに成功すると、すぐにまた出かけて行ったのだ。
夕餉に再び顔を合わせる。
食事をしている最中も、一言も言葉を交わさなかった。
お義母さまが口火を切る。
「晋太郎。今日はどこへ出かけていたのですか?」
晋太郎さんは白飯を口に放り込むと、ゴクリとそれを飲み込んだ。
「墓参りですがなにか」
「なら志乃さんも、連れていって差し上げればよかったじゃないですか」
晋太郎さんは腹を立てている。お義母さまも腹を立てている。
「……では、次からはそういたしましょう」
その言葉に、義母は私を振り返った。
「だ、そうですよ、志乃さん。次はちゃんと晋太郎に案内してもらってくださいね」
「……。はい……」
いつになく張り詰めた食事が終わり、いつものように夜が来て、いつものように布団に入る。
長い長い夜となっても、晋太郎さんはその日、私の起きている間に寝所に現れることはなかった。
第5章
翌朝目を覚ましてみると、珍しく隣でまだ晋太郎さんが寝ていた。
たいてい私より早く起きて奥の部屋に戻っているのに。
その姿に私はまだ見慣れていないし、違和感もある。
起こさないようにと、そっと立ち上がったつもりだったのに、その人はパチリと目を開いた。
「お待ちなさい」
ふいに呼び止められて、ビクリとなる。
「今日の用事が済んだら、奥のお部屋においでなさい」
驚いて見上げる。
それでもこの人は、それだけを言い残してさっさと出て行ってしまった。
あの人はいつも、着替えとか髷とか朝の身支度を、どこでしているのだろう。
奥の部屋で、全部一人で済ましているのだろうか。
ではあの箪笥には、全て晋太郎さんの物が入ってる?
だから見られるのを嫌がったのかしら。
それでも大人の男の人が、あれほどの衣装を役者でもないのにそろえているとは思えない。
なにか他に見られたくないものでも、隠しているのかな。
昼までの時間をやり過ごすのに、こんなにも苦労するとは思わなかった。
平常心を装うとしても、なかなかに難しい。
お義母さまに相談してみようかとも思ったけれど、晋太郎さんからまだ何の話しも聞いていないのに、どう相談するのかも分からない。
それで余計なことを言ってしまって、もし晋太郎さんの気に障るような話しをお義母さまから聞いてしまったら、その方が自分の気持ちを保てそうにない。
あの人に何を言われるのだろうと思うと、まだ少し怖くもある。
間違いなくそわそわしているのに、何も聞いてこないお義母さまもお義母さまだとは思う。
助けを求めるように見上げても、それに気づいているのか、気づかぬフリをしているのやら……。
早く会いに行きたいのか行きたくないのか、引き延ばせるだけ引き延ばしていたいつもの仕事が、ついに全部終わってしまった。
手の空いてしまった以上、あまり遅くなってもあの人と顔を合わせにくい。
覚悟を決めた。
お義母さまとお祖母さまの目を盗んで、奥へと忍んでゆく。
そっとのぞき込んだ部屋で、晋太郎さんは畳に寝転がっていた。
藍色の濃い小袖姿に、晩冬の日が降り注ぐ。
寒くはないのかな。
この人は冬でも板戸を開け放ち、何もない土の庭を眺めている。
その人は私に気づくなり、起き上がった。
姿勢を正すと、自分の正面に座るよう勧めてくる。
それに素直に従ってはみたものの、私の顔は間違いなく寒さと緊張で赤らんでいた。
何を言われるのだろう、どう返事を返せばいいのだろう。
そのことだけで頭は一杯なのに、晋太郎さんはじっと目を閉じ、腕を組んだままうつむいている。
「祝言の席での無礼に関しては、お詫びします」
昨日のお出かけのことか、箪笥のことかと意気込んでいたのに、想定外の滑り出しだ。
しかも目の前にいるこの人は、私ではない別の誰かに腹を立てているよう。
「あなたはここに嫁に来たのであって、使用人や奉公人などではありません。それはちゃんと私も分かっております。あなたもそうですよね? あなたはこの家の嫁であって、決して奉公人などではないのです。最初にきちんとお話をしましたよね。あなたはご自分のお好きにしてよいのだと」
沈黙が流れる。
雀が一羽やって来たかと思うと、すぐに飛び去った。
私は仕方なく口を開く。
「えぇ、そうです……」
「あなたは私の目から見ても、嫁としての務めをきちんと果たしております。そのことには、しっかりと感謝しております。あなたは私の立派な嫁です。私に対して、なにか母の言うような不満でもありますか?」
首を横にふる。
この人は一体何に、イライラとしているのだろう。
「そうでしょう。なら何も問題はない。母の心配は全て杞憂です。なにかあれば、いつでもどこでも遠慮なく、私におっしゃってください」
目が合った。
「ではもう結構です」
ふいと向いた横顔に、つい口を挟んだ。
「お話しとは、このことだったのですか?」
その人のまぶたがピクリと動いた。
そのまま私をじっと見つめている。
私はきっと、何かを言わなければならない。
「私には何のことをおっしゃっているのか、さっぱり分かりません」
本当に言いたいことは、他にももっと、たくさん山ほどある。
「ですが……」
「……。ですが?」
「……ですが……。もういいです……」
着物の袖口をぎゅっと握りしめる。
私はうつむいたまま、顔を上げることが出来ない。
晋太郎さんの口調は、とたんに静かになった。
「あなたの、心細いのは分かります。初めてのことだらけで、不安なのでしょう。それは理解しているつもりです」
そう言うと、晋太郎さんは体を横に向けた。
「嫁に来た以上、遠慮は無用と申しました。私も遠慮はいたしません」
積んであった本の一冊を広げる。
「あなたの気が楽になる方法を、考えておきましょう」
どうやらそれで、本当に話は終わったようだ。
立ち去る機会を逃した私は、そのまま本を読む晋太郎さんを眺めていたけど、どうしようもなくなって立ち上がる。
「今夜はまた、お話ししてもいいですか?」
「えぇ、もちろんです」
一礼をしてから、部屋を後にした。
とぼとぼと廊下を歩く。
お義母さまの部屋から伸びた手が、私を「おいで」と呼んでいた。
「あの子、ちゃんとあなたに謝った?」
あぁ、やっぱり。
お義母さまに言われたから、突然私にあんなことを言ったんだ。
「はい。それは大丈夫です」
晋太郎さんの意思で、そうしてほしかったな……。
私はその場に座り込んだまま、じっとしている。
「またあの子に何か言われたの?」
そうやって聞かれても、なんと答えていいのかが分からない。
「いえ、特には何も……」
「言いたいことがあるのなら、ガツンと言っておやりなさい。それくらいしないと、分からない子よ。あの子は」
「はい……」
まぁ……、なんとなく分かってはいたけど、やっぱり聞いてるよね、話は全部……。
「頑張るのよ!」
「はい!」
お義母さまとお祖母さまは、私の味方だ。
嫁に来たんだもの、新しい家族とは仲良くしたい。
気を楽にする方法を考えておくと言っていたから、晋太郎さんの方からなにかあるかと、そわそわしながら過ごしていた。
だけどいつまで経っても、あの人の方から話しかけてくることはなく、奥の部屋に籠もったまま、やっぱり姿すら見せない。
「そりゃ、すぐには無理か……」
自分の方から奥に会いに行くのも、なんだか違うような気がして、一人部屋で悶々と過ごす。
夕餉の時も、何の会話もないまま静かに終わり、自分の部屋へ戻った。
夜になって、晋太郎さんがやって来るまで、起きていようと思った。
だから枕元ではなく足元の方に、じっと正座して待っている。
今夜は話しをしてくれると言っていたのだから、きっといつもより長く話してくれるに違いない。
そうやって腹をくくり、構えて待っているというのに、いつまで経ってもやって来る気配はない。
夜はとうに更けた。
絶対に起きて待っていようと思っているのに、眠気に押されてしまっている。
やがてウトウトとしてきた。
話す内容をもう一度復習する。
今日の夕餉で美味しかったと思ったところと、明日の朝餉のこと。
それなら毎日聞けるし、返事にも困らないだろうから。
朝餉に添える漬物の話しをすれば、ちゃんとあの人の望み通りに出来るし。
白菜と大根の漬物があるから、それのどっちが好きかを聞いて、お義母さまや台所を手伝う奉公人さんたちにはバレないように、こっそり多めに皿に盛ってあげれば……。
そんなことを考えながら、いつの間にか眠ってしまっていて、目を覚ました時にはすでに朝日が昇っていた。
私の上には布団が掛けられていて、衝立の向こうのあの人の布団は、なに一つ乱れていないままだ。
朝餉になっても、食事に現れない。
「晋太郎さんは、どうしたのでしょうか」
空席のままになっている隣の席で、味噌汁はすっかり冷めてしまった。
「さぁ、私に聞かれても分かりません」
いつも元気なお義母さまは、今日は味方になってくれないらしい。
助けてくれるって言ったのに……。
「あの、私が行ってみても、大丈夫でしょうか?」
「どこへ?」
「奥の部屋へ……」
義母はあっけにとられたような顔をする。
「そんなこと、私に聞く?」
義母は一番に朝餉を食べ終えると、ため息をついた。
「行きたいなら、行ってきなさいよ。夫婦なんでしょ?」
今朝のお義母さまは素っ気ない。
滅入りそうな私を見て、お祖母さまが口を開いた。
「晋太郎は優しい子だから、志乃さんのことも悪くは思ってないはずですよ。気にせず行ってらっしゃい」
そうだ。そうだよね。
遠慮はいらないと言ったのだから、私だって遠慮する必要はないのだ。
どうすればいいのかなんて、考えたって分からない。
分からないことは考えてもしょうがないので、考える必要もない。
正直、待っているのは私の性に合ってないんだった!
「はい! では、行って参ります!」
私と晋太郎さんは、ちゃんとした夫婦なんだから!
お義母さまとお祖母さまの応援を受けて、気合い入れに帯をバシバシ叩く。
あの人の好物だという籠八屋のあん餅を武器に、いざ敵地へと赴かん!
「たのもう!」
バシリと襖を開けたら、その人はやっぱり開け放した縁側にいて、火鉢の灰を入れ替えていた。
驚いたように体をビクリとさせる。
「なんですか?」
いつもシュッとしてピシッとしているこの人が、明らかにやつれたような表情をしている。
もしかして、寝不足?
私が近くに座ろうとすると、その人はごそごそと動いて場所を譲ってくれる。
そのまま何も言わず、それでも手は止めることなく、火鉢の手入れを続けている。
壺から新しい炭を加えると、ようやくこちらを向いた。
「それは籠八のあん餅ですか?」
話しかけてもらえた。
さすがお義母さまとお祖母さまの選んだ品だけのことはある。
「焼いて食べますか? 私は餅は、焼いている方が好きなのです」
ちょうどいい頃合いでここへ来たのでは?
火鉢を挟んで向かい合っている。
「籠八のあん餅なら、焼かずにそのまま食べるのがいいでしょう」
この人は置いた盆から生の餅を手に取ると、無言でほおばる。
せっかく炭を入れ替えたばかりの火鉢があるのに……。
私は仕方なく、そのままの餅をほおばった。
「ん、おいしい! 本当においしい! あんこがふわっふわ!」
「そうでしょう、そうでしょう。ここの餡は他の餡とは違うのです。焼いて食おうなど笑止千万、狂気の沙汰」
目が合った。
ちょっぴりうれしくなる。
何故か得意げなこの人にプッと吹き出してしまったら、晋太郎さんは頬を赤らめた。
あんこの甘みが広がる。
「炭が弱くなっていたのですか?」
「えぇ、大分暖かくなってきたとはいえ、日が落ちるとまだ寒さがこたえるので」
開け放した縁側からは、西日が差し込んでいた。
日の当たるところにいれば、ずいぶんと暖かい。
「案外日当たりのよい庭なのですね」
「そのようにこしらえてあるのです」
手のひらにじんわりと、湯飲みからのぬくもりが伝わってくる。
言おうと思って準備していたことなんて、どうでもよくなってしまった。
「先日連れて行ってもらった、あのお大根も美味しかったです。また連れて行ってください」
「……あぁ。分かりました」
わずかに微笑む。
そのまま静かに、ただぼんやりと、その人は庭を眺め続けていた。
「昨夜はお話しできずに、申し訳ありませんでした」
前を向いたままそう言った晋太郎さんに、私は首を横に振る。
流れる雲を見上げていた。
それだけでも、ほんのり暖まる。
この人は大きなあくびをした。
「実は、昨晩は結局寝られなかったのです」
「何かあったのですか?」
「……。あなたが、足元で寝ていたので……」
「それがどうして寝不足に?」
晋太郎さんはそれには答えず、わずかにうつむいて頬を赤らめた。
「眠たくてたまらないので、少し休んでもよろしいでしょうか」
「えぇ、どうぞ」
すぐ隣でごろりと横になると、あっという間に眠ってしまった。
すっかり動かなくなってしまった晋太郎さんに羽織りをかけ、そこを後にする。
夕餉の席では、普通に話せた。
「今日のごぼうは、私が炊いたのです」
「そうですか。よく味付けがされています」
「少し砂糖を多めに入れたのです」
「えぇ、とても美味しいですよ」
何気ない話でも、普通に続いているのがうれしい。
勇気を出して奥の部屋へ行ってみてよかった。
もう少し自分の方から話しかけてみても、いいのかもしれない。
そんな私たちの様子を見た義母が、ふいに口をはさんだ。
「で、あちらの方は順調なのですか?」
「あちらの方とは?」
隣の晋太郎さんは、突然味噌汁を吹き出した。
ごほごほとむせている。
「早く孫の顔が見たいと言っているのです」
「えぇ、そうですよね」
結婚したんだもの。そりゃそうだ。
「ほどよい頃を見計らって、神さまはちゃんと授けてくださるものと思うております」
「え?」
同時にそう言った晋太郎さんとお義母さまは、それぞれにそれぞれの顔をして、めちゃくちゃに私を見てくる。
「だって、そういうものでございましょう?」
義母の顔は真っ赤になった。
「そ……、それには、それなりの努力をしなくてはなりませんよ?」
「えぇ、もちろんです」
私は晋太郎さんを見上げた。
「ねぇ、そうですよね?」
「当たり前じゃないですか」
私の隣でその人は急に姿勢を正し、背を伸ばす。
「当然です」
そう言って椀の汁を一気にあおった。
「いずれ、自然に授かるものと思うておりますが……」
「ならばよいのです。みなまで聞きたいわけではございませんので」
義母はごほごほと咳払いをしてから、やっぱり一息に味噌汁をあおる。
その仕草は二人ともとてもよく似ていて、やっぱり親子なのだなと思った。
「私も早く、赤さんがほしいです」
「分かりました。それを聞いて、私も安堵いたしました」
お義母さまはそう言って、凄い勢いで食事を再開する。
晋太郎さんは、今度はご飯で咳き込んでいた。
夜になって、いつものように敷いた布団と布団の間に衝立を立てる。
足のついた大きな一枚板の衝立は、床から少し浮いていて、布団に横になれば、その向こうの様子が少しは見ることが出来る。
先に横になっていると、ちょっと遅れてその人は入ってきた。
「明日は、お義母さまと市に行く予定なのです」
「そうですか」
唐草渦巻きの向こうで、晋太郎さんも床に入った。
「何か欲しいものはありませんか? 明日はお勤めなのでしょう?」
「……。そうですね、では、アンコウがあればお願いします。鮭もいいですね。コイやサワラも好きです」
「あ、私もサワラの味噌焼きは好きなのです。では、あればサワラを買ってきます」
「お願いします」
「はい!」
ごそごそという衣ずれがして、晋太郎さんは衝立の向こうで背を向けた。
「あ、あの……、晋太郎さんも、子供が欲しいと思おいですか?」
「……。それが勤めだとは、思うております」
「ならよかった」
ほっとして、ため息をついた。
「子は授かり物と申します。早くそうなればよいですね」
私も寝返りを打つ。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
明日は十日市だ。
久しぶりの遠出になるし、しっかり寝ておこう。
私はすぐ手の届く隣で寝ている人に思いを馳せる。
そうか、アンコウか。また一つ、この人のことを知れた。
よく実家で食べていたサワラは、どこで買っていたのだろう。
あれを一度、晋太郎さんにも食べさせてあげたいな。
そうだ。今度家に頼んで同じものを取り寄せてもらおう……。
そんなことをあれこれと考えているうちに、いつの間にか眠っていた。
第6章
坂本の家に嫁いでから、数ヶ月が過ぎた。
凍てつくような冬の空気も緩み、日差しに暖かさが宿る。
私がこの家にいることにも慣れてきたのか、晋太郎さんは奥から出て、ふらふらと歩き回ることが増えた。
以前よりはずっと、顔を合わす機会も増えている。
時折話しかけられたりなんかして、言葉も交わす。
奥の部屋に籠もっていた頃には、居るか居ないかも分からないような人だったのに、今は土間の床板に腰掛け、スルメをかじりながら私たちの様子を見ていた。
義母は私と奉公人まで総動員して、意気揚々とたすきをかける。
「そんなに一度にこしらえて、大丈夫なのですか?」
「面倒はいっぺんに済ませてしまうのが、コツなのです」
いただいたカブやらレンコンやらを一度に全部煮てしまって、天日に干し、漬物や砂糖漬けにしてしまおうという算段だ。
お義母さまはいつも以上に意気込んでいる。
「さて、志乃さん。煮付けの前の下準備を教えましょう。これは坂本家の作法なのですから、しっかり覚えてくださいね」
そう言うと義母はまな板を二つ並べ、包丁を置く。
「まずは野菜の切り方からね。これはうちのやり方なのですから、よろしくお願いしますよ」
私もたすきをかけた。
皮をむき、次々と切られてゆく野菜を、見よう見まねで切っていく。
大鍋に放り込んだ。
「先に出汁を取らないのですか?」
「それはいいのよ」
お義母さまには、お義母さまの流儀があるらしい。
「下味をつけると、味が濃くなっちゃいますから」
晋太郎さんは何も言わず、黙々とスルメをかじっている。
湯気の立ちこめる土間は、すっかり騒がしくなった。
天日に干すためのざるを運んだり、漬物を仕込む樽や置き石を運んだり。
力仕事は晋太郎さんも、なんとなく手伝っている。
「カブとダイコンが煮えました。後はどうすればいいですか?」
「ざるにあげて、湯切りしてちょうだい」
お義母さまはぬか漬けに夢中だ。
鍋の野菜は、こぽこぽと泡と一緒に踊っている。
この後にもまだまだ、しなければならない作業は山積みだ。
奉公人たちもそれぞれに、忙しく働いている。
私は鍋の取っ手をつかんだ。
「あっつ!」
勢いでうっかり持ち上げた鍋の取っては、皮膚まで溶かすように熱い。
「あっ、あ……」
足元がよろける。
重たいうえに熱い!
だけどここで手を離してしまったら、鍋の中身が台無しだ。
「鍋敷きを用意なさい」
大きな手がひょいと伸びて、私から鍋を取り上げた。
「あ、熱いですよ!」
「そこでよいでしょう。危ないので、小松菜をどけてください」
「ふ、布巾で持たないと!」
晋太郎さんは、ため息をついた。
「そう思うのなら、早く鍋敷きを出してくれませんか。なんならそこの、布巾でもいいです」
慌てて板の間に布巾を広げ、思い直してそれを畳む。
「早くここに……」
「小松菜」
山と積まれたその束を抱えて持ち上げると、その人はようやく鍋を布巾に置いた。
「あ、熱くはないのですか?」
「熱いですよ」
義母の呼ぶ声が聞こえる。
晋太郎さんは行ってしまった。
ざるの山を運ぶ手伝いをするよう言われている。
「あ、これを使いますか?」
持ち上げた山のうちから、その一つを差し出す。
私はそれを受け取った。
「早く湯から出さないと、冷ますのに時間がかかりますよ」
ざるの山を抱えたまま、その人は外に干すため土間を出て行く。
とり残された私は、呆然と見送った。
この手はまだじんじんと痛むのに、あの人は何ともないのだろうか。
すごく熱かったよ?
あの人にしたって、熱くなかったわけでは決してないだろうに……。
大きなさじで、鍋の中身をすくう。
まだ湯気の立ち上る大根をざるに移した。
その人は庭先の縁側に座って、作業を眺めながらぼんやりとスルメをかじっている。
その姿を見ただけで、なぜだか急に恥ずかしさがこみ上げてきて、大根の一切れを落っことしそうになる。
夜になって、その人は部屋にやってきた。
「手を見せてください」
私にはどうしても、確認しておかなければならないことがある。
「まだ起きていたのですか?」
「手を……見せてほしいのです」
行燈の薄明かりの中で、ムッと顔をしかめたその人は、渋々と正面に腰を下ろした。
「あなたが気にするほどのことではありませんよ」
「左手です」
動こうとしないその人の、袖から伸びた拳にそっと触れる。
ずいぶん大きな手だ。
ゆっくり開くと、何ともなっていないように見える。
「やけどを、してはいないのですか?」
「……。あなたの手は大丈夫でしたか」
パッと手を離した。
私の手は、取っ手をつかんだ部分が一直線に赤くなっている。
「わ、私は、大丈夫です」
痛みがないわけではないけど、余計な心配もかけたくない。
寝巻きの袖を引っぱって、見られないように隠した。
晋太郎さんはそんな私を、じっと見つめている。
「私の手をみたのですから、あなたの手をみてもいいですか」
「え?」
大きな手が伸びてくる。
晋太郎さんの手が私の手に触れ、それを開いた。
「あぁ、赤くなっているではないですか。利き手がこれでは、今日の仕事は辛かったでしょう」
触れられている手の方が熱くて、すぐに引っ込めたい。
「そ、そんなことはないです」
どうしていいのか分からなくて、おずおずとその手を引っ込めた。
恥ずかしさに背の後ろに隠す。
「やはり女人には、気安く触れるものではありませんね。失礼しました」
「わ、私は大丈夫です!」
「あなたが大丈夫なら、わたしも大丈夫ですよ」
「でも……」
「でも?」
立ち上がったその人を見上げる。
「あなたも疲れたでしょう。早くおやすみなさい」
「……。はい。おやすみなさい」
この人は衝立の向こうへ行ってしまう。
横になると、すぐに背を向け布団をかぶってしまった。
行燈の明かりを消す。
真っ暗になった部屋で、私も布団に潜り込んだ。
第7章
ゆっくりと日は昇ってはまた沈み、そんなことを繰り返しながらも時は進んでゆく。
ぎこちなかった会話も少しは長く出来るようになって、晋太郎さんが家にいるときには、北の部屋に出入りすることも増えてはきていた。
「もう昼間の火鉢は、いらなくなりましたね」
お義母さまから渡されたお菓子を頼りに、今日もこの人の隣に座る。
晋太郎さんはいつも、そっと静かに微笑んで迎えてくれた。
本を読んでいる隣で、刀の手入れや句を練る横で、私はそんな姿を見て見ぬふりをしながらお茶を飲む。
ウグイスが鳴いた。
「もうすぐ桜の季節ですね、お花見に行きませんか?」
「行きたいのなら、母とでも行っていらっしゃい」
「晋太郎さんは?」
「通いの道場で見ているので結構です」
「それは、ついでではありませんか」
「十分ですよ」
話しをするようにはなっても、いつものらりくらりと交わされる。
「でも、せっかくですから……」
晋太郎さんは開いていた本を閉じた。
「私のようなつまらない男と花見に行っても、あなたが面白くないでしょう」
「そんなことはないです!」
「遠慮は無用ともうしました」
そう言って静かに微笑む姿に、私も口を閉ざしてしまう。
「少し休みます」
横になるとすぐに、その人は目を閉じてしまった。
私は日の当たる小さな庭を見下ろす。
晋太郎さんはもしかしたら、私なんかと出かけるのは嫌なのかもしれない。
何もなかった庭土の表面に、ぽつぽつと何かの芽が出始めていた。
私はふとそこへ下りる。
以前から気にはなっていたのだ。
伸び放題になってしまう前に、手入れをしておこう。
庭の草は早いうちに抜いておくに限る。
すぐ足元に生えていた新芽を摘んだ。
プチッという小さな音を立て、辺りに青臭い匂いが広がる。
指に付いた汁を布巾でぬぐった。
できればあの人に、喜んでもらいたい。
やり始めてしまうと止まらないもので、次々と新芽を摘んでいく。
簡単に抜けるものもあれば、根が深くなかなか抜くのに苦労するものもあった。
しっかりと根を張った一本を引き抜く。
「何をしている!」
「草を抜いております」
引き抜いた根を、誇らしげに掲げた。
「今すぐ出て行け!」
その人の大声で怒鳴るのを、初めて聞いた。
全身が硬直する。体が動かない。
「そこから出ろ!」
晋太郎さんは縁側に飛び出したと思ったら、ふいに立ち止まり両手で頭を抱えた。
「いや、大声を出して悪かった。それは、私が育てている花の芽なのです。どうかそのままにしておいていただきたい」
「あ……」
掘り返した土の上には、剥き出しの根が転がっていた。
「大丈夫です。まだ元には戻せます。なので、今すぐそこを出てもらえますか」
手にしていた草の根を放り出す。
草履を脱ぎ捨て縁側から駆け上がると、廊下を走った。
お義母さまが飛び出してきたのを横目に、入れ違いで部屋に飛び込む。
お義母さまとあの人が、何かを怒鳴り合っている声が遠くで聞こえる。
私はぴったりと閉じた襖を背にしたまま、ぽろぽろとあふれる涙を止められずにいた。
庭の草を摘んだのが、そんなにいけないことだったの?
部屋から出られなくて、ずっと引きこもっていた。
夕餉も食べに行けなかった。
後からこっそりお義母さまが食事を運んできてくれて、それはちゃんと食べたけど、膳はそのまま廊下に出しておいた。
夜になるのが怖かった。
この襖の向こうから現れるのが、もう今までと同じ人だとは思えない。
晋太郎さんの布団は普通に敷いて、私のはうんと遠くに離した隅っこに敷いた。
衝立は自分のすぐ脇に立てる。
布団に潜って震えながら時間を過ごしていても、その夜晋太郎さんが部屋に来ることはなかった。
あの人はまた、奥の部屋に閉じ籠もるようになってしまった。
夜も寝所へやってこない。
食事にも来ない。
お祖母さまが食事を運び、勤めに出る時は下男を伴い支度をさせ、さっさと出て行ってしまう。
いつ帰ってきたのかも気づかないくらい静かに戻ってきて、夜は独り奥の部屋で休む。
お義母さまに呼ばれた。
「晋太郎のことで、話があります」
義母の部屋で向かい合って座ると、お義母さまは深くため息をついた。
「晋太郎の噂は、ご存じですよね」
「……。はい」
「あの子はまだ、珠代さんのことを忘れられないでいるのです」
子供のいない坂本家には、跡取りが必要だ。
晋太郎さんは一人子。
健康で若い嫁をというのが、この家の望みだった。
父親同士が知り合いだった縁もあり、私はこの家に嫁ぐことになった。
「晋太郎のことで困ったことがあれば、すぐに相談してください。どんなことでも話は聞きます。ですがあなたも、努力は怠らぬようお願いします」
「はい……」
望まれて嫁に来た、望まれない妻だという覚悟はしてきた。
だから大丈夫。
こんな事情でもなければ、私がこれほど格上の家に嫁げることなんてありえない。
誰の目からみても、破格の良縁だった。
反対だなんて、出来るわけがない。
分かってる。
私がしっかりしないといけないってこと。
義母に言われて、盆に載せた茶菓子とともに奥へ向かう。
話はつけてきたから、仲直りをしてこいとの仰せだ。
「失礼します」
北の間の引き戸を開ける。
返事はない。
見るとその人は、静かに庭を眺めていた。
この部屋は晋太郎さんの中にある珠代さまとの思い出を、大切に守っている場所だったのだ。
私の抜いた草は、その大切な思い出の花の芽だったのだ。
その芽は今やびっしりと顔を出し、細く柔らかな茎と葉を、懸命に空へ向かい伸ばしている。
「ずいぶんと芽が伸びましたね」
「このままにしておいてください」
盆を置き差し出す。
湯気だけがゆっくりと立ち上った。
「庭の世話に関しては、全て私がやります」
「申し訳ございませんでした」
両手の指先をきっちりとそろえて前につき、丁寧に頭を下げる。
額を床につけたまま、じっとその人の言葉を待った。
「……飲んだら、自分で運んでおきます。あなたはもう戻りなさい」
恐る恐る頭を上げても、まだじっと庭を向いたままだった。
その横顔を見つめる。
ピクリとも動かないその姿に、私は立ち上がった。
日の当たる、暖かな廊下を戻る。
ふわりと舞い込んだそよ風は、確実に春の空気を運んでいるのに、床板の冷たさだけは変わらない。
足は鉛のように重かった。
「ちょっと志乃さん。こっちにいらっしゃい」
障子が開いて、お義母さまが手招きをしている。
部屋に入ると、お祖母さまも一緒に座っていた。
「全く、困った子でごめんなさいねぇ」
ここは義母の部屋だ。
私のより少し広いくらいのお部屋で、比較的様々な道具がごちゃごちゃと置かれている。
その畳の中央に、山と盛られたまんじゅうの大皿があった。
その一つを義母は手に取る。
「ほら、あんたも遠慮無く食べなさい」
白い薄皮のあんまんじゅう。
芋と南瓜と栗、柏餅と草餅まである。
どこでこんなにたくさん買い込んできたのだろう。
「本当に、いつまで引きずってんのかしらねぇ~。まぁそりゃ、気持ちは分かりますよ。だけどねぇ。甘ったれてるだけなのよ。ホントはね」
一口かじったつぶあんの皮が、いつまでも口の中に残る。
もごもごとしたそれをゆっくりと飲み込んだ。
義母は火鉢の上にかけてあったやかんから、急須に移すことなく直接湯飲みに茶を注ぐ。
少しお行儀の悪いその行為にも、お祖母さまは平気な顔だ。
「あの子は珠代さんのことが、好きだったからねぇ」
「ちょっとお義母さん、志乃さんの前でそんなこと言わないでよ」
「珠代さまは、どのようなお方だったのですか?」
義母は次のまんじゅうに手を伸ばした。
「えぇ? いいわよ、そんなこと知らなくったって」
二つに割ったその片方を口に放り込むと、義母はずずっと音を立てて茶をあおった。
「なにせ初恋の人だったからねぇ」
「お義母さん!」
近所でも名高い恋の噂だった。
年上の女性に恋をして、熱心に通う晋太郎さんの話は、その頃まだ幼かった私の耳にも入ってきた。
「晋太郎さんはどのようなお方なのかと、兄に聞いたのです。この家に嫁ぐことが決まってから。兄は笑って、とてもお優しい、よいお方だと申しておりました」
晋太郎さんは勤め先で、兄の上役だ。
何度か話をしたこともあると言っていた。
嫁入りの話しとはまだ無縁だった頃の私は、見たことも話したこともない、その熱烈な恋物語の二人に憧れた。
「珠代さまは幼い頃から他に決まったお相手がいてねぇ……」
本人同士の意思で、結婚が決まることはない。
家の都合が全てだ。
「晋太郎は姉のように慕っていました。一緒になることは難しいと、本人も分かっていたはずなのに……」
珠代さまは嫁がれてすぐに、子供を産んで亡くなられた。
「嫁ぎ先のお産が元で亡くなるなんて、ご本人はさぞ悔しい思いをしたことだろうと……」
義母はため息をつくと、私の手に草餅をぽんとのせた。
「だからようやく、志乃さんが決まったときには、本当にありがたくって。感謝したのですよ」
その草餅を一口かじる。
それは微かにほろ苦い味がした。
「やめろというのに聞きゃあしない。嫁入り前の珠代さん家に押しかけてあーだこーだと。珠代さんも晋太郎には甘くってねぇ。あの子も頑固なところがあんのよ。全てが自分の思うがままにならなきゃ気に入らないとか。もうねぇ! なんだってあの人の……」
私はそんな話しを聞きながら、苦い草餅をかじる。
義母はコホンと咳払いをした。
「あの子にはね、前を向いてほしいの。悲しい気持ちは十分に分かるけど、いつまでもああやって塞ぎ込んでいるべきじゃない。でしょ? 本人も分かってはいるのよ。ただ意地になっているだけでね。実際あの子も……」
お義母さまの勢いは止まらない。
山盛りのまんじゅうは、もう半分になっていた。
「あぁもう駄目、お腹いっぱい。今日のお夕飯は、お茶漬けだけにしときましょ」
「いいのですか?」
「お腹がすいたらお父さんも晋太郎も、残ってるまんじゅう食べるでしょ」
そう言って、さらにもう一つを手に取る。
「志乃さんも、しっかり食べておきなさいよ」
「はい」
お義母さまはにっこりと笑うと、またずずっとお茶をすすった。
夜になって、その人は久しぶりに部屋に入ってきた。
予期していなかったその物音に、驚いて飛び起きる。
目が合ったら、晋太郎さんは静かにうつむいた。
「……。あなたや母のことを、奉公人のように思っているわけではないのです。もう何度も申してはおりますが、そこはきちんと理解しておいていただきたい」
そう言うと、晋太郎さんは私の枕元に座った。
「あなたはうちの嫁です。ですから家のことはお任せします。私は、自分のことは自分でやります。こちらからお願いするまで、他のことは特に……、していただかなくても、かまいません」
「……。他のこと、とは?」
「いつもしていただいている、それ以上のことです」
沈黙が流れる。
私のしていることだなんて、お茶を運ぶのと、食事の知らせに行くことくらいだ。
「お庭のこと、まだ許してはいただけないのですか?」
その人は少し口ごもった。
「に、庭のことだけではありません。他にも色々と……ありはするのです。それを全て、いまここで説明するのは難しいということです。この先もきっと、そういうことは出てくるでしょう。そんなことをいちいち、ここで話すわけにもまいりません」
薄明かりの中で、晋太郎さんは腕を組み目を閉じる。
私はぎゅっと握りしめた自分の指先を、もごもごと見つめていた。
「それは……、お義母さまにそう言われたから、おっしゃっているのですか?」
即座にため息をつかれる。
「あなたはそれに、どう答えてほしいとお望みですか? 『そうです。母に言われて反省しました』? それとも、『いいえ私の本心からです』という嘘?」
私は晋太郎さんを見上げる。
「どちらにしても、あなたは気にくわないとおっしゃるのでしょう? それをどう受け止めるのかも、お好きにしてください。あなたにお任せすると言ったのは、私なのですから」
その人は立ち上がる。
部屋を出て行くのかと思ったら、布団に潜り込んだ。
今日はここで眠るつもりらしい。
私は衝立の位置をもう一度確認する。
うん。きっと、これさえあれば大丈夫。
「私がここに嫁いで来たのは、ちゃんと幸せになろうと思ったからです。その覚悟がなければ、ここにはいません」
返事はない。
行燈の灯りを消す。
「それだけは、晋太郎さんにも分かっていただきたいのです」
私だって、ちゃんとそれなりの覚悟はしてきたのだ。
布団を頭までかぶると、しっかりと目を閉じた。
第8章
朝が来て、そっと起き上がった。
衝立の向こうはとっくに空っぽで、そんな光景も、もう見慣れたもんだ。
「おはようございます。朝餉の支度が出来ました」
廊下で正座をして、指先を床につき丁寧に頭を下げる。
晋太郎さんは振り返った。
「今朝は晋太郎さんのお好きな筍を焼かせていただきました」
その人は明らかにムッと眉根を寄せ、難しい顔で私を見下ろす。
「さぁ、参りましょう」
「……。分かりました」
渋々と立ち上がると、ゆっくりと歩きだす。
私はその後ろをしずしずとついて歩いた。
なんて貞淑な嫁だ。
ちらりと晋太郎さんがこちらを振り返ったのを、最大級の微笑みで返す。
私は私なりの努力をすると決めたのだ。
好きにしてよいと言ったのは、晋太郎さん自身なのだから。
「食べ終わったら、私の詠んだ句をみてもらってもよろしいでしょうか。晋太郎さんは、和歌のたしなみもおありとお伺いしたので」
朝餉の席につく。
普通に無視されたって、全然平気。
お茶碗に炊いたご飯をよそうと、そっと差し出した。
「あの……。和歌の手習いをお願いしたいのですが……」
「……。お断りします。私は他にしなければならないことがありますので」
「ですが、晋太郎さんはずっと奥の部屋に籠もりっきりで、私と顔を合わすことはほとんどないではありませんか。もう少し夫婦の絆というものを……」
「志乃さん」
その人は私の言葉を遮った。
じっと見下ろしてくるその目に、私は負けないようにと、ぐっと見上げる。
「私に構う必要はないと、昨夜も散々申し上げました。あなたはあなたの好きなようになさってくださって結構なのですよ。遠慮は不要だと、あれほど互いに確認しあったではないですか。必要なら私の方からお願いするので、それまでは……」
「晋太郎。みておやりなさい」
お義父さまが口を開いた。
その一言にシンと静まりかえる。
お義父さまのすすった味噌汁の音が響く。
「志乃さんの句を、みておやりなさい」
「……。分かりました。では、そういたします」
静かな朝餉の席になった。
食事を終えたお義父さまは、お勤めに出られる。
それを義母と見送った。
「さ、片付けはこちらでやっておくから、あなたは早く行ってらっしゃい」
ぽんと肩を叩かれた。
お義母さまはにこっと微笑む。
「頑張ってね」
「はい」
とは答えてみたものの、実はまともに和歌だなんて詠んだことはない。
とっさに口から出たでまかせだったのに……。
困った。
お義母さまの趣味の会に付き合って、見よう見まねで筆を持ってみたくらいしかしたことない。
教えてもらおうにも、何一つ詠んだ句などないのに……。
「よし、何とかしよう!」
お義父さまにまで言われた以上、ここで引き下がるわけにはいかない。
文台から紙と筆を取り出す。
「うわ……」
取り出した短冊は、圧倒的に白かった。
そもそも和歌だなんてものは、性に合わない。
「しまった……。もっとラクなものを言っておけばよかった……」
竹馬? 独楽回し?
いやいや、今はそんなことを考えている場合ではない。
白すぎる短冊と向かい合う。
どれだけ頭をひねっても、ロクなものが出てこない。
私はそれを文台に放り投げた。
いいや、そのままの自分で行こう。
何もなくたっていいじゃない。
あの人にどう思われようと、あの人がどう思おうと、今の私の立場は変わらない。
何を頑張ったところで、どうにもならないのだ。
「失礼します」
そっと板戸を開く。
細くたおやかな身を真っ直ぐに伸ばし、芽吹いた草はすっかり大きくなっていた。
若くみずみずしい清らかな葉を広げ、緑一面になった庭を前に、その人は座っていた。
あぁ、晋太郎さんは、この庭を本当に大切にしていたのだ。
そっと柔らかな風が吹く。
「鮮やかな、緑のお庭だったのですね」
「……。だから、手出しは無用と言ったのです」
何もない地面の下に、こんなものが隠されていただなんて、思いもしなかった。
「すみませんでした」
「もうそのことはよいのです」
静かな横顔は、わずかにうつむいた。
「句をみましょう。お出しなさい」
「は、恥ずかしいので、まずは基礎から教えていただけませんか」
「詠んだ句をみてほしいのではなかったのですか?」
首を横に振る。
恥ずかしいのもみっともないのも、全部承知の上だ。
「ここへ来る前に、全部捨てて参りました」
「……。分かりました。では最初から作りましょう」
その人は筆を手に取った。
しなやかな筆の先が青黒の墨に触れ、静かにそこを離れる。
紙面をさらさらと流れてゆくその黒は、とても綺麗だと思った。
この人が私のことをどう思っているのか、それは分からない。
だけどその筆が走り出すまで、じっと待ってみるのも悪くないのではないかと、そう思った。
「あなたは詠まないのですか?」
「あ、はい。私も考えます」
同じ場所で同じ仕草をしていることに、ちょっとうれしくなって、見上げた顔でにっと微笑む。
晋太郎さんはすぐに視線をそらした。
「さぁ! 気合い入れて詠みますよ」
「あなたもどこかで、習ったことはあるのでしょう?」
「あまり得意ではありませんでしたけどね」
若葉が風に揺れる。
ここはこの人の、大切な庭……。
「そうだ。お題は『春の庭』にしましょう。それでもよろしいですか?」
「……好きになさい」
「晋太郎さんは、春の庭と言えば、何を思い浮かべますか?」
「私ですか? そうですね……」
何気ないおしゃべりは続く。
この人の隣でこんなにも長く話したのは、初めてかもしれない。
よかった。もう大丈夫。
奥の襖が開いた。
「ずいぶんと、熱心にしていらっしゃること」
お義母さまが入ってきた。
盆にどんぶりが二つ乗っている。
「志乃さん、今日はゆっくりしていなさい」
にっこりと微笑む。
すぐに襖は閉じられた。
義母は全力で応援してくれている。
お昼にと用意してくれたのは、アサリと大根の吸い物をご飯にかけたものだった。
「わ、何だか申し訳ないことをしました。私が作らないといけなかったのに……」
「いいのです。いただきましょう」
あっさりとした汁に、ふわりと磯が香る。
「志乃さんは、いつの頃から句を詠まれていたのですか」
「さぁ、もう忘れました」
そういうことにしておこう。
ニッと微笑むと、晋太郎さんは呆れたように笑った。
夕餉の支度は手伝って、寝所を整え床につく。
しばらくしてやってきた晋太郎さんは、すぐに布団に入った。
「明日は三味線を教えてください。床の間に立てかけてあるでしょう? ずっと気になっていたのです。よいですか?」
衝立の向こうでごそごそと音がして、その人はくるりと背を向けた。
「あれは飾り物であって、弾くものではありません」
「たまにお弾きになっているではないですか」
「駄目なものは駄目です」
「……まだ人に聞かせるほど、上達してはいないからですか?」
「はい?」
驚いたような晋太郎さんの声に、つい笑ってしまう。
「だって、お世辞にもあまりお上手とは……」
「もう休みます。おやすみなさい」
布団の山が動いた。
こみ上げてくる笑いをおし殺すのは難しくて、衝立の向こうのこの人を思うだけで、こんなにも楽しくなれることに驚く。
朝になって、お義母さまに尋ねてみた。
「あぁ、あの三味線ね」
義母は表情を変えることなく雑巾を絞る。
「耳障りなだけよ、やかましいもの。志乃さんまであんなものをかき鳴らさないでちょうだい。あの三味線はね、いろいろあって……、まぁ、形見なのよ」
「え? 珠代さまの形見なのですか?」
「そ。面倒くさいから、触れちゃダメよ」
義母の板の間を拭く手は止まらない。
ものすごい勢いで掃除を済ませる。
私は水の入った桶を持ち、立ち上がった。
「……。弾いてくださいって、お願いしちゃった……」
「あぁ、それは無理ね。無駄よ。諦めなさい」
今日は晋太郎さんは、お勤めに出て家にいない。
昼寝をしてもいいけれどこんな機会でもなければ、ゆっくりとあの部屋を見て回ることもできない。
私は奥の部屋に忍び込んだ。
いつも晋太郎さんが座っている位置に腰を下ろして、庭を眺める。
狭い庭一杯に芽を出した草は青々とした葉を広げ、青田のように揺れている。
ごろりとその場へ横になった。
あの人はいつもここで、この風景を眺めながら何を想っているのだろう。
ひんやりとした畳が心地いい。
床の間に飾られた三味線が目に入った。
所々に貝をちりばめた、一目でそうと分かる高級品だ。
きっと鳴らせば、よい音が出るに違いない。
晋太郎さんは時折これを抱いて庭を眺めていた。心地よい風が吹く。
「私のためには弾いてもらえないのか……」
いつの間にかうとうとして、はっと目を覚ました。
すっかり日は傾いている。
急いで自分の部屋へ戻り、縫い物をしようと端布を手にとった時、その人は戻ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
晋太郎さんの戻る前に、勝手に部屋へ立ち入ったことを見つからずにすんだと、ほっと胸をなで下ろす。
そのまま通り過ぎようとする背中を追いかけた。
「お勤めはいかがでしたか? 今日は私の兄には、会いませんでしたか?」
その人は脱いだ羽織を自分で衣桁にかけている。
私は嫁として慌てて立ち上がった。
それを受け取り整えている間に、晋太郎さんは抜いた刀を刀掛けに置く。
すぐに袴の帯を緩めた。
「父とはもう、顔を合わすことはないのですか?」
「そうめったにはお会いしませんよ、普段は。あなたの父上にも、兄上にも」
「そうなのですか?」
「えぇ。兄上の様子が気になるのですか? なにかご用事でも?」
「いえ、別に……。家の様子など、どうかなと思いまして……」
私がそんな話を持ち出すのは、他に話題がないからだ。
自分の家のことなんて、本当はどうだっていい。
着替えとか色々手伝いたいのに、この人は何でも自分でさっさとやってしまう。
すぐ側で膝をつき、何か用事を言いつけられるのを待っているのに、なかなか声をかけてもらえない。
「……着替えたいのですが、まだここにおられますか」
「何かお手伝いします。何なりと申しつけくださいませ」
「では、出て行っていただきたいのですが……」
「お手伝いします!」
晋太郎さんのため息と共に、目の前でするりと袴が落ちた。
慌てて背を向ける。
「だ、大丈夫です。平気ですから!」
背後で聞こえる衣ずれに動揺している。
ぱさりと畳に落ちた紐の端が目に入った。
いざとなると脈が速くなりすぎて、息まで苦しい。
「もうよろしいでしょうか!」
「どうぞ。ではそれを畳んでおいてください」
まだぬくもりの残る袴を手にとった。
身の回りのことは全部、自分でやってしまう晋太郎さんだ。
少しでもそれをさせてもらえたのは、ちょっとうれしい。
「なんか、楽しいです」
「そうですか?」
いつもの位置に座る。
その人は庭を眺めた。
「お茶をお持ちしますね」
「お願いします」
その一言ですらうれしくなる。
私は廊下へ飛び出した。
土間に置かれた棚に、ふと目がとまる。
出始めたばかりの枝豆の塩ゆでがあるのを見つけて、盆に載せた。
どうしようか少し迷ってから、湯飲みは二つにする。
「お待たせしました」
その人は出された緑のさやの一つを手に取った。
口元に運び、ちゅるっと豆を吸いだす。
私はそれを見ながら、満足して茶をすする。
「志乃さんは、毎日が楽しいですか?」
「えぇ、おかげさまで」
空になったさやを盆に戻す。
いつも静かなこの人の目が、じっと私を見つめた。
「義理はちゃんと果たします。もちろんそのつもりでいます。あなたもそういうおつもりなのでしょう? だから私のことで、無理をなさる必要は何もないのです」
「無理とは? 私は何もしていませんよ」
「……。ありがとう。それを聞いて安心しました。あなたはご自身で、ご自分を幸せにして下さい」
沈み込んだような、静かな横顔を向けた。
「はい。もちろんそうさせていただきます」
私はそれに、にっこりと微笑を返す。
晋太郎さんは小さくうなずいた。
「初物ですね」
「えぇ、私も大好きです」
つまんださやから、ぷちっと豆が飛び出した。
それを噛めば、青い豆のさっぱりとした塩気が口に広がる。
遠くで雷鳴が聞こえた。
一陣の風がざあっと吹きつけたかと思うと、あっという間に暗雲が立ちこめる。
「春の嵐ですね」
突然降り始めた大粒の雨が、庭の葉を打ち付ける。
「大変、雨戸をたてないと」
吹き込む大粒の雨が、肌を打ち伝い落ちる。
ガタガタと板戸を引き出そうとする私の手に、その人の手は重なった。
「私がやりましょう。あなたは中にいなさい」
大きな腕の中に、すっぽりと自分が包まれていることに驚く。
抜け出せずにいたら、腕はすぐに下がって通してくれた。
晋太郎さんは構わず立て付けの悪い板戸にかかる。
「ここの開け閉めには、コツがいるのです」
袖から伸びるその腕の中に、さっきまで自分のいたことが信じられない。
春の雨が打ち付ける。
「大丈夫ですか?」
「えぇ、ご心配なく」
この先どれくらい、私はこんな光景を見ることになるのだろう。
晋太郎さんの肌に降った雨が、汗のように光っている。
「あ、ありがとうございます」
「早く中にお入りなさい。風邪をひきます」
帯に挟んでいた手ぬぐいを取り出すと、その人に向かって背を伸ばす。
濡れた頬を拭こうとしただけなのに、晋太郎さんは背を傾けそれを取り上げた。
私の肩にポンとのせる。
「あなたが先でしょう」
自分の顔は着物の袖でぬぐっている。
雨戸を閉め終わった板間に腰を下ろすと、すぐお茶をあおった。
「何を見ているのです? 早くお拭きなさい」
急いで濡れた腕を拭くと、パッと隣に座った。
呆れた目が不思議そうに見下ろすのを、私は小さくなったまま見上げる。
「し、晋太郎さんも、風邪を引かれては困ります。すぐに新しいのを持ってきますね」
「これでいいですよ」
膝に置いていた手ぬぐいが、もうこの人の腕と首筋を拭いている。
「はい、終わりました」
そのままパサリともう一度膝に落とされた手ぬぐいを、私はどう触っていいのかが分からない。
「少し横になります。夕餉の支度ができたら、起こしに来てください」
「は、はい」
盆を持ち上げる。
逃げるようにそこから駆けだした。
なぜか息はずっと苦しいままで、よろよろと廊下を進み土間までたどり着く。
「あら志乃さん、どうかしたの?」
「いえ、夕餉の支度を早めに始めようかと思いまして……」
「あら、そうなの?」
呼吸を整える。
信じられないくらい顔が火照っている。
私には、他に出来ることは何もないから、せめて自分に出来ることくらいはしたいと思う。
米を研ぎ湯を沸かし、野菜を切った。
坂本家流というやり方で、支度を進める。
味噌を溶く頃合いも、漬物の合わせ方も、全部お義母さまから教わった通り。
出来上がったものを器に盛りつけると、膳にのせそれを運んだ。
奥の部屋に声をかけにいくのも恥ずかしくなって、他の人に頼んでしまう。
「今日の食事は、全部私が一人で作りました」
「そうですか。ご苦労さまでした」
「お味はどうですか?」
「えぇ、美味しいですよ」
私は十分に満足してご飯を口に放り込んだ。
茶碗を洗って片付ける。
夜までの時間が長すぎて、早々に寝所を整えた。
眠くもないのに、布団に潜って考える。
明日はどうしよう。
何をしよう。
あの人は何が好き?
どうやって話しかけたらいい?
時が過ぎても寝付けず、起き上がって髪に少しばかりの香油をつけてみたりなんかして。
足音が聞こえたような気がして、慌てて布団に戻った。
襖が開く。
入って来た晋太郎さんは、珍しく私に声をかけた。
「もうお休みになられましたか?」
「……いえ、起きております」
もぞもぞと目をこすったりなんかして、わざとゆっくり起き上がる。
ふぅと小さくため息をついたりなんかして、枕元に座った。
「なんでしょう」
「私も、どうしようかとずっと悩んでいたのです。これは互いの役目を難なく果たすための申し合わせだということを、どうか理解していただきたい」
晋太郎さんの手が、その広い胸元に伸びた。
寝巻きの襟の隙間から文を取り出す。
「あなたを傷つけるつもりも、困らせるつもりもないのです。ただどうしてもやらなければならないことは、確かにあるのです。それを分かっていただけるのか、そのことがいつも不安でした」
私は薄明かりのなかで、そう言ったその人の顔を見上げる。
文が差し出された。
「これは私からの、精一杯の真心のつもりです。今は……、あなたには理解できないかもしれませんが、いずれ分かっていただけるものかと」
なんだろう。
文を受け取る。
「どうぞ、ご覧ください」
上等の紙に記されたそれを、はらりと開く。
そこにあったのは離縁状だった。
「私のことを好きになろうとか、そういった努力は無用です。あなたもそんなことは、本心ではしたくはないでしょう?」
晋太郎さんを見上げた。
自分の手が震えている。
「私のことを、嫌いになられましたか?」
「いいえ、そういうことではありません」
「ではどうして?」
「好きでもなければ、嫌ってもいません。……そんなこと、あなたは考えたこともありませんでしたか?」
その人はかすかに微笑んでから、ため息をついた。
「よいのです。それが普通で……、当たり前なのですから。私はあなたと祝言を挙げましたが、それに縛られることはありません。気に入らなければ、いつでも好きな時に離縁してくださって構いません。あなたにそれを渡しておきます。返礼はいつでも結構、急ぎはしません」
「私に出て行けとおっしゃっているのですか?」
「いいえ違います。これ以上、あなたがなさる悲しい努力を見ているのが、私には辛いのです」
「悲しい努力?」
「好いてもいない見ず知らずの者のところへ、嫁がされたことです」
それは晋太郎さんにとっての、珠代さまのことを言っているのだろうか?
私を珠代さまのようにはしたくないと?
「家の者と懇意にしていただいて、そして嫁にきていただいて、本当にとても感謝しています」
「悲しい努力とは、一体なんのことでしょう」
「……。あなたが、ご自分の口でおっしゃりたくないのであれば、それで構いません。その文は私の気持ちを、ただ形にしただけのこと」
「分かりません!」
なぜ離縁状を渡すことが、この人の真心になるのか。
そんなこと、分かるわけがない!
「私と離縁したとしても、あなたへの評判は決して傷つかないよう、そこに書き記しておきました。ご安心なさい」
「ではやはり、このまま離縁しろと?」
「だから、誤解しないでいただきたい。私は決して、あなたを疎んじているのではないのです。ただ穏やかに、日々を過ごしたいだけなのです」
この人を見上げる。
「いいえ。私にはさっぱり分かりません」
「そうですか……」
ふいに伸びた晋太郎さんの手が、私の腕をつかんだ。
その胸に抱き寄せられる。
「離縁したくなった時には、いつでもあなたの思うがままにお任せする。という意味です」
伸びた腕は腰へと回った。
帯が解かれる。
こめかみに触れた指先は首筋へと流れ、緩んだ襟元に滑り込んだ。
「何をなさるのです!」
私はそこを飛び退いた。
激しく胸を打つ鼓動が痛い。
全身がドクドクと波打つように震えている。
怖い。
「習ってはこなかったのですか」
「何を!」
その人はため息をついた。
「いえ。やはりこの縁談は急なお話だったのですね。よいのです。嫌ならやめればいい。それだけのこと。あなたがしたくないとおっしゃるのなら、それでいい。私にとっても、無理強いするのは本意ではございません」
その人はスッと立ち上がると、衝立の向こうに消えた。
私はまだ激しく脈打つ心臓を押さえている。
「もう二度と、このようなことはいたしません。お約束します。その方が互いのためにもよいのです」
そのまま布団に潜り込むと背を向けた。
「おやすみなさい」
あふれ出る涙の滴が腕に当たって跳ねた。
鼻水をすする。
ぐずぐずと泣きながら布団へ戻った。
その声を押し殺そうにも、どうにもならない。
息を止めても止まず、泣き止もうと思えば思うほどあふれてくる。
衝立の向こうで衣ずれが聞こえた。
襖が開き、晋太郎さんが出て行く。
それが閉じるのを見届けると、私は声を上げて泣いた。
第9章
翌朝のその人は、恐ろしいほど普段通りだった。
本当に何も変わらない。
いつものように朝餉を食べ、奥の部屋で静かに過ごす。
私は忙しいふりをして、通い詰めるようになっていた奥へ行かないようにしている。
夜の来るのが怖かった。
寝る部屋を変えることも、布団の位置を変えることも出来ない。
どうしてこの部屋に衝立があったのだろう。
今はそのことに救われる。
あの人は夜遅くになってから寝所へくるようになった。
私の寝付いた頃にやって来て、起きる頃には姿を消す。
乱れた布団とそこに残る体温だけが、ここにいた証だった。
もう幾日も口をきいていない。
「いってらっしゃいませ」
勤めに出る晋太郎さんを、お義母さまと見送る。
その姿が見えなくなってから、ため息をついた。
晋太郎さんとの仲を応援してくれていたのに、今ではそんなお義母さまの隣にすら居づらい。
声をかけられる前に立ち上がった。
「あら、まだなにか家事が残ってるの?」
「縫い物が少し……」
「最近、根を詰めすぎではないですか? それも悪くはないけど、晋太郎とは仲良く出来ているの?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
他にどういう返事をしたらいいのだろう。
それ以外の答えなんて、許されるはずもないのに……。
部屋に戻り、いつまでも仕上げるつもりのない端布を手に取った。
緊張で夜の眠りが浅いのを、昼寝で何とか持ちこたえさせている。
うとうととしている間に、すっかり日は傾いた。
「ただいま戻りました」
その声に飛び起きて、裏戸へ向かう。
出迎えた義母の隣に並んだ。
「通りでたまたま見かけたので……。買って参りました」
久しぶりに目を合わせた。
その人の手が、こちらに伸びてくる。
結んだわら紐の先で、竹皮の包みが揺れていた。
それは私が受け取ろうとする前に、膝に置かれる。
「茶が入ったら、奥の部屋へ持ってきてください」
膝上のそれを、じっと見つめている。
久々に声を聞いたせいか、胸を打つ鼓動が早い。
誰にも悟られぬよう息を整える。
義母は隣でため息をついた。
「何を買ってきてくれたのかしらね」
そう言われて、ハッと我に返る。
開いてみると、鮮やかな橙の枇杷が現れた。
甘酸っぱい香りが辺りに広がる。
「まぁ、枇杷の蜂蜜漬け? 初物じゃないの。早く持ってお行きなさい」
作られてまだ日が浅いのか、しっかりとした実の回りに、ねっとりとした蜜をまとっている。
義母は箸でそれを皿に載せると、湯飲みに茶を注いだ。
盆を手渡される。
「じゃ、よろしくね」
用意された二つの湯飲みが重い。
今はその一つを運ぶことでさえ苦痛なのに……。
こんなものを買ってきて、あの人はどうしようというのだろう。
小皿に盛られた枇杷の実が恨めしい。
奥の部屋に入ると、久しぶりに目にした庭は、すっかり背の伸びた草に覆われていた。
「ずいぶんと伸びましたね」
「えぇ、そうですね」
盆を置く。
その伸び盛りの若葉の先には、ぷっくりとした丸いつぼみがあちこちについていた。
「これは、桔梗だったのですか?」
「そうです」
お茶をすする。
緑が風に揺れた。
私はただじっと、その揺れる大きなつぼみを見ている。
「あなたもいただきなさい」
そう言って、その人は静かにうつむいた。
手にした黒い楊枝で柔らかな橙の枇杷を切り分ける。
品のよい初物の、優しい甘みが口に広がった。
「母が私たちの仲を疑っています。家では今までのように、普通に接してください」
「取り繕えというのですか? 仲を」
「でないと私のように、あなたまで母から責められます」
枇杷を切る手を止めた。
「ではこの枇杷を買ってきたのも、お義母さまに言われて?」
「母から責められて、あなたは耐えられますか」
「私は、自分の気持ちに嘘をついたことなどありません。晋太郎さんは違うのですか?」
とても穏やかで、いつも落ち着き払った静かな視線が、私を見下ろす。
「それはとても、幸せなことですね」
「……晋太郎さんは、違うのですね」
庭の桔梗は静かに揺れた。
「そんなことはありませんよ。私はこうしていたいから、そうしているのです。離縁状をお渡ししたあなたが、まだこの家に残っていることをありがたく思っているくらいなのに」
「やはり晋太郎さんは、私のことがお気に召さなかったのですね」
好きでもない人と夫婦になるのが嫌だったのは、この人の方だ。
「それは違うと散々申し上げました。あれほど。私はあなたに全てをお任せしています」
「好きにしろとおっしゃいましたよね」
「えぇ、その言葉に今も、嘘偽りはございません」
見上げたこの人の横顔は、あくまで平静だった。
「今も、そう思っておりますよ」
「出て行ってほしいのなら、はっきりとそうおっしゃってください」
「あなたは私が、好き好んでこんなことをやっていると、本心から思おいか」
その言葉に、私は立ち上がった。
「では私も、好きなようにやらせていただきます。晋太郎さんがお好きになさいとおっしゃったことに嘘偽りがないのなら、そのお言葉通り遠慮なくそうさせていただきます」
手土産の枇杷はまだ皿に残っていた。
それは間違いなく私の好物ではあったけれども、それも全部置いて部屋を飛び出す。
「今後私のすることに、一切口をはさまないでいただきとうございます!」
どしどしと足を踏みならし、廊下を突き進む。
お義母さまはひょいと顔を出した。
「どうしたのですか?」
「喧嘩です!」
後ろ手にぴしゃりと襖を閉る。
腹が立つ。
晋太郎さんにとって、私はなんだったのだろう。
都合のよい嫁が欲しかったのなら、はっきりとそう言えばいいのに。
まぁそんな簡単に、簡単な嫁になるつもりは一切ありませんけど!
夕餉の支度に呼ばれて、土間へ出る。
イライラしているのを隠そうにも隠しきれなくて、つい動作が荒くなる。
一緒に支度をする奉公人たちがびくびくしているのを片方では申し訳なく思っているのに、お義母さまだけはなぜか上機嫌だった。
「まぁ喧嘩するほど仲がよいと申しますからね。夫婦喧嘩だなんて、犬も喰わぬと申しますから」
支度ができて、むっつりとしたままの晋太郎さんが隣に座る。
私だって負けてられない。
同じようにむっつりとして、いつもならすぐに晋太郎さんの茶碗にご飯をよそうのを、わざとしないでいる。
困ったその人が自分でご飯をよそおうとしたところで、それを取り上げた。
「ご飯くらい、おっしゃってくださればよそいます」
後から入ってきたお義父さまは、そんな雰囲気に一同を見渡してから腰を下ろした。
「喧嘩したんですって」
義母はそう言って、義父の腕をつつく。
「そうですか。それは結構」
盛大にニヤリとしたお義母さまと目が合った。
「まぁ、この家でこんな楽しいことが起こるなんて、本当に久しぶりよ」
うれしそうな義母に、私はうつむいたままご飯を口に放り込む。
にやにやしながらこっちを見てくるのは、本当にやめてほしい。
晋太郎さんと肘がぶつかった。
ギロリとにらみあげたら、ふっと視線をそらされる。
そうでなくてもイライラしているのに、その態度に再びカチンと来た。
「おかわりはいたしますか!」
「……。先ほどの枇杷がまだ腹に残っておりますので……」
「まぁ、私の分は、残しておいてくれなかったのですか?」
「そんなこと、一言もおっしゃらなかったじゃないですか」
「お土産だったのに?」
その人は横目でちらりとだけ視線を向けた。
「残して行かれたので……、もういらないものかと……」
「そんなこと、いつ私が言いました?」
別に、枇杷を食べられたことが問題ではないのだ。
その時にほんのわずかでも、この人の中に私がよぎったかどうかが問題なのだ。
「別にいいですけど」
「……また買ってきます」
ホントに分かってんのかな?
「ごちそうさまでした」
バシンと音を立てて箸を置き、立ち上がった。
膳を持ち上げ部屋を出る。
あの人の隣でご飯を食べるくらいなら、誰もいない土間で一人でかきこんだ方がまだましだ。
腹を立てた勢いで、残っていた鍋やらお椀を片付けていると、晋太郎さんが皆の分の膳を抱えて下げに来た。
ただ無言で突っ立っているだけだったから、こっちも見て見ぬ振りをしていたのを黙って受け取る。
何か言いたいことでもあったのかと思っていたのに、そのまま行ってしまった。
「変な人」
夜までの時間が、途方もなく長い。
部屋に戻って寝床を整える。
行燈のわずかな光の中で、鏡を取り出した。
自分の顔をじっくりと眺めるのは、久しぶりのような気がする。
そっとその鏡面に触れると、指の先に冷たく感じた。
嫁入り道具にと選んだこの鏡は、お気に入りだったはずなのに……。
いつものように、遅くなってから晋太郎さんは入ってくる。
そのまま床につこうとするのを、私は振り返ってじっと見上げた。
「……。まだ、起きていたのですか」
その人も振り返る。
「お話があります」
私は衝立の向こうへ進んだ。
そのわずか半歩先で膝を折る。
晋太郎さんは布団の向こうの縁で腰を下ろした。
「なんでしょう」
「私は多分、晋太郎さんのことを好いております」
行燈の小さな光さえ届かぬような先にいる、その人へ向かって言う。
「……ありがとう。私もです」
その人はすぐに返事を返してきた。
そのことに私はまた、気持ちが落ち着かなくなる。
「それはどういう意味でしょうか」
ため息が聞こえた。
「人の心を、そのように計るものではございませんよ」
「ですが、はっきりとおっしゃってくださらないことには、分かりません」
「きっとあなたが今、私を好いているとおっしゃってくださったのと同じくらいには、好いておりますよ」
嘘だ。
そうは思ってはいるけど、その気持ちをうまく口に出来ない。
「志乃さんは、不思議な人ですね」
「……。そうかもしれません」
そうだ。
だからこうして動けずに、黙ったままここに座っている。
その人は布団の縁をつかむと、自分の方へと引き寄せた。
「さぁ、もうお休みなさい。私は疲れているので、先に失礼します」
その人は、もっと離れた布団にさっさと潜り込んでしまう。
私に背を向けた。
「はい。おやすみなさい」
晋太郎さんが私のことを好きじゃないのは、仕方がない。
だって、この人にしてみれば、突然現れた見ず知らずの人間と意に染まぬ結婚をさせられたんだもの。
私だってそれが不安で仕方なかったから、その気持ちはよく分かる。
枕の上にきっちりと結わえられた髷がのっていて、それは首筋まで真っ直ぐに伸びていた。
私がそれに触れる日は、いつかやってくるのだろうか。
祝言の日のことが頭をよぎる。
この人はまだ、珠代さんのことを忘れられないんだ。
他家に嫁いでそのままお産で亡くなられた珠代さまと、私を重ねているのかもしれない。
静かな寝息が聞こえてくる。
布団へ潜った。
翌日、自分の用事を済ませ部屋に戻ると、見覚えのある包みが文台に置かれていた。
開けてみると、昨日と同じ枇杷が山のように包まれている。
晋太郎さんだ。
私はお茶を用意すると、それを手に奥の部屋へと向かった。
「晋太郎さん。この枇杷なんですけど、ご一緒に……」
板戸を開く。
緑の海に青紫の無数の花が浮かんでいた。
桔梗だ。
ツンと香が香る。
明るい日のさす縁側に、その人は座っていた。
華奢な香炉に焚かれたお香と、見たことのない湯飲みと透き通る水ようかんが並ぶ。
「珠代さん。今年も桔梗が咲きましたよ」
静かに微笑んだその横顔は、今もすぐ隣にいる女性に向かって捧げられる。
まっすぐに背を伸ばし、曇りのない澄んだ目が庭を見渡す。
「あなたのお好きな花が、今年もたくさん咲きました」
「桔梗は、珠代さまからいただいたお花だったのですね」
隣に腰を下ろすと、この人は困ったような顔をする。
「志乃さんは、なぜ泣いているのですか?」
「目に何か入っただけです」
自分の鼻水をすするのと、晋太郎さんのお茶をすする音が混じる。
どこからか飛んできた羽虫が、ぶーんと鳴いた。
「珠代さまは、どのようなお方だったのですか」
「あなたにお話ししても、仕方ないでしょう。その枇杷はあなたに差し上げたものですから、早く目を洗って、自分のお部屋で召し上がりなさい」
そんなことを言われても、私はすぐに立ち上がれない。
なかなか動こうとしない私に、この人は諦めたようにまたお茶を口にした。
「いつか私にも、珠代さまのお話をお聞かせください」
それに返事はなかったけれど、私にはそれが答えのような気がした。
あふれる涙が止まらない。
見かねたその人は、奥の箪笥から手ぬぐいを出して渡してくれる。
「これは?」
「手ぬぐいです」
私の聞きたいのは、そんなことじゃないのに……。
その小さな手ぬぐいは子供のもので、少し古びているようだった。
晋太郎さんは珠代さまのための水ようかんを飲み込む。
「私だって、水ようかん好きです」
笑ってそう言った私に、この人はまたため息をついた。
「そうですか。では今度は水ようかんにしましょう」
私は小さく微笑んで、その部屋を後にする。
部屋にお義母さまの寝転んでいるのを見つけて、私は駆け寄った。
「珠代さまと晋太郎さんは、とても仲がよろしかったのでしょう?」
「えぇ?」
お義母さまはうとうととしていたのを、渋々起き上がった。
「また晋太郎になにか言われたの?」
「いいえ。そうではないのですが……」
お義母さまは、はぁ~と大きく息を吐き出した。
「志乃さんは、どのように聞いているの?」
「幼なじみが反対を押し切り、想い合って駆け落ち。ついに両家に認められ祝言の約束にまで至ったものの、再び連れ戻された悲しみに、自ら命を絶ったと……」
「亡くなったのは、お産が原因よ」
「それはこのお話があった時、父から聞いて後に知りました」
「駆け落ちも連れ戻しもないわ」
「武家同士の結婚ですからね、町人の人情物ではないし、さすがにそこまでは信じておりません」
「人の噂ってものは、尾ひれがつきやすくってねぇ」
お義母さまはもう一度、大きく息を吐き出す。
その噂が世間でもちきりだった頃、私はまだ素足で外をかけずり回るような童だった。
年頃のお姉さま方や近所の大人たちが、よく話のネタにしているのを聞いていた。
ずっと恋い焦がれていた長年の想い人と添い遂げられぬ悲しみと、たとえ一緒になれたとしても、添い遂げる難しさを語っていた。
「晋太郎さんと珠代さんは、子供の頃からの知り合いだったのです」
珠代さまのご実家は、格の高いお家柄だ。
この坂本家でも釣り合いは取れない。
珠代さまには良い家柄のお嬢さまによくある、生まれる前からの嫁ぎ先が決まっていた。
「家同士の決まり事ですからね。珠代さんもそれは言い聞かされて育っておりましたから、特に困りごとなどなかったのです」
義母はまたため息をつく。
「それが晋太郎ときたら……。あの子は本当に一途で融通が利かなくってねぇ~」
お義母さまは額に手を当てた。
「自分の想いが叶わぬことに、珠代さんに構ってばかりで……」
姉と弟のように接していた二人は、珠代さまの祝言を前に最期に出会う。
「その時に渡されたのが、桔梗の花だったのよ」
花売りから買ったその切り花はすぐに枯れてしまったけれど、枯れぬ桔梗を咲かせたいと、晋太郎さんは鉢で買って庭に植えた。
「それがいつの間にか増えていって、すっかり庭一面を埋め尽くすようになったのよ」
「どのような方だったのか、私もお会いしてみたかったです」
「……。そうね。ありがとう」
お義母さまの腕が伸び、私をぎゅっと抱きしめた。
「さ、そろそろ夕餉の支度にしましょ」
「はい!」
胸が痛む。
ズキズキとしたその痛みをごまかすように、私は夕餉の支度に精を出した。
第10章
翌朝、寝所で目を合わせた晋太郎さんは、「水ようかんはいくつ買ってきますか」と聞いてきたので、「今日はいりません」と答えておいた。
その人はこの言葉に、しきりに首をかしげている。
私は先に部屋を出た。
井戸から汲み上げた水の冷たさが、心地よい季節に変わっていた。
私は離縁状を手渡されていることを、誰かに相談したくても出来ずにいる。
「志乃さんが来てくれて、ほっとしてるのよ。これからもあの子をよろしくね」
「もちろんです」
朝餉の支度をしながらそう言った義母の言葉は、間違いなく本心からだと思う。
一人子の晋太郎さんは、家のために子供をもうけなければならない。
食事の支度が出来たことを伝えに行ったら、その人はいつもにもまして機嫌をよくしていた。
「葉はまめに摘んで、世話をしてやらないといけないのです。花が咲いて盛りを過ぎたら、それも摘まないといけない。するとまた、新しく次の花を咲かせるのです」
「お忙しいのですね」
「はい」
うれしそうに桔梗の世話をするその姿に、また胸が痛む。
「珠代さまは、花もお好きだったのですか?」
「あぁ、そうですね。華道もたしなんでいらっしゃいましたよ」
私の得意なものは、なんだろう。
字を書くのもあまり好きではないし、お花は好きだけど、『華道』だなんて大げさなものじゃない。
お茶のお稽古はおしゃべりとおやつの時間だったし、炊事や掃除だって、やらなきゃいけないからやっているだけだ。
長雨の季節になった。
暑くなる前に夏の着物を縫い直そうと、お祖母さまと三人で針を動かしている。
晋太郎さんの淡い裏柳の地に藍鼠の縞の着物からは、ほんのりともぐさの香りがした。
「珠代さまは、どのようなお方だったのですか」
「また……。そんなこと聞いて、どうするの?」
ピンと張った糸を、義母は握りはさみでチョンと切る。
「あなたはあなたなんだから、そんなこと気にしなくていいのよ」
外には降り止まない、やさしい雨が降っている。
庭の若葉はやわらかな光と水に、ぐんと背伸びをする。
「早く子供をつくりなさい」
「……そうすれば、何か変わるのでしょうか」
「努力はしているのでしょう?」
「ほしいとは……、思っています」
「なら大丈夫よ」
仕上がった着物を畳み終え、お義母さまはどこかへ行ってしまった。
ふさぐ私にお祖母さまが口を開く。
「珠代さんは、おっとりとした優しいお方でねぇ」
深いしわに刻まれた手はからくり仕掛けのように正確に、同じ動作を繰り返す。
「従順でおとなしやかなように見えて、しっかりとしたお考えをお持ちの、芯の強い方でしたよ。晋太郎はその強さに、引かれたのかもしれませんねぇ」
ふと手を止めて、自分の縫い目を見る。
縫った糸はちぐはぐに傾いていた。
遠目には分からなくても、近くで見ればその拙さは一目で分かる。
一息にそれを引き抜いた。
「晋太郎にとってはやり直しでも、あなたにとってはそうじゃないのだから、悔いのないようにおやりなさい」
やむ気配のない雨は、やっぱり降り止まないままで、私はもう一度針に糸を通す。
縫い始めた布越しにチクリと針が指に刺さった。
にじみ出た真っ赤な血の粒を吸う。
しとしとと雨は降り続く。
この家のことは嫌いじゃない。
お義母さまも悪い人ではないし、お義父さまも厳しくない。
お祖母さまも優しいし、居心地だって悪くない。
晋太郎さんだっていい人だ。
よい家へ嫁げて、私は果報者なんだと思う。
このまま静かに歳を重ねていければ、きっと幸せな人生だったと人からは言われるのだろう。
毎日変わらずご飯を作り、家事をして、晋太郎さんは勤めに出かけ、居眠りし、奥の部屋で一人桔梗の庭を眺めて……。
夜になって、文台の奥に隠した文を取り出す。
離縁状だ。
離縁状には返礼が必要で、きちんとそれを書いて渡さないと、正式に離縁したと認められない。
それがなければ、私も晋太郎さんも再婚は出来ない。
あの人の静かな横顔が浮かぶ。
好きな人がいるのなら、その方と一緒になりたいと思う。
小唄や御伽草子のように、本当に素敵な恋をしたのならば、忘れられないのは当たり前ではないか。
だから恋などするものではないと、自分に言い聞かせてきた。
叶う恋などないのなら、しなければいい。
悪いのは叶わぬ想いとなるのを知りながら、叶わぬ相手に懸想したあの人だ。
そうでなければ、変な噂を立てられ、そのおかげで格下の家の私なんかと縁談が組まれることもなく、あの人もこんな意に染まぬ結婚をさせられることもなかっただろう。
悪いのは全部晋太郎さんで……。
そうだ。
やっぱりこれは晋太郎さんにとって、意に染まぬ結婚だったんだ。
だとしたら、やはり私に出来ることは、ただ一つ……。
筆を手に取る。
離縁状の返礼など、書いたこともなければ、実際のものを見たこともない。
なんて書けばいいのだろう。
『承知しました』の、一文だけでいいのかな……。
まさか自分がこんなにも早く、離縁することになるとは思わなかった。
どう書けばいいんだろう。
丁寧に包まれた晋太郎さんからの離縁状を開いてみる。
『其方事、我の勝手につき、このたび離縁いたし候……
離縁するのは私の都合であり、離縁したうえには今後どのような方と縁を結んでもかまいません。
私坂本晋太郎は妻となった志乃さんのお心を思いやれなかったばかりか、何も満足に与えてやることも叶わず、お気持ちを踏みにじるようなことばかりを繰り返しました。
真心を持って接してくださる志乃さんの、どうか次の夫となられるよき人には、彼女をお幸せにしてくださるよう、よろしくお願い致します』
広げた紙には丁寧な文字が、黒々とした墨で記されていた。
本来離縁状に書かれる内容はどれも判で押したように決まっていて、それは三行半でも許される。
襖が開いた。
私はそれを、あわてて文台に隠す。
「おや、今日はまだ起きているのですか」
寝巻き姿の晋太郎さんが入ってくる。
いつものように、このまま今日を終わらせたくない。
「疲れているので、肩をもんでください」
下から見上げる私に、この人は困ったような顔をする。
「……。えぇ、分かりました。では、後ろを向いてください」
言われた通りに背を向けたら、その人は私のすぐ後ろに腰を下ろした。
大きな手が両肩にのる。
「なにをどうなさったら、今日はこのように疲れたのですか?」
「色々です」
「色々ねぇ……」
肩をもむその手の主は、くすりと笑った。
「そもそもあなたは、うちでは遠慮しすぎるのです。宗太どのからお聞きする話とは、ずいぶん違う」
「あ、兄がなにを?」
「あなたがここへ嫁ぐ前の、ご実家での様子です」
晋太郎さんの目は、にっと笑った。
「まぁ、聞いた話をみなまでここで持ち出したりはしませんが、なかなかのお転婆だったとか。ここへ嫁がれてきた私の知るお方とは、まるで別人のようで……」
笑い声が響く。
あの兄め、なにをしゃべった?
「よ、嫁に来たのですから当然です!」
「あなたの自然な姿を、一度は見てみとうございました」
その言葉に振り返る。
その人の手は肩から離れた。
「肩のこるようなことまで、しなくてもよいのです」
首筋をぎゅっぎゅっとつままれる。
「あなたの兄上は、嫁のもらい手などどこにもないだろうと案じていたのに、あれはうまくやっておりますかと、心配しておいででした」
「それで、なんとおっしゃったのですか」
「ふふ、内緒です」
そう言うと晋太郎さんは立ち上がり、布団に横になった。
「さぁ、もうお休みなさい。明日は家におりますから、あなたの肩をこらすような仕事は、私も手伝います」
薄明かりの部屋で、枕にのった髷をみる。
今度は私が肩を揉んであげようと思ったのに。
聞きたいことも、言いたいことも、山ほどあったのに……。
この人を起こさぬよう、私は静かに立ち上がると、衝立の向こうへ戻る。
離縁状の文言が頭をよぎった。
私は意を決して、次の朝を迎える。
「おはようございます!」
晋太郎さんより早く目覚めたのは、これが初めてのような気がする。
ましてや先に起きてこの人を起こすなんてことは、今まで絶対になかった。
「……ん、なんですか朝から」
「朝だからでございます」
ごろりと寝返りを打った寝巻きの袖から、むき出しの腕がぬっと伸びる。
「起きてください。私は朝餉の支度に出るので、布団がたためません」
うっすらと目が開いた。
そう言えばこの人の寝起きの顔を見るのも、初めてのような気がする。
「布団なら私があげておきます。あなたは先に支度に行ってください」
すぐに目は閉じ、寝息まで聞こえる。
私は勢いよく立ち上がると、その人をそのまま残して、ぴしゃりと襖を閉めた。
「あら早いわね志乃さん、今朝はどうしたの?」
「いえ、いつものことです」
義母が来た頃には、朝餉はほとんど出来上がっていた。
「後は器に盛って運ぶくらいなのですが、ここからお願いしてもよろしいでしょうか?」
「えぇ、いいわよ」
「では、晋太郎さんを起こしに行って参ります!」
お義母さまは不思議そうに私を見送る。
ドカドカと足を踏みならし廊下を進んだ。
閉めきられたままの襖をバンと開けたら、晋太郎さんはちょうど布団をあげている最中だった。
「何事です?」
「私がやります」
その人に体当たりするみたいにして、体でぐいっと押しのけると、そのまま布団を無理矢理奥へ押し込んで襖を閉めた。
くるりと振り返る。
「お着替えも手伝います」
「え?」
「手伝います」
「いりませんよ」
晋太郎さんは逃げるように廊下へ出た。
早足で歩くその人の後ろを、がしがしついてゆく。
奥の部屋へ入った。
「さぁ、どうしましょう!」
「どうしたいのですか?」
目の前で帯が解かれ、慌てて背を向けた。
頭上から小さな笑い声が聞こえる。
「なんだか前にも、このようなことがありましたね」
「もう忘れました!」
ここで引き下がるわけにはいかないのだ。
しゅるしゅるという衣ずれが聞こえる。
私は振り返った。
「手伝います!」
「ちょ、後ろを向いていてください!」
「嫌です」
手を伸ばしたら、晋太郎さんは慌てて飛び退いた。
長襦袢の上にかけた小袖を引きずりながら、箪笥の並ぶ奥の続き部屋へ逃げ込もうとしている。
「お待ちください!」
「嫌です」
晋太郎さんは奥の部屋へ入ってしまうと、ぴしゃりと襖を閉めた。
「開けてください。閉めきるとは卑怯者!」
「なにを言ってるんですか。これでは着替えができません。志乃さんの方こそ、早くどこかへ行ってください」
「嫌です」
なんて頑なな人なんだろう。
だからいけないのだ。
力尽くで襖をこじ開けようとしても、押さえつけてるのかビクとも動かない。
「このまま私に、嫁の勤めを全うさせないおつもりですか!」
「もう終わりました!」
勢いよく襖が開く。
晋太郎さんは紬の小袖に兵児帯を巻き、襟を左右に引いて整えながら現れた。
「着替えながら、どのように襖を押さえていたのです?」
「そんなこと、教えられませんよ」
ムッとして見上げると、その人はぷいと顔を背けた。
「さ、食事に行きますよ」
なんだかよく分からないけど、ちょっと悔しい。
負けた気がする。
私は勢いよく立ち上がると、今度は晋太郎さんの前をどしどし歩いた。
この人はぶつぶつと何かをつぶやきながら、後をついてくる。
「全く。何をそんなに不機嫌にされているのですか? なにか気に障るようなことでも、私はいたしましたか」
「えぇ、色々と」
「朝起きて、着替えただけですよ? それのどこに腹を立てる要素があったというのです」
なにを言われようと、この人自身がその理由に気づかない限り、全部無視だ。
「おはようございます。遅くなって、申し訳ございませんでした」
障子を開けたら、先に来ていたお義父さまやお祖母さまたちは、さっさと食事を始めていた。
「まぁ、朝から賑やかなこと」
義母はそう言って、すました顔でご飯をよそう。
「ほら、さっさとお食べなさい」
義母は茶碗を私に手渡した。
次は晋太郎さんの番。
このままでは、お義母さまにご飯をよそわれてしまう。
私は手のひらを上に向けて、その人に差し出した。
「はい。さっさと渡してください」
「自分でやりますよ」
「早く」
腰を下ろした晋太郎さんは、ムッとしたまま空の茶碗をそこにのせた。
「いつもいつも、どうもありがとうございます」
「えぇ、どういたしまして」
指と指の先が、わずかに触れた。
いつもの三倍近く盛り盛りに盛ったご飯を渡す。
「いただきます!」
私は勢いよく箸をつかむと、朝餉を一気にかき込む。
百も数え終わらぬうちに、全て食べ終えた。
「ごちそうさまでした!」
「米粒がついております」
「どこに?」
晋太郎さんが自分で自分の顎を指で差すのを、マネして同じようにやってみても、それに米粒の触れる様子はない。
「ここです」
手が伸びてくるのを、思わずよけそうになるのを、「そうじゃない」って我慢する。
晋太郎さんの指が口元に触れるのを、そのまま許した。
「か、片付けて参ります!」
一目散に土間へと逃げ込む。
恥ずかしい。
お義父さまやお義母さまの前で、一体何をやっているのだろう。
瓶から水を汲み、洗い桶に流した。
そこに並ぶ皿や鍋を一心不乱に洗っては片付ける。
床も掃いてピカピカになったところで一息ついた。
なんか違う。
そうだよね。
私がしたいのは、こんなことじゃなかった。
もっとちゃんとしっかりきちんと、あの人の妻になりたいのだ。
顔を上げる。
今日はまだ始まったばかりだ。
「よし!」
顔を叩き、気合いを入れた。
お料理や裁縫が出来ないのなら、家じゅう土間みたいに掃除する?
だけどつい数日前に、張り切りすぎてお義父さまの大切な花器を落として割ったばかりだし……。
そうだ。花だ。
土間から出て庭へ回る。
垣根の通用門を抜けると、その向こうには桔梗の咲き乱れる庭が広がっていた。
庭の手入れなんて、したことはない。
前に芽を摘んで怒られた。
だったら今度は、世話をすればよいではないか。
私だってこの花を大切に思っているのだということを、あの人に分かってもらいたい。
晋太郎さんが水をやっているのを見かけた。
力仕事は頼みなさいと言われたけど、自分でやらないと意味の無いような気がする。
あの人はお義父さまの部屋で、囲碁を始めたばかりだ。
どうせなら気づかれないうちに、こっそりとやってしまいたい。
土間へ戻る。
手桶とひしゃくを見つけると、井戸へ走った。
桶にいっぱいになるまで水を汲み、庭へ戻る。
ひしゃくでそれをまくと、あっという間に水はなくなった。
もう一往復、あともう一回。
一度にまける水の量はわずかだ。
これで終わりにしよう、これで最後だを何度も繰り返し、庭の八割までまけた。
せめてもう一回だけ……。
なみなみと汲んだ桶から、歩くたびに水がこぼれ落ちていた。
そこに出来たぬかるみに気づかず、ふっと足を滑らせる。
「きゃあ!」
転んだ勢いで尻餅をついた。
悲鳴を聞きつけた奉公人たちが飛び出してくる。
「志乃さま、大丈夫ですか!」
助け起こされた小袖は泥だらけで、ひねった足には痛みが走る。
騒ぎを聞きつけやって来た晋太郎さんは、すっかり呆れた顔で見下ろした。
「何事です」
泥だらけになった私を見て、ため息をついた。
「まさか庭に水やりを?」
「自分で……、やりたかったのです」
「水やりをですか?」
またため息をつかれた。
「つい二、三日前にも、雨は降ったばかりですよ。そんな必要はありません」
「ですが私は!」
立ち去ろうとしたその人は、振り返った。
「なんですか?」
「……何でもありません」
奉公人に助け起こされ、運ばれる。
足を引きずっているのを見られ、お義母さまにまで「今日は一日休んでいなさい」と言われてしまった。
泥のついた小袖は洗濯するからと、身ぐるみまではがされ、襦袢だけにされてしまう。
雨が降っていたかなんていちいち覚えてないし、ましてや庭の水やりだなんて、今まで一度もやったことはない。
実は料理だって裁縫だって掃除だって、嫁入り前にはほとんど手伝ってこなかった。
何もかも好き好んでやりたいフリしてやってるわけじゃないのに……。
襦袢の上に浴衣を羽織ると、廊下に出た。
閉めきった部屋では独りでいても蒸し暑い。
襖を開け放し、廊下から縁側に出る。
自分の部屋から見える風景を眺めた。
数歩も歩けばすぐ行き詰まってしまうような土塀に、背の高い数本の木が植わっている。
本当はあの花のことだって、そんなには好きじゃない。
柱にもたれて歌を唄う。
子供の頃に、よく鞠をつきながら歌った歌だ。
もう随分長いこと唄っていなかったのに、それは自然と声に流れてくる。
すりむいたところからは、まだ血がにじんでいた。
家に帰りたいと、初めて思った。
「落ち込んでいるのかと思うていたのですが……」
現れたその人は、そんなふうに言った。
「お元気そうでなにより」
私がにっこりと微笑んで見せたら、隣に腰を下ろした。
「手まり唄です。晋太郎さんは、手まりで遊んだことは、ありますか?」
「ありませんよ、そんなの」
「あはは、そうでしょうね」
私は唄う。
晋太郎さんの遊んだことのない、手まり唄を。
「大事がないなら、私は戻ります」
「はい、大丈夫です」
ひらひらと手を振った。
「私のことなど、どうぞお気になさらずに」
「足をひねっていたようだと、聞きましたが」
「あぁ、平気です。たいしたことないので」
その足をにゅっと突き出す。
足首をかくかくと元気よく動かして見せた。
「ね、大丈夫でしょ?」
笑顔で返した私に、この人はため息をついて立ち上がる。
「少し休んだら、皆のところに顔を出しなさい。心配しています」
「はい。すみませんでした。ご心配をおかけして」
背中を見送る。
泣いたら負けだと分かっているのに、その姿が見えなくなったとたんに、何かが頬を伝う。
夕餉の支度の時刻になって、何事もなかったかのように土間へ戻った。
奉公人たちに「あら大丈夫なのですか?」なんて言われたりなんかして、これ以上この家での評判を落とさぬよう、丁寧に頭を下げる。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
それからは黙って身を粉にして働いた。
夜になりようやく一人になると、どっと疲れが押し寄せる。
早めに寝床を整えると、横になった。
ひねった足はまだ痛い。
その痛みに目を閉じる。
遅れてやってきたその人に何か言われるかと思っていたけれども、何も言われなかった。
その日はなかなか寝付けぬまま、気づけば朝になっていた。
第11章
蝉の鳴く声がやかましい。
土から這い出した幼虫のぬけ殻が、あちこちに転がる。
寝所からの景色は変わらない。
私は衝立の向こうの、主のいなくなった布団を片付ける。
「お盆の支度をしないとね。志乃さんも手伝ってちょうだい」
お義母さまと二人、仏間の位牌を拭き、床の間を整える。
鮮やかな提灯にろうそくをさした。
「実家に帰る?」
義母はふと聞いた。
「私はどっちでもいいけど」
「いえ。岡田の家とは頻繁に文のやりとりもしておりますし、特に用事もないので……」
「いいの?」
「はい」
塩漬けにしたキュウリとお茶を運ぶ。
最奥の庭はいつもきれいに手入れがされ、涼しげな青い花がそよいでいた。
吹く風までもが心地よく感じる。
お盆には、死者がこの世に帰ってくる。
坂本の家は珠代さまの生家ではないけれど、もしかしたらひょっこり顔くらいは出しに来るかもしれない。
虫除けの香が焚かれた部屋に、その人は座っていた。
「虫干しですか?」
「えぇ」
庭に面した縁側に書物がならぶ。
その合間合間に、独楽や人形、カラクリ仕掛けの不思議なおもちゃがならぶ。
「これは?」
小さな木彫りの人形を手に取った。
「それは、私がまだ赤ん坊のころに、大層気に入っていた品だそうです」
よく見れば古びたカルタや小石、小さな枝なんかまである。
「これは……」
「私の宝物です」
晋太郎さんの顔は真っ赤だ。
私は吹き出しそうになるのを必死で堪えている。
「奥の箪笥にしまってあるものです。こうして年に一度は風を通すのです」
続きの奥の間に目をやる。
開け放した襖の奥で、箪笥の引き出しは全て抜き出されていた。
「天気のよい日に、順番にやるのです」
「……。かわ……」
『かわいい』って、言いそうになるのを飲み込む。
「わ、私も、お手伝いしましょうか?」
「結構です。内心では、どうせ笑っておいででしょう? この折り紙は、私が初めて上手く折れた兜です」
そう言って、古びた小さな兜を手に取った。
「どうですか、この出来。幼子の作品にしては、上出来でしょう? 捨ててしまうなんて、私には出来ません」
「それで私に、箪笥の中を見られたくなかったのですか?」
晋太郎さんは真っ赤になってうつむいた。
「それでも虫干しはしないといけないので、覚悟を決めました」
それは喜んでいいことなのかな?
衣桁に目をやる。
一枚の艶やかな小袖が掛けられていた。
「これは……?」
男物とも女物とも言えない柄だが、晋太郎さんが着るには小さすぎる。
あぁ、これはきっと、珠代さまの形見分けだ。
「とても美しいお衣装が、似合うお方だったのですね」
「袖を通してみますか? 私には着られぬものなので」
首を横に振る。
「私のような者には似合いません」
「あぁ、そうかもしれませんね」
晋太郎さんはぬるい茶をすすった。
「その人には、その人に似合う柄というものがあります。あなたには、今着ているその藤黄の七宝は、よくお似合いですよ」
そんなことを言われても、うれしくはない。
衣桁の着物には、紅藤色に可憐な蝶が舞う。
「かわいすぎるのは……苦手です」
晋太郎さんはくすっと笑って、着物を見上げた。
「そうですか? あなたはとてもお可愛らしい方なのに」
遠くで蝉の声が聞こえる。
屋根のひさしの奥の、影になっているこの部屋から見上げる空は、どこまでも高く澄みわたっていた。
「……芯の、強いお方でした」
「きっと私なんかより、ずっと素敵な方だったのでしょうね」
「そんなことはありませんよ。あなたも十分素敵です」
真顔でそんなことを言うこの人に、つい笑ってしまう。
私とはまるで正反対とは、言えなかった。
「本当ですよ」
「よいのです、そんな無理をなさらなくても。私は……、ただ嫁に来ただけの者ですから」
迎え火が焚かれる。
この煙にのってあの人が現世に戻ってくるなら、その間だけでも、私はこの家から出て行こうか。
「やっぱり、家に戻ろうかな……」
隣に座る晋太郎さんは、私をのぞきこんだ。
「岡田の家に戻られますか?」
「えぇ、いつ戻って来るか分かりませんけど、それでもよろしいですか?」
冗談のつもりでそう言ったのに、その人はしばらく私の顔を眺めた後で、すっと前を向いた。
「あなたのお好きなようになさい」
夏の一日は長い。
昼餉に簡単な食事を済ませ、毎日の日課である家の掃除をする。
残った水は、打ち水代わりに庭にまいた。
ふいにめまいに襲われる。
「す、すみません。なんだかちょっと、急に気分が……」
吐き気を覚え、口元を押さえた。
ウッと一度嘔吐いただけで、気分はすっとよくなる。
「まぁ志乃さん!」
義母の声に振り返った。
「ちょ、あなた大丈夫なの?」
「えっ?」
「気分は?」
そう改めて聞かれると、胸焼けがしないでもない。
「う~ん、たいしたことはないのですが……」
「吐き気は?」
「まだ少し」
お義母さまの顔は、未だかつてないほどパッと大きく広がった。
「ちょっと! 出来たのよ、赤ちゃん! 誰か、誰か早くお布団を敷いてちょうだい!」
大騒ぎになった。
義母は私にそこから動かぬよう命じると、奉公人たちを呼び寄せる。
部屋に布団を敷かせ、枕元には水の入ったたらいを置き、手ぬぐいを何枚も用意させた。
横になるよう命じると、義母は奉公人の一人に、私をうちわで煽ぎ続けるよう申しつける。
「そ、そこまでしていただかなくても、大丈夫です」
「何を言ってるの? これから辛くなるのは、あなたの方なのよ」
晋太郎さんがやってきた。
「一体何の騒ぎですか」
「まぁ晋太郎、よく来ました。心してお聞きなさい」
義母は晋太郎さんを座らせる。
「志乃さんに赤子が出来ました」
「……。は?」
「つわりです」
その人は私を見下ろす。
吐き気がして、またウッと嘔吐いた。
「食あたりか、なにかではないですか?」
「えぇ? そうなのですか、志乃さん」
「わ、分かりません……」
二人からじっと見下ろされても、気分の悪い私はどうしていいのか分からない。
晋太郎さんはため息をついた。
「そうですよ。喜ぶのはまだ早いですよ、母上。もう少し様子をみてからでもよろしいのでは?」
「うれしくはないのですか?」
義母の憤りに、晋太郎さんは困ったようにうつむく。
顔を赤らめた。
「う、うれしくはありますが、まだそうと決まったワケではありませんので……」
「まぁ、あなたはいつから、医者になったのです?」
「母上の心配をしているのです」
「私のことなんて、どうでもいいじゃありませんか!」
その人はもごもごと口ごもった。
「は、早とちりをして、傷つくのは……、志乃さんですよ」
脂汗がにじんできた。
キリキリと腹が痛む。
「す、すみません。厠へ行ってまいります……」
歩き辛いほど腹が痛い。
付き添われて用をすまし、部屋に戻ってきたころには義母は姿を消していた。
晋太郎さんは深くため息をつく。
「大丈夫ですか?」
「えぇ……」
「全く。付き添いは不用、食事はしばらく粥で。それでよろしいですか?」
気持ち悪くて、すぐに横になる。
「手を……つないでもらってもいいですか」
そう言って腕を伸ばしたら、晋太郎さんはその手をぎゅっと握ってくれた。
「私が付いていましょう。うちわで煽ぎますか?」
首を横に振ったら、その人は小さくうなずいた。
バタバタと奉公人たちが動くのに、何かと指示をだしている。
つないだ手のほんのりとしたあたたかさに、少しほっとした。
手をつないだまま目を閉じてしまったその人を、見上げながら遠い蝉の声を聞いている。
いつの間にか眠っていた。
夕餉は一人、部屋で済ませ、そのまま横になっていた。
襖や廊下の向こうで聞こえる音や話し声に、じっと耳を澄ましている。
高い塀の向こうに日も沈んで、辺りはすっかり暗くなった。
「お加減はいかがですか」
いつもよりずっと早い時間に、晋太郎さんはやってきた。
自分で押し入れを開けている。
「あ、お布団を敷きますか?」
「あなたは横になっていなさい」
いつもより、布団の位置がずれる。
中央に敷かれてしまった私の布団のせいで、晋太郎さんのは部屋の隅に追いやられてしまった。
「動かしますか?」
起き上がろうと思うけど、体が重い。
背中を向けているこの人からは、返事がない。
「あなたが嫌じゃないのなら、私はこのままでよいです」
いつものように間に衝立を立てるとしたら、本当に晋太郎さんの布団は、廊下の襖と接することになってしまう。
だけど、そんな心配もよそに、この人は衝立を立てぬままさっさとそこに寝転がってしまった。
「そういえば初めてですね。あなたのお顔を見ながら、眠るのは」
枕にのったお顔がこちらを向いた。
そうでなくても気分が悪いのに、あんまり見ないでほしい。
「恥ずかしいので、やめてください……」
体に掛ける布団代わり夜着がないから、隠れるところがない。
衝立もない。
目を開ければ見えるこの人に、ドキドキしている。
背を向けてしまうのもわるいような気がして、見えなくなるようぎゅっと目を閉じた。
「寝苦しいのなら、襖を開けておきますか?」
「虫の入る方が嫌です」
そう言うと、晋太郎さんは笑った。
「では、このままにしておきましょう。気分が悪くなったら、いつでも起こしてください」
その人は他にもなんだかんだと世話を焼いてから、ようやくごそごそと動いて背を向けた。
少しほっとする。
そういえばこうやって、落ち着いてこの人の寝姿を眺めるのも初めてのような気がする。
形のよい後頭部から耳たぶ、すっと伸びた首筋のふもとに、大きな肩が広がる。
ため息が漏れた。
まだ少し胸焼けがする。
寝返りを打って、私も目を閉じた。
翌朝目を覚ますと、その人はまだ眠っていた。
襖を開けて、外の空気と入れ替える。
昇ったばかりの朝日がさっと差し込んだ。
ごそごそと衣ずれが聞こえる。
「あ、まぶしかったです?」
「いえ……。もう、お加減はよろしいのですか?」
まだ目の覚めきらぬかすれた声でそう言って、ごろりと背を向けた。
幼い子供のようなその仕草に、つい微笑む。
「えぇ、すっかりよくなりました」
またすぐに寝息が聞こえてきた。
のぞき込んでみたら、本当に眠っているようだ。
腕を組んだまま動かないその姿に、もう一度微笑む。
土間へと向かった。
「あら志乃さん、もう動いて大丈夫なの?」
「えぇすっかり」
そう言ったのに、お義母さまは不機嫌そうに顔をしかめた。
「なによ、無理なんて、することないのよ。気分が悪いのなら、素直に横になっていればいいのに」
「いえ、おかげさまで、すっかりよくなりました」
「あらそう?」
明らかに義母の機嫌は悪くなる。
そわそわと落ち着かないその仕草に、私は少し混乱する。
「それはよかったですこと!」
落ち着かない義母の様子にしばらく気を使っていたのが、やがて勝手に機嫌を直してくれたことにほっとする。
食事のために全員がそろったころには、すっかり元に戻っていた。
「志乃さんは、ただの食あたりだったそうですよ」
食欲旺盛な義母の隣で、お義父さまは「それはなにより」とだけ答えた。
お祖母さまは、何も言わず食事を続けている。
何か悪いことでもしたような気分になって、私は隣の晋太郎さんを見上げた。
「大事なくて、なによりでした」
さっきまでの、寝ぼけた気配はみじんも見せず、涼しげな顔をこちらに向ける。
「それで、本当にご実家に戻られますか?」
「いえ、特に用事もないので。このままここにいようと思っているのですが……」
「そうですか。ならば結構です」
その人はもくもくと朝餉を口に運ぶ。
体調はよくなったとはいえ、食欲はまだ元には戻らない。
この人は……引き留めてはくれないんだな。
冷や奴だけをスルリと喉に通して、食事を終えた。
「本当に、もう体調はよくなったの?」
片付けをしている最中に、再び義母に聞かれた。
「えぇ。ありがとうございます」
「今朝もあまり食べていなかったじゃない」
「うーん。でもまぁ、大丈夫だと思います」
「そう? 本当にそうなの?」
そうやってしばらくあれこれと構っておいてから、義母はようやくふぅとため息をついた。
「ま、こればっかりは、どうしようもないものね。まだ本調子じゃないのなら、今日も一日休んでいなさい」
そんな突然に暇を出され家に閉じ込められても、本当にすることが見当たらない。
家の軒先と白い土壁の隙間に見える、わずかな空を見上げる。
じっとりと蒸し暑さは増して、茹だるような熱さだ。
桔梗のそよぐ庭が浮かぶ。
廊下で物音が聞こえた。
「晋太郎さん?」
手に桶と柄杓を持っている。
そこには桔梗が差してあった。
「墓参りですか?」
今はお盆の時期だ。
自然とそんな言葉が口をつく。
「えぇ……、まぁ、そんなもんです」
「私も行ってよいですか?」
「……。ま、まぁ……、墓参りですので……」
お供は断って、二人で外へ出る。
久しぶりの外出に、私はうきうきしていた。
「どちらのお墓へまいりますか?」
少し意地悪な質問をしてみる。
「墓はこちらです」
珠代さまの墓参りに行くのか、それとも坂本家の先祖の墓かと聞いたつもりだったのにな。
「坂本はどこの檀家でしたっけ」
「……。少し寄り道をしましょう」
晋太郎さんは通りを曲がった。
確か妙善寺はそっちではないはずなんだけど……。
そんなことを思いながらも、後をついてゆく。
大通りを抜け、町の外へ出た。
「この河原で、幼い頃はよく遊んでいたのです」
土手から降りる。
ごろごろと丸石の転がる河原は、下駄を履いていても歩きにくい。
「先日あなたがご覧になっていた石や枝は、大体ここで見つけたものです」
晋太郎さんはうれしそうに川を指さした。
「このくらいの暑い時期には、よくここで泳いだものです。ほら、今も子供が沢山泳いでいます。よい思い出です」
照りつける日差しで、じっとりと汗をかいている。
歩き出したこの人は、子供の頃の思い出話しを続けた。
「私は、独楽もたこあげも得意でした。竹馬なんかも上手かったですよ。今でもやれば出来るんじゃないかな。あぁ、水切りも得意でした」
そこにしゃがみ込むと、あれこれと石を探し始める。
「水切りって、ご存じですか? 平らな丸い石を選んで、真横にぴゅーっと投げるのです。勢いで、川面を跳ねさせるのです」
ようやく見つかったらしい気にいた石を見つけると、持っていた手桶をそこに置いた。
「志乃さん、よく見ていてくださいね」
投げられたその石は、一度も跳ねることなく水面に沈む。
「あれ? いや、少々お待ちください」
それからこの人は、何度も時間をかけて丁寧に石を見つけ出しては投げて見せたが、上手く跳ねるのは一度もなかった。
どんどん日が傾いていくのを、私はじっと見つめている。
「あ、あの……」
「昔は上手く出来たのです!」
またしゃがみ込んだ。
「晋太郎さん……」
「なんですか!」
「……早く墓参りを済ませて帰らないと、遅くなってはお義母さまが心配なさいます」
「昔よりも、よい石がなくなってしまったようです。いい石ほど選ばれて投げられるので、もうここには残っていないのかもしれません」
桶の桔梗もすっかりくたびれてしまった。
まだ石探しをやめないこの人の横で、川の水を柄杓ですくうと、桶に入れてやる。
「そうだ。志乃さんもやってみますか?」
「いえ、結構です……」
「ぜひやってごらんなさい。どれだけ難しいか、やってみればあなたにも分かります」
足場の悪い石の上で、私の体がぐらりと傾いた。
「大丈夫ですか」
晋太郎さんの手が腕をつかむ。
「足元には気をつけて……」
「……。先日崩した体調が、まだ本調子ではないようです。この日照りは堪えます」
ようやく石遊びが終わった。
「そうですか。大丈夫なのですか? 今日はお参りをやめて、家にもどりますか」
「いえ、それは平気です」
あれこれ押し問答したあとで、ようやく動き出す。
「では、妙善寺へ参りましょう」
桔梗の花も息を吹き返した。
町の通りへは戻らず、川沿いの土手をゆく。
「あの森では、よく太いミミズが捕れるのです。釣り餌にするには、西の端にある松の根元を掘るとよいのですが、これは私だけが知っている秘密です。カブトムシは明け方一番に……」
水切りは兄ともよくやったし、釣りもした。
この人のいう松とやらは知らないが、釣り餌やカブトムシの集まる木なら、私だって岡田の家の近くにいい場所を知っている。
「あなたが手まり唄を教えてくださったので、私もあなたにお知らせしたかったのです。幼い頃にした遊びを」
晋太郎さんは微笑んだ。
「少しは私のことを、分かってもらえましたか」
「……。なんだ。晋太郎さんは、ちゃんと分かっていたのですね」
そうつぶやく。
「何かおっしゃいましたか?」
「いえ。ちゃんと分かりましたよ!」
山門への階段は昇らずに、裏から直接墓地へと回る。
墓石には「坂本」と刻まれていた。
並んで手を合わせる。
「おや、坂本晋太郎どのでございますか」
盆の墓参りの人手の中で、ふいに声を掛けられた。
「これは、吉岡さま……」
晋太郎さんは、深々と頭を下げた。
私も丁寧にお辞儀をする。
「お久しぶりですね。お元気にしておられましたか」
その人は晋太郎さんより、いくらか年上に見えた。
「はい。おかげさまで」
簡単な挨拶を交わす。
その吉岡さまは私を見下ろした。
「こちらの方は?」
「志乃にございます。私も……、妻をめとりました」
「あぁ」
その方は、眩しそうに目を細めた。
「それは、おめでとうございます。少し、話しをしませんか」
墓を見渡す講堂の縁側に腰掛けた。
少し高台にあるこの寺院からは、広がる墓地の向こうに町が見える。
「ちょうどあなたに、お願いしたいことがあったのです。そろそろ千代松をここの道場に通わせようかと思うておりまして、その師範をお願いしたい」
「私にですか!」
「あなたになら、珠代も喜んでくれるでしょう」
ハッとして見上げたら、その方はにっこりと微笑んだ。
「あなたも、晋太郎どのと珠代の話は、ご存じなのでしょう?」
私以上に、この人の顔は真っ赤になっている。
「珠代はいつも、晋太郎どののことを案じておりました。あれも一人子で他に兄弟姉妹はおりませぬ。晋太郎どののことを、実の弟のようにかわいがっておりました」
吉岡さまと珠代さまも、幼なじみの間柄だった。
家同士の約束で、幼い頃から互いを夫婦と意識して過ごされていた。
「珠代の家には、跡継ぎとなる男子がおりません。ゆくゆくは、千代松を珠代の生家にお返しするつもりでおります」
「よろしいのですか?」
「私の家には他にも男がおります。向こうの家の了解が得られれば、私も千代松と共に、そちらにうつるつもりでおります」
「養子に入られると?」
「別に構わないでしょう」
晋太郎さんの問いに、吉岡さまは軽やかに笑った。
それがどれだけ大きな決断とご覚悟であったか、想像が出来ない。
「随分と……、お悩みになられたでしょう」
「いやいや。珠代のために何もしてやれなかった私の、せめてもの報いです」
反対はなかったのだろうか。
それともそのお心は、私たちだけに打ち明けられたものだったのか……。
「珠代の墓にも、参ってやってください。喜びます」
吉岡さまと別れた。
その墓の前で手を合わせる。
私が立ち上がっても、晋太郎さんはまだ手を合わせていた。
「晋太郎さん……」
その人の頬に伝う涙を、私は見て見ぬフリをしている。
珠代さまは、ちゃんと嫁がれた先で愛され、幸せにお過ごしだったのだ。
そのことがようやく、この人を安心させてくれている。
桔梗の花を添えた。
「お話はお済みになりましたか?」
「えぇ、もう大丈夫です」
その人は立ち上がった。
「さぁ、戻りましょう。母が心配しておるやもしれません」
真っ赤な夕陽に照らされた道を、私たちは並んで歩いた。
第12章
盆明けの送り火を焚いた頃には、真昼の太陽もようやく傾き始めていた。
いつの間にかうとうとと眠っていて、目を覚ますと日はすっかり暮れている。
慌てて土間に駆け込むと、食事の用意はあらかた終わっていた。
「すみません、遅くなりました!」
「いいわよ別に。そんな時だってあるわよ」
義母は出来上がった膳を手渡す。
「皆を呼んできてちょうだい」
奥の部屋をのぞき込んだ。晋太郎さんは書物を片手に広げ、碁盤の前でなにやら考え込んでいる。
「夕餉の支度ができました」
返事がない。
聞こえてはいるのだろうから、静かにそこを後にする。
お義父さまとお祖母さまにも声をかけてから、食事をする部屋に戻った。
晋太郎さんは少し遅れてやってくる。
「支度が出来ていたのなら、声をかけてくださればよかったのに」
ご飯を盛った茶碗を渡すと、その人は言った。
「言いに行きました」
「聞いていませんよ」
「囲碁の本を読んでいらっしゃいました」
ムッとしたような顔でにらまれても、言ったのは事実なんだから平気。
私は味噌汁をすする。
「今度からはちゃんと、返事をするまでお願いします」
「分かりました」
そんなの、聞いてないのが悪いんじゃない。
食欲は止まらない。
一番に食べ終わると、さっさと席を立った。
「ごちそうさまでした」
夜になって、寝支度を調える。
いつものように離して敷いた布団の間に、衝立を立てた。
しばらくしてからやってきたその人は、眉をしかめる。
「一体、この衝立はいつまで立てておくものなのでしょうね」
「え? これは初めに、晋太郎さんが立てたものではなかったのですか?」
ふいにこの人は間に立てた衝立のギリギリにまで、自分の布団を寄せた。
「なにをしているのです?」
「別に。あなたの領域は侵していませんよ」
そこへごろりと横になる。
大きな一枚板の衝立だ。
襖絵をはめ込んだ木の枠に足が付いていて、絵の下には唐草模様の透かし彫りが入っている。
床からは五寸ほど浮いていた。
「こうすれば、お顔は見られますね」
「……。そうですね」
居心地の悪さに背を向ける。
これでは衝立を立てる意味がない。
見られながら寝るなんて、そんなのは絶対に無理だ。
ごそごそという衣ずれが、背中の向こうで聞こえる。
「……この家には、もう慣れたようですが、いかがですか?」
背を向けたままそれに答える。
「はい。慣れました」
「私には?」
振り返った。
晋太郎さんはまだこちらに背を向けていた。
「……。それなりに……」
「それはよかった。ずっと、嫌われているのだろうと思っていました」
その人は衝立の向こう側で、背を向けたまま話し出す。
「嫁入りの相手を自分で選べない以上、あなたには出来るだけ、不快な思いはさせまいと思っておりました。私が相手を選べないように、あなたも誰かを選ぶことができないからです」
秋口の夜はじっとりと暑くて、締めきったままの部屋には熱が籠もる。
「婚儀の席をめちゃくちゃにしたことも、まだ謝れていません。ですがあなたに、許してもらおうと思うてはいない自分も、一方でいるのです」
私は寝巻きの袖を、ぎゅっと握りしめる。
あの日のことは、ここではなかったことになっている。
「正直な、私の気持ちです。それでも、お盆に実家に帰りたいとおっしゃらなかったことには、少しうれしく思っているのですよ」
「……私自身の、勝手な都合だけです」
「どんな都合があるのです?」
衝立の向こうで晋太郎さんは振り返った。
暗い部屋で互いの顔は見えないが、向き合っていることは分かる。
今度は私が背を向けた。
「用事はないし、支度が面倒なだけです。帰っても……小言しか言われないような気がして……」
その人は笑った。
「あなたの気持ちが聞けてよかった」
その言葉に、私は衝立の下に腕を伸ばす。
「手を、つないでください」
手のひらを上に向け、差し出した。
じっと待っていると、そこに大きな手が重なる。
それは自分の触れた手の形を確かめるように甲に触れ、手の平をなぞる。
指先を絡めるとそっと握りしめた。
私は目を閉じる。
触れられる自分の手がとても小さく思えて、されるがままに任せている。
絡んだ指はもう一度私を握りしめた。
そっと握り返す。
「志乃さん」
「はい」
「お休みなさい」
その声に、同じ声で返した。
私は本当に、この人と同じ気持ちで同じように笑えているのかしら。
ふとそんなことが不安になって、手から伝わる熱に目を閉じる。
「ちょっと失礼するわよ」
襖が開いた。
突然現れた義母に、パッと手を離す。
部屋を見たお義母さまの表情は一変した。
「この衝立はなんですか! まさかずっと、こんな様子だったのではないでしょうね! 志乃さん、あなた……!」
「母上!」
晋太郎さんが飛び起きた。
「寝所に突然押しかけるとは、何事ですか。無粋にもほどがあります!」
「おかしいと思ったのです。志乃さんが懐妊したかもしれないというのに、晋太郎の落ち着き払っていたのが。もしや今までずっと……」
「夫婦には、夫婦の問題というのがあるのです」
「まぁ! あなたの口からそんな言葉を聞こうとは。どういうことなのか説明しなさい!」
「何をどう説明しろと言うのですか」
二人の間で私は震えていた。
晋太郎さんの手が肩に乗る。
それを見た義母の勢いは、少し落ち着いた。
「……。ちゃんと、してはいるんでしょうね」
「当たり前ではないですか」
義母はキッと私をにらむと、衝立に手をかける。
「志乃さん。この衝立はいつから置いてあるのですか」
「は、初めからです」
「初めから?」
「婚儀の日の翌日から、ずっと……」
「二人とも、そこに座りなさい」
義母はそう言い放つと、その場に座り込んだ。
「早くお座りなさい!」
「母上。いくら母上といえども、余計な口出しはしないでいただきたい」
「余計なことですって? あなたにとっては、これは余計なことなのですか?」
男児を産み、その家を継ぐことは大切な勤め。
晋太郎さんはぐっと言葉を飲み込む。
「私は家のことを考えて……」
「それは十分に承知しております」
「ならばあなたが、もっとしっかり……」
義母はそれでも、言葉を選んでいるようだった。
「あなたのわがままに、これ以上振り回されてはたまりません。いい加減、先のことも少しは考えて……」
「もう結構!」
晋太郎さんが私の腕をつかんだ。
「行きましょう、志乃さん。この母と話すことなど、何もありません」
部屋を飛び出す。
この人に手を引かれ、真夜中の廊下を進む。
大きな月がぽっかりと浮かんでいて、そういえばあの日の月もこんな月だったかもとか、思い出す。
閉めきっていた北の間の板戸をガタガタと開ける。
夜の桔梗の庭を、私は初めて目にした。
「お入りなさい」
晋太郎さんは部屋から廊下へ続く間口に外した板戸を立て、そこを塞ぐ。
すぐに雨戸を広げた。
「虫は今夜は我慢してください。こうすれば暑さもしのげます」
月に照らされた一面の桔梗が夜風に揺れた。
「こちらへおいでなさい。それとも横になりますか?」
その人のいる縁側へふらりと向かった。
畳の段差から飛び降りると、引き寄せられるようにその隣に腰を下ろす。
青い桔梗は月明かりにぼんやりと浮かび上がる。
晋太郎さんはため息をついた。
「母には困ったものです」
大きな手で口元を覆い、前を向いているこの人の横顔は、少し赤らんでいるように見えた。
「きっとお義母さまも今頃は、『晋太郎さんには困ったものです』と、思っていると思います」
そう言って微笑んで見せたのに、その人はまた深いため息をついた。
「あなたは本当に、意味を分かっておっしゃっているんでしょうね」
「はい?」
「いいえ、何でもございません!」
腕が伸びてきた。
肩に触れた手が私を引き寄せる。
「今宵は籠城戦ですよ。戦の覚悟はよろしいか」
見上げると、目が合った。
「はい」と答えたけれど、なんだか可笑しくなって、くすくす笑ってしまう。
その人も笑った。
「さて。では何をして過ごしましょうか。朝まで長いですよ」
「囲碁をしましょう」
「打てるのですか?」
前に晋太郎さんが、ここで打っているのを見た。
「岡田の家では、父を相手にやっておりました」
「よろしい。それでは囲碁戦と参りましょう」
晋太郎さんは奥から碁盤を持ち出した。
囲碁を打つのも久しぶりだ。
「手加減はいたしませんよ」
「望むところです」
「置石はどうしますか?」
「う~ん……四子でよろしいかと」
晋太郎さんは先手の黒の石を四つ、真四角に並べる。
置き石とは碁を打ち始めるに前もって、盤に置いておく石のことだ。
これが多いほど、その色が有利になる。
「では始めましょう」
その人は、後手の白の石を手にニヤリと笑った。
長い長い夜に、私は一手目を打った。
第13章
夏の盛りといえども、夜明け前は肌寒い。
箪笥から取り出した浴衣にくるまって、昇る朝日に目を覚ました。
起き出した鳥たちのさえずりが賑やかすぎる。
「まだ手が進んでおられぬではないですか」
目をこすり碁盤を見た。
「お静かになさい。いま考えている真っ最中なのです」
どうしたって、この情勢はひっくり返りそうにないのだけれど。
ようやく打ったこの人の一手に、すぐ次の手を打つ。
晋太郎さんはまた考え込んでしまった。
土間から煙が香り立つ。
「そろそろ朝餉の支度に向かわねばなりません」
「……。いってらっしゃい」
昨晩に晋太郎さんの立てた板戸を、ガタガタと開けて片付ける。
当の本人はまだ碁盤とにらめっこをしていた。
土間へ向かう。
「おはようございます」
先に来ていた義母に恐る恐る声をかけた。
「おはよう。よく眠れましたか?」
義母は茄子を切り、出汁をとった鍋に入れた。
私はすぐに味噌の壺を持ってくる。
「えぇ、少しは」
さじですくい、ゆっくりとそれを溶いた。
「嫁入り前に、志乃さんは何を学んで来たのです?」
「女子の往来物ですか? 読本は苦手で……」
本はそれなりに読んできた。
好きなものも苦手なものも、色々ある。
嫁入り前の心得の本だって、先生をつけられ急遽教わった。
「教科書通りになど、生きてはいけませぬ」
お義母さまは盛大なため息をつく。
「まぁ、訓戒や教えなどというものは、理想でしかないと確かでございますけど!」
「私は、よき嫁ではございませぬか?」
互いに目が合う。
義母はお椀を手に取った。
「そうとは申しておりませぬ」
そこへ出来たばかりの味噌汁を、順番によそっていった。
「悪いのは全て晋太郎です。何もかも、なんにも出来ないあの子が悪い」
「晋太郎さんは、とてもよくしてくれております」
そう言ったら、義母は笑った。
「そうね。あなたにそう言ってもらえて、私も安心したわ。さ、膳を運んできてちょうだい。もう忘れましょ。確かに私も悪かったわ」
いつも食事をする部屋にそれを並べ終えてから、奥の部屋へ向かった。
のぞくと義父までが碁盤の前に座っている。
「あぁ、やめじゃやめじゃあ!」
突然、晋太郎さんは並んでいた碁石をかき乱した。
「これ、何をする」
義父はそんな晋太郎さんに対して、怒っているのか笑っているのか、ここからでは分からない。
「父上が余計な手を加えるので、志乃さんとの続きが出来なくなりました!」
「何を言う、とっくに勝負は決まっておったわ」
「あの……朝餉の支度が出来ました」
板戸の影から中をのぞく。
二人は驚いたようにビクリとしてから、こちらを振り返った。
「これはこれは、志乃どの」
義父に手招きされ、その前に座る。
コホンと一つ、咳払いをされた。
「そう言えばそなたのお父上、岡田宗治どのは、大変な囲碁の名手と名高いお方。もしや志乃どのも、そのお父上から手ほどきを受けられたか?」
「えぇ、暇の相手に打っておりました。いつも兄と迷惑していたものです」
「ほほう、兄の宗太どのも?」
「はい」
「なるほどなるほど」
お義父さまはそのまま立ち上がると、部屋を出て行く。
「朝餉の支度ができま……」
「志乃さん!」
急な晋太郎さんの大声に、びっくりする。
「父が勝手に石を動かしてしまったので、この勝負は無効となってしまいました」
「はぁ」
「後日改めて再試合を申し込みたいのだが、よろしいか!」
「えぇ、かしこまりました」
食事を始めると、その人は勢いよくご飯をかき込む。
「これ晋太郎、行儀の悪い」
お義父さまからそう言われても、気にかける様子もない。
食事を終えると、すぐに出て行ってしまう。
義母が私に話しかけてきた。
「昨夜はあれから、二人で何をしていたの?」
「特になにも……」
とは答えたものの、ほとんど寝ないで、続けて三局も打っていたのだ。
不意に眠気が襲う。
あくびが出た。
「……ま、いいわ。そうね、うん、特にすることもないし……。そうね、そんなことを、私が聞くものではなかったわよね」
義母は落ち着かない様子で、そわそわとしている。
「ま、今日は、あなたもいいわ。一日ゆっくりしておいでなさい」
「はい」
義母の言動は、時に不思議だ。
自分の部屋へ戻ろうとして、ふと足を止めた。
奥の部屋へ向かう。
なぜだか今は、その行為に何の抵抗も感じない。
夏でも涼しい廊下を進んでゆく。
その人はいつもの場所で、畳に横になって眠っていた。
昨晩私の持ち出した浴衣が、まだ部屋の隅に転がっている。
それをかけてやろうとして、手を止めた。
枕代わりの座布団を持ち出すと、その人の隣に横になる。
かけ布団にする薄手の浴衣を、自分と晋太郎さんとに併せてかけた。
庭の桔梗は静かに咲いている。
私はそっと目を閉じる。
夕立が空を駆け抜けていく喧噪に目を覚ました。
花は強い雨に打たれている。
部屋には誰もいなくて、頭はぼんやりとして、きちんと働かない。
急に肌寒さを感じて浴衣にくるまった。
雨の音以外は何も聞こえなくて、この世に自分一人だけが取り残されたみたいだ。
しばらくして降りやんだ雨と、動き出した人々の声が遠くに聞こえて、ほっと胸をなで下ろす。
よかった。
私は一人じゃない。
「目が覚めましたか」
晋太郎さんの声に、我に返った。
「どこへ行かれていたのです?」
「ん? ちょっとね」
私の隣に座ると、強い雨に打たれたばかりの桔梗の庭を眺める。
「あぁ、通り雨ですね。寒いのですか?」
首を横に振る。
頭がぼんやりとするのは、きっと雨だけのせいじゃない。
そのまま動かなくなってしまったこの人の隣で、同じように庭を見た。
雨のたっぷり降り注いだ後の、強い日差しの戻った庭で緑の葉は輝いていた。
「戻ります」
そう言って立ち上がる。
肌掛けにした浴衣を持ったまま、うっかり部屋を出てきてしまった。
これは後で返しておこう。
晋太郎さんの隣で寝ていた行為に恥ずかしさが急にこみ上げてきて、小走りになる。
浴衣を部屋に放り込むと、大真面目な顔をして掃除を始めた。
それから数日が経ったある日、珍しく客間に呼ばれ、何事かと顔を出す。
「お兄さま!」
「志乃、元気だったか?」
待っていたその客人に驚いた。
隣には鶴丸の姿も見える。
「まぁ、元服していたのですね!」
鶴丸は同じ寺子屋で学んだ幼なじみだ。
私の顔を見るなり、うれしそうにニッと笑った。
「はい。志乃さまも、お元気そうでなによりです」
「今は、なんとお呼びすればよろしいか」
元服したのならば、改名した新しい呼び名があるはずだ。
「今はまだ、そのまま『鶴丸』とお呼びください」
鶴丸はクスッと笑った。
嫁入り前に時が戻ってゆく。
「兄上たちはどうしてこちらに?」
「吉之輔さまへの、父からの使いです。よい機会だと思うて、鶴丸も連れて参りました」
「お義父さまの?」
兄はうなずく。
「お盆には戻ってきて、家で泣き言を並べるかと皆で噂しておりましたのに。おかげで私は賭けに負けてしまいました」
変わらぬ朗らかな笑顔に、胸の奥が温まる。
兄の姿をこの家の風景で見ることに、不思議な違和感を覚えた。
「皆、元気に過ごしておりますか?」
母や仲のよかった奉公人とは、時折文のやりとりしている。
それでもこうして顔を合わせ互いの無事を確認しあうことが、どれほどありがたいことなのかと気づかされた。
「えぇ、何も心配なさることはないですよ。全く変わりないです」
兄はにっこりと微笑む。
ほんの半年前まで住んでいた家が、とても遠くになってしまった。
柱の傷や天井の染み、縁側から転げ落ち泣いて、母に助け起こされたこと。
ささくれだった板戸の棘が、いつまでも抜けずに腫れ上がって泣いた。
そのおかげで立て付けの悪かった裏門の扉が片方だけ新しくなった。
庭の隅に埋めた宝物だったギヤマンガラスの破片は、結局見つけられないままだ。
お義父さまに呼ばれ、兄は部屋を出て行った。
二人きりになった部屋で、そこにきちんと大人のように座っている鶴丸を眺める。
真新しい羽織がまだ大きすぎて、人形に着せられているよう。
「ご立派になられました。前にお会いしたときは、いつでしたっけ」
「えっと……、確か、岡田さまのお庭で、琴の師匠から逃げ回り隠れていた時でございます」
その話し方までがおかしくて、笑った。
こんな大人のような口の利き方をして鶴丸と話す日がくるなんて、思いもしなかった。
ぎゃあぎゃあと泣きわめいて、喧嘩して、外を走り回り、木に登って、逃げた猫を追いかけて探し回った。
「あの師匠が悪いのです。手の形など、琴の音に関係ないではないですか」
「私の方が迷惑していたのです。縁側から飛び降りてきた志乃さまに、鉢合わせたのが運のつきでした」
声をたてて笑う。
こんなにも素直に笑えたのは久しぶりだ。
私の嫁入りが決まってその修行が始まり、そんなことをしている間にも鶴丸は、いつの間にか大人になっていた。
「ちょうど、私の嫁入りの時だったのですね」
「はい。同じ頃になります」
世間ではいつの間にか、こうして時は流れていて、自分だけが取り残されていくよう。
「それでは、お勤めも滞りなく……」
「お志乃ちゃん」
剃り上げた月代がまだ青い。
しまってきた頬にも、まだわずかに柔らかさが残る。
目を丸く輝かせて、鶴丸は微笑んだ。
「志乃ちゃんが元気そうでよかった。突然嫁入りが決まったって聞いて、みんな心配してたんだ。お盆も本当は戻りたかったけど、帰ってこれなかったんじゃないかって。だけど、そうじゃなかったみたいで安心した」
祭りの時、新しい草履の鼻緒にすぐ皮がむけて、痛い痛いと泣いていた。
私はそんな鶴丸の隣で、ずっと泣き止むのを待っていた。
「気に入らないと、すぐにかんしゃくを起こすからさ。こんなに長く続けられてるなんて、俺でもまだ信じらんねぇよ」
あははと無邪気に笑う。
縁日ではいつも、飴を落として泣いていたくせに。
私は鶴丸に、かけっこでさえ負けたことはない。
好きなものを見て、好きに話し、誰に遠慮することもなくどこへでも駆けて行けた。
「佐代ちゃんも嫁に行ったし、源九郎は剣術の大会で優勝した。同じ年に元服したんだ。もうすぐ、商家の娘さんを嫁取りするってさ」
鶴丸は急に声を小さくする。
「源九郎は本当は、佐代ちゃんのことが好きだったんだぜ。覚えてるだろ、習字の時間のこと。それで嫁入りの時にさ、野郎ばっかりで集まって……って、なんで泣いてるのさ」
「何でもない。ちょっと、懐かしくなりすぎただけ」
忘れていた。
こんな気持ち。
今が辛いワケじゃないのに……。
「……。まぁ、いいけどね」
鶴丸はため息をつく。
正座していた足をくずすと、畳に手をつき足を投げ出した。
「こんな羽織り袴もさ、本当はまだ慣れてないんだ。動きにくくって。腹が減ってるのにかしこまって茶をすすってるよりも、その辺のなってる実をちぎって食ってる方がいいよな」
「高隆寺の柿の実……」
「そう! あそこの柿が一番うまい!」
昔話に花が咲く。
どうして大人たちは、集まれば昔話ばかりしているのか不思議で仕方がなかった。
だけど今、それをしている私たちは、少しは大人になったということなのだろうか。
廊下を近づく足音が聞こえる。
何気ない会話を交わしながら、私は目で鶴丸に合図を送った。
それに気づいた鶴丸は、投げ出していた足を戻す。
私も姿勢を正した。
襖が開く。
「あら、晋太郎さん。お帰りになっていたのですか?」
「……。えぇ、たいそうお話の盛り上がっているところを、お邪魔しましたね」
そう言ったまま、柱にもたれこちらをのぞいている。
鶴丸は深々と丁寧に頭を下げた。
「湯山家が嫡男、武市と申します。坂本晋太郎さまには、お初にお目にかかります」
「はい。よろしゅうお見知りおきを」
晋太郎さんは小声でぼそぼそと、簡単な挨拶を済ませた。
横を向いたままのこの人は、なんだか少し機嫌の悪いようだ。
「どうかされたのですか?」
「いえ。志乃さん。まもなく夕餉の支度のお時間ですよ」
「はぁ……」
そんなこと、今まで言われたことないのに……。
その人は鶴丸をじっと見下ろした。
「湯山どの。よろしければ私と一緒に、父の部屋まで参りませぬか?」
「えっ、よろしいのですか?」
「父の相手を宗太どのお一人に任せるのは、お気の毒というもの。かといって私一人では心細い」
鶴丸の顔は、パッと真っ赤に広がった。
晋太郎さんから声をかけられることは、鶴丸の身分では名誉なことだった。
ここで鶴丸が一人座っていたのは、義父とも顔を合わせる身分ではなかったから。
「は、はい! ぜひ、喜んで!」
「志乃さん。食事は義兄上と、湯山どのの分もよろしくお願いします。母上にもそうお伝えください」
晋太郎さんに連れられて、鶴丸はお義父さまの部屋へと嬉々として向かって行った。
途中でくるりと振り返り、こっそり小さく頭を下げる。
そうだ。私たちは大人になったのだ。
いつの間にか、気づかないうちに。
立ち上がり、土間へと向かう。
義母に伝えたら、すぐに夕餉の支度が始まった。
突然の来客にどうなることかと思っていたが、何やらお義父さまのご意向とやらで、男衆はその部屋から一歩も出てくることはなかった。
時折誰かが厠に赴きながら、ぶつぶつと独りごちている以外、特に変わった様子もない。
私たちはひたすら酒とそのつまみを運びつづける。
「今夜はあまり遅くなるようでしたら、お泊まり願おうかと思うていたのですが、あまり長くお引き留めしても申し訳なく……」
余りの長居に、ついに義母が動いた。
義父の部屋に押し入り、どうするつもりなのかと問いただす。
一悶着した後、結局客人たちは帰宅の途についた。
「また来ます」
最後にそう言って笑った鶴丸の顔を、きっと一生忘れない。
慌ただしい見送りを済ませて、片付けに戻ろうとした私の袖を晋太郎さんは引きとめた。
「なんですか?」
「いえ。とても可愛らしいお方でしたね」
「誰がです?」
その人は、明らかにムッとした表情でうつむいた。
「最後にあなたが、ご挨拶した人です」
「武市どのですか?」
「えぇ」
晋太郎さんからは、ほんのりと酒の匂いがする。
「まぁ、酔うておられるのですか?」
「少し」
片付けの続きをしようと歩き出す。
後ろから伸びてきた腕がぎゅっと肩に回った。
「武市どのとは楽しそうに話しておられたのに、どうして私には、そのようにしてくれないのです」
「は? 何をおっしゃっているんですか」
「志乃さんは……、子供が出来たら、男の子がよいですか、それとも女の子の方がよいですか?」
「えぇ? んー、どちらもほしいです」
「さようでございますか」
肩にのっているその人自身の、体が重い。
「あの、ちょっと晋太郎さん?」
「んー……」
「お、重たいので離れてください。これでは片付けが進みません」
かかる息が酒臭い。
廊下で義父の呼ぶ声が聞こえた。
「父上! 今日はもう、おしまいでよろしいでしょうが! そちらには散々付き合ったので、もう行きませんよ!」
突然、目の前の障子がバンと開いた。
お義父さまだ。
慌てて晋太郎さんの腕をほどこうとしても、それは背中からぎゅっと抱きしめたまま、振りほどけない。
「晋太郎、いいから来なさい」
「お断り申し上げます。今宵はもうすでに、志乃さんとお約束をしました」
いつもは穏やかなお義父さまの目が、ギロリと私をにらむ。
「志乃さんには申し訳ないが、そういうわけにはいかぬ。晋太郎。いいから来なさい」
珍しい。
お義父さまの気迫に追われ、この人は実に盛大なため息をついた。
いやいや腕をほどく。
「出来れば……待っていてください。いや、やっぱ寝ないで待ってて。絶対。早く戻れるようにします」
いつものように寝床を整え、その人の帰りを待った。
お酒が入っていたとはいえ、珍しいその人のあんな言葉に、少しドキドキしている。
秋の虫の音に合奏に紛れて、軌道を進む月の音まで聞こえてきそうな夜だ。
いつまでたっても、その人の戻ってくる様子はない。
ついつい布団に横になる。
「晋太郎さん、遅いな……。まだ……なのかな……」
いつの間にか眠っていて、気づけば朝になっていた。
衝立の向こうで横になっている晋太郎さんを見つける。
そっと部屋を出ると、土間へ向かった。
昨夜は言われた通り待っていたけど、会えなかったものは仕方がない。
いつものように朝餉の支度をすませると、その人を起こしに行く。
「食事の用意が出来ましたよ」
寝ているから返事がないのも、いつものことだから仕方がない。
晋太郎さんは後から遅れてやって来た。
食事をすませ片付けると、私は部屋へ戻り一息つく。
繕い物もたまっているが、お義母さまとのお付き合いで通っている句会のお題もまだ考えていない。
どちらを優先しようか考えて、和歌を考えることにした。
ごそごそと紙と硯を取り出すと、墨をする。
そういえば、そろそろ味噌がなくなるな。
お義母さまに相談しておかないと。
いつもどこの問屋で買っているのかしら。
今朝はいつもの、棒手振りのおじさんは来なかったな。
腰を痛めているとか言っていたけど、大丈夫なのかな。
鯖の味噌煮を買うなら、そこのが一番美味しいのに……。
和歌のお題は白露。
なんて優雅なお題なんだろう。
苦手な趣味に苦笑いしかでない。
私がこんなことで頭を悩ませる日が来るだなんて、思ってもいなかった。
秋のお題だなぁ……。
秋といえば、そろそろ栗とお芋の季節だ。
あぁ、その前に梨があった。
梨は大好き。
あのツンとした酸っぱさの後に、ほんわりくる甘みとシャキシャキの歯ごたえ、汁気はたっぷりあるほうが……。
「よろしいか」
襖が開いた。
晋太郎さんが顔だけをのぞかせている。
「何をしているのです?」
筆と紙を前に、止まっていた私を見下ろした。
「あっ……、いえ。何でもございません」
真っ白なままのを見られたくなくて、慌ててそれを隠した。
片付けてから向き直っても、その人は廊下から部屋の中に入って来ようとはしない。
「どうかされましたか?」
「……。いえ、奥の部屋に来ませんか」
今日の予定を考える。
和歌のことはいいとして、味噌の相談をしないといけないし、場合によっては買い物に行かないといけないかもしれない。
初物の梨を探しに行きたいな……。
「何がご用事でも?」
「用がないとダメなのですか」
「いえ、そういうわけでは……」
じっと見下ろしたまま、その人は動かない。
自分のしたいことがなかったわけでもないのだけれど……。
仕方なく立ち上がった。
「では、参りましょう」
先を歩く晋太郎さんの背中から、ぶつぶつと何かが聞こえてくる。
だけどそれは、はっきりとは聞き取れない。
「昨夜は寝ないで待っていてくださいと、お願いしていたのに……」
「はい? なんですか?」
「なんでもございません!」
どうしよう。
あんまり長くなるのは困るな。
お義母さんとの和歌も考えないといけないのに。
吹く風に涼しさが増した。
家の周囲を囲む庭に植えられた常緑樹の緑は変わらない。
そういえば、晋太郎さんに句を教えてもらおうとして、そのままになっていたっけ。
だったらついでに、考えてもらおうかな。
そんなこと、もうこの人は覚えてもいないのかもしれないけど……。
部屋に入ると、縁側に碁盤が用意されていた。
「碁を打ちたかったのですか?」
「再試合を申し込みたい」
どうしよう。
これでは句の宿題は出来ないな。
「では、繕い物を持ってきてもよろしいですか?」
「繕い物をしながらですか?」
「えぇ」
「……いいでしょう。ただし私が勝ったら、今日は一日、言うことをきいてもらいますよ」
部屋へ戻り、裁縫箱と秋物の小袖を取ってくる。
「置き石は?」
「なしで!」
晋太郎さんは、黒で初手を打った。
先手有利の碁で有利となる黒を晋太郎さんがとり、置き石もなしの真剣勝負だ。
桔梗はまだ遅い花を咲かせている。
きっともうすぐ、この景色も終わってしまうのだろう。
私は針に糸を通す。
パチンと碁石が鳴った。
「昨夜はどうして、遅くなったのですか?」
「父上ですよ」
すぐに打ち返した白石の隣に、その人は黒を置く。
「あなたのお父さまであらせられる岡田宗治どのは、大変な碁の名手とか。あなたに勝負を申し込む前に、兄上を呼んで指南を受けたようです」
「昨夜はそのために? ですが……、私がお義父さまと勝負するのは……。それは、困ります」
「えぇ、あなたのおかげで、大変な迷惑をしておりますよ。父は私を呼びつけ、あなたの打ち手のクセを探れと仰せだ」
縫い物をする手を止めた。
「そんなことを私に打ち明けては、お義父さまからのお役目をちゃんと果たしておられぬではないですか」
「よいのです。私はあなたの、忠実な間者ですので」
黒石を置いた。
それを見て、すぐに白石を置く。
「私も昨日は一晩中、あなたの兄上の講義を聞きました。先だってのように、簡単には負けませんよ」
そう言いながらも、黒をおかしな位置に置いた。
どうしたものかと迷いはしたが、そのままアタリに石を置く。
晋太郎さんの眉はピクリと動いた。
「なるほど。さすがは名手のご息女だけはある」
勝負はついた。
晋太郎さんの負け。
突然、その人は碁盤の石をぐしゃぐしゃとかき乱すと、盤上をきれいに片付け始めた。
私はムッと眉をしかめる。
「さ、もう一局」
「これでは、勝負にも手習いにもなりませぬ」
「私が勝てばよいのです」
小さな子供のように、この人はぷいと横を向いた。
「ですが、勝負に負けたら私は、一日言うことを聞かねばならないのでしょう?」
「そうですよ」
「それは出来ません」
同じくムッとしたその人は、私を無視したまま神妙な面持ちで盤に黒石を並べ始めた。
「十三も石を先に置くのですか!」
「今日は私が勝ちたいのです」
涼しげな顔でそう言ってのけたこの人に、さすがの私もカチンと来た。
「これで勝負をしようとは、恥ずかしくはないのですか?」
「いいえ全然。さ、始めますよ」
「出来ません!」
「では不戦敗ということで。私の勝ち」
キッとにらみつけても、一向に気にする気配はなし。
「なにかお気に召さないことでも?」
「言いたいことがあるのなら、直接言えばいいではないですか!」
「口答えは無用です。今日は一日、言うことを聞いてもらうのですから」
「いつも大概、言うことを聞いて過ごしております!」
晋太郎さんは、ふっと笑った。
「あなたは、ご自身ではそう思おいかもしれませんが、私も譲るべきところは、大いに譲っているのです」
いつになくツンとすましたその人の目が、何だか癪に障る。
譲る? 晋太郎さんが? この私に?
この人は突然、何を言い出すのだろう。
開いた口が塞がらない。
こみ上げてきた怒りに、全てがバカバカしくなってきた。
「昨夜したかったお話なら、いまお伺いします」
「それは……もういいのです」
「お話があったのではないのですか」
返事はない。
この人は横を向いたままだ。
「……。気分が悪いので休みます」
「今日一日、私の言うことを聞くというお約束は?」
「そんなのはなしです」
「それは残念」
縫いかけの小袖を手に立ち上がった。
やってらんない。
「……。私に、なにをさせたいのですか?」
「それは秘密です」
にらみつけても、ビクともしない。
「あなたと一日過ごせる日が来ることを、楽しみにしております」
ドカドカと廊下を歩き、襖をぴしゃりと閉める。
視界がにじんだ。
どうして泣いているのかも、なんで勝手に涙が出てくるのかも分からない。
意味の分からないことで、こんなくらいのことで、いちいち泣いてしまう自分に腹が立つ。
手の甲でそれを拭った。
バカみたいだ。自分が。
久しぶりに兄の顔を見たせいだ。
きっと、嫁入り前の気楽な暮らしを思い出してしまったせいだ。
ここへ来てずっと我慢してきたことが、一気にあふれ出す。
こんな理不尽なやり方で私を好きに扱えるなどと、思わないでほしい。
家の都合が優先される結婚において、理想なんてものは、あるわけないと分かってた。
そんなものに夢見たことはない。
多分自分は恵まれているのだろうし、そうだとも思う。
それでも後から後からあふれ出す涙を、どう理解したらいいのかが分からない。
自分になんの選択権もないことが、悔しいんだ。
晋太郎さんに悪気のないことは分かっている。
だけどそれならばなおさら、変に誤魔化したりしないで、ちゃんと言ってほしかった。
こうやってたまり続けるオリのようなものが行きつく先で、私はどうなってしまうのだろう。
「志乃さん、入るわよ」
義母が顔を出した。
鼻水をすする私を見下ろし、ため息をつく。
「気分が悪いのね、お昼はどうする?」
「自分で……、適当に済ませますので……」
「そ。じゃあいいわね」
あの人は心配してのぞきにも来ないのに、お義母さまはちゃんと来てくれる。
なんだか本当に腹が立ってきた。
決めた。
今日はもう絶対に何もしない。
布団を取り出して、すぐその場に敷く。
空気はまた一段と涼しさを増していた。
もう夏は終わったんだ。
横になると、私は目を閉じた。
第14章
一眠りすると、気分は変わらないが気持ちは入れ替わる。
何事もなかったような顔をして夕餉の支度を済ませ、晋太郎さんを呼びに行く。
お義父さまの部屋で碁を打っていた。
夜もさっさと横になる。
いつの間にか眠っていて、朝になればやっぱり何事もなかったかのように、その人は衝立の向こうに寝ていた。
結局そんなもんだ。
こうやって毎日は過ぎてゆく。
晋太郎さんと囲碁の件で揉めて話しをしなくなってから、数日が過ぎていた。
すっかり涼しくなった。
桔梗の庭は花を終え、黄色くしわがれ始めている。
やがてこの庭は枯れ果て、何も残らなくなるのだろう。
洗った髪を日に当てながら乾かしている。
廊下の縁に腰を掛け、足を側庭に投げだし櫛で梳く。
「今日はご機嫌がよろしいのですね」
久しぶりにこの人が声をかけてきたと思えば、こんな時だ。
下ろしていた髪をぎゅっと握りしめる。
「あまり見ないでください。恥ずかしいので」
「そ、それは失礼いたしました」
この人は慌てて廊下の奥に隠れる。
「し、支度が調ったら、父が部屋に来るようにと……」
「お義父さまが? 分かりました」
立ち去る背中を見送る。
そうか。
今日はお勤めの日だったから、もう帰ってきたんだ。
乾ききっていない髪を結うのは苦手だけど、お義父さまの呼び出しなら仕方がない。
濡れた髪から水を吸った肩が、すっかり涼しくなった季節に冷える。
部屋に戻ると襖を閉めた。
ようやく髪を結い終わり、部屋を出る。
お義父さまの普段いらっしゃる奥の部屋へ呼ばれた。
碁盤が用意されている。
その前にお義父さまが、横には晋太郎さんが座っていた。
「志乃さん、ぜひお手合わせいただきたい。未熟でつまらぬ相手かもしれませんが、よろしく頼み申す」
頭を下げるその姿に、私も慌てて頭を下げた。
「そんな! もちろんです。こちらこそよろしくお願いします」
黒をお義父さまが取った。
後手の白は、先手の黒より不利な立場。
それだけ私の強さを認めてくれているんだ。
置き石はない。
晋太郎さんは腕を組み、静かに見守っている。
お義父さまとの勝負が始まった。
晋太郎さんよりは上手いけど……。
パチリと置いた決め所のキリの石に、お義父さまは動揺を始めた。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい」
長い長い待ちに入る。
晋太郎さんの横顔を見上げた。
この人も試合の間は真剣な顔をして碁盤をにらんでいたのに、私の視線に気づくとぱっと顔を上げた。
にこりと一つ微笑んで、すぐに視線を戻す。
なんだか頭がぼんやりとしてきた。
晋太郎さんを、最近はこんなに近くで見ていなかったからかもしれない。
会話はないけど、なんだかちょっと寂しいような、そんな変な気分になる。
「お疲れなら、休んできてもいいですよ。続きは明日にでもいたしましょう」
晋太郎さんの声に、ハッとする。
少しうとうとしてしまっていたのかもしれない。
「では……。お言葉に甘えて、失礼します」
立ち上がろうとして、床に手をついた。
その手がぐらりと傾く。
「志乃!」
目が回る。
バタリと床に倒れた。
体はだるくて重くて動かせない。
晋太郎さんの腕が私を抱き起こした。
「志乃、しっかりいたせ。どうした!」
体が熱い。
意識が遠のく。
やがて視界は真っ暗になった。
体だけが、ふわりと持ち上がる。
晋太郎さんが何かを叫んでいる。
周囲はバタバタと慌ただしい。
やがて私は、布団の上に寝かされた。
往診に呼ばれた医者が脈をとる。
額に手を置き、首筋に触れた。
「熱が高い。解熱の薬を処方しておきましょう。それを飲んで三日経っても下がらぬようなら、またお声かけください」
ようやく目が開いた。
晋太郎さんと義母がのぞき込む。
助け起こされ、苦くてたまらない薬湯を口に含んだ。
濡れた手ぬぐいがひんやりと気持ちいい。
「いつからお加減が悪かったのです」
全ての人を下がらせ、二人きりになったところで、その人はようやく口を開いた。
ここは私の部屋だ。
衣桁には雑巾やはたきなんかがかけてあって、散らかしたままの裁縫箱に、小袖やら何やらが寄せ集めただけでまとめて置いてある。
行燈の脇には小さな文台があって、こぼした墨の染みが目立つ。
「こういうことは……、私でなくてもよいから、他の誰でもいいので早めに相談してください」
その人の声は、わずかな湿り気を帯びているようだった。
「それともこの家では、そんなことすら話せる相手もおりませんか?」
「泣いているのですか?」
晋太郎さんは鼻水をすすった。
「今はあなたのことを聞いているのです!」
「突然でしたので……相談もなにも……」
正直に言うのなら、熱にうなされる体で話なんかしたくない。
もっとちゃんとしっかりしている時に、きちんとこの人と話しがしたい。
謝りたいことも、言いたいことも、聞きたいことも山ほどある。
それなのに今は、息をするのも辛い。
荒い呼吸のせいにして、そのまま目を閉じる。
額にのった手ぬぐいが交換された。
「あなたもご存じでしょう。珠代さまが突然亡くなったということを……」
目を開ける。
その人はポツリポツリと話し始めた。
「珠代さまが亡くなられたと聞いた時は……本当に肝を潰しました。あの方も急に倒れたそうです。お産のあと、普通に過ごされていたのに……」
閉めきった部屋で、行燈の明かりだけがぼんやりと浮かぶ。
「あの方と出会ったのは……、まだ寺子屋通いを始める前のような年頃でした……」
珠代さまのことを、一人子の晋太郎さんは実の姉のように慕っていた。
お美しく、しっかりとした気性でありながら、優しさも兼ね備えた珠代さまに、晋太郎さんは心惹かれていくようになる。
「身分違いの恋でした。一緒になれるはずもない人でした。そしてその通り、他家へ嫁いだのです」
晋太郎さんはお相手の吉岡さまのこともご存じで、珠代さまの生家でお会いしたこともあったそう。
「吉岡さまは、それこそ文武両道の大変優秀な方で……、どうしたって敵わないことなど、とうに分かっていたのです。それでも……」
晋太郎さんは笑った。
「はは、馬鹿みたいなヤキモチの話しはやめましょう。妬み心なんて、聞いてもつまらないだけです」
晋太郎さんは、私を見下ろした。
「あなたが私のことを好いていないのは、百も承知です。それでも時が経てばと思うておりましたが、私からあなたにそれを求めること自体が、筋違いなのです」
大きな手が伸び、額の手ぬぐいを取った。
それをたらいの水に浸して絞る。
丁寧に広げると、また額にのせた。
「私がこのようなことをあなたに言うのは、おかしなことかもしれません。ですがあなたが前に、食あたりで倒れた時、私に手を伸ばしてくれたことが、とてもうれしかったのです」
静かな夜だ。
熱に浮いた私の、荒い息づかいだけが聞こえている。
「好きでもない男と一緒になった苦しみは、好きな人と一緒になれなかった自分だから分かるのです。私は嫁など取るつもりはなかった。子供のことは気になさらなくてよろしい。養子に目星があるなら、あなたの好きなようにお探しなさい。ですがせめて、ご自分のお体は大切になさってください。それだけは約束願います」
その人は立ち上がった。
部屋を出て行くのかと思ったら、隣に布団を敷く。
「申し訳ないが、今夜はここで休ませてもらいます。あなたの看病をしたいという気持ちに、嘘はありませんので」
手を伸ばせばすぐ届く距離に、この人が寝ている。
だけどその手を、伸ばしてはいけない気がした。
「私の体は心配してくださるのに、気持ちまでは察してくださらないのですか」
その人は微かな笑みを浮かべた。
それはこの人自身が、自分を笑ったのかもしれない。
「気持ちなど、誰にも分かりません」
行燈の明かりが消える。
燃え尽きた芯の香りが闇に紛れた。
今ならば私にも、言えることがある。
「あなたは……、嫁をとるつもりはなくとも、私は嫁に来ました。あなたが私を好いていないことは、百も承知です」
熱でうなされた頭がぼんやりする。
目から涙があふれるのは、そのせいだ。
こんな手ぬぐいだなんて、いらない。
「ですがせめて、大切にしているフリをしていただけるだけでも、ありがたく思うております」
取り払った手ぬぐいを、たらいに放り込む。
それはポチャンと水音を立てて沈んだ。
「ですから私のことなど、どうかお気になさらぬよう、お願いします」
翌朝になっても、熱は下がらなかった。
晋太郎さんは頑として看病を他には譲らず、ずっと枕元についている。
手ぬぐいをまめに換え、起き上がった背を支えて粥を口に運び、薬湯を飲ませる。
義母が代わると申し出ても、それを決して譲らない。
枕元で座ったままうとうととしているその人を、私は見上げた。
「あなたに好かれた方は、幸せですね」
「えぇ。あの人にもそう言っていただけましたよ」
外には季節外れの冷たい風が吹いていた。
襖の向こうで見えない板戸がガタガタと揺れている。
「早くよくなってください。もうこれ以上、大切な人を亡くしたくはないのです」
次の夜になって、さらに熱は上がった。
食事も喉を通らず、蜂蜜を溶かした白湯を口にする。
頭が割れそうなほどの痛みに、歯を食いしばる。
こめかみに浮いた汗を晋太郎さんは拭った。
「苦しいのなら、薬を追加してもらいましょうか」
「いえ……大丈夫です」
このまま寝ていれば治る。
そんな気がする。
うずくまるように背を丸め、全身を固くしている。
この人がここにいるのは、私のためじゃない。
本当は苦しくて手をつないでいてほしいのに、そんなことすら口に出来ない。
布団の外へ腕を伸ばしたら、その人は手を握った。
じっと目を閉じて動かないでいるこの人を、ただ見上げている。
そっと握り返して、私も目を閉じた。
第15章
明け方になって目を覚ますと、すっかり気分はよくなっていた。
全身が汗でベタベタになっていることに気づく。
隣の晋太郎さんも目を覚ました。
指先が額に触れる。
「お加減はどうですか? あぁ、すっかりよくなったようですね」
いつもすっきりと身なりを整え、何一つ乱れたところのないこの人が、ぼろぼろになった髷で着崩れた格好をしている。
頬には枕のあと。
大きなあくびをする。
「今日は勤めがございますので、こればかりは行かねばなりません。熱も下がったようで、安心いたしました」
疲れたような顔で、そっと微笑む。
「あとは母に任せてもよろしいか?」
こくりとうなずいた。
その人は枕元に置きっぱなしのたらいの水で顔を洗うと、そこにあった手ぬぐいで拭く。
「では、行って参ります。今日は早めに帰るようにいたします」
この人の優しさを、素直に受け取れたらと思う。
だけどこれは、珠代さまの身代わりで、この人が見ているのは、私ではなくて……。
あの人が好きなのは、私じゃない。
そう言い聞かせておかなければ、気がおかしくなりそう。
昼前には着替えを済ませ、そのまま横になっていた。
食欲も戻ってきている。
じきに体はよくなるだろう。
外の空気が吸いたくなって、襖を開けた。
新鮮な風が一気に流れ込む。
すっかり体調は戻った。
晋太郎さんは変わらず日中を奥の部屋で過ごし、夜には衝立の向こうで眠った。
秋が深まる。
実りの季節に、桔梗は種をつけた。
「夕餉の支度ができました」
最近の会話といえば、これくらいしかないような気がする。
言いたいことも、他の用事も、奉公人や他の人を介して何もかも出来てしまう。
「ありがとう。いま行きます」
晋太郎さんは、盆に桔梗の種を集めていた。
すっかり荒れ野のようになった庭に、枯れた桔梗が立ち並ぶ。
そのとがった種サヤを指ですりつぶすと、小さな種が出てきた。
「これをまた、春になると蒔くのです」
嫌なことを思い出した。
私は去年、その芽を摘んで叱られたのだ。
「そうしたらまた、来年の夏には美しい花が咲くのです」
静かに微笑む横顔に、ふと顔を背ける。
この気持ちに説明のつかないうちは、きっと誰にも理解はされない。
自分でさえも、それが何であるのか分からないのだ。
私は無言のまま立ち上がり、その場をあとにした。
夜になり布団へ潜っても、その日は枯れた庭と桔梗の種のことばかりを思い浮かべて、いつも以上によけいなことを考えて考えて眠れずにいた。
晋太郎さんが来る頃になっても、まだ寝付けずにいる。
「おや珍しい。今日はまだ起きているのですか」
そんなことを言いながら横になる。
衝立の透かし彫りの向こうに見える横顔は、いつものように目を閉じた。
「起きていてはいけませんか?」
「いいえ。最近はなかなかお話する機会も少なかったので。何か気にかかるような事でもございましたか」
寝返りを打つ。
見慣れた彫りの向こうで、その人は目を閉じたまま動く様子もない。
「それでは、寝ているのか起きているのかも分かりません」
「起きていますよ、ちゃんと」
ごそごそと衣ずれをさせて、その人はこちらを向いた。
「これでよろしいですか」
「……衝立が邪魔で、よく見えません」
晩秋の静かな夜だ。
行燈の油皿に差した芯の、燃えてゆく音まで聞こえてくる。
「動かしますか?」
この衝立を必要としているのは、本当は私ではなく、晋太郎さんの方ではないのか。
だけどそんなことは言えない。
せめてもと床から浮いた隙間に手を伸ばす。
大きな手はすぐに重ねられた。
何か言わないといけない気はするけど、言葉が見つからない。
この人も何も言わない。
握られた手を、ほんのわずかでも動かしてしまったら、すぐに離されてしまうような気がした。
それでもこの手を離さないでいてくれるのなら、もうそれでもいい。
あなたの心に思う人が、私でなくても構わない。
握る手は緩んでも、ほどかれはしなかった。
またしっかりと私の手を握り直す。
自分の本当に好きな人は、自分だけが知っていれば、それでいい。
「眠るまで、離さないでいてください」
衝立の向こうから、小さなため息が聞こえた。
また何か間違えたんだ。
手を引っ込めたくても、今さらそれも出来ない。
こんなこと、やっぱりするんじゃなかった……。
朝になり目が覚めると、その人はもうそこにいなかった。
なんだ。結局やっぱり、そういうことなんじゃないか。
姿は見えなくても、手のぬくもりと後悔は肌に残っている。
もう迷うことはない。
これ以上嫌われることもない。
奥の部屋へ一番に駆け込んだ。
「おはようございます!」
開け放したままの縁側で柱にもたれ、その人はウトウトと座っていた。
「風邪を引きますよ?」
仕上がったばかりの厚手の半纏をかけてあげる。
「あの部屋で私と寝るのがお嫌なら、こちらで寝てもらってもよいのですよ。その方が、晋太郎さんの体も休まるでしょうから」
私は大丈夫。
にっこりと微笑んで、その顔を見上げる。
「無理をするのもさせるのも、私の本意ではありませんので」
まだ幻のような感触の残る手を、ぎゅっと握りしめた。
昨夜一晩、この手を握ってくれたのは、その手だったはずなのに……。
「手をつないだことを、もう後悔しているのですか?」
肩にかけた半纏を、その人はずるりと床に落とした。
「無理とはなんのことでしょう。それは昨晩のことを言っているのですか」
「……。余計な手間をかけさせました。あのようなことは、もういたしません」
すぐに謝る。
濃い朝霧が枯れた桔梗の庭を隠していた。
この庭の手入れだけはいつもかかさない人なのに、どうしてこんな枯れ草をいつまでも放っているのだろう。
「あなたは悔やんでおいでか」
「時が過ぎても、解決しないことはあるのです」
何一つ表情を変えないこの人は、今なにを思っているのだろう。
「そうですね。分かりました。食事の前には、手を洗っておいてください」
朝餉の席について、その人は黙々と食事を済ませる。
お勤めに出る後ろ姿を見送って、ようやく緊張の糸が解けた。
あの人のいないこの家に、ほっとする。
その日は午後になって、屋敷の塀の向こうから調子外れの祭り囃子が聞こえてきた。
「明後日は酉の市ですからね。大方どこかの歌舞妓一座でも、舞台の呼び込みを始めているのでしょう」
妙善寺の酉の市だ。
参道を埋め尽くす、たくさんの屋台と人の波……。
「そんな日に出かけるもんじゃありませんよ。買い物に行くなら、日を改めないと……」
「あの、お義母さま」
私は勇気を振り絞った。
「早めに、済ましておきたい用事があるのです。本日中に出かけていっても、よろしいでしょうか」
「まぁ、いいわよ。いってらっしゃい」
今一度、あの方にお会いしたい。
義母の許しを得て、急いで部屋に駆け戻る。
文台の上で簡単に化粧を直すと、外へ飛び出した。
「志乃さま、どちらへ!」
お供を連れて行くわけにはいかないのは、行き先を知られたくないから。
町娘のようでいい。
その方に相談に行くことを、誰にも知られたくない。
勤めに出ている晋太郎さんの帰ってくるまでには、素知らぬ顔で戻っていたい。
大通りに出て、ようやく歩みを緩めた。
乱れた息を整える。
一人歩きには慣れている。
すぐに人混みに紛れた。
これはどんな世の巡り合わせなのだろう。
お天道さまのなさることは、いつも不思議だ。
手にした巾着には何も入っていない。
手ぶらで会いに行くわけにもいかないから、何か買って行かないと。
ふと目に入った店先に、金平糖があった。
これならあの人に贈るにも、恥ずかしくないかもしれない。
気持ちばかりのそれを買い求めると、また歩き出す。
その時の心細さを救ってくれたのは、あの人だった。
私はここで初めて恋に落ちた。
うめと二人、道行く人に尋ねて歩いた。
この辺りだということは分かっていたが、確かな場所は知らない。
大きな縁日が開かれる前の、そわそわとした町並み。
誰に尋ねてもはっきりとした返事は得られず、あの橋のたもとでしゃがみ込み、途方に暮れた。
数日後に控えた祭りの備えに参道沿いの店はどこも忙しくて、仕入れたたくさんの品々は、荷車にのせられ軒先へと運ばれてゆく。
提灯、のぼり旗、吹き流し。
甘い香りと醤油の香り、人いきれ。
誰もが忙しくて、わくわくして、まもなく訪れる大きな祭りを前に活気づいていた。
「坂本晋太郎に、どのようなご用件か」
疲れ果てうずくまった私たちに、一人のお侍さまが声をかけてきた。
「文を届けるよう、言いつけられております」
その人はじっと私とうめを見下ろした。
届けておいてやろうというのを、頑なに断る。
「主人から必ず、必ずご本人に直接届けよと仰せつかっております!」
嫁入りの決まった娘が、輿入れ前にそのお相手をのぞきに行くなど、ありえないこと。
決してこちらの正体を知られるわけにはいかない。
「晋太郎どのは、今は屋敷にはおられぬ」
「ではどこに?」
「妙善寺へおいでだ」
辺りを見渡す。
この近辺に寺のありそうなところはない。
だけど、知らぬお侍の屋敷を探し出すより、寺への道を聞く方が遙かに尋ねやすいだろう。
心許ないが、その言葉を信じるより他にない。
「あ、ありがとうございます。では、そちらに向かってみます」
「ちょうど私もそこへいく予定なのだ。よかったら案内いたす」
身なりはさほど悪くはない。
質素ななりをしているが、特に貧しげな様子もなかった。
絣の着物に袴姿のその人は、歳のわりにずいぶんと幼く見えた。
うめと二人、顔を見合わせる。
「で、では……よろしくお願いします……」
道すがら、あれこれとしつこく身元を尋ねられた。
決して口を割らぬ私たちに、ふと飴湯を買ってやろうと言い出す。
「……そんなことで、騙されたりはしませんよ」
「分かってますよ。私が飲みたくなっただけです」
酉の市の近いせいで、のぼりがあちこちに立っていた。
こんな危険極まりない冒険をしている私たちに、浮かれた通りを楽しむ余裕なんてどこにもない。
そうやって飴湯を買ってもらって、飲んだのはあの店だ。
今年もまたその店先で、同じ飴湯を売っている。
口に含むとあの時と同じように、ほんのりとした甘みが広がった。
「文の中身をそなた達が知らぬことは承知した。だがせめて、送り主の名前だけでも答えられよ」
「この文にはきっと、それらの事情も書かれております。中のことは知らぬ故、何度尋ねられても同じことにございます」
用意した文は偽物だ。
中身はうめの一番下の弟が書いた、絵にもなっておらぬような落書き。
それを父の部屋から盗んだ立派な紙に包んだ。
「……。まぁ、なんだってよろしいんですけどね……」
その人は明らかにムッとしていた。
湯飲みの飴湯をすする。
「この辺りに、お詳しくはないのですか?」
来たのは初めてだと伝えると、気を取り直したのか、今度は本当に町の案内を始めだす。
そんなことに全く興味は無いのだが、一生懸命話しているのを、聞いておらぬのも申し訳ない。
ハイハイと、ちゃんと聞いているような聞いていない返事を繰り返しても、その人はそれに気づく様子もない。
ますますうれしそうに、一人でずっとしゃべっている。
私はただ、帰り道の心配ばかりしていた。
同じ道を通って、ちゃんと帰れるかしら。
「ちょっと、ちゃんと聞いてます?」
「聞いているに決まってます!」
「……。ところで、あなたがたのお名前は? なんとお呼びすればよろしいか」
「私はうめと申します。この子はまつ」
「そうですか」
「あなたは?」
「竹男です」
絶対嘘だ。
松竹梅。
しかしこちらとしても、これ以上深入りするわけにはいかない。
荷車からこぼれ落ちそうなほど、山と積まれた熊手が運ばれてくる。
酉の市ならではの風景だ。
元の竹が見えぬほど色とりどりの賑やかな飾りが、これでもかと揺れている。
屋台の大鍋で唐芋は踊り、粟餅を蒸す蒸気はもうもうと立ち上る。
今ですら人通りは多いのに、祭り当日にはどうなってしまうのか、想像もつかない。
「これが有名な『なでおかめ』というものです。縁起ものですよ」
大きな面が置かれていた。
訪れる人々はみな、この木のお面を撫でてゆく。
「額を撫でれば賢くなり、目は先の見通しを。左の頬は健康で、右は良縁に恵まれるそうです」
その人は、ニッとこちらを振り返った。
「あなたはどのようなお願いをなさいますか?」
「では、賢くなれますようにと」
迷わず額をなでる。
その人は左の頬を撫でた。
「健康ですか? 良縁ではなくて?」
「良縁など、考えたこともございません」
小さな手桶を持つ素朴な風体のこの人は、静かに微笑んだ。
その時の横顔を、まだ覚えている。
「お侍さまなら、先見の明をお望みかと思いました」
「はは、それもよかったかもしれません」
松竹梅の奇妙な行軍は続く。
「お祭りは楽しめましたか?」
ふいにそう言ったあの人は、この時になにを考えていたのだろう。
「えぇ、楽しかったです」
本当はその時だって、私は何も楽しんでなんかいなかったのに……。
慌ただしい通りの向こうに、ようやく寺門が見えた。
「竹男さまは、どうして妙善寺に?」
「秘密です」
明らかにムッとした私に、今度はその人が笑った。
「墓参りにゆくのです。今日が命日でございますので」
そう言った横顔は、とても快活でなんの曇りも迷いも感じさせやしなかったのに……。
「はは、正直に言われるのも、困るものでございましょう。よいのです。お気になさらず」
にこりと微笑んだその姿に、私は自分の愚かさを恥じた。
いらぬことを聞いた。
なんと声をかけていいのか、言葉を失う。
境内へ向かう長い石段は、斜面に沿ってどこまでも続く。
三人は何も話さず階段を上った。
寺門の大きな横木を乗り越える時、先をゆくその人は振り返ると、私に向かって手を差し出した。
それにつかまり門をくぐる。
触れた手から伝わる体温は、今も熱をもって胸を騒がせる。
「あ、ありがとうございました」
「いいえ。お役に立ててなによりです」
私たちの姿を見つけた小姓が駆け寄ってきた。
涼しげな横顔でそれを迎えるその人を、私は見上げていた。
もうこの旅路は終わってしまうのか。
なんてあっけないものだったのだろう。
せめて本当のお名前を教えてもらわなければ、もう一度お目にかかりたくとも、それも叶わない。
「あの……よろしければ、せめて本当のお名前を……」
そう言った私に、その人はふっと微笑んだ。
「黙安どの。この方より、坂本晋太郎さまへの文を言付けてもらえぬか。その後にこの方を、晋太郎さまのところへ案内してやってください」
抱えていた風呂敷から、しわくちゃになった文を取り出す。
不思議そうな顔をしたお小姓へそれを渡すと、その文はすぐ隣にいたあの人に向けられた。
「この方が、坂本晋太郎さまでございます」
「ご苦労さまでございました」
その人は文を受け取ると、私たちを見下ろし悪戯に微笑む。
うめと二人、一目散に石段を駆け下りた。
途中で転んだうめの手を取り、互いに驚きに泣きながら家路についた。
帰り道は来たときよりも、ずっと早くて簡単だった。
どうしてあんなにも私たちは泣きじゃくっていたのか、やっぱり不思議で仕方がない。
その門をいま一人でくぐる。
あれからの日々を、嫁入り支度のために費やした。
何も知らなかった私は、掃除の仕方から包丁の持ち方、針に糸を通すことから始めなければならなかった。
鳴り止まぬ胸の鼓動を抱え、眠れぬ夜を過ごし、なに一つ嫁としての心得が身につかない不甲斐なさに泣いた。
婚礼の日は本当にあの人が隣に来るのか、すぐにバレて気にいらぬと返されはしないかと、それだけが気がかりだった。
初冬らしい薄曇りの空を進む。
境内の裏にある墓地へ来た。
遠くに見覚えのある姿を見かけ、顔を上げる。
吉岡さまだ。
すぐに行ってしまわれたのでご挨拶はできなかったけれど、あの方の目的はお話しをせずとも分かる。
珠代さまの墓前には、供えられたばかりの花と線香が漂っていた。
用意した金平糖のいくつかをそこに加える。
手を合わせた。
珠代さま。
こうしてじっくりとお話するのは、初めてにございますね。
志乃です。
今回はどうしても折り入ってご相談したいことがあり、こうしてやって参りました。
あの方はまだ、あなたのことを好いておりますが、私もあの方のことを好いております。
ですが私には、あの方のお心がよく分からないのです。
何を考えているのか、どうしてほしいのか、どうすればよいのか、私には何も分からないのです。
あの人の喜ぶことが、あの人を困らせることが、何も分からない私にはどうしようもなくて、本当に困っているのです。
どうすればよいのでしょうか。
それをぜひあなたに教えていただきたかったのです。
あの方の扱い方を、あの方との接し方を……。
もしあなたが生きておいでだったら……。
それを思うと、そのことがとても残念でありません。
直接会ってお話したいこと、ご相談したいことが沢山あります。
どうかあなたのご家族と、あの方の幸せと、ついでにもしよかったら私の幸せも、一緒にお守りください。
よろしくお願いします。
庭の桔梗も、無事に種をつけました。
また困った時には、ここに相談に来ますね。
それではまた……。
閉じていた目を開き、立ち上がる。
置かれた墓石は動かない。
もし、この人よりも先に出会っていたら……なんていう仮定は、ありえない。
晋太郎さんと珠代さまとの仲が広く噂になっていなければ、私のところへ来るような縁組みではなかった。
「どうか誰にも負けぬお力を、分け与えくださいませ」
珠代さまが他家へ嫁いだのは、誰かのせいなんかじゃない。
あの方が誰を好きでいるのも、私が誰を好きになるのも、誰もなにも悪くはないのだ。
だからこそ、何も恨むことのない自分でいたい。
上手くいくことも上手くいかぬことも、誰かのせいにも他の何かのせいにもしたくはない。
今ここに自分がいるのも、今ここにこうして自分があるのも、全て自分のあるようにいるのだと、信じていたい。
寺を後にする。
覚悟は決まった。
これから帰って喧嘩の続きだ。
いつまでも黙っているわけにはいかない。
どこにいても自分は自分であるように。
あの人をちゃんと、好きでいられるように。
日はすぐに落ちた。
重く湿った空気が肌にまとわりつく。
急に下がった気温に体は震え、また飴湯を飲んだ。
生姜の香りがツンと体を温める。
すっかり遅くなってしまった。
参道は祭りの前から大変な賑わいだ。
屋台が立ち並び、ついつい目移りしてしまう。
華やかな熊手に混ざって、招き猫も売られていた。
『千万両』や『千客万来』に混じって、『来福招福』の文字も見える。
人の願いはいつだって変わらない。
そうだ。
買い物に出かけると言って出たのだから、なにかお土産を買って帰らないと……。
お義母さまとお祖母さま、お義父さまには何がいいかしら。
家の者にもなにかちょっとしたものを、それと、あの人にも……。
屋台の品々を見て回る。
あの人の好みそうなものはなにかしら。
最奥の部屋にあったものを思い浮かべた。
河原で拾った小石に小枝、すり切れたカルタや古い独楽……。
ふっと笑みがこぼれる。
やっぱりあの人に贈って喜ぶようなものなど、私には分からない。
あの人にとって、きっと私はつまらない人間だったのだろう。
見ず知らずの連れてこられた女より、自らが心から愛した人の方が、よいに決まっている。
自分でもはっきりと、そう言っていたではないか。
嫁をとるつもりはなかったと。
だとしたらやっぱり私はあの人の望む通り、あの人自身の思いを遂げさせてやることが、一番の幸せなのではないのか。
あの人のことを本当に思うのなら、あの人の本当の幸せを望むなら、あの人の本当の願いは、ただ静かに珠代さまを思って日々を過ごすことなのだから……。
霧なのか雨なのか分からないような天気になった。
家路を急ぐ人々も増え始める。
間もなく日も沈む。
私も帰らないと。
橋を渡ろうとしてつまずいた。
転びはしなかったが、その場に立ち止まる。
橋の上で子供が泣いていた。
三つか四つくらいの幼子だ。
通り過ぎる大人たちは誰も見向きもしない。
「どうしたの? 何を泣いてるの?」
声をかけたら、どうやら道に迷っているようだった。
「どちらから歩いて来たのですか? お名前は?」
涙と鼻水を拭いてやり、手を握る。
ぎゅっと握り返す小さな手の、その力強さに驚いた。
あぁ、この子はこんなにも心細かったのか。
握りしめるその強さは、あの人と少しも変わらない。
子供の話を聞きながら、あちこちと歩いた。
すっかり日は沈み、通りは店じまいを済ませてしまっている。
近くの人に尋ねようにも、尋ねる人まで見当たらなくなってしまった。
歩いてゆく先に、遠く一軒まだ灯りの灯る店が見えた。
人の出入りが激しい。
ふいに子供の手が離れたかと思うと、そこへ向かって駆けだす。
「千丸!」
母親と思われる女性が飛び出してきた。
子供を抱き上げ、強く抱きしめる。
奥から父と思われる店の主人も顔を出した。
私の姿を認めると、駆け寄って頭を深く下げる。
「ありがとうございました。昼過ぎから行方知れずとなり、懸命に探しておりました。なんとお礼を申し上げてよろしいか……」
店の者までが勢揃いし、並んで頭を下げる。
「いえ、よいのです。無事にお会い出来てよかった。それではお達者で」
重く垂れ込めていた空からの霧が、雨に変わった。
冷たい雨はぽつりぽつりと肩を濡らす。
「お待ちください。ご自宅まで、お見送りいたしましょう」
店の主人は傘を広げた。
断るのを、どうしてもと譲らない。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
差し向けられた傘に焚きしめた香が、ほんのりと香る。
主人の指示で、通りに面した店はきれいに閉じられた。
「さぁ、お待たせしました。参りましょう」
差し向ける傘の半歩後ろを、店の主人が歩く。
「それではあなたが濡れてしまいます。どうか傘をもう一本……」
「いいえ。息子の恩人に傘を持たせるわけには参りません。余り遅くなっては、町境の木戸門が閉じてしまいます。急ぎましょう」
通りから人の気配はすっかり消えていた。
確かに急がねば、送ってくれるこの人まで帰れなくなる。
すっかり暗くなった通りに、ふと人影を感じて顔を上げた。
薄暗い通りを、見覚えのある影が近づいてくる。
その人は私たちの前に立ち塞がった。
「ここで何をしている」
「今から戻るところでした」
じっと表情もなく見下ろすその人の様子が、私のよく知る人とはまるで違う。
「……。お迎えに……来てくださったのですか?」
「家を飛び出したと思えば、男との逢瀬か」
晋太郎さんはゆっくりとうつむくと、その目を閉じた。
「言い訳は聞かぬ、そこに直れ」
濡れた刀の柄に手がかかる。
「何をなさるのです!」
「言い訳は聞かぬと言った。そこに直れ」
とっさに、店の主人はぬかるみにひざまずいた。
「誠に申し訳ございません! 此度の御無礼、どうかお許しください!」
「かような事態、見過ごすわけには行かぬ。覚悟はよいか」
「お待ちください!」
私はその人の前に、両手を広げ立ちはだかった。
「何をお考えですか、おやめください!」
「志乃、そなたも同罪か?」
見たこともない顔をこちらに向ける。
「何の罪があると言うのですか! まずはその手をお納めください!」
「これ以上かばい立てすれば、そなたも斬らねばならぬ」
「ならばお好きになさいませ!」
雨が降りしきる。
私はここを引くわけにはいかない。
「お待ちください!」
店の奥さんが駆け込んできた。
主人の隣にひざまずき、ぬかるみに額をつける。
「奥さまは迷子となったうちの息子を届けてくださったのです。そのお礼にと、お屋敷までのお供を申し出たのでございます。奥さまをお斬りになるというのなら、息子を迷い子にした私をまずお斬りくださいませ!」
冷たい雨が降りそそぐ。
吐く息が白く流れた。
晋太郎さんの手が柄から離れる。
「帰る」
二人に一礼をし、急ぎ背を追った。
降りしきる雨の中、その人はこちらを一度も振り返ることなく歩き続ける。
町の往来を仕切る木戸門をようやく通り抜けた。
霧雨は濃さを増し、足元には泥がはねる。
土産の品を包んだ風呂敷も、ぐっしょりと濡れていた。
闇夜に白壁の通りが浮き上がる。
このまま家の門をくぐってしまったら、私はどうなるんだろう。
この人は、どうするのだろう……。
雨を吸い重くなった着物が、私の足を止めた。
「なぜあのようなことをなさったのです!」
冷たい雨が、震える心臓が、体を震わせる。
その人は背を向けたまま立ち止まった。
「なぜ家を出て行こうと思ったのですか」
「出て行こうなどと、思ってはおりません!」
「……嘘だ。文台を探したのに、離縁状がなかった」
「私が家に戻ったと思われたのですか?」
この人の肩も雨に濡れている。
「……。珠代さまの、墓参りに行っておりました」
霧雨に再び雨粒が混じり始めた。
「お願いを……してきたのです。あなたのことを、教えてくださいと。家の者を連れて行かなかったのは、行き先を知られたくなかったからです」
ようやくその人は振り返った。
「教えて欲しければ、私に直接聞けばよいではないですか!」
「それが出来ないから困っているのです!」
「どうして出来ないのですか」
「あなたが私を好いてはおらぬからです!」
視界が滲む。
その人の腕が伸びた。
手首を掴まれ、壁に押しつけられる。
その人が近づいた。
唇を塞ぐ。
息をすることすら許さぬその強さに、私は目を閉じた。
「志乃さん。どうか私と添い遂げてくださいませんか。生涯をかけて、あなたをお守りすると誓います」
この人にこんなにも強く抱きしめられるのは、もう二度とないかもしれない。
「どうかもう一度……、それをお許しください」
降りしきる雨が、この人の頬を濡らしていた。
大きな背に腕を回す。
「……はい。私こそ、よろしくお願いします」
「ありがとう」
その人は震える声で、そうつぶやいた。
第16章
ずぶ濡れのまま家に戻ったら、心配したお義母さまと家の者たちが飛び出してきた。
「まぁ、志乃さん、一体どこまで行ってたのよ!」
手ぬぐいを受け取る。
体を拭きながら、その人が代わりに答えた。
「少し寄り道をしていたら、すっかり遅くなってしまったのです」
お義母さまはそれでもまだブツブツと言っていたけれど、とにかく濡れた体をどうにかする方が先だ。
抱えていた風呂敷を差し出す。
「お土産です」
ぐっしょりと濡れたそれを受け取った義母は、盛大なため息をついた。
「ま、別にいいんですけどね。二人とも無事に帰ってさえ来てくれれば……」
義母は風呂敷を広げた。
「お義母さまとお祖母さまと、私にも同じ化粧用の油紙を。お父さまと晋太郎さんには、根付を買って参りました」
家の者にと買ってきた飴玉は、濡れて台無しになってはいないかしら。
「志乃さんは、今日はこのために出かけていたのですか?」
義母にそう言われ、言葉に詰まる。
晋太郎さんが不機嫌に声を荒げた。
「先に着替えさせてください。風邪を引きます!」
風呂を沸かすかと聞かれたが、もう遅いので断る。
湯に浸した手ぬぐいで体を拭き、湯たんぽを出してもらった。
簡単な食事を済ませてから、早々に床につく。
お義母さまの指示で用意された寝所に、もう衝立はなかった。
「寒くはないですか?」
「大丈夫です」
このまま寝ろと言われても、全然落ち着かない。
晋太郎さんも落ち着かないのか、かけ布団をめくっただけで手をとめた。
ついさっきまでの出来事がまだ頭の中にこびりついていて、何よりもすぐ横にこの人がいるということが一番の問題なのだ。
もぞもぞとしていたら、その人は口を開いた。
「本当に、墓参りに行っていたのですか?」
「……はい」
「私は……、あなたがてっきり、岡田の家に戻ったものと思っていたので……。そちらまで探しに行きました」
「えっ?」
「ですが、本当にあなたが家に戻られていたのなら、それを直接確かめるわけにもいかず、たまたま近くに見かけた、まつという方に声をかけたのです」
その人はまた少し、頬を赤くしてうつむいた。
「あなたが出て行かれたことの口止めはお願いしておいたので、大丈夫でしょう。ご実家にはお戻りになっていないと聞かされ、私は余計に混乱したのです」
そのまま町をさまよい続け、この人は私を見つけた。
「自分でも驚くほど……、その、あなたを心配するので、もう二度と一人歩きなど、なさらないでください」
うつむいていた横顔が、こちらを向いた。
目が合う。
その人はため息をついた。
「私がどれだけ心苦しい思いをしていたか、あなたには想像もつかないのでしょうね」
雨の中を追いかけて来てくれたこの人は、どんな様子だったのだろう。
どんな風に私を探して、彷徨っていたのだろう。
それを少し、見てみたかったと思った。
「うめ……、いや、まつを覚えておいでだったのですか?」
「どなたです?」
「岡田の家の者です」
その人は首を横に振った。
「知りませんよ。あなたのご実家の通用門から出てきたところを、捕まえただけです」
「ちょうど一年前のことでございます。私と、その……まつは、二人で出かけたことがございました」
そう言えば、ずっと気になっていたことがある。
「妙善寺で受け取ったあの文は、いかがいたしましたか?」
この人は不思議そうな顔でしばらく考えてから、ぱっと顔を上げた。
「あの時の狐!」
晋太郎さんは大きなため息をつくと、頭を抱えた。
「まさかあの時の狐の子が、あなただったとは……」
受け取った文を開いてみれば、子供の落書きのようなもので、どこをどう探しても差出人の名前もない。
呆れる晋太郎さんに、妙善寺の住職は言った。
「いつまでも気に迷いがあればこそ、このような物の怪に取り憑かれる隙を与えるのです。おおかた狐の子らがからかいがてら、あなたを化かしに来たのでしょう」
「私の思いが、気の迷いとおっしゃるのですか?」
「もう何年になられるか。月命日ごとにここに通われるようになってから……」
住職は静かに茶をすすった。
「晋太郎さまの深い悲しみは理解いたしますが、いつまでもそうしておるわけには参りますまい。それはあなたご自身も、よく分かっておられるはず」
この不思議な落書きは、なにかのまじないでもかけてあるのだろうか。
「また新しい縁談がきていると聞きました。迷うておられるのなら、お受けなさい」
「ですが!」
「次に来る物の怪は、あのような可愛らしい子狐で済むとは限りませぬぞ」
その文はお祓いをした後、寺で燃やしたという。
立ち昇る煙に、晋太郎さんは私との縁組みを承諾した。
「嫁入り前に花婿の顔を見に行くだなんて、何ということをしでかしたのです。本気ですか? 信じられない」
「だ、だって、嫌じゃないですか!」
「なにが」
「……。気に入らなければ、断固としてお断りするつもりでおりました」
この人はまた盛大なため息をつく。
「なんてお転婆だ。義兄上どののおっしゃる通り、とんでもない方を妻にお迎えしたようだ」
「まぁ、酷い!」
顔が真っ赤になる。
「し、晋太郎さんだって、知らぬ相手と縁組みするのは、嫌だったのでしょう?」
「そう言われれば、なんとなくですが思い出しました。あなたは変装をしていましたね。どこぞの商家の娘のような格好をしていれば、そんなもの気づきませんよ」
腕が伸びる。
その胸に抱き寄せられた。
「……ではあの時に、あなたは私をお気に召したから、こちらへ参ったのですね」
返事の代わりに、一つうなずく。
「はぁ……。この先はもう二度と、そのような無茶は御免被りたい」
「無茶とはなんです?」
「ふらふらと外を出歩くようなことです! おかげで私は、とんでもない過ちを犯すところでした」
大きな手が、頬にそっと触れる。
「なんとしても離縁される前に、あなたを見つけ出さねばならなかったので……」
「近いうちに、あの店へご挨拶に行きましょう。珠代さまのところにも」
「えぇ、もちろんです。悪いことをいたしました。きちんとお詫びをしなければなりません。その時はあなたも一緒ですよ」
唇を重ねる。
それはとても不思議な感覚だった。
春になったら今度は一緒に種を蒔こう。
きれいな花をたくさん咲かせるように、一緒に世話をしよう。
あの奥の部屋を明るく照らす光になろう。
そして次のお盆には、この人と一緒に墓参りに行こう。
庭に咲く美しい桔梗の花を持って。
晋太郎さんの手が、私の帯をほどいた。
【完】
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