ミニマリスト
私は自分と外界との境界線を、輪郭ギリギリに引きたい人間だ。
深爪という概念に近いかもしれない。ちょっと痛いくらい、輪郭を自分の内面に食い込ませ気味に、ここまでが私だ!とずいぶん削ってきてしまったように思う。
だから、自力でできることとそうでないことを見極め、自分を過大にも過小にも評価しないつもりで生きている。他人にも多くは望まないし、個人の能力の範囲で個々にできることを、それぞれがそれぞれの場所でやれば良いと思っている。
そうすれば世の中はうまく回るような気がするし、自分の力量を把握しているひとは存外他人にも優しい。
厄介なのは、力量を把握できておらず、自分にも他人にも過大な働きを求めるひとだ。そういうひとがひとりでもいると、途端にその場は窮屈になり息がしづらくなって、楽しく過ごすことができなくなる。
うちの娘は、自分と外界との境界線がまだまだあいまいだ。
自分と母親という存在である私との境界線がふやけているため、自分の思った通りに世界が回らないことにいら立ち、こちらにその怒りをぶつけてくる。
その都度私は、「あなたの頭の中までは私には見えない。思考を口に出して、他者に理解できるように説明しなくては、自分の思ったような結果は決して出ない」ということを伝えるようにしている。
こちらも聖人君子ではないから、怒り口調でいら立ちをそのままぶつけられると語気も強くなる。怒りは怒りを呼ぶだけだし、それではなにも解決しない。すべてはまず発信する自分次第だということを、何度も何度も根気強く伝えてきたつもりだ。
それでも、やはり母という存在は娘にとっては自分の一部のようなもので、自分の思考回路をまるごとそのまんま理解してもらえないことが耐えられないらしい。
今朝も宿題がどうとか先生がどうとか、いくら話を聞いても私にはよくわからないことでひとりでいら立ち、怒り、泣き、最後はふてくされて登校していった。
そうだな、辛いよね。自分を見つける作業は。
もっとぶつかれ。
ぶつかって、転がって、余分なものを削ぎ落として、自分ができあがる。
他人と、世界と、摩擦しあわなくては、自分の輪郭はつかめない。
荒けずりなあなたの姿を、今日もここから見届けたい。
さあ、いってらっしゃい。
サポートというかたちの愛が嬉しいです。素直に受け取って、大切なひとや届けたい気持ちのために、循環させてもらいますね。読んでくださったあなたに、幸ありますよう。