メサイア覚書 Vol.2 ---降臨の予告
聖地巡礼の光景
アーノンクールはメサイアの核心的アリア「彼は蔑まれ」を「音楽化された《エッケ・ホモ/この人を見よ》」と喩えた。
最近になってこの比喩を読んで深く感じ入ったのは、数年前にエルサレム訪問でそのエッケ・ホモの地に立ったからではないかと、私は思い込んでいる。
耶蘇ではない私の場合、あの訪問は本当の「聖地巡礼」ではなく、読み物や映画などの既知感から来る感慨や感動の「聖地巡礼」であった。
しかし、その体験が再度読書や映画、音楽鑑賞に還元されている気がするのである。
イエスが見たであろう風景の感慨、それが今いちど作品に照射されて理解を深めていると言ったら少しカッコ良すぎだろうか。
さて、今回からはその作品理解を更に深めるための試みをしたい。
作曲家がそれぞれのナンバーに込めた意図を私なりに探っていく。
メサイアを知る
第1曲 シンフォニー
メサイアの序曲(シンフォニー)はその付点リズムからフランス風序曲に倣っていると察するがホ短調の主調から2小節目の短7などを孕みながらG音に向かおうとする希求に痛切な感覚を覚える。そしてこのフレーズが序曲の最後の3小節でまた顔を出すが、そこでは下降への変容となっている。
この最後の3小節を冒頭のGraveと同じようにテンポを落とす指揮者がいる。
アーノンクール旧盤(1982)新盤(2005)、コープマン盤(1985)は序曲最後の3小節目でテンポを落とす。 フランス風序曲のパターンのひとつであるA-B-Aを意識していると思われるが、録音ではかなり少数派にある。
ところで2006年にアーノンクールが来日した際の演奏で最初に驚いたのは序曲冒頭のニュアンスだった。あの弱々しい柔らかい出だしは当日まで彼の録音を聴いてなかった私には衝撃的だった。
本人の解説によるとホ短調は「希望のない」調性ゆえに英雄的な外向的フォルテは相容れないということだ。
第2曲 伴奏付きレシタティーヴォ「慰めよ、私の民よ」
イザヤ書40章による第2曲の伴奏付きレシタティーヴォ。 ホ短調の序曲に対して同主調のホ長調、厳しい音から一転しsenza rip.(少人数で弾く)と繊細な響きによる穏やかで静かな境地。
5-6小節目のGis音に向かって伸びやかに上向く「慰めよ」は序曲の2小節目に応答したものと感じるのは私だけか?
このレシタティーヴォで印象的なのは無伴奏の中で語られる神の声だ。 8小節目で伴奏が止む中で「ad libitum自由に」装飾されるその「慰めよ」あるいは20小節目の「and cry unto herこれに呼びかけよ」 静寂の中に響き渡る神の声。
引用されるイザヤ書が示唆する約束されたこと、来るべき救世主による「咎の償いher iniqiuty is pardon'd」 その「咎iniquity」に付された短7の苦味。 言葉への深い読みを感じる鈴木雅明&BCJ盤(1996)はここで僅かにテンポを抑えて軋んだ音に重みを与えて「罪」を意識させる。
第3曲 アリア「全ての谷は埋められ」
多くの解説が指摘する通り絵画的なアリアだ。
「exalted埋める」「law低く」「straight平地」が音楽的に描かれる。
ご丁寧なのは「the crooked straght盛り上がった地は平地に」では音楽が上がって下がる。
第4曲 合唱「かのように神の栄光が現されると」
イ長調Allgeroの快活な合唱だが印象的なのはその神の栄光を全ての者が見るのは「主の口」が語られるからだと強調するために、同音反復で厳かなイメージを繰り返し伝える。救世主の降臨がここに予告される。
そして合唱の締めくくりもそれまでのAllegroの快活さを堰き止めてAdagioとなり、再度強調するように「(主の口から)語られたからだ」が念を押される。
今回はイザヤ書の引用による「約束されたこと」まで。
次の第5曲からはハガイ書やマラキ書からの引用による「約束されたこと」に続く。
この項、了
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