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母ちゃんのお仕事

今日は朝から仕事のはずなんだけど、どうにも気が乗らなくて家でダラダラしている。

実は娘も学校に行きたくないとぶつぶつ言っていたのだけれど、「休むのはいいけど、今日は仕事だからいないよー。お昼ご飯も用意してないから、自分でなにか作って食べなよ。」と言ったら「えー、ならめんどくさいから、給食あるしやっぱ学校行く!」と出かけていった。

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今朝、ある友人と、学校に行きたくないという子の話になって、思ったこと。

学校行かないで休んでいられるくらい、自分ちが居心地良かったら、そりゃ行かないよな。休んで自分の部屋で過ごせて、ちゃんと毎食ご飯も食べられるなら、出て行く理由はなにもない。

私は家にいるより学校のが100倍マシだったから、小中はちゃんと学校に行ってた。

価値観の違いがありすぎてもはや会話していてもなんの意味もないと思える母親と、家にいてしじゅう顔を突き合わせるくらいなら、多少不便な思いをしても会話の余地のある人たちと、自分の世界を居心地よくするための交渉をしていく方がマシだった。

高校生になって、バイトしてお金を手に入れて、外で過ごせるようになってはじめて、学校に行かないでサボるということを覚えた。適当に手を抜きつつもちゃんと未来への選択肢を残しておけるくらいの力の配分をしつつ、高校生活を楽しんでいられたから、やっぱり学校へ行かないという選択はしなかった。

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母親の仕事は産むこと、のみだとずっと思っていた。

産んでこの世に出したら、あとはこどもがどう生きるかだけ。だから、生きていけるように衣食住の面倒は見るけど、こどもの動向にそんなに興味がない。

ごはんは私が食べたいものを作るし、衣服などの好みは尊重するけど予算とのバランスなんかは払う私が決めるし、価値を感じないものは買わない。欲しいものがあるなら自らの頭を使って獲得せよ、と思っている。

世界が思い通りになるかどうかは、全てあなたのプレゼン次第で決まるよ、というスタンスは、娘が生まれてからずっと変わらない。


贅沢なものはなんにもなくても、まあおにぎりと味噌汁くらいでいいからなにか食べさせて、学校であったことや友達のことなんかを話したかったら話せばいい。

もし助けが欲しければそれを誰かにちゃんと伝わるように話す必要があるし、それをしたくないなら自分で解決するほかない。選ぶのはあなただ。

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娘がまだ幼い頃はそんな自分が母親としてドライすぎるのではないか、と考えたこともある。よそのお母さん、を見ていると不安になることもいろいろあった。だから迷いながらあれこれと考えた。そして試行錯誤しながらも母としての月日を重ねて、私がたどり着いたのが、今のこのスタイルだ。

仕事は気が向いたらやれるものしか引き受けていないし、「ママは今こんなことにハマっていて、今度出かけたいから一緒に来る?興味ないならその日は留守番よろしく」って感じで、こどもがいても遠慮なく自分の好きなことをさせてもらっている。

だから、母親をしているといろんなところで出くわす、『共通の話題がこどもの話しかない母親』という人種のひとたちとは話が合わない。

私には、育てることが親の仕事、だと全然思えない。

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今朝友人と話をしながらふと、『自分の親のようになりたいか、なりたくないのか、をこどもに自分の頭で考えさせること』こそが、親の役割なんじゃないか、という気持ちが湧いてきた。


どんな親でもいい。

自分の人生を生きて、私という人間はこんなだよ、ってこどもに見せていれば。

ああなりたいか、なりたくないか、をこどもに考えさせることができたら。


それすら考えられないくらい、親が何をやってるのか、何を考えていてどんな人なのか、が分からなかったら、こどもは自分がどうしたら良いのか分からなくなるんじゃないのかな。だから学校に行くことも、外に出ることもできず、ただ安全で自分を守れる場所に閉じこもっているんじゃないか、そんな風に思った。

だから、決して相容れることのなかった私の母親も、きっと母ちゃんとしては満点のひと、だったんだな。私にとっては。

あんな風になりたくない!と思わせてくれて、自分なりの母親像を描かせてくれたから、今の私がこうしてここにいる。

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さて、めんどくさいけど、こんな時間からだけど、行ってくるか。

今日は短縮バージョンで仕事をさくっと終わらせて、なにか美味しいスイーツでも買って帰ろう。

学校からとっくに帰ってきているであろう娘に、もうママ帰ってくるの遅すぎるよ!とかなんとか文句を言われながら、一緒にお茶するとしよう。

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